鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.1月取材旅行「新川口~本行徳~妙典」 その5

2011-01-31 06:32:24 | Weblog
かつて地元の人々は、この「行徳街道」のことを「八幡道(やわたみち)」あるいは「八幡さまの道」とでも言っていたのかも知れない。なぜならこの道は、やがて田んぼの中を北上して葛飾八幡宮のある八幡宿へとぶつかっていたから。ぶつかった八幡宿にある街道は「成田街道」(佐倉道)であり、成田街道に入ったところで右折すれば、その道は船橋、佐倉、成田へと続いていました。そのことがよくわかる本は『地図に刻まれた歴史と景観 明治・大正・昭和 市川市浦安市』(新人物往来社)という本。この本は明治・大正・昭和の地図の比較によって、各地域の景観の変化が分かるようになっています。八幡町は宿場町であり、葛飾八幡宮がその中の八幡村にありました。八幡町は、江戸時代においては近在近郷の中心的な位置を占め、田んぼの中の成田街道(佐倉道)沿いに家並みが続いていました。同じく田んぼの中を走っている「八幡道」(浦安から続く・現在の「行徳街道」)は、この八幡町で成田街道にぶつかりますが、ぶつかって右手向こうにあったのが葛飾八幡宮でした。『房総の道 成田街道』山本光正(聚海書林)によれば、佐倉道(成田街道)は、日光道中千住宿から分岐し、新宿→小岩→市川→八幡→船橋→大和田→臼井→佐倉→酒々井(しすい)→成田へと続き、八幡までは道中奉行の支配下にありました。幕府の定めた呼び名は「佐倉道」ですが、成田参詣が盛んになると人々はこの道を「成田道」と呼ぶようになりました。八幡の先の船橋で「木下(きおろし)街道」が分岐しており、その「木下街道」は、鎌ヶ谷→白井→大森を経て下利根川の木下河岸にぶつかり、そこから「木下茶船」に乗れば、下利根川を下って、香取・鹿島・息栖(いきす)の「三社詣で」、さらには銚子へと向かうことができました。江戸から房総方面へ向かう庶民の道としては「五ツのコース」があり、その一つが、江戸日本橋小網町三丁目の行徳河岸から「行徳船」に乗り、本行徳村の行徳河岸(新河岸)に上陸して、「八幡道」を北上、葛飾八幡宮のある八幡宿の「成田道」に入ったところで右折し、船橋で「木下街道」に入るものでした。この行徳河岸から下総本行徳、八幡を経て船橋までたどるルートは、成田詣で、三社詣で、そして銚子海岸遊覧に向かう人々が盛んに利用する、かつては大変賑わったルートであったのです。 . . . 本文を読む
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2011.1月取材旅行「新川口~本行徳~妙典」 その4

2011-01-30 06:20:10 | Weblog
『明解 行徳の歴史大事典』鈴木和明(文芸社)によれば、「行徳船」は下総本行徳村の「新河岸」から江戸日本橋小網町三丁目の「行徳河岸」までを往復した「渡し船」であり、船頭1人の手漕ぎ船でした。10石積みほどの川船で、7~24人乗りであったという。3里8丁の所要時間は約3~6時間。途中での乗り降りはできませんでした。したがって「長渡船(ながわたしぶね)」とも言ったという。崋山たち3名が小網三丁目行徳河岸で乗り込んだ「行徳船」は借り切りであり、船賃は本行徳まで500文でした。もし乗り合いで行けば、1人あたり64文で済んだのが、借り切りにしたために1人あたり166文余と、3倍近くの船賃になりました。「行徳船」を借り切りにした小網町三丁目の船問屋は「加田屋長左衛門」であったことを、崋山はちゃんと記しています。小網町三丁目の「行徳河岸」を出て、夏の炎天下、日本橋川→隅田川→小名木川→中川番所前→新川(船堀川)→江戸川と進んでいった「行徳船」は、その日の昼ごろに本行徳村の「新河岸」に到着。上陸した3人は、街道沿いの旅籠兼茶屋である「大坂屋」で昼食を摂り、それから街道を進んで「成田街道(佐倉道)」の八幡(やわた)宿の方へと向かっていきました。本行徳村内を江戸川からやや離れて、それに平行して走っている街道を現在は「行徳街道」と呼んでいますが、前掲書によると、それは浦安から本八幡(もとやわた)を結んでいた街道で、古くからの呼称ではなく、「東房総街道」「香取鹿島街道」「八幡船橋街道」などと呼ばれていたらしい。江戸時代の本行徳村は、この街道沿いに家々が軒を連ねていたという。 . . . 本文を読む
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2011.1月取材旅行「新川口~本行徳~妙典」 その3

2011-01-28 06:28:54 | Weblog
江戸に入った家康は、「塩の義は軍用第一」として塩の確保に意を注ぎました。『明解 行徳の歴史大事典』鈴木和明(文芸社)によれば、「行徳塩浜」は「幕府御用の塩浜として幕府の手厚い保護により幕末まで行徳の繁栄」を支えたものでした。この行徳塩浜で作られた塩を、江戸へと運ぶために開削されたのが「新川」でした。寛永6年(1629年)、船堀川の三角以西を掘り広げるとともに、三角から江戸川まで新たに陸地を一直線に開削してできた新しい水路が「新川」であり、それによって行徳の塩は、江戸川→新川→小名木川→隅田川→日本橋川経由で、江戸日本橋へと船で運ぶことが可能となりました。本行徳村に「行徳河岸」が出来たのが寛永9年(1632年)のこと。銚子から利根川→江戸川→新川→小名木川→江戸湊へと、河川による連絡航路が開けたのは承応3年(1654年)。そして小名木川の万年橋北詰にあった深川番所が、中川口へと移転されたのが寛文元年(1661年)のことでした。『行徳と浦安の今とむかし』(宮崎長蔵)によれば、「小名木川、新川の航路を寛永9年(1632)、独占権を得たのが本行徳村」であったという。ということは、江戸川─新川─小名木川経由で、本行徳村と江戸(日本橋小網町三丁目行徳河岸)が水路で結ばれ、その本行徳村に「行徳河岸」が出来たその年(寛永9年)に、そのルート(航路)の独占権を本行徳村が得たということになり、いわゆる「行徳船」がその頃から運航されるようになったということになる。小名木川と新川を併せて「行徳川」と称することもあったようですが、その「行徳川」は、行徳塩浜で生産された塩を、川船で江戸へと運ぶ「塩の道(水路)」でもあったのです。 . . . 本文を読む
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2011.1月取材旅行「新川口~本行徳~妙典」 その2

2011-01-27 06:02:32 | Weblog
新川口(しんかわぐち)は、かつては南葛飾郡瑞穂(みずほ)村下今井の新川の北岸にありました。そこで左折した「行徳船」が向かう先である行徳は、かつて「行徳千軒、寺百軒」と言われたように、ここから成田街道や木下(きおろし)街道を利用して、成田新勝寺、あるいは香取神社・鹿島神宮・息栖(いきす)神社の「三社詣で」へと、江戸の人々が向かう町として大変賑わったところでした。特に成田参詣講中の中宿は、12軒も軒を並べていたという。この行徳の江戸川べりにある行徳河岸は、江戸と房総を結ぶ玄関口であり、寛永9年(1632年)に本行徳村内にできた河岸でした。江戸までは船道で三里八丁(約13km)。「行徳船」は、この本行徳の行徳河岸と、江戸川(旧江戸川)─新川(船堀川)─小名木川─隅田川─日本橋川を利用して、江戸日本橋小網町三丁目の行徳河岸とを結んでいました。「木下(きおろし)街道」というのは、この本行徳村の「行徳河岸」と、下利根川筋の手賀沼付近の「木下河岸」とを結んでいた街道で、「木下河岸」は、香取・鹿島・息栖の「三社詣で」に向かう人々が乗る「木下茶船」が発着するところでもありました。したがってこの「木下街道」は、江戸から下利根川筋へと向かう最短路として、盛んに利用された道であったのです。渡辺崋山一行も、江戸日本橋小網町三丁目の行徳河岸から「行徳船」でまずその終点である下総本行徳の「行徳河岸」へと向かい、そこから「木下街道」を利用して下利根川筋へと出る(つまり木下河岸に至る)というルートをたどったことになります。 . . . 本文を読む
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2011.1月取材旅行「新川口~本行徳~妙典」 その1

2011-01-26 06:24:02 | Weblog
 昨年12月の取材旅行は、新川(しんかわ)と江戸川(旧江戸川)が接するところ(新川口)から、旧江戸川沿いに南下。浦安橋を渡って千葉県に入り、期せずして山本周五郎の『青べか物語』の舞台である浦安を歩きました。昨年、隅田川から小名木川→新川→江戸川(旧江戸川)と歩いて、関心を深めたのは実は渡辺崋山のことであり、それは江東区中川船番所資料館で、崋山の「四州真景図」の中の一枚、「中川船番所」を川船から描いた絵(複製)を観たことをきっかけとしています。「ああ、崋山はここを通ったことがあるのか」という感動から、それはいつのことで、その時彼はどこへ向かおうとしていたのか、そしてどういう行路をたどったのか、といったことに深く興味を抱きました。かつて、かなり前に芳賀徹さんの『渡辺崋山 優しい旅人』を購入して読んだことはあるのですが、彼の「四州真景」の旅については全く忘れてしまっていました。芳賀さんの本を読み直し、また『渡辺崋山集』のその日記文に目を通すことにより、その旅に出かける経緯や、その旅の行程、旅での出会いのようすなどを詳しく知ることができました。崋山は、江戸日本橋小網町三丁目の行徳(ぎょうとく)河岸から、いわゆる「行徳船」を借り切って、日本橋川→隅田川→小名木川→中川船番所前→中川→新川(船堀川)→江戸川を進み、その江戸川沿いの行徳の「新河岸」に上陸し、それから「木下(きおろし)街道」を経て潮来や銚子へと向かったのです。小名木川→新川と、ほぼ川沿いに私は歩いてきましたが、それは文政8年(1825年)6月29日(旧暦)の午前、崋山が貸し切りの「行徳船」で、下総行徳河岸へと向かったルートに沿ったものでもあったのです。前回は「新川口」で南下し、そのルートとは逆の方へと向かいましたが、今回は崋山のルートに従って、江戸川(旧江戸川)沿いを遡り、市川市本行徳まで歩いてみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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木村礎さんの「生活史」について

2011-01-25 05:10:49 | Weblog
「道の駅さかい」において、『さかいの歴史ものがたり』とともに置いてあって、たまたま私が手に取った冊子に、『下総さかい 第3号』というものがありました。その中に木村礎(もとい)さんの「境町の歴史を考えよう」という論文があり、興味があってざっと目を通してみました。そこでは、「(四)生活史とはどんなものか」とあって「生活史」というものについて論ぜられていました。また『さかいの歴史ものがたり』に載っていた境町(境河岸)を写した写真2枚とは別の古写真も1枚載っていました。 . . . 本文を読む
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2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」最終回

2011-01-24 06:01:11 | Weblog
 手元の関東道路地図を見てみると、このあたりの千葉県と茨城県および埼玉県の県境は、旧権現堂川(かつての利根川本流)と逆川、そして江戸川に沿っていることがわかります。逆川は、江戸川が利根川(常陸川)とつなげられたため、その蛇行して利根川へと続いていた流れはほぼ消滅し、江戸川と利根川の分岐点は、千葉県と茨城県の県境よりも利根川および江戸川のやや上流に位置しています。県境は関宿城博物館の裏手を利根川へと延び、境大橋と江戸川の分岐点の間の中ほどで、利根川の中央を下流に向かって延びています。この利根川へとぶつかる県境の線は、かつての逆川の流路を示しています。かつての関宿城本丸はその逆川を背にして建っていたというから、本丸も含めて関宿城一帯は、延長された江戸川やその河原、また堤防や畑などに変わってしまったということになります。境町はかつては利根川(常陸川)を挟んで関宿城下の一部でしたが、今は利根川中央の県境によって、対岸の千葉県野田市関宿とは隔てられ、茨城県猿島郡境町となっています。一方、関宿城下から江戸川の渡しを渡ったところにあった関宿関所やその界隈の家並みのあたりは、埼玉県幸手市西関宿という地名となっています。また関宿水閘門や関東最大級のこぶしの木のあるあたりは、茨城県猿島郡五霞町山王となっています。「道の駅ごか」は、その五霞町にありました。かつてこの五霞町は、常陸川(現利根川)と権現堂川(旧利根川本流)、そして逆川(さかさがわ)にまわりを囲まれた土地であり、洪水の被害をしばしば受けてきた地域であったという。権現堂川は、西関宿の手前で締め切られているから、厳密に言うとこれは川ではなく貯水池のようなものに変わっています。日光東往還は、関宿関所→江戸川の渡し→東棒出し横→関宿江戸町→常陸川(利根川)の渡し[境の渡し]→境河岸→境町というルートで北に向かって延びていましたが、そのルートも地図上で、ところどころ断絶しているけれどもたどることができます。関宿の河岸や関所については、関宿城博物館が年末で閉まっていたということもあって、今回の取材旅行では詳しく調べることができませんでした。また機会を作って、関宿城博物館を訪れてみたいと考えています。 . . . 本文を読む
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2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」関宿その7

2011-01-23 06:37:38 | Weblog
 もう1枚の「境町船戸閘門より北方市街を望む」という写真の方には、手前に馬が3頭ばかり写り、やや向こうの通り上にも数頭の馬が写っています。これらは最初は荷馬かと思いましたが、馬と一緒にいる男たちは軍帽のようなものをかぶっており、軍服のようなものを着用している。左側の蔵の傍で馬の顔を撫でている男の姿を見れば、その服装から軍人であることは明らかです。となるとこの写真に写る馬は荷馬ではなくて、軍馬ということになる。では通りの真ん中を北に向かって進んでいると思われる車輪付きの車のようなものは何だろう。馬車のようにも見えるが、それを引っ張っている馬の姿は見えない。乗っているのは女性のようにも見える。自動車のようにも見えるが、それにしては車輪が大きすぎる。右側には、薪のようなものが山と積まれている広場がありますが、これは現在、「朝日バス」の境町車庫があるところ。大正時代頃かと思われるこの時期には、あの空間は大量の薪の置き場であり、もちろんその薪は境河岸で船に積み込まれて、東京方面へと運ばれるものであったでしょう。その薪置き場の向こうには、白壁土蔵造りの商店などが見えています。通り左側には2階建ての木造商家が通りの奥までずっと軒を連ねています。馬の立っている方向を見ると、これからこの軍人たちは北に向かって進んでいこうとしているようだ。境河岸から馬と一緒に上陸し、これからこの街道(日光東往還)を北に向かおうと休息している軍人たちを、この写真を撮影した者は、船戸閘門の上から撮影したものと考えられます。それにしても通りの真ん中を走る(あるいは停まっている)四輪の車は何だろう。馬が外されて、近くで餌を食べているか水を飲んでいるとすれば、これはやはり馬車であるのかも知れない。 . . . 本文を読む
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2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」関宿その6

2011-01-21 06:26:34 | Weblog
『さかいの歴史ものがたり』には、かつての境町の古写真が2枚載っていました。1枚は「境町船戸閘門より利根川を望む。中央は高瀬舟、手前は船を待つ人々」とあって、「小松原康之助氏所蔵」とあります。もう1枚は、「境町船戸閘門より北方市街を望む」とあります。「船戸閘門」とは、同書の「大正時代の境町」に次のような記述があります。「大正時代に入ると境町の景観も大きく変わってきました。宮本町は『古河道』、本船町は『船戸(ふなと)町』、下仲・上仲は『仲宿』と呼ばれるようになりました。『船戸』には河岸場(渡船場)へ通り抜けることができた煉瓦づくりの閘門が設けられました。日光街道から続く利根川の堤防に設けられた閘門は増水すると閉じられ、土俵を積み水の浸入を防いだのでした。」ということは、「船戸町」はもとは「本船町」と言ったところであり、そこに日光東往還から利根川の堤防を潜って渡船場(河岸場)へと潜り抜けることができる煉瓦づくりのトンネル(開け閉めできるトンネル)が設けられ、そこを人々が行き来し物資が運搬されたということになります。それは大正時代になってからのことであるらしい。「小松原康之助氏」とは、江戸時代からの境町の河岸問屋「小松原五右衛門家」に関係する方であるのでしょう。つまりこの2枚の古写真は、その「船戸町」の赤煉瓦づくりの「閘門」のおそらく上に立って、利根川方面と日光東往還沿いの境町のようすを撮影したもので、大正時代以後の撮影ということになるわけです。利根川(渡し場)を望んだ写真の方には、手前左手に荷物を積んだ馬が2頭、川べりにも荷物を積んだ馬が3頭ばかり写っています。そのまわりには洋服姿や着物姿の渡し船を待つ人々が多数写っており、そして利根川の中央には上流へと向かう高瀬船が写っています。 . . . 本文を読む
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2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」関宿その5

2011-01-20 05:31:35 | Weblog
『さかいの歴史ものがたり』は、境町教育委員会が編集・発行したもの。それにはたとえば次のような記述があります。「利根川・江戸川の水運が盛んであったころ、境町はこの水運によって江戸・東京と直結していました。日光街道から運ばれてきた荷物は、境町で船積みされ江戸川を下ったのです。特産のゴボウや茶、レンコンなど境町近在で生産された物産も多く江戸・東京に運ばれましたが、その中には、平地林で生産された『薪や粗朶(そだ)もありました。こうした林産物を運ぶため利根川に面した下小橋・浦向には峪(かっけ)河岸、塚崎にはマキ河岸と呼ばれた河岸がありました。」日光街道(日光東往還)で運ばれ境河岸から江戸・東京へ運ばれた物資のほか、境町近辺の利根川河岸からはその地域の特産物も、江戸・東京へと運ばれたことがわかります。また次のような注目すべき記述もありました。明治4年(1871年)の廃藩置県以後、「明治政府は民営の輸送機関として陸運会社を各宿駅に半強制的に設けるよう命じ」ますが、「境河岸でも河岸問屋の小松原家が中心となって、近くの諸宿の問屋仲間とともに、一八七二年(明治五年)に『内国通運会社境町分社』を設立させました。」文中の「小松原家」とは境町の河岸問屋の一つであった「小松原五右衛門家」のこと。小松原家もその設立に関わった「内国通運会社」の外輪蒸気船「通運丸」が利根川を行き来するようになるのは、その5年後の明治10年(1877年)。「通運丸の就航便は、二日にわずか一回の往復でしたが、近代の蒸気船通運丸が利根川に姿を現したのは、大変画期的な出来事でした。…就航時間は、東京への上りがおよそ七時間程度、境までの下りには十時間くらいかかったといわれています。」帆走には風待ちを必要とし(したがって「世事(せいじ)」という船頭たちの居住空間を必要とする)、またサオや引き綱を必要とする「高瀬船」に対して、蒸気機関で動くため、定期的運航が出来る「通運丸」の登場は、人々や物資の輸送の方法を大きく変えるものであったと思われます。 . . . 本文を読む
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2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」境その3

2011-01-19 06:19:54 | Weblog
『河岸に生きる人びと』によれば、関宿藩の領地である境の人々は、「多かれ少なかれ商品荷物の輸送に関連した仕事によって生活」しており、そういう点において、境の町は「交通によって生きる町」でした。「河岸問屋」は、「船問屋」や「船積問屋」とも言われ、河岸の中心的な存在でしたが、この境河岸には「河岸問屋」が2軒ありました。「河岸問屋」は多数の船や倉庫を持ち、また旅籠や商問屋も兼ねていました。境河岸の「河岸問屋」2軒とは、「兵庫」(青木兵庫家)と「五右衛門」(小松原五右衛門家)であり、「兵庫」は4艘持ちで「大荷物」を扱い、「五右衛門」は8艘持ちで「小荷物」を扱ったという。天明5年(1785年)の境河岸の戸数は156軒で住民数は491人。百姓・船持・商人・船乗(船頭・水主[かこ])・水揚人足・日雇人足などで構成されていましたが、特に船乗・水揚人足・日雇人足が多く、彼らは、河岸の中の代表的な労働者でした。その中には村を出奔した「無宿」の者もおり、船乗や人足(無宿の者も含まれる)の遊びとして、酒・博打(ばくち)・女はきわめて一般的なものでした。では、この境河岸に遊郭はあったかというと、その設置に向けての動きはあったものの、結局、その設置は実現しなかったという。潮来や銚子には存在した遊郭が、この境にはなかったというのも、なかなか興味深いことです。 . . . 本文を読む
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2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」境その2

2011-01-18 04:04:54 | Weblog
川名登さんの『河岸に生きる人々 利根川水運の社会史』によれば、利根川の改流によって利根川と常陸川筋とが結びつけられて、江戸への川船航路が成立。これによって銚子湊の地位はがぜん重要となっていき、銚子湊は「東北地方から江戸への廻船の寄港地として、また利根川高瀬船への積替地、いわゆる『内川廻し』ルートの中継点として、東廻り海運の『湊』であると同時に、利根川水運の『河岸』としての性格を持って発展」していきました。一方、江戸日本橋小網町などには、「奥州筋船積問屋」が軒を並べるようになりました。「奥州筋」とは、川名さんによれば、「江戸からみて利根川水系等を通して結ばれた関東各地から、奥羽・信越方面の荷出地」をさし、この江戸の「奥州筋船積問屋」は、幕末まで存在していたという。さて境河岸ですが、これは関宿城下町の一部であって、関宿藩の領地でした。境河岸は「日光東往還」という日光街道の脇街道沿いにあり、その「日光東往還」を経由して陸路運ばれてきた関東・東北地方の物資は、ここで川船に積み込まれ、江戸へと運ばれました。また江戸から川船で運ばれてきた物資は、ここで荷卸しされ、陸路、関東・東北地方の各地へと運ばれていきました。銚子が海路(太平洋)と水路(利根川水系)の結節点であったとすれば、この境河岸は、陸路(日光脇街道=「日光東往還」)と水路(利根川水系)との結節点であったことになります。ここから江戸までは船で約20里。あとは物資も人も、もう船で運ばれていくだけでした。 . . . 本文を読む
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2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」境その1

2011-01-17 04:43:45 | Weblog
ネットで「権現堂川」について調べてみると、旧権現堂川は昭和3年(1928年)に廃川となっており、それまで旧権現堂川は五霞(ごか)町川妻で利根川から分岐し、五霞町江川と西関宿との境で江戸川へ合流していたという。権現堂川は締め切られたために、現在は川としての機能を持たず、「調水池」としての役割を果たしているのだとのこと。では「逆川(さかさがわ)」はどうかというと、それは権現堂川と江戸川の合流点と、赤堀川(現在の利根川)をほぼ南北に結んでいた河川で、関宿城は、その逆川を挟んで北側に位置していたとある。この逆川は、寛永18年(1641年)に開削された人工河川であり、常陸川(現在の利根川)と江戸川流頭部を結ぶものでした。そして実は、これが大事なところですが、かつては権現堂川は利根川の一部であり、江戸幕府は権現堂川を利根川として認識していたというのです。つまり権現堂川は、長い間、利根川の本流であったのが、昭和3年に大規模な治水工事によって締め切られて廃川となり、常陸川が利根川本流となって、逆川も江戸川に含められて、利根川から直接に江戸川が分岐する形となったということであるらしい。したがって関宿城博物館の案内マップのように、北に流れる川は「江戸川」、東に流れる川が「利根川」と表記されており、「逆川」の名前は消えていることになるわけです。利根川本流であった旧権現堂川にもかつて「権現堂河岸」というのがあり、明治時代においても、この「権現堂河岸」には、河岸問屋6軒、高瀬船・積荷船35艘があったという。 . . . 本文を読む
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2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」関宿その4

2011-01-16 07:07:36 | Weblog
利根川高瀬船が、この境大橋の下の流れ(流路や流量はかなり異なりますが)を、かつて数多く行き来した時代がありました。下流から来るものもあれば、上流から来るものもある。やや上流の江戸川流頭部へと入っていくものもあれば、逆に江戸川からその流頭部を右折してやって来るものもある。それらの高瀬船などの川船が、物資を積み下ろしする河岸の一つ(それも特に重要な)が、この境大橋の利根川上流右手に延びる河岸、すなわち境河岸でした。銚子方面から年貢米や干鰯(ほしか)などの金肥を運んできた高瀬船は、この先(といっても利根川の流路は現在のそれとは大きく異なっています)で江戸川流頭部へと入り、江戸へと向かっていきました。渡辺貢二さんの『高瀬船』によると、利根川高瀬船の記録に残る最大級の巨船は、500石積で総長が89尺。「500石」とは、約1250俵でおよそ75トン。「89尺」とは約27m。平均値は400石積(1000俵・60トン)で47尺(14m)であったという。葛飾北斎はその一隻を、「常州牛堀」で描いていますが、それはやや薄汚いようにも見えますが、渡辺さんによると利根川高瀬船は、「船のすべてがたとえようもなく美しかった」という。利根川高瀬船は、「木が光」っており、「河岸ばんてん」を羽織り、「ももひき」を着し、「麻裏ぞうり」を履いた船頭たちは、「船上ではすり足で歩」いたという。渡辺さんの『続高瀬船』によれば、利根川高瀬船の寿命は15~20年。最後の利根川高瀬船(300俵積位)は、昭和35年(1960年)まで東京で活躍していましたが、廃船となった後、東京湾の埋立地に捨てられたという。 . . . 本文を読む
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2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」関宿その3

2011-01-12 19:35:30 | Weblog
『江戸地廻り経済と地域市場』白川部達夫(吉川弘文館)によれば、近世中期以降、広く普及した購入肥料、いわゆる「金肥」が、干鰯(ほしか)や〆粕(しめかす)であり、それらは商品作物の展開とともに使用が広まりました。鰯漁業は、房総半島の九十九里浜を中心に行われましたが、金肥としての干鰯が江戸へ回送されるコースとしては、浦賀の干鰯問屋の手で集荷されて船で江戸へ運ばれるコースと、銚子周辺に集荷されて川船で利根川を遡り、江戸川を下って江戸に至るコースとがあり、白川部さんによると、この後者のルートが一般的であったという。つまり、九十九里浜を中心とする房総半島で生産された干鰯は、多くは銚子→利根川→江戸川→新川→小名木川というルートで、江戸の干鰯問屋に運ばれたということになる。江戸の問屋の市場支配は、江戸後期になるとその力を後退させていきますが、それは関宿・境・古河などの利根川水系の問屋の成長に由来しているといったことも指摘されています。江戸の問屋を通さないで、直接に、地方の問屋に売るという「直売り」あるいは「通売り」商法が、行き渡るようになってきたということです。林玲子さんの『関東の醤油と織物』によれば、「江戸地廻り経済圏」の成立は、近世後期、庶民層のニーズにこたえる商品を扱う商人たちが活躍するようになったことを示しています。関東醤油の代表とされる銚子や野田の醤油の、江戸への出荷量が増したのは18世紀半ば以降のことであり、銚子や野田などの醤油醸造家は「手船」という専属船を所有しており、それによって江戸への輸送を大量に行いました。九十九里浜沿岸には、近世前期、紀州から多数の漁民が移住したといわれ、銚子の醤油醸造家(広屋儀兵衛など)は紀州の系統を引いている者が多いという。そういったことを視野に入れてみると、熊野信仰・熊野神社の存在と、九十九里浜の鰯業、干鰯生産、銚子の醤油醸造、そして利根川水系の水運とは深く結びついているように思われてきました。 . . . 本文を読む
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