鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」 大豊町大杉その2

2010-08-31 06:53:06 | Weblog
明治15年(1882年)には「北山越え」で高知に帰郷している兆民は、明治21年(1888年)の「土佐紀游」の際には神戸から汽船に乗って高知へ帰郷しています。「北山越え」というのは、四国山脈を越える陸路であり、かつての参勤交代路の一つ。高知と四国の瀬戸内海側(具体的には川之江などの港町)を結ぶ、たいへん険難な峠道でした。一方、高知と上方(かみがた・京阪神地帯)は、江戸時代以来、物資輸送のための海運が開けていました。しかし旅客が船で往き来するということはなく、もう一つの参勤交代路も、野根山街道を通って現在の徳島県の甲浦(かんのうら)に出て、そこから大坂に向けて船を利用するものでした。番所を経由しなければ、国境外へ出ることはできなかったのです。明治15年から明治21年の間に、神戸~高知間に旅客を運ぶ定期航路(汽船)が出来ていたものと思われます(1週間に1回程度の)。明治21年4月の兆民は、その定期航路を利用し、高知へ向かったのです。汽船の名前は「出雲丸」。神戸出港予定時刻は午後4時。浦戸入港予定時刻は「土佐紀游」の記述からはわからない。船内一泊で、翌日の午後には浦戸湾の奥の瀬戸(「孕門」)あたりに到達したようです。「孕門」とは、「ようもん」と読み、高知を流れる鏡川と国分(こくぶ)川が合流するところを「吸江(ぎゅうこう)」と呼ぶのですが、その「吸江」と「浦戸湾」の間に、東西両側から小山(半島)が張り出した瀬戸のようなところを差して言う。東側の出っ張りを「東孕(ひがしはらみ・とうよう)」と言い、西側の出っ張りを「西孕」(にしはらみ・せいよう)」と言いました。この「孕門」を「吸江」側に少し入ったあたりに、大型汽船は停泊しました。海底が浅く、それ以上は進めなかったのです。鉄道(土讃線)が敷設されるまで、この高知~神戸間の定期航路(汽船)が、旅客がもっぱら利用する交通機関であったのです。 . . . 本文を読む
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2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」 大豊町大杉その1

2010-08-30 07:12:19 | Weblog
高知方面への取材旅行は、今回で3度目になります。前回は昨年の年末。徳島南部から高知東部を回りましたが、年末ということで、図書館や文化施設はすべて閉まっていて残念ながら利用することはできませんでした。今回は、高知市立自由民権記念館をメインに、高知県立図書館や高知県東部の図書館、また香南市(赤岡町)の「絵金蔵(えきんぐら)」などを訪ねるのが目的でした。そのついでに、開館前後までの朝の時間を利用して、中江兆民や自由民権運動に関わるところを実地に歩いてみることにしました。車中泊を含めて5泊6日の取材旅行でしたが、現地ならではの貴重な取材ができました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その最終回

2010-08-23 04:38:05 | Weblog
『大名屋敷の謎』には次のようにある。「御用聞となって江戸屋敷に出入りした農民にとり、最大の関心事は意外にも、武士たちの排泄物の汲み取り権だった。現在ではあまり想像できないが、その汲み取った屎尿(しにょう)が、農村では下肥として、彼らのメインの商品である農作物の貴重な肥料となっていたのである。」しかしその排泄物にも格差があって、大名の武家屋敷や大店(おおだな)の下肥は、「上」「中」「下」のうち「上」の評価であったという。著者の安藤さんは、具体的な武家屋敷として尾張藩江戸屋敷を挙げ、その御用聞であった武蔵国豊島郡戸塚村の名主中村甚右衛門という人物に焦点を当てる。この戸塚村というのは、現在のJR高田馬場駅のすぐ西側にあたる戸数40~50戸の小村。この村の代々名主をつとめていた中村家は、やがて尾張藩の汲み取り権を取得。実際に屋敷の中に入って汲み取り作業をしたのは、「下方」と呼ばれる下請けの農民たちであり、およそ50人弱。大半は武蔵国豊島郡、多摩郡、新座郡の出身で、今で言えば中野区、杉並区、練馬区などにまたがるという。中村甚右衛門は、尾張藩江戸屋敷の「汲み取り権を確保し、その実務を下請けさせることで利益を上げていった」のです。さらに甚右衛門は、汲み取りのネットワークを利用して、大名屋敷の広大な庭園の整備も請け負うようになり、近隣農村から掃除人足や杣人足(そまにんそく)を雇い入れ、大名屋敷の庭園の掃除や整備を行わせました。以上のような尾張藩の江戸屋敷を舞台に展開された「汲み取りビジネス」や「庭園ビジネス」を考えれは、当然そのようなビジネスは江戸に数多く存在した他藩の江戸屋敷などにもあったはずであり、そのビジネスは、江戸の近郊農村と密接なつながりがあったことを示しています。ということはおそらく江戸城も例外ではないということであり、日々の食材の調達も含めて、江戸近郊の農村と直接的・間接的に深いつながりを持っていたはずだということになります。請け負ったの誰か。下請けとして実際に働いたのはどういう人々であったのか。そしてそれらの運搬ルートや運搬手段はどのようなものであったのか。そういったことが具体的にわかるまとまった研究書はあるのかどうか(今のところ見出していないのですが)。江戸城の外堀や内堀周辺、また本丸跡を実地に歩いてみたあとの私にとって、たいへん興味・関心のあることがらです。 . . . 本文を読む
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2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その6

2010-08-22 06:29:25 | Weblog
『江戸の二十四時間』は、いろいろな階層の人々の一日を、きわめて具体的に記述したもの。その中に「「将軍・家慶の裏表二十四時間」というのがあり、天保12年(1841年)4月15日の一日の将軍家慶の生活を追ったもの。その記述の中に、参考となる箇所が随所に出てきます。たとえば、「御台所や、それに準じる貴婦人たちの大便所は将軍の大便所のようにいちいち掃除することはなかった。万年と名づける深さ数間もある深い井戸が掘ってあって、使用者の一代の間、汲出すことはなかったという。」「中の口(は)…用向きで臨時に招集された下級旗本や、控所のない諸藩の役人たちも、みなここから出入りする。御用達商人たちも、ここまでは御用を聞きに入ってこられる。」「御鈴廊下の地下には、交差するように東西に胎内くぐり(トンネル)が掘られていた。御庭方と称する庭職人が通るためのもので、石段を下りると高さ六尺ぐらいもあり、立って歩けるものだったという。」「女中衆の出入口は長局の東南に当るところに七ツ口というのがあって…奥女中の買物口にもなっていて、土間に丸太の高い匂欄(てすり)があり、御用達商人が詰めている。彼女たちは部屋からいちいち切手を貰って御広敷役人に示し、宿下りや、市中への用事に出ていくのである。」これらから、御用達商人たちは表においては「中の口」まで、大奥では「七ツ口」まで入ることができたことがわかるし、庭職人が大奥へ入ることがあり、また大奥の女中衆は許可を得れば、大奥の七ツ口から平川門を通って江戸城外へ出ることができたことがわかります。御台所(みだいどころ)などには「万年」という一代ずっと汲み取りなしの便所が用意されていたことも。しかし、日々相当に多く必要としたはずの食材や、日々生ずるゴミや糞尿がどのように城外へ出されたのか、またそれらを担った商人(御用達商人か)や人夫たちはどういう人々であったのか、といったことについての具体的な記述は見られない。史料が残っていないことも考えられる。また残念なのは、参考文献がいっさい記されていないこと。参考文献が記されていれば、それは私たちにとって大いに参考になるはずですが…。大名屋敷については、江戸城と違って具体的にわかる本がありました。それは『大名屋敷の謎』安藤優一郎(集英社新書)。それによって、尾張藩江戸屋敷の「汲み取り」がどのように行われていたかがわかります。 . . . 本文を読む
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2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その5

2010-08-21 07:09:00 | Weblog
『江戸城の見取り図』によれば、将軍や御台所(みだいどころ)の食膳、夜勤明けの役人たちの朝食などを用意するために、江戸城中には台所が、表、中奥、大奥のそれぞれに設けられていたという。表については、「台所門」の手前に大きな井戸があり、門を潜ると「石の間」といって床に石が敷かれているところがあり、そこで、運び込まれた野菜や魚などが取り扱われました。その「石の間」を経て奥へ進むと、そのあたり一帯に、台所、賄(まかない)所、膳所などがあり、そのうち賄所は、台所へ魚や野菜を供給するところでもありました。この表台所では、宿直明けの目付や側衆や小姓、掃除衆などの朝食を用意するばかりか、朝から出仕する本丸勤務の役人や登城してくる大名たちの朝食も仕度した、と記されています。中奥には、将軍専用の調理場である「御膳所」(中奥台所)がありました。大奥の場合は、御広敷御膳所というのがあり、そこは井戸つきの板の間で、広さは200坪もあり、中央にかまどが6個あってそこで煮炊きをしたという。この御広敷御膳所で大奥の料理を作るのは男たちであり、そこで働く男たちは御膳所御台所頭をはじめとした役人たちや下男たち、合わせておよそ140人に及んだとある。この「御広敷(おひろしき)」で働いているのは、約300人の幕府の男性役人であり、大奥の事務、建物などの修繕、御台所(みだいどころ)が使う物品の調達、警備などに当たったと記されています。大奥に男たちの働く空間があったわけですが、したがって、この御広敷のまわりは壁があって、大奥へは勝手に出入りできないようになっていたとのこと。大奥御殿への出入口は、御広敷にある御玄関の奥の「御錠口(ごじょうくち)」であり、したがって御広敷の警備は厳重であり、その警備を担当していたのは「広敷伊賀者」と呼ばれる男たちでした。御広敷台所で出来上がった料理は「御錠口」まで運ばれ、そこで奥女中に渡されたという。広敷役人には、「広敷用達(ようたし)」という役職があり、それは、大奥で使う物品を出入りの商人から調達する仕事を行っていました。大奥には住み込みで働く女中たちが1000人ほどはいたという。その多数の女中たちの食事は、長局(ながつぼね)の各部屋に台所が設けられ、板敷の上にかまどが置かれており、それぞれの部屋で仕度をするのが基本であったという。 . . . 本文を読む
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2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その4

2010-08-20 08:25:29 | Weblog
『旧事諮問録』には、たとえば次のような記述があります。「以前日本橋の肴(さかな)商から無代にて肴を毎日御台所へ持ってまいるので、不漁のときは難儀であると内々苦情を申していたそうでありますが、御維新後に聞き質(ただ)しますと、それだけの恩顧があるので、何千坪とかを無賃で貸し与えてあったそうで、その代りに肴を取られたのであるということでありました。」(上・P54)。ここには「補訂」があって、「無代価にはあらず。時の多少にかかわらず、定価のありしなり。もっとも安廉なる事、例えば鰹一本三百文というが如し。」とあります。これを読むと、日本橋の魚問屋が、毎日、新鮮な魚をきわめて安い値段で「御台所」へ持ってきたということになります。ではその魚は誰によって運ばれ、どのようなルートで本丸内に運び込まれたのか。大奥については、次のような記述があります。「問 買物はどうして買いますか」「答 御広敷には呉服屋でも何でも好きのものがまいります。また部屋方へは商(あきない)をする婦人が出るので、それが幾日も泊っていて商をするのでございます。反物でも何でも、自由でございます。」「問 それは、どういう身分の者ですか。」「それは、町屋の家内や何かでございます。皆よい所の者ではございませぬ。中から以下でございます。部屋方に通手(つて)を求めて出て来るのでございます。」(上・P192)。この記述によると、大奥の場合、「広敷」に呉服屋とかいろいろの商人がやってくるし、「部屋方」へは商いをする女性(町人身分の者)が伝手を求めて大奥に入って来て、反物や何やを泊りがけで売っていたということになります。また「平川献上」という言葉が出てきますが(上・P76)、ご婚礼などの際の大奥への献上物は、「平川門」(大奥・不浄向きの出入り口)を通して、大奥に運び込まれたという。大奥の場合は、「平川門」を利用してさまざまな生活用品や生活物資などが運び込まれたようであり、おそらくゴミや糞尿、あるいは死体なども、この門を通して外部へ運び出されたように推測されます。大奥の場合、城内と城外を結ぶ出入り口は、「平川門」であったようだ。では、「表」や「中奥」の場合は、どうであったのか。 . . . 本文を読む
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2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その3

2010-08-19 07:54:27 | Weblog
江戸城は、本丸・西の丸・二の丸・三の丸・吹上・北の丸などの曲輪(くるわ)で構成されていますが、その中心となるのはもちろん本丸であり、そこにあった建物群が本丸御殿でした。本丸御殿は、大きく「表(おもて)」、「中奥(なかおく)」、「大奥」と三つの区域に分かれており、「表」は将軍の公的儀式の場であり、「中奥」は将軍の住居であり政務を執る場所でもありました。「大奥」は、御台所(みだいどころ)や側室、奥女中などが生活をするところで、本丸御殿のうち半分以上を占める場所でした。天守閣跡の上から皇居東御苑を見下ろせば、手前半分が「大奥」でその向こうが「中奥」、そしてその向こうが「表」であり、「中奥」と「表」が東御苑のおよそ半分を占めていたことになる。「本丸」の入口である「中雀門」を潜ったところから見れば、正面にあるのが「本丸御殿」の玄関であり、手前から「表」、その奥が「中奥」、そしてその向こうが「大奥」となる。天守閣跡は、その「大奥」の左奥にあることになります。この「本丸御殿」の日々の生活に必要な食材はどのように運び込まれ、そしてゴミや糞尿はどのように運び出されていたのかといった素朴な疑問について、まとまったかたちで記している本についてはまだ残念ながら出合っていません。岩波文庫に、幕末、江戸幕府役人であった人たちの証言を集めた『旧事諮問録』というのがあり、その(上)に、「将軍の起居動作等」を尋ねた箇所や「大奥の事」を尋ねた箇所がありますが、そこに興味深い記述はわずかながら見られるものの全体的なところはわかりません。特に糞尿の処理についてはわからない。将軍家慶のある一日を追うかたちで、具体的に将軍の生活が描かれているのが、林美一さんの『江戸の二十四時間』(河出文庫)。江戸城本丸御殿の内部やそれぞれの機能について詳しいのは、すでに紹介したことのある中江克己さんの『江戸城の見取り図』(青春新書)。「大奥」やそこで働く「奥女中」について詳しいのは、畑尚子さんの『江戸奥女中物語』。今回の取材旅行の時に、三の丸の売店で『新版名城を歩く⑨江戸城』(PHP研究所)を購入しましたが、そこには、食料や糞尿のことなど、下世話ではあるけれども日々の生活の大事な部分についてはいっさい触れられていません。 . . . 本文を読む
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2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その2

2010-08-18 07:46:15 | Weblog
前に初めて皇居東御苑に入って、本丸跡を歩いた時に思ったことは、本丸跡がそのまま残っている驚きでした。「そのまま」というのは、美しく公園化され一部休憩所などがあるものの、他にほとんど建物が建っておらず、だだっぴろい空間が広がっているということ。多くの場合、城跡には諸官庁の建物があったり、学校が建っていたり、文化施設があったりするからです。たとえば隣りの北の丸跡には武道館や近代美術館などがあるように。しかもその空間は、かつて本丸御殿があって、そこに多くの人々が暮らし、また仕事をしていたその生活の臭いというものを全くといっていいほど感じさせない空間になっています。想像をめぐらしながら天守閣跡に登って、本丸御殿跡の空間を見下ろした時、私が思ったことは、毎日の食材を初めとした日用の必需品はどのようにここに運ばれたのか、そして三度三度の食事の調理はどのように行われたのか、毎日おびただしく出るゴミや糞尿はどのように処理されたのか、といったことでした。ここは孤立し密閉された空間ではなく、食材や日用品の調達、ゴミや糞尿の処理といった形で、江戸の商工業者の生産・流通・運搬などの動きや、ひいては近郊農山村との生産・流通・運搬などの動きに大きく支えられていた空間でもあったはずです。現在は、そういった臭いや動きを感じさせる空間ではなく、東京ど真ん中の「御苑」としての、美しく管理されそして整備された空間となっています。前回も今回も、開園まもなくということもあってか、観光客はあまり目立たず、でもそれなりにいることはいましたが、その半数以上が欧米人観光客で占められているように思われました。欧米人にとって、首都東京のど真ん中にあり、東京駅から歩いていける巨大な城跡(江戸城の)は、魅力ある見物先の一つであるようです。 . . . 本文を読む
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2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その1

2010-08-17 06:06:52 | Weblog
今までの取材旅行で江戸城の外堀と内堀のおおよそを歩きました。今回はいよいよ本丸に入ります。出発点は九段下。九段下から内堀を右手に見て進み、大手門から皇居東御苑に入ります。その大手門から本丸へと上がっていくのですが、このコースは、アメリカ駐日総領事ハリスやその通訳であったヒュースケンが、将軍(家定)との謁見のためにたどったコース。皇居東御苑には、千代田区立図書館に赴いた時、その開館時間まで近辺を歩いてみようと思い、内堀に沿って歩き、平川門から入ったことがあります。無料で、江戸城本丸跡に入れて、本丸御殿跡や天守閣跡を自由に歩くことができるということは驚きで、東京のど真ん中にこういう空間があるということに新鮮な感動を覚えました。その時は、ハリスやヒュースケンが将軍との謁見のために、どのように江戸城に入ったのかという意識はまったくありませんでしたが、岩波文庫の『ヒュースケン日本日記』に目を通して、そのコースがわかり、そのコースを実際にたどってみようと思いました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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2010年・夏の山行─竹久夢二の登った須走口登山道 その最終回

2010-08-16 07:15:47 | Weblog
「富士へ」の記述や挿絵を見ていくだけでも、当時(明治42年)の時点での須走口登山道のようすや御殿場馬車鉄道のようすがわかってきます。いくつか列挙してみましょう。①御殿場馬車鉄道の馬車は、停車場だけでなく客が待っているところでは停車した(夢二とたまきの場合は、二枚橋の福田屋の前で馬車に乗っています)。②馬車鉄道は高原のようなところを走り、沿線には野いちごがたくさん生え、また赤や白の百合の花が咲いていた。③須走登山口から「駒返し」まで馬で登ることができ、また馬車で往来することもできた(夢二とたまきは、馬も馬車も利用しています)。④中食場の茶屋には小さな囲炉裏が設けられており、絵葉書を売っていた。⑤石室では葡萄酒や缶詰が売られていた。⑥登山客には、富士講の人々に交じって、女学生や小学校教師や医者、また外国人など一般の人々もいた(夢二もたまきもそういった人々でした)。⑦登山客に雇われて荷物を運ぶ強力(ごうりき)がいた。⑧石室は煙と湯気が充満していた。⑨石室に泊まっている人々の中には、先達(せんだつ)に率いられた富士講の人々がおり、夕食の後には、先達の説教や講談が行われた。⑩夜明け前に起き出した富士講の人々は、白装束に着替えて石室の外に出て、ご来光を拝んだ。⑪現在の合目と当時の合目は異なること。⑫現在の「砂走り」は七合目(当時は六合目にあたる)から始まるが、当時の「砂走り」は八合目から始まっていたこと。⑬旅館の人は、登山客を、「お静かにお山をなさいませ」と送り出していること…等々。加えて絵葉書に写された登山道や石室などの写真から、そして実際に人々が歩いて往き来した登山道を歩いてたどってみることによって、かつての須走口登山道のようすが立体的に浮かび上がってきます。 . . . 本文を読む
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2010年・夏の山行─竹久夢二の登った須走口登山道 その9

2010-08-15 06:14:48 | Weblog
「砂走り」を下って一合目の石室へ着いた夢二とたまきは、樹林地帯へ入りました。たまきの顔色もよほどよくなりました。「駒返し」からは馬車を借りて、須走までそれに揺られて帰りました。「駒返し」からは馬車が須走まで走っていたのです。その馬車に乗ったのは、夢二とたまき、そしてドクトル(若い医者で横須賀の病院に勤務)や強力でした。二人は須走でドクトルや強力と別れて、御殿場行きの鉄道馬車に乗りましたが、その車中には、登山の時に出会った外国人も乗っていました。その外国人は、たまきのために自分の荷物を除けて席を設けてくれました。その馬車の窓からは野原に生えるいちごがあちこちに見える。夢二が「あれはストロベリーでしょう」と言うと、外国人は、「そうです、そうです」と言って、馬車から飛び降りるとそのいちごをたくさん採ってきました。「この土地の人は、これをヘビいちごと言いますよ」と夢二が言うと、その外国人は、「ヘビは西洋人の好きなものの一つです」と笑いながら言って、目を閉じていたたまきの手にいちごの束を持たせました。たまきは顔を上げて、初めて笑みを浮かべます。鉄道馬車は、下りということもあって高原の上を快く走り、二人は二枚橋の福田屋の前でその馬車から下りました。 . . . 本文を読む
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2010年・夏の山行─竹久夢二の登った須走口登山道 その8

2010-08-14 07:35:10 | Weblog
白い衣に黒い袴を穿いた男がちゃぶ台の前に座ると、石室内の人々が「先達さまがいらした」とその男のまわりに集まって、その男の説教を一言も聞き漏らすまいと耳を傾けました。男の説教には、「大宇宙」だの「小宇宙」だの、「神」とかいった言葉がまじる、ずいぶん長いものでした。その「先達さま」は「佐々木助○○」(挿絵に記してありますが、○○の部分は判読できず)という名前であったらしい。説教が終わると、次は講談が始まりました。たまきは、その説教や講談が耳について眠ることができない。寝返りを打って苦しみ出し、嘔吐をする。手を握ると脈拍も熱も高い。「山を下りさへすれば、この病気は治るのだけれども」と夢二が記すように、このたまきの不調は、疲労と高山病によるものでした。せつなそうなたまきの呼吸を聞きながら眠ってしまった夢二は、夜中にふと目を覚ます。頭を上げると、立てかけた戸の隙間から朱色に染まった空が見えました。布団を抜け出た夢二は、戸口に出て、まわりを見回しました。六合目から下は白く雲海が覆っており、その雲海ははるかかなたの地平線の辺りで消えている。そのあたりから今しも太陽が差し上ろうとしていました。地平線の上に「ブロン色」や「牡丹色」をした雲が細長くたなびいています。石室内の人々も、「ご来光だ」と言って起きてきて、感動の面持ちで眺めています。夢二はその光景をたまきにも見せてやりたいと思って室内に戻り、「日の出が綺麗だよ」と声を掛けるが、たまきは見ようという気力もない。夢二が「病気はどうだい、まだ苦しい?」と聞くと、たまきは「もう大丈夫だけれど、私、死ぬかと思ったわ」と答える。夜具の上へ寝そべって、戸口から外を見ていると、相宿の人々は「異様な装束(なり)をして、御来光を拝みにとて戸口に並むで、今か今かと」、日の出を待っています。道連れになった女学生も、小学校教師も、カーテンの中に寝ていた外国人も外に出て、日の出間近の風景を眺めています。同じ石室に泊まっていた客のうちに若い医師がいて、彼はたまきを診て、「心臓がいけないようです」と言って薬を盛ってくれました。医者は、「私はこれから下山するから、一緒に下りた方がいいでしょう」と言うので、二人は登山をやめて下山することに。二人は「砂走り」を利用して、休みを繰り返しながら下山しました。岩角からは強力がたまきを背負って、一合目まで運んでくれました。 . . . 本文を読む
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2010年・夏の山行─竹久夢二の登った須走口登山道 その7

2010-08-13 06:18:47 | Weblog
高山植物の花々が咲き乱れているあたりから、たまきは呼吸が苦しくなり、歩行になやむようになりました。顔をみると、黄八丈〈きはちじょう〉より顔色は悪く、夢二は水筒から水を出して、たまきに「紫雪〈しせつ〉」を飲ませました。「しっかりしろ!もうすぐだ」と励ましながら、夢二はたまきの手をとって山路を登っていく。次の岩角で休んでいると、はるか下から4人連れの一団が登ってきました。男二人に女が一人。そしてもう一人は強力〈ごうりき〉のようだ。その強力が「ご一緒にまいりましょう」というのに力を得て、夢二とたまきはその一団と歩調を合わせて登っていきました。たまきは「紫雪」を何度も飲み、強力に助けられながら、それでも七合目五勺を過ぎ、八合目の石室の男に助けられて八合目まで至りました。もうその頃には夕暮れ時になっていましたが、暮れゆく高山の景色を眺めるどころではありませんでした。たまきの装束を解かせると、布団を出させてそれに寝かせます。石室の男たちは、いろいろといたわって水や丸薬を持ってきてくれるものの、たまきは横になって寝ているばかり。夢二が石室の中を見回してみると、煙と湯気のたち込める室内に、虫のように人々が寝ていました。登山者が石室の中で横になって休憩していたのでしょう。夕餉の時に、夢二は世話になった強力や石室の男たちに缶詰と葡萄酒を買って、その労をねぎらっているから、石室では缶詰や葡萄酒などが売られていたことがわかります。食後まもなくして、どこからやってきたのか白い衣に黒い袴を履いた男がやってきて、ちゃぶ台を前にして説教と講談が始まりました。これは富士講の集団であったと思われる。挿絵にも「山講」という「マネキ」が石室内に垂れ下がっているのが描かれています。石室における富士講の人々のようすが夢二によって描写された興味ある場面になります。 . . . 本文を読む
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2010年・夏の山行─竹久夢二の登った須走口登山道 その6

2010-08-11 06:08:40 | Weblog
夢二の「富士へ」には、夢二による挿絵があります。「ちうじき」とある絵があって、小さな囲炉裏を前にして女性が座っており、「胡瓜をつけたのがあります」と記してあります。「ちうじき」とは「中食」のことで、「昼食場」とも「中食所」とも言い、登山者はここで衣服を着替えたり食事(昼食)を摂ったりしました。すでに触れたように、須走口登山道の「中食場」は、『絵葉書にみる富士登山』に載っており、軒先から「マネキ」が無数に垂れ下がる縁台には登山者が休憩をとっている姿が見られます。夢二の絵は、その中食場の一軒の茶屋の内部を描いたもの。簡単な囲炉裏があり、「胡瓜の漬けたのがありますよ」と声を掛ける女性がいる。胡瓜の漬けたものも売っていたことがわかります。夢二とたまきはこの「中食場」でいったん馬から下り、ここで昼食を摂って休憩し、それからまた馬に乗って「駒返し」まで登り、それから徒歩で登山道を登っていったのです。たまきが馬に乗っている絵もあります。馬上のたまきは、菅笠をかぶり、背には蓑(みの)を掛けている。足は脚絆に草鞋(わらじ)。たまきの装いがもっとよくわかる絵もあります。右手には金剛杖を持ち、手甲をし、お腹のところに藁駕籠のようなものを巻いています。砂礫地帯の斜面に立って、下界の方を眺めているようだ。向こうに見える斜面は「砂走り」のある斜面かも知れない。登山者が4人描かれたものもある。姿格好から言って、左から2番目の人物がたまきで、一番左端の金剛杖を持って座っているのが夢二自身かも知れない。頭に被っているのは麦藁帽子。石室の入口左手で、たまきが疲労困憊の顔で石垣に寄りかかっている絵もある。石室の特徴が簡単なスケッチによく捉えられています。右端の棒に風で翻っている四角い布は、富士講の「マネキ」であるかも知れない。背後には富士山頂とその斜面が描かれています。「ヱハガキはいかがですか」と記された絵もある。これは簡単な囲炉裏があることや、窓のようすから二合目の茶屋の中を描いたもの。疲れ切ったたまきが草鞋を履いたまま横になっています。下山する途中、「中食場」の茶屋に休憩した時のようすだろうか。 . . . 本文を読む
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2010年・夏の山行─竹久夢二の登った須走口登山道 その5

2010-08-10 06:46:58 | Weblog
 「駒返し」で馬を下りて登っていくと、下山の人々としばしばすれ違うようになりました。その中には美しい女性もいる。夢二はその人たちと何か話を交わしてみたいと思ったものの、その人たちはさも疲れたような、そして気むつかしい顔をしていました。美しいその女性さえも、二人を険しい目で一瞥(いちべつ)して過ぎていきました。登山道はいよいよ険しくなり、森は深くなり、古い倒木が現れたりする。そしてハラハラと雨さえ降ってきます。間もなく美しい樹林地帯が尽きて、「驚くべき怪物の背のよふな、富士の嶺が眼前に」広がりました。赤褐色の大粒の砂と小石の間には、アザミに似た少し大きな草の花がちらばらに生えているばかりで、そのほかには何も生えていない。そして膨大な富士の山腹が、横雲を斜めに切って空間に聳(そび)えています。しかし山頂や麓は雲のために全く見えない。夢二とたまきは、わずかに踏み跡のある道をたどって、上へ上へと登っていきました。その途中、いきなりたまきは賛美歌を歌いだし、そしてまた二人は「古い歌」を低い声で声を合わせて歌う。やがて岩の間に雑草が叢生(そうせい)したところへ出ると、雲間から富士山の頂上が見え出しました。そこから麓を見下ろすと、先ほど通ってきた森が藍色に見える。岩の間には、名も知らぬ花が、色とりどりに咲き乱れていて、それを見て、「まーあ…神さまの御苑のようだわねえ」とたまきが感嘆の声を上げました。美しい樹林地帯を抜けた二人は、まず富士の広大な山肌が見える潅木地帯へ入っていったわけですが、この潅木地帯へ入って行く辺りが古御嶽神社の上あたり、つまり現在の五合目から上のあたりということになります。そこからさらに登って森林限界を越えたところ、いわゆるスコリア(火山噴火物が堆積した砂礫地帯)で夢二とたまきが見た花は、ゴゼンタチバナやオダマキ、あるいはヒメシャジン、オンタデなどの高山植物の花であったと思われます。 . . . 本文を読む
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