鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.1月「六浦~鎌倉」取材旅行 その2

2009-01-31 07:45:29 | Weblog
『明治日本旅行案内東京近郊編』(東洋文庫)〈以下『旅行案内』と表記〉によると、明治10年代頃、金沢から鎌倉までもし人力車を雇って行くとすると「二十五銭」かかったようです。しかし、人力車で行ったとしても、武蔵と相模の境界で山を一つ越えなければならないため、そこでは人力車から降りて歩かなければなりませんでした。その境界の山にある「切り通し」(掘削路)が「朝比奈の切り通し」でした。この『旅行案内』の記述の中に、「鼻欠け地蔵」が登場します。以下の通り。「路傍の岩に刻まれた石地蔵が両国境界の目印となる。この地蔵の鼻の部分が欠落しているために一般に『鼻欠け地蔵』と呼ばれている。」この『旅行案内』の編著者は、アーネスト・サトウとアルバート・ジョージ・シドニィ・ホーズ。サトウの肖像写真も、ホーズの正装(海軍士官)写真も、この『旅行案内』の最初のページに掲載されています。サトウについては有名ですが、このホーズという人物はあまり知られていない。私はこのホーズという人物を、『F・ベアト幕末日本写真集』〈横浜開港資料館〉で知りました。この写真集P29~30に「横浜周辺外国人遊歩区域図」が折り込みで掲載されているのですが、その区域図を作成したのがホーズでした。この区域図によると、ホーズは、ミッチェル、ギブソンとともに、1866年(慶応2年)10月(西暦)に、横浜→根岸→町屋→金沢→鎌倉→片瀬→戸塚→横浜のコースを、馬に乗って旅行しています。サトウがいつ金沢や鎌倉を訪れたかはわかりませんが(複数回以上訪れているでしょう)、この『旅行記』の編著者であるホーズにとっても、サトウにとっても、金沢や鎌倉はよく見知った土地であり、当然のことながら「六浦道」に入って「朝比奈の切り通し」を抜け鎌倉・長谷の大仏・江の島に至るコースを、実際に、馬に跨(またが)って通ったり、時には馬から下りて歩いたり、また人力車を雇って通過したり(切り通しでは降りて歩く)しているのです。「鼻欠け地蔵」を過ぎると、やがて「六浦道」は、「朝比奈の切り通し」に入って行くのですが、『旅行案内』には「切り通し」のようすについてはなんの具体的な記述もなく、歴史的な説明の後に、いきなり鎌倉に入る手前右手にある「大塔宮(おおとうのみや)」を祀った神社の前に出てしまいます。この「切り通し」を登っていくと、峠のところに一軒の茶屋があったはずです。 . . . 本文を読む
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2009.1月「六浦~鎌倉」取材旅行 その1

2009-01-30 05:24:56 | Weblog
昨年の12月は、能見台(のうけんだい)から金沢八景までを歩きました。その際、国道16号線「六浦(むつうら)陸橋」のところを右折すれば鎌倉へ至ることを確認しましたが、今回(1月)は、その六浦から鎌倉までを歩きます。金沢区には五つの主要な古道が走っています。①六浦道(「鎌倉道」とも)②浦賀道③金沢道(「保土ヶ谷道」とも)④白山(はくさん)道⑤野島道の五つ。そのうち③の一部と⑤を12月に歩きました。今回歩く道は①になります。この「六浦道」は、金沢の瀬戸神社と鎌倉の鶴岡八幡宮を結ぶ道。瀬戸神社というのは、前に触れたように、治承4年(1180年)、源頼朝が伊豆の三島明神を勧請(かんじょう)したものと言われ、「渡海安全」を守る神。この瀬戸神社の前の平潟湾の海中には琵琶島神社(弁才天)がありますが、これは頼朝の妻である政子(北条政子)が、近江の竹生島(ちくぶしま)から勧請したものとされています。この瀬戸神社は六浦(かつては「むつら」と呼ぶ)港の中心にあって、この六浦港は、鎌倉時代には海上交通の要衝(ようしょう)であるとともに、重要な兵站(へいたん)基地(軍事上の要地)でもありました。要衝地であるがゆえに、この六浦は鎌倉将軍家ないし幕府の直轄地であった可能性が高い。この要衝地(鎌倉の外港)と、幕府の所在地鎌倉を結ぶ幹線道路であり、「鎌倉の大動脈」とも言える道が、この「六浦道」であったのです。この古道の途中には「朝比奈(あさひな)の切り通し」という「鎌倉七口」(鎌倉への周囲からの入口七ヶ所)の一つがあり、現在も昔の面影をそのまま残しているという。今回は、「六浦陸橋」手前の「六浦橋」バス停から、「朝比奈の切り通し」を抜け、鶴岡八幡宮前から「下馬橋」を経て「六地蔵前」バス停までを歩きました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 熊本その8 

2009-01-28 06:40:52 | Weblog
熊本の士族を中心とした民権結社「相愛社」が、最盛期を迎えた時期は明治14年(1881年)から明治15年(1882年)にかけて。その頃、相愛社の社員は500名を超えていました。この頃になると、下級士族や実学派系の青年たちの加盟が増えていました。徳冨蘇峰(猪一郎)は、その実学派系の青年の一人でした。民権結社相愛社の主張は、幅はありながらもおおよそは、立憲君主制・君民同治・公議輿論の尊重・民権の拡張を説くものであり、当時の政府の専制的な政治のありように対して批判的でした。当時の日本において、九州の熊本は、四国の高知・本州の福島と並ぶ自由民権運動の中心地であったのですが、その熊本の民権運動をリードしたのはこの相愛社でした。この熊本の民権運動の盛り上がりに強い危機感を覚えた熊本出身の中央官僚がいましたが、それが当時内務省大書記官であった井上毅(こわし)であり、また元老院議官の安場保和らでした。彼らのてこ入れにより、地元の佐々友房・津田静一・木村弦雄らによって結成された反民権派の組織が「紫溟会(しめいかい)」。これが結成されたのが明治14年の9月のこと。この両者の立場の相異は、両者の間で行なわれた「主権論争」にくっきりとあらわれます。「相愛社」は主権在民、それに対して「紫溟会」は主権在君(天皇)であり、とうてい一致できる立場ではありませんでした。相愛社の社員たちは積極的に地方遊説や演説会を行い、青年徳冨猪一郎も明治14年(1881年)の5月から6月にかけて、月田道春らとともに玉名地方を遊説しています。玉名の小天(おあま)村などは、特に自由民権運動の活発な地であったことは、すでに触れたところ(「小天温泉」の項)。もう一つ、当時の熊本において大きな政治勢力がありました。それが実学党。実学党は、西南戦争には加わりませんでしたが、次第に民権運動に関わるようになり、「相親社」という組織を結びました。有力メンバーには、小楠門下の山田武甫や嘉悦氏房といった人物がおり、熊本県下の有力豪農層をその支持基盤としていました。やがて「立憲自由党」を組織しますが、明治15年(1882年)2月には解散して、「相愛社」とともに「公議政党」に加わります。共通する立場は、公議輿論の尊重・国会の早期開設・民権の伸長でした。中江兆民が訪れた明治15年の熊本は、その三者が鼎立(ていりつ)する政治状況であったのです。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 熊本その7 

2009-01-27 06:50:30 | Weblog
明治15年(1882年)12月、熊本を訪問した兆民は、そこで相愛社・紫溟会・実学党の面々と会っています。具体的な名前が出てくるのは、佐々友房(紫溟会)、前田案山子(相愛社?)・徳富猪一郎(蘇峰・相愛社)・田尻準次(相愛社)などですが、これ以外にも多数の有名・無名の人々と出会っていると思われます。実学党で兆民が会った人物は誰であったかはよくわからない。しかし徳冨蘇峰の父親は徳冨一敬で、小楠門下の「四天王」と言われた人であり、猪一郎の近辺には実学党の人々も数多くいたと推測されるし、また相愛社に加わっている青年たちの親や親類縁者には、蘇峰がそうであるように実学党の流れをくむ人々が多数いたと思われます。さて、まず「相愛社」ですが、これが結成されたのは明治11年(1878年)5月のこと。同年、東京より帰って来た、熊本県自由民権論の主唱者であった池松豊記が、協同隊の人々で刑を受けなかった人たち、または刑期が短く終わって熊本に帰ってきている人たちと協議して、自由民権運動を広めるための結社を立ち上げたのですが、これが「相愛社」。社長は池松。副社長は松山守善でした。したがって、「相愛社」の母胎となったのは「協同隊」であったといっていい。では、その「協同隊」とは何かと言えば、それは旧植木学校関係者が西南戦争に際して結成した諸隊の一つで、西郷(鹿児島)側に加わって戦いました。「植木学校」というのは、明治8年(1875年)4月に、山本郡植木町に設立された県認可の熊本県第五番中学のことで、そこではルソーの民約論(兆民訳)が「唯一の経典」として講ぜられるなど、人々からは「民権党」と呼ばれるような学校でした。それゆえそれを危険視した県当局によりその年10月には閉鎖されてしまうのですが、その教員や卒業生などの一部が「西南戦争」に際して「協同隊」を組織し、戦いに参加していったのです。その一人が宮崎八郎でしたが、彼は八代で戦死。生きて帰って来て「相愛社」に加わることはありませんでした。出獄して「相愛社」に加わったものには、月田道春・広田尚・関慎蔵など、また無罪放免になって「相愛社」に参加したものには、前田案山子の長男である下学などがいました。ほかにも協同隊幹部で加わったものに、有馬源内・宗像政・高田露・田中賢道などがいました。これに、「協同隊」ではない徳冨猪一郎も加わっていくことになったのです。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 熊本その6 

2009-01-25 07:40:12 | Weblog
徳富蘇峰は、明治13年(1880年)、東京で兆民に会っています。この年5月、京都の同志社を中途退学した猪一郎(蘇峰)は、6月に東京に出て、10月末に熊本に帰ります。彼が自宅に私塾である「大江義塾」を開いたのは、翌々年(15年)の3月。その年の12月に兆民が熊本を訪れ、それを知った蘇峰は2年余ぶりに兆民に再会することになったのです。兆民に東京で初めて会う以前に、おそらく蘇峰は、兆民が翻訳したルソーの『民約論』(兆民訳は全訳ではない)を読んでいたことでしょう。明治14年3月、兆民が主筆となって『東洋自由新聞』が創刊されますが、その時、熊本にいた蘇峰は、それを創刊号から購読して読んでいます。また15年2月には仏学塾から『政理叢談』が創刊されていますが、それも彼は読んでいます。この年6月には『自由新聞』が創刊され、その社説掛の一人に兆民がついていますが、この『自由新聞』も蘇峰は目を通していたはずです。蘇峰が東京で初めて兆民と会った時、どこで会ったかはわかりませんが、もし「仏学塾」で会っていたとしたら、彼が「大江義塾」を熊本に開き、近在近郷の青年たちを集めて自由民権思想を広めたのには、兆民の「仏学塾」も一つの刺激になっていたのかも知れません。明治13年の6月というと、兆民はその頃から三島中洲(ちゅうしゅう)の二松学舎(にしょうがくしゃ)に学び、またこの年のいつ頃からかはわかりませんが岡松甕谷(おうこく)の紹成(しょうせい)書院に学んでいました。そしてこの年12月、自由党結成準備会に出席し、新聞発行の計画に参画していきました。熊本で兆民と再会した蘇峰が次に兆民と会うのはいつか。蘇峰は明治19年(1886年)7月、『将来之日本』の原稿をたずさえて熊本を出立。高知に板垣退助を訪問した後、東京に赴き、私塾を閉鎖することを決意するに至ります。「大江義塾」が閉鎖されたのはその年9月のこと。東京に活動の舞台を移した蘇峰は、翌20年1月、赤坂榎坂に姉である初子の夫(義理の兄)湯浅治郎の協力を得て「民友社」を設立。2月には『国民之友』を創刊して「平民主義」を喧伝することになりました。おそらく東京に出た蘇峰は、兆民にも会っているはずです。それ以後、兆民と蘇峰の間には、手紙をやりとりするなど親しい付き合いが続いていくことになるのです。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 熊本その5 

2009-01-24 08:31:10 | Weblog
先に挙げた32人の中に、熊本出身の人物が一人います。それは徳富蘇峰(1863~1957・猪一郎)。生地は肥後国上益城郡杉堂村(熊本県上益城郡益城町)。父は徳富一敬で、一敬は横井小楠門下四天王の一人。徳富家は、肥後細川藩の一領一疋の郷士。一敬は、肥後実学党の中枢として藩政改革、ついで初期県政にたずさわりました。一敬の妻久子(蘇峰の母)の妹津世子は、横井小楠の妻となりました。蘇峰の叔母の夫が小楠であるということは、蘇峰にとって小楠は義理の叔父ということになる。蘇峰は明治5年(1872年)に熊本洋学校に入学。明治9年(1876年)、熊本洋学校の廃校とともに上京を右派して、東京英学校に入学したもののまもなく同志社英学校に転入学。しかし卒業目前に中途退学して上京。明治14年(1881年)8月、熊本の民権政社相愛社に加わり、その機関紙である『東肥新報』の編さんを担当。翌15年3月、自宅に「大江義塾」という私塾を開いて地方青年を啓発しました。この大江義塾が閉塾するのは明治19年(1886年)9月のことでした(以上は、『日本近現代人名辞典』〔吉川弘文館〕の記述による)。その後のことは略しますが、中江兆民が熊本を訪れた明治15年(1882年)の12月の時点で、蘇峰は大江義塾を自宅に開いて9ヶ月後で、近在近郷の豪農の子弟などを集めて、英学・歴史・経済・政治学などを情熱的に講じていました。兆民は、熊本におよそ3週間ほど滞在し、この間に、相愛社・紫溟会(しめいかい)・実学党などの面々と会っていますが、そのメンバーの一人に徳富猪一郎(蘇峰)という、まだ19歳の青年がいたのです。兆民が陸路熊本に到着したのは12月11日。24日には兆民を囲む有志懇談会が「魚茂登(うおもと)別荘」で開かれ、28日には、兆民は、酒井雄三郎・島本実らと玉名郡小天(おあま)村の前田案山子邸を訪問し、そこで年末・年始を過ごします。熊本に戻った兆民は、正月3日、島本実らと熊本を出立し、八代→日奈久→佐敷→人吉→川内経由で、鹿児島に向かいました。このことについてはすでに「小天温泉」「人吉」のところで触れました。蘇峰が兆民と会ったのは、実はこの時が初めてではなく、明治13年(1880年)、東京にいた時にすでに兆民と会っていました。そして翌14年に創刊された『東洋自由新聞』を、熊本の地においてその第一号から購読していたのです。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 熊本その4 

2009-01-23 05:39:07 | Weblog
前回、兆民が言及した人物を探る手っ取り早い方法は、『中江兆民全集別巻』の人名索引を見ることだとしましたが、この人名索引で、『全集』に10回以上出てくる同時代の人物(日本人)を羅列してみましょう。あいうえお順です。青木周蔵・板垣退助・伊藤大八・伊藤博文・犬養毅(つよし)・井上馨・大井憲太郎・大久保利通・大隈重信・木戸孝允(たかよし)・黒田清隆・幸徳秋水・河野広中・後藤象二郎・小山久之助・小山清太郎・西園寺公望(きんもち)・西郷隆盛・西郷従道(つぐみち)・島田三郎・徳富蘇峰・中江弥(いよ)・野村泰亨・初見太郎・原猪作・星亨(とおる)・松尾耕・松方正義・宮崎夢柳・陸奥宗光・山県有朋(ありとも)・山田顕義(あきよし)。以上32名。兆民が何らかの意味合いでつねに関心を持ち、また親しく付き合っていた人々がここに羅列されたと考えてよい。もちろんこの中に入っていない人物でも、兆民にとって重要であった人物はたくさんいるはずです。国木田独歩の『忘れえぬ人々』のように、たった一度の通りすがりの出会いであっても、ずっと心に残っている場合がある、というのは私たちの人生経験から言ってもよくあることです。この32人について、いくつかジャンル分けすることができそうですが、大きく二つに分ければ、伊藤に連なる系列か、それとも西郷に連なる系列か、ということになるのではないか。もちろん重なり合う部分もあり、その二つの中で右往左往している連中もいる。「伊藤」か、「西郷」か、と分けた時、中江兆民も、勝海舟も、幸徳秋水も、犬養毅も、そして32名の中には入っていないけれども、坂本龍馬や横井小楠、宮崎四兄弟(八郎・民蔵・弥蔵・寅蔵)らも、「西郷」側に入るのではないか。共通しているのは「安民」を重視していること。すなわち一般民衆の暮らしが平和で「豊か」でなければ、国家ないし世界の永久的発展はありえないという考え方。民衆を犠牲にした政(まつりごと)は、たとえ富強を成し得たとしても、真の政ではないとする考え方です。そのように考える時、彼らの多くは、欧米列強の海外侵略のあり方を肯定することは出来なかったし、またそれに追随する日本のあり方に対しても、肯定的な立場に立つことは出来ませんでした。多くの「民」を犠牲にして遂行される戦争や改革というものに対しても批判的でした。小楠─勝─西郷─龍馬─兆民は、同系列にあるのです。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 熊本その3 

2009-01-22 06:23:18 | Weblog
この横井小楠と、私が長らく関心を持つ中江兆民とはなんらかの接点があったのだろうか、というと、実は資料的には全くないのです。手っ取り早い調べ方は、『中江兆民全集別巻』の「人名索引」を開いて、「横井小楠」を探してみることですが、「吉田松陰」や「吉田東洋」はあっても「横井小楠」はありません。兆民が横井小楠に言及した箇所は、『中江兆民全集』を見る限り一つもないのです。では、兆民は「横井小楠」という人物を知らなかったのか、その思想の内容について何も知らなかったのか、というと、私はそんなことはないだろうと思っています。その理由は、以下の通り。まず、坂本龍馬との関係。幕末、兆民は土佐藩の藩費留学生として長崎に赴き、新町の済美館という幕府が設けた語学所でフランス語を学びますが、この長崎の地で、兆民は坂本龍馬ら海援隊の面々と知り合います。兆民はその時の思い出をこう追憶しています。「予は当時少年なりしも、彼(龍馬のこと─鮎川)を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純粋たる土佐訛(なま)りの言語もて『中江のニイさん煙艸(たばこ)を買ふてきてオーせ』などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしことしばしばなりき」(幸徳秋水『兆民先生』)。この坂本龍馬は、横井小楠を当代の「人物」の一人として挙げていた人物で、小楠と深い交流がありました。この龍馬から、兆民は小楠のことについて聞いていた可能性がある。二つ目は井上毅(こわし)との関係。兆民は大学南校でおそらく初めて井上を知り、フランス留学時代にも井上と会っています。後に『三酔人経綸問答』を書き上げた時も、井上のところへ行き、それを寄贈しています。この井上毅は立場的には小楠とは異なりましたが、同郷である小楠のことをよく知っていました(幕末に、会いに行って討論したことがある)。この井上から小楠のことを聞いた可能性がある。三点目は勝海舟との関係。フランスから帰国後、どういうきっかけでか兆民は勝と密接な関係を持つに至っています。勝との交流は数年にわたって続きますが、この勝から西郷や小楠のことを聞いた可能性が高い。そして四点目は、明治15、16年の九州旅行(出張)。熊本にやって来た兆民は、そこで実学党の面々とも会って話をしていますが、この人たちから小楠のことを聞いた可能性がある。知らなかったはずはない、そう私は判断しています。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 熊本その2 

2009-01-21 04:46:38 | Weblog
兆民の「阿土紀游」(あときゆう・明治21年夏の徳島および高知方面の紀行文)に、興味深い記述がある。この年7月中旬の炎暑の候、兆民のもとを山崎唯次という人物が訪ねてきます。この人物は兆民の旧門下生の一人山崎保太郎の父親で、山深い土佐でも最も山奥である魚梁瀬(やなせ)村の出身。用事を終えたので、これから徳島の海岸を経て魚梁瀬まで帰るところだという。唯次が言うには、「魚梁瀬は涼しく、渓流はことのほか清冽で、「あめのうお」(ビワます─鮎川)がそこにはたくさん生息しており、とてもうまい。どうです、先生、私と一緒に行って見ませんか」。旅好きの兆民は、大阪の炎暑に閉口していたこともあって即座に同意。18日に川口から汽船に乗り、徳島→鐘打→由岐浦→浅川浦→奥浦→相川→魚梁瀬という行路をたどるわけですが、この相川から魚梁瀬までの道ほど、かつて兆民が経験した中で難儀した道はありませんでした。「肥後三太郎坂」「大和多武峰越」「土佐の北山黒森」など比ではない。険しいと言っても、それらは「道路」と言える道でしたが、この道は「道路」と言えるようなしろものではありませんでした。この道なき道を、2人(兆民と、魚梁瀬から迎えに来た旧門下生山崎保太郎)の先になり後になり、歩いている人物がいた。5、6日前に一度か二度、奥浦で見掛けた人物で、浴衣に兵児帯を結び、手にカバンを下げている。こんな道なき道を利用する人たち(きこりや木挽〔こび〕き、荷運び)の身なりではまるでない。兆民は次のように書く。「今(い)ま此(この)紳士は何処(いづく)に旅行する乎(か)と余は少(すこし)く訝(いぶ)かれり何となれば余は近来旅行する毎に此種(このしゅ)の紳士と自然の同行を為(な)すことしばしばなればなり」。この不審な人物と、後に兆民は話を交わすのですが、この人物はおそらく兆民の挙動を探る密偵でした。解説には、「途次密偵らしい男が尾行していることを皮肉っぽく表現しているが、保安条例で退去するときをはじめ、兆民の旅行にはこうした官憲の尾行が行なわれていた」とあります。実は、明治15年から16年にかけての、兆民の高知・熊本・鹿児島旅行(出張)にも、密偵(官憲)が尾行していた形跡がある。政府は各地の警察をフル動員して要注意人物の行動を綿密に探索していました。中江兆民は、当時の政府にとって、そのような要注意人物の一人であったのです。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 熊本その1 

2009-01-20 06:32:23 | Weblog
中江兆民が、四国・九州の旅(出張)から東京に戻った翌年の明治17年(1884年)1月、友人である杉田定一(私と同じ福井出身の、自由民権家)の『窮愁一適』(自作の漢詩をまとめた本か)に寄せた序というのがある。ここに、兆民と宮崎八郎の間に親しい交わりがあったことが、兆民自身の手で記されています。兆民は、序を書くにあたり杉田との付き合いがいつから始まったかを想起しているのですが、それは10数年前にさかのぼる。杉田が、東京で『評論新聞』の主筆をしていて、自分が生徒たちを集めてフランス学の教授をしていた時でした。その時、杉田定一が兆民をしばしば訪ねてくるのですが、一緒にやって来たのが「肥後の宮崎八郎等」でした。やって来れば、みんなで酒食をし、酔えば時事を論じ、あるいは時事に慷慨(こうがい)して涙を流すことも(涙を流したのは杉田定一であり、とりわけ宮崎八郎であったろう)。こういったことがしばらく繰り返された後、八郎は故郷熊本に帰り、次いで鹿児島に行き、「薩摩の乱」(西南戦争)が起こるとそれに参加し、ついには戦死してしまいました。薩摩軍が熊本を取り囲んだ時、東京都下の人々は争って『評論新報』を読み、両軍の勝敗の行方をめぐって「憂喜を為(な)すこと且(まさ)に数十日になんなん」とするありさまでした。そんなある日、杉田が兆民のもとにやってきて、「これから行くところがある」といい置き、それから下総・常陸に赴き、いったん東京に戻ったものの、今度は紀伊・摂津に赴き、それから土佐に赴きました。土佐にしばらく滞在している間に、すでに「西洲の乱」(西南戦争)は終わり、自由民権運動が澎湃(ほうはい)として盛り上がることになり、やがて自由民権運動を広げるために、杉田は故郷である福井に戻っていった……、といったことが記されている。さてこの『評論新聞』が発刊されたのはいつかと言えば、明治8年(1875年)の2月のこと。鹿児島県人の海老原穆の設立した集思社より発刊されました。この評論新聞社に八郎が入社したのは明治9年(1876年)の2月末のこと。6月には、八郎は林正明と『近事評論』を創刊、この時期も兆民との親交を重ねています。9月初旬に帰郷した後、いったん東京に戻ったものの、12月には鹿児島へ赴いています。ということは、兆民と八郎の交流があったのは明治9年2月から11月にかけて、ということになるのです。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 川内&三太郎峠 その2

2009-01-19 06:35:28 | Weblog
熊本出身の兆民の知友の中に、気になる人物がいる。田尻義隆という人物がそれ。どこで出てくるかと言えば、明治21年(1888年)3月の「奈良紀游」の中。3月5日に大阪の自宅を人力車で出発した(友人2人とともに)兆民は、その日は郡山に一泊。その翌日に桐山というところを通って奈良に赴きます。兆民にとっては初めての奈良旅行でした。その桐山というところで、兆民は「友人肥後の田尻義隆君」のことを思い出しています。兆民に同行している友人2人のうち1人はこの「田尻君の姻戚」で、10年ほど前にこの桐山という土地にいたこともあるという。その同行の友人から、「ここは私がかつて田尻義隆君と住んでいたところなんですよ」といった話が出たのかも知れない。「田尻義隆君」は、兆民、そして同行の友人、2人共通の知人であったのです。この桐山の、ある土地を、10年ほど前(明治11年頃か)にその田尻義隆が所有し、そしてそこにしばらく住んでいたらしい。しかし兆民らが訪れた時、田尻はそこにはいませんでした。「今は田尻君は越後に居る由(よし)」とある。そこで、そのまま桐山を通り過ぎ、奈良の町へ向かったのです。この田尻義隆は、「西郷南洲翁」からたいそう愛せられた人物であったようだ。こう兆民は書いています。「田尻君は西郷南洲翁から大そう愛せられ君(田尻義隆のこと─鮎川)も又南洲翁程の人物は又と世に出(い)ず可(べか)らずと思うて居る中翁は十年に死し君はその節大坂に居て痛く悲慨(ひがい)し夫(そ)れより右の桐山の地を求めて隠遁(いんとん)したるよし」。田尻義隆は西郷隆盛に愛せられ、西郷の政界復帰に大きく期待していたものの、西南戦争で西郷が敗れて死んだことを聞くと痛く慨嘆し、大阪を離れてここ桐山の地に隠遁してしまったというのです。同行の友人はこの田尻義隆と親戚関係にあり、田尻が隠遁していた頃、この地にしばらく住んでいたこともあるのだというのです。兆民は、この田尻義隆に会いたいと思ってこの桐山の地を訪れたのかも知れない。しかし今は越後にいるようで、再会はかないませんでした。この「田尻」という名前で私が思い出したのは、前田案山子(かがし)の本家が「田尻」であったということ。案山子の従弟には「田尻準次」がいました。「那古井館」もかつては「田尻旅館」であったのです。しかし今のところこの「田尻義隆君」についての詳細は不明です。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 川内&三太郎峠 その1

2009-01-18 07:25:55 | Weblog
兆民が、鹿児島でどういう人物と会い、またどういう風物に出会ったかは、資料的には、管見の限りほとんど残されておらず、探ることは出来ません。熊本については言及しているものがありますが、鹿児島についてはまったくと言っていいほどありません。しかし、兆民が西郷隆盛や大久保利通、また西南戦争に関心を抱いていたことは確実です。大久保については、兆民にとって恩義のある人物の一人でした。兆民が、岩倉使節団の留学生の一人としてフランスに赴くことが出来たのは、もちろん土佐の先輩である板垣退助や後藤象二郎の後ろ立てもあったでしょうが、直接的には、大久保への直談判と、それによる大久保の承認がありました。大久保への直談判がなければ、そして大久保が兆民の人物を評価するということがなければ、兆民のフランス留学は果たされず、となれば兆民のルソー発見もなく、そしてルソーの民約論(兆民訳の)の紹介もなかったということになる。兆民にとっては、やはり大久保は恩義のある人物であり、彼がフランス留学から戻って来た時、まず大久保を訪問して帰朝報告をしたというのも、それがゆえであったと言えるでしょう。しかし兆民は、大久保の偉さを評価しつつも、政治的人物、あるいは「人物」としては西郷隆盛を高く評価し、また期待もしました。しかしながらその西郷は、兆民帰国の3年後、「西南戦争」に敗れ、鹿児島の城山にて自刃します。兆民が、西南戦争の5年後に訪れた熊本にも、人吉にも、鹿児島にも、また川内にも、「西南戦争」の戦いの跡や、また戦死者を身内に出した人々や、あるいは戦争についての生々しい思い出話が、数多くあったはずです。各所においてそれらに触れたはずであろう兆民が、それらにどう反応し、どういう感慨を抱いたのか。資料が残されていないならば、それは推測していくしかありません。勝海舟が西郷に期待していたと同様に、その勝の影響もあってか、兆民も西郷に期待したことがありました。勝が死んだ西郷を追憶したのと同様に、兆民も、立場はやや異なるとはいえ、やはり西郷を追憶したことがあったことでしょう。兆民は伊藤博文や井上馨(かおる)といった長州閥の親玉みたいな人物を、極度に、死ぬまで嫌い続けました。しかし、西郷や大久保に対しては、そうではない。なぜ西郷に惹(ひ)かれ、伊藤や井上をあれほどに嫌ったのか。これはやはり深く検討してみる価値のあるテーマです。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 人吉その4

2009-01-17 05:50:52 | Weblog
『中江兆民全集 16』には、兆民の書簡写真や、題辞・揮毫などが載っています。その揮毫の中に、「轉轆々 為田尻君 中篤」と「紅於堂 前田君請嘱 中江篤介」というのがあります。前者については以前に触れました。天水町の「草枕交流館」に展示されていたもので、兆民が田尻準次という、当時小天小学校の教員であった青年に贈ったもの。「てんろくろく」と読む。田尻準次は、前田案山子(かがし)の従弟。後者の「前田君」は誰のことであるか、よくわからない。全集の解説では、「前田君とは前田案山子かその親類筋の人物であろう」とされていますが、可能性の高い人物としては、前田金儀を挙げることができます。案山子が組織した「山約水盟会」のメンバーの一人で、田尻準次と行動をともにしていた自由民権派青年。田尻準次と同じく小天小学校の教員で、かつ村会議員・玉名郡町村連合会議員として活躍していました。明治15年当時はかぞえで25歳。父親が幼い時に亡くなったため、案山子が父親代わりのように育てました。明治13年から15年までの、「山約水盟会」や前田家の動静を伺うことのできる貴重な日記を残しています。前田金儀は、田尻準次とともに小天村(熊本県で自由民権運動が最も盛んな地域であった)の自由民権運動をリードする若手活動家の一人でした。前田案山子の長男である下学も可能性がありますが、田尻準次や前田金儀が連れ立って(2人とも小天小学校の若手教員)、兆民のもとに揮毫を求めに来たという風に考えた方が、ありえる場面かと私は思っています。さて後者の揮毫は何と読むのでしょうか。「こうおどう」とでも読むのでしょうか。自分の書斎かどこかに掲げるために、兆民に頼んで書いてもらったものなのでしょうか。この2枚の揮毫をしているということが、兆民が小天村を訪れたという何よりの証拠であるに違いない。人吉や鹿児島訪問のことについては、私はまだそれを裏付ける資料を見出してはいません。西南戦争からまだ5年ほどしか経っていないことを考えると、人吉や鹿児島や川内(せんだい)などで、土地の人々から西南戦争に関する話を聞いた可能性は十分にあり、またその戦いの跡を目の当たりにした可能性も高いのですが、残念ながらそれに関する直接的な資料は残されてはいないようです。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 人吉その3

2009-01-16 05:39:24 | Weblog
明治15年(1882年)12月から正月にかけての兆民の九州旅行(出張)の内容は、紀行文が残されていないとなると、何からわかるかと言えば、まず兆民の書簡から分かります。同年12月17日付で熊本の、その名も「熊本旅館」より出された児嶋稔(大島更造)宛書簡がそれ。児嶋稔は高知滞在中に兆民がいろいろとお世話になった人であるようです。そこでは、宇和島に到着してから、12月8日に乗船してその日の夜に佐賀関(さがのせき)に上陸。佐賀関から陸行して熊本に11日に到着。熊本では、相愛社や紫溟会(しめいかい)の面々や実学党の人々に面会したことが記されています。「随分事新しき様にて反(かえ)つて愉快を相覚申候(あいおぼえもうしそうろう)」としています。また、薩摩へ行くことになるかも知れないと、今後の予定がチラと示されています。この書簡を書いた「熊本旅館」がどこにあったかは、今のところわからない。相愛社ばかりか、紫溟会や実学党(本文では「実業党」となっていますが、これはあきらかに実学党のこと)の人々とも面会しているのが兆民らしいところ。熊本訪問の主目的が「出版一件」であることも明記されています。この書簡以外に、どういう資料で旅の様子が伺えるかというと、その資料はきわめて少ないのですが、しばらく後の文章に登場してきます。「阿讃紀游」に、「熊本水禅寺境内は水に宜(よろし)きも山有(あ)ること無し」と、熊本の水前寺公園が出てきます。兆民は熊本滞在中、水前寺公園を訪れたはずです。「阿土紀游」には、「肥後三太郎」が険しい道の一つであることが記されています。この「肥後三太郎」というのは、肥後南端の「薩摩街道」上に連続する三つの峠のこと。この「肥後三太郎」を、兆民が越えていることが、これでわかります。この「肥後三太郎」については「阿讃紀游」にも出てくる。「吾等嘗(かつ)て肥後三太郎山を通(と)ふり…」とあって、大名が通行した参勤交代路の中でももっとも険峻な峠道の一つであることが記されています。「肥後三太郎」は、土佐から讃岐や伊予に出る「北山黒森峠」(四国山脈越え)ほどではないけれども、兆民にとってはかなり難儀を覚えた峠道の一つであったことがわかるのです。ということで、兆民が鹿児島に赴いたことはほぼ確実なことと言えるでしょう。なぜなら、「肥後三太郎」は薩摩と肥後を結ぶ薩摩街道にある峠道であるからです。 . . . 本文を読む
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2008年 冬の熊本・長崎取材旅行 人吉その2

2009-01-15 05:54:05 | Weblog
旅を好んだ兆民は次のようにも述べています。「余は旅行を好み余り人の通(と)ふらざる路(みち)を通ふることを好み又地方の味を旨(あじ)はふことを好む地方には特別の物有(あ)るが故(ゆえ)なり特別の調理法有るが故なり」(「阿土紀游」)。また次のようにも言っています。意訳して紹介しましょう。農夫に真情を語らせようとするならば、帽子をとり外套を脱がなければならない。またパイプやステッキや八字髯(ひげ)や随行官といったものは大禁物(きんもつ)。農夫は、こういった怖(こわ)そうなものを見たら、けっしてその真情を語ることはないからだ。なかば遊山(ゆさん)、なかば視察といった気楽なことでは、とうてい実態を把握することはできないものだ。「阿土」(阿波と土佐)の旅においても、兆民は麦藁帽子(むぎわらぼうし)をかぶり、こうもりがさを差して真夏の日差しをさえぎりながら、浴衣(ゆかた)・兵児帯(へこおび)姿で旅をしています。おそらく出会った土地の人とは気さくに話をし、興に入ったら長々とその話を聞いたり会話を楽しんだりしたこともあったでしょう。そのような旅の途次で出会った人々との会話や、また出会った風物などが、彼の論策や思想になんらかの影響を与えなかったはずがない、そう、私は思っています。 . . . 本文を読む
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