鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

太宰治の『津軽』と、「津軽四浦」  その12

2015-12-05 05:41:28 | Weblog
「布嘉」の大邸宅は、明治27年(1894年)12月に起工し、明治29年(1896年)3月に竣工しました。その大邸宅を取り囲んでいる赤い煉瓦塀は、高さ13mに及びました。煉瓦塀の向こうには、10個の鉄の扉を横に配した分厚い白壁の土蔵造りがありました。瓦屋根の上には、バルコニーを付けた出窓がしつらえられ、そのさらに上には、小さな塔が建てられ、そこからは避雷針が空に向かって突き出していました。この佐々木嘉太郎が大邸宅を新築するにあたり設計・施工を依頼したのは、弘前の棟梁堀江佐吉であり、金木の津島源右衛門(太宰の父)が新宅(現在の斜陽館)を建造する時に設計・施工を依頼したのも、この堀江佐吉でした。鎌田慧さんは、金木村の農家に生まれ、古着屋から身を興した五所川原の佐々木嘉太郎(本名は中村巳之〔みの〕)の、「功なり名を遂げた生涯を、源右衛門が意識していなかったことはありえない」と指摘しています。 . . . 本文を読む
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太宰治の『津軽』と、「津軽四浦」  その11

2015-12-04 05:47:31 | Weblog
『津軽・斜陽の家』(鎌田慧)によれば、明治23年(1890年)の第1回貴族院議員勅選の時、青森県内多額納税者14人の中には、まだ金木村の津島家の名前はなく、その時の第1位は、五所川原の佐々木嘉太郎で、納税額は二千六百六十二円。第2位が野辺地の野村治三郎、そして第3位が佐々木嘉太郎の養子先であった五所川原の佐々木喜太郎でした。佐々木嘉太郎が、「布嘉」(ぬのか)と呼ばれるようになったのは、呉服雑貨を商いにしていたからでしたが、前に触れた通り、その呉服雑貨の多くは「北前船」が「西廻り航路」によって鰺ヶ沢港に運んできたものであり、とりわけ「古手」(ふるで)と呼ばれた古着など木綿製品が中心でした。 . . . 本文を読む
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太宰治の『津軽』と、「津軽四浦」  その10

2015-12-03 05:36:22 | Weblog
深浦町の「風待ち館」で確認できた「北前船」が各地から運んできた「もの」は、以下のようなものでした。木綿・綿・酒・古手(古着)・タバコ・油(菜種油、ごま油)・塩・砂糖・酢・そうめん・和紙・御影石・狛犬・鳥居・瓦・鉄・むしろ・笏谷石(しゃくだにいし)・越前和紙・越前瓦・陶磁器・畳表・仏壇・漆器・薬・昆布・魚油・塩鮭・〆粕・干し魚・数の子・塩鱒・イワシ粕・佐渡御影石加工品など。実にさまざまな「もの」が運ばれてきています。『津軽・斜陽の家』によれば、「千石船には、…木綿、古着、砂糖、酒、雑貨、乾物、薩摩芋、綿、備後表、農具、建築材料、ときには美術品などが積まれて」おり、「取り引きが成立すると、問屋、商人、船頭衆などが、中村、山下、丸海老などの遊女屋にくりだした」という。「津軽の年貢米の三分の二は、ここから大坂に移送された。米をはこぶ馬の列が西浜街道につづき、道筋の茶屋は活気づき、賑わっていた」とも記されています。この「西浜街道」とは、「大間越街道」のことであり、年貢米を運ぶ時期になると、「大間越街道」(西浜街道)には米を運ぶ馬が列をなしたというのです。一方、「北前船」から積み下ろされたさまざまな生活必需品なども、それぞれの問屋を経て、「大間越街道」を人馬によって運ばれ、津軽地方のすみずみに流通したのです。 . . . 本文を読む
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太宰治の『津軽』と、「津軽四浦」  その9

2015-12-01 05:45:33 | Weblog
「津軽四浦」の中でも、太宰治の実家、つまり金木の津島家の歴史的背景を考える場合に、もっとも関わりのある港町と言えば、私はやはり鰺ヶ沢であると考えています。十三湊でも深浦でも、そして青森でもない。江戸時代の後期から明治時代にかけて、津軽と最も関係のあった港は鰺ヶ沢。なぜなら深浦はもっぱら「風待ち」の港であり、十三湊は岩木川が運んだ土砂の流入によって浅くなり、大型廻船の出入りは厳しい港であったからです。買積(かいづみ)方式の「北前船」(大型弁財船)が沖合いに多数碇泊することができ、藩政時代において津軽藩の蔵米を積み出すことができた港は鰺ヶ沢でした。明治時代においても、「北前船」が津軽産の米などを多く積み出し、また北前船が上方方面からの諸物資を多く積み下ろした港は、鰺ヶ沢であったでしょう。 . . . 本文を読む
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