鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その最終回

2011-12-31 07:23:14 | Weblog
ハリス入府の1857年10月から1863年8月までに、江戸城下で亡くなっている著名人にはどういう人々がいるかと思って調べてみると、歌川広重(初代)・山東京山・7代市川団十郎・佐藤一斎・四代尾上菊五郎・安積艮斎・歌川国芳などがいます。これらの人々は、ベアトが写したパノラマ写真の家々の屋根の下にはすでにいませんが、幕末・維新期に活躍する江戸人(地方からやってきた人々も含めて)の多くが、このパノラマ写真のどこかに住んでいたことになる。1863年8月下旬(文久3年7月初旬)のある晴れた日の午前9時半頃、彼らはこの残暑厳しい晴れ渡った江戸の空の下で、それぞれ何をし、何を思っていたのだろうか。そのようなことに想像が広がるベアトの貴重な江戸パノラマ写真です。 . . . 本文を読む
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2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その11

2011-12-30 06:41:23 | Weblog
ハリス一行(ヒュースケンを含む)が下田を出発して、目的地である江戸に入るのは1857年11月30日(安政4年10月14日)のこと。この日の行路は、川崎「万年屋」→六郷川(渡し船)→梅園(北蒲田村梅林久三郎)→鈴が森刑場前→品川宿本陣→品川海晏寺門前→高輪通り→芝車町→芝田町→本芝町通り→金杉橋→芝浜松町→芝口通り→芝口橋→尾張町通り→京橋→南伝馬町通り→日本橋→室町→本町三丁目を左折→本町二丁目→お堀端通り→鎌倉河岸→三河町→小川町通り→蕃所調所(九段坂下牛ヶ淵)というものでした。ヒュースケンはその日記で、その沿道の見物人の様子などを細かく記していますが、この金杉橋から鎌倉河岸までの範囲(多くは東海道沿道)は、フェリーチェ・ベアトが愛宕山から撮影したパノラマ写真の風景の中におさまっています。ベアトがこれを撮影したのは1863年8月下旬(文久3年7月初旬)であり、ハリス一行が東海道を蕃所調所に向かって進んでいったのはその6年近く前のことになる。ほとんどその風景は変化していないはずだから、ハリスやヒュースケンは、このような江戸の街の中を移動し、そしてこのような江戸の街を見ていたことになります。ベアトのこの写真には、見事なまでに人の姿は写っていませんが、これらの武家屋敷や町家の屋根の下には、老若男女、大勢の人々が、この日の生活(午前9時半頃の)を営んでいるのです。 . . . 本文を読む
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2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その10

2011-12-29 07:14:38 | Weblog
以前にも触れたことのある『ヒュースケン日本日記』には、老中堀田正睦の姿が登場します。堀田正睦は「外国事務宰相」という肩書きで現れ、その堀田邸(大名小路の佐倉藩上屋敷)に、ハリスとヒュースケンが初めて訪れるのは、安政4年(1857年)10月18日(旧暦)の午後。ハリスとヒュースケンは、その上屋敷内の「四十五畳敷きの大広間」で正睦と対面します。正睦は「向こうの端の床几に腰をおろし」、ハリスとヒュースケンは、それと向かい合う二つの椅子に腰掛ける。下田奉行の井上信濃守(清直)のそばには通訳の森山多吉郎がひざまづき、ハリスと正睦の会話は、通訳の森山多吉郎と井上信濃守を介して行われます。これが「皇帝治下の大日本の最高位者と、合衆国の代表との第一回会見」でした。ヒュースケンは、堀田正睦について次のように記しています。「宰相堀田備中守は、たいへん好もしい挙措の持ち主である。いたって温雅な容貌に、魅力的な微笑をたたえている。齢四十五歳。物を言うのに少し吃る。彼は内心では、まったく不安だったにちがいない。すくなくとも、そのはずである。…彼と対等の席についたまま、慣例の表敬を行わない外国人に、はじめて謁見を許したのだから。」この日の日記には、蕃書調所から大名小路へのルート、大名小路や佐倉藩上屋敷の様子、上屋敷の人々の接待の様子、会見場所(大広間)や会見の様子などが細かく記されていて、興味深い部分です。 . . . 本文を読む
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2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その9

2011-12-28 07:23:11 | Weblog
アメリカ合衆国の初代駐日総領事はタウンゼント・ハリス。下田に駐在していたハリスは、幕府に対して江戸出府を強く要求しますが、その最大の目的は、アメリカ大統領の親書(公文書)を将軍に直接手渡すことでした。ハリスが江戸に出て登城謁見を果たしたのは安政4年(1857年)10月21日(旧暦)のことでしたが、その5日後の26日、ハリスは老中堀田正睦邸を訪れ、正睦や幕府の接待委員らを前に2時間以上におよぶ演説を行いました。ハリスはその演説で、蒸気機関が発明されて世界は狭くなり、世界情勢は急変しており、まもなく西洋列強が日本にも強い姿勢で開国を迫ってくるであろうこと、その西洋列強に対抗するためには海軍が必要であり、その海防に必要な経費は交易の利益によって賄えること、まずはアメリカと通商条約を結ぶべきことが肝要であることなどを勧め、そして外国公使の江戸居住と自由交易、開港場の増設を要求します。このハリスの演説が行われた堀田正睦邸とは、大名小路の佐倉藩上屋敷のことであり、現在は皇居外苑の広大な広場となっているところ(の一部)。佐倉藩主がこの江戸と佐倉城の間を往復する際の参勤交代路が「佐倉道」(「成田道」)であり、文政8年(1825年)に16歳で藩主となった堀田正睦も、この「佐倉道」を晩年まで(亡くなったのは佐倉城内)しばしば往復しているはずです。 . . . 本文を読む
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2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その8

2011-12-27 07:41:24 | Weblog
佐倉藩といえば、幕末の幕府老中堀田正睦(まさよし・1810~1864)が藩主であったところ。蘭学や洋学を奨励し、下総小見川の藩医山口甫僊の子であり、佐藤泰然の養子となった佐藤尚中(たかなか・舜海)を登用したのもこの人物。泰然から家督を譲られた尚中は、第二代佐倉順天堂主となり、万延元年(1860年)、藩命により長崎に留学してオランダ人医師ポンぺから西洋外科を中心に学びます。泰然の弟子には上総国山辺郡中村(現在の東金市)出身の関寛斎(1830~1913)がいますが、寛斎は安政3年(1856年)に銚子で開業。銚子の豪商浜口儀兵衛(梧陵)の知遇を得て、浜口の援助により万延元年(1860年)長崎に留学、やはりポンぺから西洋医学を学んでいます。堀田正睦が老中首座となったのは安政2年(1855年)。同3年には外国事務取扱を命ぜられ、下田にいたアメリカ総領事ハリスの江戸出府を許可し、日米通商条約締結の下地を築き上げます。家督を嫡子の正倫に譲った後、元治元年(1864年)3月、佐倉城内で死去。この正睦が佐倉藩主となったのは文政8年(1825年)、わずか16歳の時であり、この頃は藩財政が逼迫していて領内の風儀の退廃も著しく、領内農村の荒廃が進行していた時期であったという。崋山は、その年の夏、銚子からの帰途においてこの佐倉城下を通過しています。 . . . 本文を読む
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2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その7

2011-12-22 05:43:37 | Weblog
京成成田駅から京成佐倉駅に向かったのは、JR成田駅からよりも京成佐倉駅からの方が、「国立歴史民俗博物館」が近かったからですが、京成佐倉駅から「国立歴史民俗博物館」への道を歩いていった時、かつて妻と一緒にここを訪れたのは京成線を利用して、京成成田駅からこの道を歩いていったことを思い出しました。進行方向左手に、佐倉城址公園のある丘陵が見えてきたからです。 . . . 本文を読む
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2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その6

2011-12-21 06:03:54 | Weblog
崋山は「四州真景」の旅の「路程図」で、「タコ─カモ─ナリタ・テンダイ─サカイ─サクラ」と書いている。『渡辺崋山集』第1巻の「後注」によれば、「タコ」は「下総国香取郡多古村」(多古町多古)、「カモ」は「上総国武射郡賀茂村」(山武郡芝山町大里)のこと。多古→大里→成田→佐倉と帰路をとっているのがわかります。疑問となるのは「テンダイ」という地名と「サカイ」という地名。「サカイ」は、「後注」に指摘されているように、これは「酒々井」(しすい)のことであり、崋山は「酒々井」をその漢字から「サカイ」と読み間違ったものと思われる。では「テンダイ」とはどこか。成田の近くにある似通った地名は「寺台」。多古→大里と進んできた崋山は、この「寺台」で「成田道」(「佐原道」)に入り、左折して成田へと向かったのではないか。とすると「テンダイ」は「寺台」のことと思われますが、確証はありません。しかし崋山が道沿いに宿屋や茶屋が並ぶ成田新勝寺の前を通り、ゆるやかな坂道を上がって、城下町佐倉へと進んでいった(江戸へと帰路を急いでいた)のは確実です。 . . . 本文を読む
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2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その5

2011-12-19 05:32:18 | Weblog
成田山新勝寺と宗吾霊堂を結んでいた電車鉄道の名前は、「成宗(せいそう)電気鉄道」。「成宗(せいそう)」の「成」は「成田山新勝寺」で、「宗」は「宗吾霊堂」。この「成宗電気鉄道」は、明治43年(1910年)に一部区間開通し、その翌年(明治44年〔1911年〕)に全線開通しています。「宗吾霊堂」というのは、佐倉宗吾郎(本名木内惣五郎)の菩提寺である鳴鐘山東勝寺(真言宗豊山派)のことで、地元の人々は「宗吾様」と呼ぶ。この電車は「千葉県唯一の路面電車」でしたが、昭和19年(1944年)に、戦時中のため「不要不急線」として廃線となりました。電車路線を敷設するにあたっては、参道沿いの門前町の衰退を招くものとして門前町商店街の人々の猛反対を受け、参道を大きく迂回するように鉄道が敷設されたという。「成田市観光循環バス レトロバス」のパンフレットには、「電車道」の説明として、次のように記されています。「成田山門前から宗吾霊堂の門前までの約6kmを、千葉県で最初に電車が走りました。この電車を『成宗電車』と言い、『ちんちん電車』の愛称で呼んでいました。現在、この電車が走っていた通りには当時のレンガ造りのトンネルが残り『電車道』と呼んでいます。」 . . . 本文を読む
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2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その4

2011-12-18 06:05:21 | Weblog
成田の場合はどうか。成田鉄道(初代)の佐倉駅~成田駅間が開通したのは明治30年(1897年)。総武鉄道の本所~市川~佐倉間が開通したのが明治27年(1894年)。本所駅は現在の錦糸町駅だから、東京と新勝寺がある成田とが鉄道で結ばれたのは明治30年(1897年)ということになる。京成成田駅が現在地に設置されたのは昭和5年(1930年)になってから。JR成田駅と京成成田駅は、両者とも成田市花咲町にあり、この2駅周辺の街区は鉄道開通、すなわち駅開業とともに発展してきた新興地であると思われます。両者の駅を出ると「成田山表参道」に続く通りへと出ますが、これが「成田道」であり、駅前から「成田道」へ入って「表参道」を歩けば、成田山新勝寺の「総門」の前に出て、その総門前を通過してさらに道を進んで行けば佐原へと至ることになります(「佐原道」あるいは「佐原街道」となる)。駅前から薬師堂前で道が二股に分かれるところまでを上町(かみちょう)と言いますが、ここまでの表参道両側の商店街(上町商店街)は成田駅が開業して以後発展した「新興」の商店街であり、江戸時代以来の古くからの参道商店街は、薬師堂前から延びるゆるやかな下り道沿いの商店街であると思われます。つまり丘陵上の台地に成田の新しい町(鉄道駅を中心とした)が形成され、古くからの新勝寺の門前町としての成田の町は、「成田道」(下り道や総門前の参道)沿いに形成されていたということになります。明治後半の成田鉄道や成田駅の開業により、その成田の町は大きく変化し、また昭和になってからの京成線の開業によりその変化は加速。さらに戦後の高度経済成長期や成田空港の開業などによってさらに大きな変貌を遂げていったようであることがわかってきます。 . . . 本文を読む
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2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その3

2011-12-13 05:44:34 | Weblog
利根川の堤防上を歩いて、「なんじゃもんじゃ」の御神木のある神崎(こうざき)神社に立ち寄って、そこからJR成田線の下総神崎駅に向かった時、遠回りしてしまったこともあるが、駅へ出るまでの距離が長かったこと。あとで下総神崎駅から神崎本宿を通って神崎神社から利根川の堤防へと出たこともありますが、駅から神崎神社までは30分は歩く。この下総神崎駅の周辺はほとんど田んぼであり、田んぼの上を吹き渡ってきた風が、駅構内に入り込んでくるといった風情。周囲の水田の広がりの向こうに丘陵があって、その丘陵と水田が接するところに人家が連なっています。この下総神崎駅の立地を見ると、水田の真ん中に、水田を突っ切るように鉄道が敷設されたことがわかります。そして農家は、かつての場所にそのままに所在し続け、駅のまわりに人家が集まることはなかったのです。つまり水田がつぶされたのは鉄道と駅、駅に通ずる道路のためだけで、それ以外の田んぼはごく最近まで大事に保全されてきたということがわかってきます。田んぼの広がりの中にポツンと駅舎だけが建っているという、まるで映画のワンシーンに出てきそうな景観が、ごく最近までここにはあったのではないか。首都圏からそれほど遠く離れたところではないところに、こういう景観が今でも残っているというのが感動的でした。しかし考えてみると、こういう駅周辺の景観は、鉄道敷設時から戦後しばらくまでは、首都圏においてさえも至るところで見られたものではないか、とも思われてきます。たとえば小田急線沿線。多摩丘陵を走っていく小田急線の沿線風景は、その今昔の写真を見比べてみると、特に戦後、激変していったことがわかりますが、そのような状況はもちろん小田急線のみにとどまらない。大都市東京近郊鉄道沿線の膨張的市街化は、それほどにすさまじかったということです。 . . . 本文を読む
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2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その2

2011-12-12 06:15:03 | Weblog
東京からのJR総武本線の沿線は、ビルやマンションや人家が密集しており、かつては広がっていたであろう田んぼや畑は全くといっていいほど見かけることはありません。千葉駅を過ぎても、しばらくはビルやマンションの密集地帯が続き、ようやく四街道(よつかいどう)あたりから新興住宅街となってビルが少なくなり、そして物井駅の手前あたりから電車は丘陵地の雑木林や田んぼの間を走るようになり、物井駅を過ぎると両側に田んぼが広がってきます。それからの沿線風景は、大きな駅の周辺ではビルやマンション、人家の密集地が見られるものの、その多くは田んぼの広がりであり、また丘陵地の雑木林であったりします。丘陵地を抜けると田んぼが広がり、しばらく丘陵の間を走って、また田んぼの広がりに出るということを繰り返し、成田駅を過ぎてJR成田線に入るとその田んぼの広がりはぐんぐんと大きくなっていきます。田んぼの広がりの向こうに樹木の繁った丘陵が散在し、その丘陵の裾の日当たりのよいところに人家があって、それぞれの人家を、丘陵の下を走る曲がりくねった細い道が結んでいます。丘陵の中にも、ちょっとした平地の奥にまで田んぼがつくられており、長い歴史の経過の中で造られてきた景観であることがわかります。先祖代々、水田が切り拓かれ、営々と維持されてきたことがわかる景観。新しい道路や鉄道は、その水田の中を突っ切っていますが、それでも、極力水田をつぶさずにそれを守っていこうという強い意志が、全体の景観から見えてきます。千葉駅近郊の新興住宅が密集する地帯から、水田地帯への変化が著しいだけに、その景観の変化は感動的です。神奈川県では、小田急線沿線でも相鉄線沿線でも、そしてJR東海道線や横浜線、また相模線などにおいても、こういう景観は車窓からはほとんど見られない。ところが成田や銚子行きの電車の車窓からは、懐かしくなるほどの車窓風景を眺めることができるのです。私にとって懐かしさをともなって蘇ってくる車窓風景とは、福井駅から京福電鉄に乗って三国へと向かう時、沿線に広がっていた福井平野の水田。運転室のほんの後ろに立ち続けて、水田の中をまっすぐに延びる線路の先や、その沿線の農村風景を眺め続けた少年時代の記憶が、脳裡に蘇ってくるのです。 . . . 本文を読む
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2011.12月取材旅行「成田および佐倉」 その1

2011-12-11 06:34:21 | Weblog
JR千葉駅で乗り換えて、JR総武本線からJR成田線に入って行く普通電車に、今年は何回乗っただろう。帰りも乗っているから、その沿線風景は、かなり馴染み深いものになったような気がする。JR佐倉駅までは総武本線で、その先からJR成田線となって、成田駅や佐原駅などを経て銚子駅手前の松岸駅まで続くのがJR成田線。またJR常磐線の我孫子駅から成田駅まで続いている路線も、我孫子支線と呼ばれるJR成田線で、木下(きおろし)街道を歩いて木下(きおろし)駅から乗った路線がそのJR成田線の我孫子支線。利根川堤防上を歩いて、滑河(なめがわ)駅から千葉行きの電車を利用したのが、松岸駅と佐倉駅を結ぶJR成田線に乗った最初かも知れない。その時の、両側に広がる水田の真ん中を疾走する電車の車窓からの眺めは感動的でした。その感動は、総武本線の千葉駅から成田や銚子方面へ行く場合においてなおさらでした。JR四街道駅を過ぎ、JR物井駅の手前あたりから、それまで続いてきた新興住宅街はいきなり途切れ、車窓の両側に田んぼが広がってきます。この田んぼの広がりとその四季折々の変化が、私にとってはこの路線の最大の魅力でした。今回は、この路線で気になっていた成田と佐倉を取材することにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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