鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.10月取材旅行『游相日記』番外編-大山街道(厚木~大山) その8

2014-11-30 06:13:09 | Weblog
ウライネコタン沖で異国船が漂流しているのが番人によって目撃されたのが天保2年(1831年)の2月18日(陰暦)の七ツ時頃。その通報を受けてアッケシ会所の添役が見届けのために急行しのが20日のこと。その20日の朝五ツ半頃、異国人がキリタップへ上陸。さらに会所の役人や番人たちが派遣されたり、松前表に注進のための急使が次々と派遣されたりして、事態はあわただしくなっていきます。異国船からはボートが出されて、上陸した者たちが建屋を焼き払ったり鉄砲を放ったりして、緊迫の度が増していく。国泰寺でも異国船退散のための祈祷が行われたりしています。この異国船が沖合いを離れたのは3月4日の朝五ツ半時頃。アッケシの人々はようやく半月ばかりの緊迫状態から解放されることになります。この半月ばかりのアッケシ会所の人々を含めた人々の動きを、国泰寺執事であった松堂玄林が克明に記録しており、それが「夷国船渡来中日鑑記」としてまとめられ、それは江戸の金地院や鎌倉の建長寺、また国元にも送られたようです。この時、ウライネコタン沖に渡来した異国船は、タスマニア島に捕鯨基地のあったオーストラリアの捕鯨船「レディ・ロウエナ号」であり、薪水の補給を求めての行動であったことがすでに判明しているとのこと。東蝦夷地における異国船の接近や異国人の上陸といった事態に、アッケシの人々がどのような対応をしたのかが克明に分かる資料として、松堂玄林がまとめた「夷国船渡来中日鑑記」はたいへん貴重なものであると思われました。 . . . 本文を読む
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2014.10月取材旅行『游相日記』番外編-大山街道(厚木~大山) その7

2014-11-27 06:09:26 | Weblog
江戸を出立した文道玄宋が下北半島佐井の港に到着したのが文政12年(1829年)8月12日(陰暦)。佐井→箱館→佐井→箱館→松前(松前志摩守へあいさつ)→箱館→クスリ(釧路)を出立してアッケシ(厚岸)に到着したのが10月29日でした。江戸を出立してから3ヶ月以上を要しています。この文道玄宋が東蝦夷地の国泰寺住持としての生活の後、江戸の僧録司金地院宛に隠居願を提出したのは天保6年(1835年)9月のこと。相州池端村(現在の伊勢原市池端)の蔵福寺第25世住持の香国弁渕が天保7年(1836年)10月6日に江戸を出立して、厚岸に到着し文道玄宋と交代したのが天保8年(1837)年5月9日のこと。文道・香国2代の頃が国泰寺の最も栄えた時期と言われると、安達さんは記しています。文道が蝦夷地にいた期間は約8年弱。東蝦夷地の国泰寺に出向いた相模の禅僧のうち、初代の文翁智政は国寺着任後いくばくもなく死去しており、また香国弁渕も天保14年(1843年)3月に国泰寺で亡くなっています。7年間の勤務を終えて無事相模国に戻ってきたのは、3人の禅僧のうち文道玄宋だけであったということになり、東蝦夷地での生活がどれほど過酷なものであったかをうかがい知ることができます。この文道玄宋が国泰寺の住持であった間、天保2年(1831年)の時にウライネコタン(厚岸郡浜中町ウラヤコタン)で異国船渡来事件が起きており、その事件の経緯について国泰寺執事であった松堂玄林(田中村の耕雲寺の住持であった人)が、「異国船渡来中日鑑記」として詳細な記録を残しています。 . . . 本文を読む
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2014.10月取材旅行『游相日記』番外編-大山街道(厚木~大山) その6

2014-11-25 05:54:49 | Weblog
下糟屋宿臨済宗建長寺派の禅寺神宮寺(高部屋神社の別当寺)の第十四世住持の文道玄宋が、江戸城に登城したのは文政12年(1829年)5月3日(陰暦)のこと。将軍徳川家斉にお目見えをしています。国泰寺住職は十万石以上の大名の格式で帝鑑の間詰めでした。田中村耕雲寺(咳止地蔵の近くの矢倉沢往還沿いにある臨済宗建長寺派のお寺)の第十九世住持松堂玄林は、国泰寺役者として文道玄宋に随従することとなり、5月6日に松前藩主に対して国泰寺赴任のための旅費として金30両の前借を申し込んでいます(松前藩から金30両が引き渡されたのは5月17日)。旅装を整えた文道玄宋が下糟屋宿の神宮寺を出立したのは6月19日。そして7月12日に江戸を蝦夷地に向けて出立しています。 . . . 本文を読む
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2014.10月取材旅行『游相日記』番外編-大山街道(厚木~大山) その5

2014-11-22 06:09:00 | Weblog
『蝦夷の国泰寺と相模の禅僧』安達久雄(伊勢原市教育委員会)という本があり、石造多宝塔を建立した文道玄宋(ぶんどうげんそう)についてのより詳細な情報を知ることができました。文道玄宋は延喜式内社高部屋神社(八幡宮)の別当寺である糟屋山神宮寺の十四世住持であり、この神宮寺というのは臨済宗建長寺派のお寺であり、高部屋神社(八幡宮)はもとはこの神宮寺の境内にありました。明治初年の神仏分離令によって破却され(廃寺となり)、現在は跡形もなくなっています。国泰寺五世住持としてこの神宮寺住持の文道玄宋を選んだのは鎌倉五山であり、その人撰書が鎌倉五山から幕府に提出されたのは文政11年(1828年)12月18日(陰暦)のこと。そして幕府から正式に任命されたのは文政12年(1829年)4月18日のことでした。 . . . 本文を読む
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2014.10月取材旅行『游相日記』番外編-大山街道(厚木~大山) その4

2014-11-14 05:38:57 | Weblog
「文道玄宋」(ぶんどうげんそう)をネットで検索してみると、厚岸町湾月1丁目5、国泰寺の「老桜樹」が出てきて、それは天保元年(1830年)、国泰寺五世住職文道玄宋が本堂と庫裏を修復する際、アッケシ場所請負人山田文右衛門が奥州石巻から移植したと伝えられる古木(オオシマザクラ)であると説明されています。やはりネットの「神奈川県-北方領土問題対策協会」に出てくる関連記事によると、国泰寺の初代住職は現在の相模原市光明寺の文翁智政和尚が選ばれたとあり、六代目住職は伊勢原市池瑞蔵福寺の香国弁渕(べんえん)和尚が選ばれたという。となると、国泰寺の住職は、初代、五代、六代とも現在の神奈川県出身ということになります。国泰寺の初代住職に選ばれた文翁智政が出た光明寺についてやはりネットで調べてみると、それは現在の神奈川県相模原市の青山2591にあり、宗派は臨済宗建長寺派。その第12世住職であったという。手元にある『津久井の古地図』津久井町史編纂委員会編(津久井町役場企画政策室)の「青山村」の箇所を見てみると、光明寺の絵図が掲載されており、その解説によれば、光明寺(こうみょうじ)は建久年間(1190~99)に開創された古刹であり、足利尊氏の弟直義に殺害された護良親王の菩提を弔うため、応安年間(1368~75)に観音堂と供養塔が建立されたことを記した古文書があるとのこと。この寺は臨済宗建長寺派の寺院にあって四大重鎮の寺といわれ、歴史的にも格式を持った寺であったらしい。そして以下のような説明も付されていました。「この寺の江戸時代後期の住職文翁(ぶんおう)は、当時の住職を辞した後、幕府の命によって、北海道厚岸の国泰寺を創建したとして名高いが、この寺は幕府の信任が厚い僧侶が住職をつとめるような寺だったのである。」 国泰寺初代住職としてなぜ光明寺(相模国津久井県青山村)の住職文翁智政が幕府によって選ばれたのか。またその5代住職としてなぜ神宮寺(相模国大住郡下糟屋村)の文道玄宋が幕府によって選ばれたのか。興味あるところです。 . . . 本文を読む
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2014.10月取材旅行『游相日記』番外編-大山街道(厚木~大山) その3

2014-11-08 05:06:20 | Weblog
『相模大山街道』によれば、甲斐・津久井からの大山道には、二つのルートがありました。一つは、鼠坂(ねんざか)の関→沼本の渡し→三ヶ木(みかげ)→関→長竹→韮尾根(にろおね)→半原→馬渡(まわたり)→平山→下峰→中荻野→下荻野→荻野新宿というもので、これは「甲州道」(津久井と厚木を結ぶ道)に重なります。荻野新宿からは、及川→温水(ぬるみず)→長谷→愛甲→上落合→尼寺原→富岡→石倉→大山という道をたどります。もう一つのルートは、日連(ひづれ)→牧野村篠原→牧馬(まきば)→青野原口留番所→鳥屋(とや)→落合→宮ヶ瀬→土山峠→煤ヶ谷(すすがや)→七沢→九沢→中丸→石倉→大山というルート。半原村の孫兵衛が、半原から荻野新宿まで歩いた道は、甲斐・津久井からの「大山道」でもあったのです。下荻野村の新宿(荻野新宿)は、武蔵方面からの大山道と甲斐・津久井方面からの大山道(甲州道)の合流点でもあり、『厚木近世史話』によれば、「大山街道の要衝の宿場」であり、大山参詣の道者が宿泊ないし休憩をする旅籠や茶屋の多いところでした。下糟屋宿も、赤坂御門と大山を結ぶ大山道と柏尾通大山道との合流点であり、『ホントに歩く大山道』によれば、旅籠・問屋・万屋・薬屋・質屋などが建ち並び、大山詣の旅人や物資を運搬する人々が集まって、伊勢原宿に劣らず賑わっていたということです。 . . . 本文を読む
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2014.10月取材旅行『游相日記』番外編-大山街道(厚木~大山) その2

2014-11-05 05:46:23 | Weblog
『相模大山街道』大山阿夫利神社編(大山阿夫利神社)によれば、「関東地方の四方八方の道は、すべて大山に通ずるといっていいほど」に、関東地方各地には大山講が存在していました。大山講は元禄以前に結成され、最盛期は宝暦年間であったという。同書によれば、無数の「大山道」の中でもとりわけ主要な道には以下のようなものがありました。①田村道大山道②矢倉沢往還(厚木街道)③足柄から大山へ至る道④柏尾通りから大山へ至る道⑤武蔵より大山へ至る道⑥甲斐・津久井から大山へ至る道⑦信濃・甲斐から富士・大山へ至る道⑧小田原から大山へ至る道⑨海上からの大山道。『秦野市史民俗調査報告書 漂泊と定住 御師の村』(秦野市)によれば、前述の④は「柏尾通大山道」、⑤は「八王子通大山道」、⑧は「小田原通行道」(「井ノ口大山道」という別ルートもある)とされています。⑨のルートとしては、「房総~神奈川~東海道」、「浦賀or三崎~逗子~鎌倉~藤沢~東海道大山道」、「伊豆方面~須賀~中原~豊田~本郷~伊勢原~大山」というルートが挙げられています。「大山御師」には二つあり、一つは「大山御師」で、江戸や鎌倉方面からの人たちを専門に接待し、もう一つの「蓑毛御師」は、小田原・松田・山北方面からの参拝者を接待したという。「表山参詣登山口」が大山町(大山御師が所在)であり、「裏山参詣登山口」が蓑毛村(蓑毛御師が所在)であったのです。富士山に参拝した者は大山にも必ずお参りするものだと言われ(「片参りはいけない」とされた)、富士講の人々にとっても大山詣は重要であったようです。その場合は、富士山→須走下山道→足柄峠→道了尊(大雄山最乗寺)→松田→菖蒲→蓑毛というルートをとったようです。つまり足柄峠を越え、矢倉沢往還を利用して大山に向かったことになります。 . . . 本文を読む
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2014.10月取材旅行『游相日記』番外編-大山街道(厚木~大山) その1

2014-11-02 06:02:02 | Weblog
渡辺崋山は大山街道を、厚木宿南方の桐辺堤(相模川沿いの新築の堤防)まで歩きましたが、そこから先は歩きませんでした。天保2年(1831年)9月24日(陰暦)の午後、崋山と梧庵(高木梧庵)は、中津川を「金田の渡し」で渡ってから(ここまで唐沢蘭斎が見送る)相模川を越え、東海道藤沢宿へと向かいました。崋山は浦賀に用事があり、まず藤沢宿へと向かい、そこから江の島・鎌倉を経て浦賀に赴き、江戸へと戻ったのです。桐辺堤は、現在の厚木市旭町四丁目の「ソニーテクノロジセンター」正門前あたりに「桐辺橋」(きりべばし)跡碑があり、その付近にあった相模川の新築の堤防のこと。大山街道はその堤の上を走っていました。「富士見町」というバス停もあり、そこからは天気が良ければ富士山もよく見えたものと思われます。厚木市旭町四丁目から小田急線の愛甲石田駅までは、前に取材報告を簡単にしています。そこで今回は愛甲石田駅から大山ケーブルカー追分駅までを歩いてみました。以下、その取材報告です。 . . . 本文を読む
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