鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その4

2010-09-30 07:29:15 | Weblog
佃島と永代橋の間の隅田川が、明治時代の末になっても、弁才船(べざいせん・大型和船)の溜り場であったことは、『百年前の東京絵図』の山本松谷(しょうこく)の絵からわかります。その絵はP172~173の「永代橋東詰」というもの。解説には、この絵には「明治四十二年一月十五日写と買いてあり、雪の中でスケッチブックを構え何時間か、ここに立っていた画家の姿が見えてくる」と記されています。画面右端に大きな鉄骨が見えていますが、これは明治30年(1897年)11月に、従来の場所よりも下流に架けられて完成した「わが国の道路橋としては初めての鉄橋」である永代橋の一部。橋上には東京鉄道会社の路面電車の軌道が走っていますが、ここに初めて路面電車が走ったのは明治37年(1904年)の5月15日。明治後期の永代橋の古写真は、『東京市電名所図絵』のP91に載っていますが、トラス橋の鉄骨も、ガス燈も、橋の柵も、山本松谷描く「永代橋東詰」のそれらと全く同じです。山本駿次朗さんの詳しい解説には、次のような記述があります。「橋の向こうには、佃島や月島の光景が見られる。海面に帆柱を立てた姿を見せている船は、すべて『弁財船(べざいせん)』と呼ばれる、江戸時代に発達をとげた沿海航行用の和船、いわゆる『千石船』である。」つまり、明治42年の1月の時点でも、佃島と永代橋の間の隅田川は、弁才船の溜り場であったことになりますが、その位置は、歌川広重の描く天保前期の頃の「江戸名所之内永代橋佃沖漁舟」における弁才船の溜り場と全く同じであり、江戸時代より明治末年までずっと、ここが弁才船の溜り場(碇泊場)であったことがわかります。 . . . 本文を読む
コメント

2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その3

2010-09-29 06:32:00 | Weblog
矢田挿雲の『新版江戸から東京へ(六)向島・深川(上)』を見ると、そのP246に「幕末の永代橋」という写真が掲載されています。誰が撮ったものかはわからない。『写真て見る江戸東京』のP68~69の「永代橋」の写真と較べてみると、一つの大きな違いがあります。この「幕末の永代橋」の写真には、永代橋の右側に3本股の杭のようなものが並んでいるのです。これがフェリーチェ・ベアトが写したものと思われる『写真で見る江戸東京』の永代橋の写真にはありません。またよく見ると、「幕末の永代橋」の方は、橋脚の上部にも下部にも斜交(はすか)いの柱が取り付けられ、強化されているように思われます。普通に考えると、「幕末の永代橋」の方がベアトの写した時期よりも後の永代橋で、より強化されたものということになる。では3本股の杭のようなものは何か、となると、考えられるのは増水時に上流より流されてきた流木や船などから橋を守る(直接に橋脚にぶつからない)ためのもの。と考えると、この写真は深川佐賀町の方(永代橋東詰)から永代橋を写したことになる。つまり橋の右側、3本杭の並ぶところが隅田川の上流となるわけです。この「幕末の永代橋」の写真、ほんとうに「幕末」に写されたものか。幕末に写されたとしたら、いったい誰が写したものなのか、興味ある写真です。 . . . 本文を読む
コメント

2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その2

2010-09-26 10:38:36 | Weblog
辰巳の花街は、富岡八幡宮の周辺7ケ所に散在していたという。7ケ所とは、仲町・櫓下・裾継・土橋・新地・石場・佃町。その中心は仲町。仲町全部が色町で、7ケ所の中でも最も賑やかなところであったようだ。辰巳の花街の特色は辰巳芸者であり、全国芸者の発祥をなしたとのこと。矢田挿雲の『新版江戸から東京へ(七)深川(下)』(中公文庫)によれば、辰巳の女は、「江戸から以北、房総、常磐、仙台、松前辺の船頭衆を常花客(じょうとくい)とし」、「船乗りに特有なザックバランな気質が、辰巳衆に感染した」という。また次のようにも記しています。「はじめ茶汲女(ちゃくみおんな)から出発した辰巳女の気質は、文化、文政頃になると、回漕業とともに発達した米商、材木商、魚商などの、豪奢(ごうしゃ)な生活にまもられて、異常の洗練をとげ、これ等深川独特の、寛闊大腹な商人気質から、船頭以外の都会的、俳諧的感化をこうむった。」つまり、辰巳女の気質は、一大消費都市江戸と江戸以北の地方との海運業の発展を背景として培われていったということになりますが、隅田川、日本橋川、神田川を中心とした江戸の水運、また深川を縦横に走っていた堀川(運河)による水運を考えれば、それによる経済的・文化的な力こそが、辰巳女を洗練させていった要因であることが理解されてきます。 . . . 本文を読む
コメント

2010.9月取材旅行「永代橋~深川~隅田川テラス」 その1

2010-09-25 08:58:46 | Weblog
江戸城の外堀および内堀周辺については、8月の取材旅行でおおよその探索を終えました。あと歩いてみたいところとして残っているのは、深川界隈と浅草界隈。それ以外のところは、また機会があったらその時々に訪ねてみたいと思っています。今回は代表的な東京(江戸)の下町の一つ、深川。ここは中江兆民が幕末に、真田藩下屋敷内にあった村上英俊(えいしゅん)の塾「達理堂」に通ったところでもある。真田藩下屋敷は永代橋を渡った深川佐賀町にあり、兆民は、鍛冶橋内の土佐藩上屋敷から歩いて深川佐賀町の真田藩下屋敷に通っていた時期があり、またその深川に住んでいた時期があります。おそらく慶応3年(1867年)の夏から秋頃にかけて。兆民が村上英俊に学んでいた時期は長くはありませんが、兆民は終生、村上英俊を恩師の一人として敬愛していたようです。この深川において、若き日の兆民が「深川の娼楼に遊んで居続け、破門されるにいたった」という「兆民伝説」がある。「破門」とは師村上英俊から、「達理堂」を出されたということ。しかしもちろんその経緯については実際のところはよく分かってはいません。隅田川河口部の深川の地は、江戸城の東南方にあるので「辰巳(たつみ)」といわれ、「辰巳芸者」という言葉があるように、富岡八幡宮の門前町を中心に江戸きっての遊楽地としても栄えました。深川佐賀町からちょっと先へ行けばその門前町に入るわけで、そこで青年兆民は、ある女性との何らかの出会いがあったものと思われます。「弔馬場辰猪君」の中で、兆民は次のようにいう。「余ハ村上先生二従フテ深川佐賀町ノ塾二入リ時々鍛冶橋ナル土佐藩邸二往キ君ト相見テ相話セリ」。馬場は端正な侍姿であったのに、兆民はというと単(ひとえ)に兵児帯を巻いた「不作法ノ極点」。「時々鍛冶橋ナル土佐藩邸」に赴いたということは、達理堂時代(慶応3年の夏から秋にかけて)において、兆民の生活の主要舞台は深川であったということになる。その深川への道筋、また隅田川に架かる永代橋を渡った深川あたりを歩いてみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
コメント

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」堀川~山田橋~江ノ口川 その6

2010-09-24 07:34:40 | Weblog
中江兆民(竹馬・篤助)は、この山田町でどういう幼少年時代を送ったのだろう。幼少年時代の行動半径はどのようなものであり、その交遊関係はどのようなものであったのだろう。人が生まれ育ったところを訪ねる時、兆民に限らず、私はそういったことに思いを馳せる。どんなに周りの環境が激変していても、やはりその場所を訪れ、その付近を歩いてみることで、その人の幼少年時代を想像する大きな手掛かりを得ることができる。まわりにどういう川や橋があり、どういう山が見え、どういう建物があったか。その人が日常的に歩いた道筋はどういう道で、どういう景色であったか。一緒に遊んだ近所の仲間たちは、どういう出身であったか。近所の人々はどういう階層の人々であったか。篤助は、貧しい家計を助けるために長屋の畑で大根などの野菜を作っていた。商家の看板の文字に関心を持ち、幼いうちから扁額(へんがく)などの難しい文字を読めるようになっていた。弟の虎馬がいじめられて帰ってきた時には小刀を持っていじめた相手のところへ走っていった。中の橋を渡って叔父のいる秦泉寺村の浅川家を訪ねたこともあるだろう。長屋の南には山田町の牢舎があり、その牢舎に勤める人々が長屋にはいたから、牢舎の中の囚人のことを聞くこともあったろう。牢舎の空き地では斬首刑が行われることがあり、それを板塀の節穴から覗いたこともあったに違いない。牢舎で働いたり牢舎に出入りする人々には、被差別民たちもいたはずである。「下横目役」という警察的な仕事は、それらの人々とつながっていて、その「下横目」たちが住んでいたのが兆民の生まれた部屋町でした。兆民の被差別民への関心は、彼の幼少時からのものだと私は考えたい。勤王党の弾圧とその逮捕者の牢舎における動静は、リアルタイムに藩校文武館学生であった少年の耳に入ってきたのではないか。友人や知り合いたちは足軽級の「下士(かし)」(下級武士)身分であり、勤王党の動きへの共鳴者が多かったのではないか。藩校文武館へと高知城本丸に通う篤助には、「郭中(かちゅう)」に住む「上士(じょうし)」(上級武士)と、「郭外」に住む「下士」との身分差や待遇差を感ずることが多かったのではないか。長屋からほんそばの広小路に出れば、その道は参勤交代路であり、藩主の大行列が広小路を通って山田橋を往き来する光景を、幼少年時の兆民は眺めたことがあるはずです。 . . . 本文を読む
コメント

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」堀川~山田橋~江ノ口川 その5

2010-09-23 12:15:51 | Weblog
江ノ口川に架かる「平成橋」の手前(南側)より左折した通り沿いが、かつての「山田町」。山田橋から南に走る通り(かつて「広小路」といわれた)沿いの町家を含めて「山田町」と言い、広小路と横堀の間の下級武士が住む長屋の建ち並ぶ一郭を別に「部屋町」といいました。この旧山田町は、その南が旧蓮池町。横堀を隔てた東側の町が旧鉄砲町。その鉄砲町の南に、順に北新町、中新町、南新町、田淵町がありました。中江兆民は、この山田町の長屋が並ぶ一郭(「部屋町」)で生まれました。この山田町の北側には江ノ口川が東西に流れ、東側には堀川(横堀)が南北に流れ、西側には、江ノ口川に架かる山田橋から南へ広小路が走っていました。この広小路は、参勤交代の行列が通過する道でもあり、山田橋の手前(南側)には城下三番所の一つである山田橋番所がありました。この山田町で欠かせないことは、この町の一郭に藩の牢舎があったこと。「山田町の牢」と言われ、下級武士や町人の犯罪者や政治犯などが投獄されました。この牢舎があったのは「部屋町」の南側で、堀川に沿う道沿いにあったものと思われる。つまり、兆民が生まれた長屋が並ぶ「部屋町」の南側には、牢舎をぐるりと囲む板塀があったということになります。「部屋町」の長屋には、山田橋番所や牢舎に勤める足軽級の下級武士が住んでいたわけですが、兆民の父元助は、兆民誕生時、江戸詰めの「下横目役」を勤める足軽でした。母は柳(りゅう)で、兆民誕生時は24歳。兆民は長男でした。兆民の本名は篤助(戸籍名)。幼名竹馬。弘化4年(1847年)11月27日の午後12時に、この山田町の長屋で生まれています。「部屋町」のようすがどういうものであったかはよくわかりませんが、おそらく長屋が南側を向いて幾棟か並んでいたものと思われます。長屋には菜園を設けられるほどの広さの庭もあったようだ。江ノ口川に接する北側には「射場」もあったらしい。弓や、場合によっては鉄砲(火縄銃)などの練習をする広場であったものと思われます。部屋町の北東角は、江ノ口川から堀川が直角に南下するところであり、そこには堀川に沿って「萬屋(よろずや)」という煮売り屋があって、暑い夏ともなるとその軒下には縁台が出されて、部屋町の住人が夕涼みがてら集まって四方山話や酒食を楽しむところでもありました。 . . . 本文を読む
コメント

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」堀川~山田橋~江ノ口川 その4

2010-09-21 06:54:55 | Weblog
『高知県の地名』によると、秦泉寺(じんぜんじ)村というのは、東流する久万(くま)川を挟んで、江ノ口村の北に位置する村でした。南部は久万川流域の平野部であり、北部は山開地。南部に愛宕大権現の鎮座する愛宕山があり、その愛宕大権現へ、城下よりの「愛宕道」が通っていました。古くは浦戸湾に面する地域で、愛宕山は湾に突出する岬(津ノ崎)であったといわれる。ということは、秦泉寺村の久万川流域の平野部は、久万川が上流から運んできた土砂によって形成された沖積平野である、ということになる。かつては愛宕山のふもとに波が打ち寄せていた浦戸湾の広がりは、久万川の運んでくる土砂によって次第次第に埋め立てられていった、ということでしょう。その久万川流域の江ノ口村や秦泉寺村の平野部には、かつて水田が見渡す限り広がっており、ところどころに集落が散在していました。明治21年(1888年)に高知を訪れた兆民にとって、秦泉寺村は未知の村ではない。というのは、兆民の父である元助の弟、範応(のりまさ)がこの秦泉寺村の浅川家に養子として入っており、幼少年の頃の兆民は、父や母に連れられて、あるいは一人で、山田町の長屋から秦泉寺村の叔父範応の家まで、しばしば赴いていたはずだから。城下からは「愛宕道」をたどったと想われますが、その道は、江ノ口川を「中の橋」で渡ります。「中の橋」を渡った兆民は、周囲に水田の広がる田んぼの中の道を進み、久万川を渡って秦泉寺村に入ったものと思われる。浅川家が、その秦泉寺村のどこにあったかはわからない。明治21年の兆民は、かつて自分が歩いた道をたどって、秦泉寺村まで赴いたに違いない。この範応とその妻くまとの間に生まれた長男が範明で、次男が範彦でした。兆民が死んだ時、告別の後に多数の参列者に対して挨拶をしたのは、長男の丑吉と親族代表の浅川範彦でした。この浅川範彦が、北里柴三郎の門下生であり、現在「浅川賞」として知られているように優秀な細菌学者であったことは、すでにこのブログで触れたところです。 . . . 本文を読む
コメント

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」堀川~山田橋~江ノ口川 その3

2010-09-20 07:28:08 | Weblog
吸江(ぎゅうこう)の船上や東孕(ひがしはらみ)の川崎氏の別荘(浜御殿)での宴会、また稲荷新地での料亭での引き続きの宴会を楽しんだ日の後の兆民の行動はどうだったか。「土佐紀游」には、「其後(そのご)も亦(また)記す可き無し陳腐(ちんぷ)を厭(いと)うが故なり是(これ)にて想うに平々凡々たる政事家の政事は歴史家も困却するなるべし」とあるように、詳しい記述は何もありません。『土佐自由民権運動日録』の兆民が帰県した4月17日から帰阪した5月1日までの記事を見ても、4/18植木枝盛出県 4/19府下菓子商、規約を定めるため潮江村要法寺で集会 4/23高知英和女学校入学試験 4/24高知英和女学校開校 4/28高知教会堂で基督教演説会 4/30師範学校・尋常中学校・海南学校・高知共立学校・土佐郡高等小学校生徒、潮江山で対抗運動会実施、といった出来事が記されているくらい。帰県した兆民が何をしていたのかはよくわからない。ただ「土佐紀游」には、兆民を含めた4人が、高知北郊の秦泉寺(じんぜんじ)村近傍に田植えを見に行ったことが記されています。そこで兆民らは農婦が歌う「田植歌」を聴くのですが、それが兆民にとっては「今回快遊の第二次の興」となる出来事でした。 . . . 本文を読む
コメント

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」堀川~山田橋~江ノ口川 その2

2010-09-19 06:33:12 | Weblog
兆民の「土佐紀游」によれば、明治21年(1888年)の4月下旬のある日、兆民は高屋長祥の家から、暴風雨の中、人力車に乗って木屋橋に赴いています。時刻は午後3時前後。その木屋橋の下には大きな屋根船が停泊し、今まさに岸辺を解纜(かいらん)しようとしていました。兆民はその屋根船に乗り込み、船内で他の「豪傑」たちと一緒に酒宴を楽しみながら堀川を下り、風雨で荒れる吸江(ぎゅうこう)へと繰り出し、夕暮れになって風雨が止んで月が水面を照らし出すと、潮江新田の板垣退助を酒宴に誘い、東孕(ひがしはらみ)の川崎氏の別荘で酒宴を続けました。この別荘から眺めた、月の輝く吸江の夜景は、よほど兆民を感動させたらしい。「豪傑」たちの酒宴はさらに続く。彼らはふたたび船に乗って「稲荷新地」に繰り出して、そこで酒宴を続け、酔っ払った兆民はそこで眠ってしまったようだ。「更に飲み更に食ひ遂に睡(ね)むる是れ今回快遊(かいゆう)の第一次の興なりき」と、兆民は記しています。「木屋橋」は、江の口川から南下してきた堀川が、東西に流れる堀川に合流する地点の手前に架かる橋。ここから左折して、菜園場(さえんば)橋を潜り、さらに大鋸屋(おがや)橋を潜れば、そこから鏡川と合流するところまでは橋はない。その堀川の両側の河岸には屋根船や荷船がびっしりと連なり、そして両側の堤の上には防潮林としての松並木が延々と続いていました。そのかつての堀川の、屋根船や荷船が賑やかに行き交う情景を思い浮かべながら、川沿いを歩いてみました。 . . . 本文を読む
コメント

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」堀川~山田橋~江ノ口川 その1

2010-09-17 06:48:16 | Weblog
手元に『坂本龍馬写真集』宮地佐一郎(新人物往来社)という本がある。そのP17~P19に、明治時代を中心に大正期も含めた高知を写した古写真が掲載されています。その中には、高知の各図書館などで見た古写真も含まれています。P17の右上の写真は、追手筋にあった「日曜市の歴史」という案内板に載っていたもの。写真集の解説には、「本町時代の日曜市風景」とあり、明治10年代のものと推定されています。「武家屋敷の建ち並ぶ中央の屋根の上に、こんもりと見えているのが高知城」とも記されています。明治時代の鏡川が写されているのは、P17左下の写真。この写真の右手に写っている大樹は、天満宮の大楠。柳原より鏡川の広い川原越しに、対岸の天満宮の大楠およびその左手の天神町あたりを写したもの。左端中央より真ん中へと左右に延びる長い橋は、天神大橋。鏡川の川原がどれほど広かったかがわかります。鏡川が吸江に注ぎ込む河口部の右側(北側)から城下へと延びる川は「堀川」と言い、高知城下を守るために造られたお堀。この堀川の「松ヶ鼻」あたりを写した古写真(明治初期)が、P17右中の写真。解説には、「現、農人町下流」とある。河岸の土手には松並木が繁り、両側の河岸にはおびただしい数の荷舟が繋留されています。P37左中の古写真は、「高知市菜園場河岸」を写した大正の頃の写真。農人町よりもっと播磨屋(はりまや)橋寄りで、堀川の下流に写っている橋が大鋸屋(おがや)橋であるとすると、この写真は菜園場(さえんば)橋の上から写したものとなります。両側の河岸には、荷舟ではなく屋根船が多数繋留されています。またP18右中にも、荷舟が多数写っている古写真がありますが、これは解説によると、「江の口川」の「廿代橋」付近と推定されています。写っている橋は「廿代橋」でしょうか。「江の口川」というのは、鏡川の北側を蛇行する川ですが、この川も荷舟が多数行き来する川であったことがこの写真からわかります。江ノ口川は山田橋を潜ったところで、右手に直角に折れる堀川が分流していますが、この堀川は木屋橋を潜ったところで、鏡川へと合流する堀川とぶつかっています。江ノ口川と、この堀川(横堀)に接する一郭を「山田町」といい、ここに生まれたのが中江兆民(篤助)でした。翌日の朝は、この「堀川」に沿って歩いてみることにしました。 . . . 本文を読む
コメント

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」 桂浜~追手筋~高知県立歴史民俗資料館 その5

2010-09-16 06:43:34 | Weblog
出てきたそばの麺は、平たい「そばがき」を細切れにしたような感じの質朴なもの。ご主人が言われるには、大豊町のそばを使用しているとのこと。「立川(番所)そばというのが立川にあるんですか」と聞くと、そういうものはなく、「うちが元祖です」とのこと。立川など大豊町の山奥で栽培されているそばを使ったおそばのようです。熱いつゆに入ったおそばに、土佐清水産の「青さのり」が乗っています。食べているとつゆが「青さのり」でうす緑色になってきます。土佐の山奥のそば粉と、土佐の海浜の「青さのり」が使われた珍しい独創そばでした。 . . . 本文を読む
コメント

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」 桂浜~追手筋~高知県立歴史民俗資料館 その4

2010-09-15 07:42:29 | Weblog
そのお蕎麦屋さんは、純然たるお蕎麦屋さんではなくカウンター式の小料理屋のようで、「立川番所手打ちそば」というのは数あるメニューの一つ。私はその「立川番所」とい文字に惹かれて、その店に入りました。「立川(たてかわ)番所」というのは、参勤交代の道である「北山越え」の、藩境のある「笹ヶ峰」の手前にある番所。大杉の旧道で挨拶を交わしたおばさんが、「この道は参勤交代の道ではないけれど、もう少し上に行くと立川番所がある」といったその「立川番所」のこと。「北山越え」のルートは、高知→布師田→領石→権若(ごんじゃく)峠→穴内→国見峠→本山→川口→立川番所→笹ヶ峰→馬立→新宮→川之江。大杉よりも奥に「川口」があり、さらにその奥に「立川番所」があるわけですが、大杉と同じく大豊町に属します。店内に入ると、右側の壁に「立川番所」の写真も飾ってある。メニューには、「土佐はちきん地鶏親子丼」や「手打ち青さのりうどん」なども掲げられています。「立川番所手打ちそば」を注文して、待っている間、カウンターに置いてあった『高知新聞』を何気なく開くと、そこにあった記事が図書館合築に関するものでした。記事は、高知市民図書館前館長の千浦孝雄さんの「『合築』構想への懸念」というもの。それを読むと、千浦さんには、図書館は美術館や博物館と違って人々が日常的に利用する「日常施設」であるべきだという考えが基本にあることがわかります。県立図書館と市民図書館の「合築」は、事実上「統合」となってしまうだろうし、追手筋小学校敷地に「合築」されたならば、とくに駐車場の問題によって、人々が気軽に利用できる「日常施設」とは遠いものになってしまうのではないか、というのが千浦さんの最も懸念するところ。たしかに県立図書館周辺で駐車場を探し回った経験からも、千浦さんの懸念するところはよくわかる。市内の人々はよしとして、市外遠くからやってくる者にとって、駐車場の確保はきわめて大事なことです。なぜなら、鉄道やバスを利用したらその往復料金だけでもバカにはならず、また時間的な面でも制約が大きく、勢い自家用車を利用せざるを得ないから。都会から離れた地域に住む者にとっては、公共施設を利用する場合、その駐車場が広く、しかも無料であるということは、とてもありがたいことであるからです。そういったことを考えているうちに注文した「立川番所そば」が出てきました。 . . . 本文を読む
コメント

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」 桂浜~追手筋~高知県立歴史民俗資料館 その3

2010-09-13 07:20:00 | Weblog
種崎千松公園から、仁井田→自由の松原→五台山橋→青柳橋経由で高知市街に入り、高知県立図書館付近で車を停めようとしたところが、無料駐車場はなく、近辺の空いている駐車場を探して、かなり離れた廿代町の立体駐車場に車を停めました。図書館利用の場合、どれほどの利用時間になるかわからないので、できれば無料駐車場があるとありがたいのですが、それがなければ上限利用料金のある駐車場を探す必要があるのです。高知は城下町ということもあって、その中心部には広い駐車場はなく、人家の跡地が駐車場になっているところが多い。多くは上限付きの小さな駐車場ですが、便利で安い料金設定のところは、9:00過ぎには一杯になってしまうようです。ということで、県立図書館の近くでは見つけられず、かなり離れた廿代町の大きな立体駐車場に入ったわけです。そこから歩いて県立図書館に向かったことは、すでに触れています。県立図書館は、郷土資料関係のコーナーを利用しただけですが、思ったほど資料は多くはありませんでした。スペース的にも「県立」にしてはそれほど広くなく、郷土史関係の研究雑誌もそれほど多くありませんでした。開架の棚にではなく書庫にあるのかも知れません。パソコンによる資料検索も、郷土資料関係のコーナーではできないようでした。その日の新聞によると、高知県立博物館も高知市民図書館も老朽化のために建て替えの計画が進められており、それも全国的にも例のない、県立図書館と市民図書館とを「合築」する方針が打ち出されたらしい。県立図書館の改築の場所が難航していることや「合築」による大幅な経費節減が理由とされているようです。「合築」の予定先は追手前小学校の敷地。今まで各地を取材旅行してきて、県立図書館に期待するのは、そこに行けば県下各地の資料が集約されていてゆっくりと閲覧できるということ。またインターネット等で各地方図書館の蔵書が調べられ、場合によっては研究の相談を専門の学芸員に気軽に出来るということ。つまり無料の駐車場と、広いスペース(閲覧できる資料が多数あるということ)と、検索能力の高さと、学芸員の専門性(県下全体に目が行き届く)です。「合築」という経費節減を最大の目的としたやり方で、それにふさわしい施設になるかは、県外からやってきた門外漢にすぎない私ですが、少しく疑問に思えました。 . . . 本文を読む
コメント

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」 桂浜~追手筋~高知県立歴史民俗資料館 その2

2010-09-12 07:25:48 | Weblog
明治21年(1888年)の4月17日、兆民は初見八郎・中屋信輝・伊藤大八とともに、汽船「出雲丸」で「孕門(ようもん)」に到着します。初見と中屋は、この年に板垣退助の息子である鉾太郎が種崎に設立した私立中学校、「泰平学校」の仏語の教員として赴任するため兆民に同道しています。兆民に同道する3人は、いずれも仏学塾の出身者であり、兆民にとってはいずれも愛弟子といっていい。明治16年(1883年)8月29日に板垣退助が「浦戸丸」で玉島付近を通過したのが午後3時頃であることから推量すれば、「出雲丸」が「孕門」のあたりに投錨したのは午後3時半頃。兆民の「土佐紀游」によれば、兆民一行は「孕門」より小船を雇って、まず潮江新田にあった板垣の門前で船を下り、泰平学校の教師として赴任してきた初見と中屋の2人を板垣退助に紹介したものと思われます。板垣は酒肴を出して兆民一行を歓待しようとしますが、兆民は、「新聞紙に執筆をしなければいけないので」と言ってその酒肴を断わり、板垣の屋敷を出ると「本の士族町」にある「高屋長祥」という者の屋敷に赴き、そこでビールを何本か飲んでくつろいでいます。この「高屋長祥」なる人物は、『中江兆民全集⑪』の「解説」によれば、元土佐藩士で、明治維新後兵部省に出仕し兵部大丞となったが、ほどなく退官して帰郷した人物であり、母は板垣退助の妹であるという。つまり板垣退助の甥っ子にあたる人。『史伝板垣退助』絲屋寿雄(清水書院)によると、いわゆる「征韓論」で西郷隆盛や板垣退助が下野した時、土佐派の陸軍大佐谷重喜、陸軍少佐山地元治などが板垣に従っていっせいに下野しますが、そのうちの一人が高屋長祥。その時は兵部大丞であったようだ。板垣退助の妹の息子ということで板垣とは極めて近い関係にある人物でした。「本の士族町」に屋敷があったということは、おそらく「下士」ではなく「上士」であったと考えられます。兆民がこの高屋とどういう機縁で親しくなったのかは不明。高屋邸に着いた兆民を早速たずねてきた「村越直光」なる人物については、明治15年(1882年)に兆民が九州に赴いた際、同行した人物であるということ以外に、今のところわからない。兆民は数日後、屋形船での酒宴の途中、板垣邸に立ち寄り、板垣を伴って「東孕」山腹の川崎氏別荘に赴いて酒宴を続けていますが、この時点でも板垣との関係は依然続いているようです。 . . . 本文を読む
コメント

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」 桂浜~追手筋~高知県立歴史民俗資料館 その1

2010-09-11 08:00:52 | Weblog
明治16年(1883年)8月29日の、浦戸湾における自由党総理板垣退助一行の出迎え風景は以下のようなものでした。高知県下の自由党員は、当日、帽子に赤色の綿布を巻き、そして着物に白い帯ほ締めて、草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)履きで50人ないし10人ずつの隊列をなし、続々と浦戸湾へと向かいました。彼らは「サイサイ」の掛け声を発し、それぞれの隊列は「○○社」「△△会」と墨書された大小の旗を掲げていました。その中には、「土陽新聞社」もあれば「山嶽社」も「後楽会」などもある。板垣一行が神戸港から乗った汽船「浦戸丸」が、汽笛を響かせて浦戸湾に入ってきたのは午後3時頃。その頃までには、西孕(にしはらみ)から玉島(浦戸湾内にある島)にかけての海上は、それぞれのグループ(その数55)が乗る屋形船や端舟などにより埋め尽くされていました。「浦戸丸」が玉島付近に接近すると、玉島の頂上から煙火が数発上がり、板垣総理が浦戸湾に入港したことを知らせます。「浦戸丸」が投錨したところは「草花」の沖合い。この「草花」というのはどこかわからないが、おそらく「孕門」を吸江へと入ったあたりと思われる。投錨した「浦戸丸」に接近した屋形船に板垣一行が乗り込むと、その屋形船は「丸山台」へと向かいました。出迎えの船はその屋形船の前後左右に並列し、ラッパや太鼓を鳴らして進みます。「丸山台」というのは、鏡川の河口部にある小さな島で、そこには「此君亭(しくんてい)」という料亭がありました。この「丸山台」の北側、目と鼻の先には、「稲荷新地」という高知きっての歓楽街がありました。板垣一行はこの「丸山台」に上陸し、そこにあった「此君亭」に入り、そこで帰国歓迎の祝宴が始まりました。この8月29日前後、高知の町の旅店は、県下各地から集まってきた自由党員などで大混雑。「稲荷新地」も、繰り出してきた自由党員たちで大賑わいであったと思われます。祝宴を終えた板垣は、「丸山台」から端舟に乗り、南の潮江新田の自宅へと帰着しています。明治21年(1888年)4月、帰郷した兆民は、ある一日、船遊びに誘われて木屋橋から屋形船に乗っています。夜、暴風雨が静まってから、「棒堤を廻(めぐ)り或るやんごと無き老翁の門前に船を繋(つな)ぎ翁の家に入り翁を伴ふて再び舟に上ぼ」っていますが、この「老翁」とは、潮江新田に住んでいた板垣退助のことであったでしょう。 . . . 本文を読む
コメント