鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その2

2014-02-26 05:58:02 | Weblog
「青山通り」や「羽沢山房」(松崎慊堂が住んでいた別宅)のあたりを歩いていて思い出したのは、東洋文庫の『江戸近郊道しるべ』という本でした。著者は村尾嘉陵(かりょう・1760~1841)という人。徳川御三家の一つ、清水家の御広敷用人(おひろしきようにん)で、本名は村尾正靖(まさやす)。「嘉陵」はその号。書名の『江戸近郊道しるべ』は後で付けられた名前で、刊行されたものでもなく、嘉陵が江戸の郊外を旅して綴った記録であり、その自筆本が国立国会図書館に所蔵されているとのこと(写本も残されている)。私がこの本を興味深く読んだのは、崋山が桐生まで赴いた時(『毛武游記』の旅)、中山道を利用しているのですが、その中山道の様子が詳しく記された日記等がほかにないかと探していたところ、この本が見つかり、そこに大宮宿の氷川神社を経て桶川宿の手前付近まで赴いた記述があったからです(「中山道大宮紀行」)。その記述については、崋山の中山道の旅をたどった時に、すでに触れたことがあります。嘉陵が中山道を桶川宿手前まで歩いたのが文政2年(1819年)のことであり、そして崋山が桐生へと向かうために中山道を歩いたのが天保2年(1831年)のこと。12年の開きはありますが、街道周辺の様子はそれほど変わっていなかったはずです。その嘉陵の記録を読んだ時、嘉陵は江戸郊外の渋谷や目黒のあたりも歩いていることを知ったのですが、それを思い出したのです。この『江戸近郊道しるべ』については、「ウォーキング」や「まち歩き」の流行もあってか、最近、講談社学術文庫の一冊として『江戸近郊道しるべ 現代語訳』という本も出ています(2013年4月刊)。嘉陵が江戸郊外を旅してそれを記録にしたのは、文化4年(1807年)から天保5年(1834年)にかけてのこと。崋山で言えば、15歳から42歳にかけてのことになります。『四州真景』の旅も、『毛武游記』の旅も、そして『游相日記』の旅も、その期間に含まれています。歩く道筋の景観は、それほど変わらなかったものと思われる。では、嘉陵が目にした当時の景観とは、どういうものであったのだろうか。その「南郊」(港区・渋谷区・品川区・目黒区・世田谷区・大田区・川崎市)を中心に、再度、読んで見ることにしました。 . . . 本文を読む
コメント

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その1

2014-02-24 05:56:56 | Weblog
前回は、崋山の『游相日記』の旅を追いかけるべく、「青山通り」(赤坂見附より「大山街道」と重なる)を、最高裁判所前(三宅坂交差点)から青山学院を越えたところまで歩きました。その青山学院を越えたところで左折して横道へと入り、首都高速3号線の上を越えたあたりで「渋谷図書館」の古びた案内掲示を見掛け、当てずっぽうに左折して住宅街へと入っていったところが、たまたま渋谷区立渋谷図書館の前に出て、そこで松崎慊堂(こうどう)の「羽沢山房」(はねざわさんぼう)の跡地が、國學院大學近くの「白根記念 渋谷区郷土館・文学館」であることを知りました。そこで「渋谷区郷土館・歴史館」に立ち寄って、館内の展示パネル等を観覧し、帰りは「青山通り」から大きく離れて、東京メトロの広尾駅から地下鉄を利用することになりました。そのため、今回は「青山通り」の青山学院を越えたところから歩き始めるのが筋ですが、途中、「豊川稲荷」に立ち寄ったことで「牛啼坂」(うしなきざか)(かつての大山道のルート上にある)を歩かなかったため、東京メトロの永田町駅から赤坂御門前に出て「青山通り」を再び歩き、「牛啼坂」を経由して、まず渋谷まで歩いてみることにしました。渋谷を越えてから、途中寄り道をし、結局三軒茶屋までの「大山道」を歩くことになりました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
コメント

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その最終回

2014-02-15 06:01:03 | Weblog
『化政・天保の文人』の中で、杉浦さんは、この時代に生まれた学問の中で注目すべきは、森鷗外のいわゆる考勘学である、と指摘しています。「考勘学」とは、「考証学」とでもいうもので、朱子学や陽明学には仏教の影響が大きすぎるのではないかと考え、儒学の本来の思想を求めて古代へ古代へと遡り、金石文や古代中国の考古学的資料にまであたっていく学問でした。狩谷棭斎・市野迷庵・山梨稲川・松崎慊堂・伊沢蘭軒などが「考勘学」(考証学)の主な顔ぶれですが、彼らの特徴は民間学者であることといっていい、と杉浦さんはいう。棭斎は津軽屋という津軽藩の御用商人、迷庵は豊島屋という質屋、稲川は掛川在の医者、慊堂は掛川藩に仕えていたけれども、生まれは肥後の百姓、蘭軒は福山藩の儒医であったとのこと。慊堂は講義の際は朱子学にのっとってはいたものの、早く隠居して自分の学問は別でした。杉浦さんは、慊堂は古代中国の文学や辞書にも詳しかったという。棭斎の『度量権衡攷』は、度量衡の発生から変化を考証したものであり、その範囲はただ日本と中国だけでなく、インドから古代ローマやオランダ等々にまでわたっていて、しかもきわめて正確なものだという。この棭斎に見られるように、天保時代の蘭学は、「日本人に近代科学の根を植え付け、発芽させる役割」を果たすまでに成長していました。実は、それは学問だけでなく絵画においてもそうでした。松平定信は、海防への危機感から「蛮書」に目を通すようになり、その挿画から、絵画の本質は「真(まこと)の事」を記録・伝達することにあると認めるようになっていましたが、その絵画における〈写実〉や〈記録性〉、また〈実利性〉の追求は、谷文晁の「公余探勝図」に最も具現化されていると『江戸絵画と文学』の今橋さんは指摘する。文晁の「公余探勝図」は、「従来の狩野派でも、洋風画でも、南宋画でもない、まったく新しい山水・風景表現の確立だったと言える」とまで今橋さんは述べていますが、その文晁の「新しい山水・風景表現の確立」の上に、崋山のあの「真景画」もありえたものと思われます。確かに、杉浦さんが言われるように、「蘭学は化政・天保における地の塩」であったのです。 . . . 本文を読む
コメント

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その11

2014-02-11 07:37:09 | Weblog
『化政・天保の文人』で触れられている崋山と松崎慊堂のことについては、慊堂の肖像画を崋山が描いたことのほかに、ケンペルの『日本誌』のことと、罪を得た崋山の救援運動のことが出て来ます。慊堂が、親しくしていた近藤重蔵が所蔵していた蘭書のケンペルの『日本誌』を手に入れ、それを欲しがっていた崋山に売ったというのです。また「蛮社の獄」で崋山が罪を得た時、林述斎のところへ崋山の救援を頼みに行くとともに、崋山を陥れた張本人である鳥居耀蔵(ようぞう)の屋敷に出向いて崋山の無実を訴えています。さらに崋山が助かるようにお宮やお寺に祈り、おみくじをひいたり、さらに崋山の人柄と功績を長文の手紙にしたためて、小田切藤軒を通して老中水野忠邦の手許に届けたというのです。そのような慊堂らの救援活動もあって、崋山は死罪・流刑を免れて、藩元田原に蟄居という比較的軽い判決で済んだ、と杉浦さんは記しています。弘化元年(1844年)、慊堂は、林述斎、大御所11代将軍家斉の死、崋山の自殺、さらに鳥居耀蔵・水野忠邦の失脚を見て、74歳で胃ガンのために亡くなっています。 . . . 本文を読む
コメント

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その10

2014-02-10 05:38:30 | Weblog
今のところ、松崎慊堂の人となりについて、そのおおよそを知ることができたのは、『化政・天保の文人』杉浦明平(NHKブックス/日本放送出版協会)でした。その「二 松崎慊堂〈人情深い尚古癖の大儒〉」が慊堂について詳しい。それによると森鷗外は、史伝『伊沢蘭軒』を書いている途中で慊堂の日暦の存在を知ったらしく、「鷗外はどうやら『松崎慊堂伝』を書くつもり」だったが「それは実現されずに終」わったのだとのこと。これは実に興味深い。鷗外にとって慊堂はそれほど魅力的な人物であり、またその「日暦」はそれほど魅力的な日記であったことがわかるからです。『伊沢蘭軒』の主人公伊沢蘭軒も、その子柏軒も、もう一人の重要人物である狩谷棭斎(えきさい)も、慊堂の友人でした。熊本から江戸に出た慊堂は、出会った浅草称念寺住職玄門和尚の世話で、当時まだ林家の私塾であった昌平黌(しょうへいこう)に入学。大学頭林述斎の指導の下で才能を開花させ、述斎が美濃岩村藩から連れてきた佐藤一斎とともに「林門の双璧」と称されるようになります。掛川藩の藩儒を辞して隠居してからも、慊堂の学者としての声価は高く、天保年間には「学界四天王」として、古賀侗庵・大倉謙斎・佐藤一斎と並び称される存在であったという。隠居してからも、近江国膳所(ぜぜ)6万石の本多侯、同堅田(かただ)1万3千石(後に上州佐野に移封)の堀田侯、但馬国出石(いずし)5万石の仙石侯、肥後細川家の分家八代(やつしろ)の細川侯、伊予国西条3万石の松平侯、下総国佐倉11万石の堀田正睦(まさよし)侯の講師として講義に出掛けています。その大儒松崎慊堂には、畢生の事業がありました。それは儒学者として、儒教の古典のもっとも古い版の一つといわれる「石版十三経」を翻刻することでした。そのような古典を紹介することによって、宋儒によってゆがめられた儒教を古い姿で見直させたかったのだと杉浦さんは指摘しています。羽沢山房は「石経山房」とも「木倉山房」とも呼ばれましたが、「石経山房」と呼んだのは「石版十三経」に由来するものであったのです。その研究成果は、天保15年(1844年)の『開成石経』の出版として結実することになりました。 . . . 本文を読む
コメント

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その9

2014-02-09 06:06:17 | Weblog
下渋谷村の丘陵上にある羽沢山房から、松崎慊堂はいろいろなところに散策に出掛けています。「松崎慊堂をめぐる空間と人物」(吉岡孝)によれば、行き先としては、たとえば以下のようなところが挙げられます。馬引沢の植木屋(三五郎)、上北沢の牡丹園(名主鈴木左内・凝香園)、下目黒の不動祠(目黒不動・瀧泉寺)、洗足池、古嶽台(上目黒にあった元富士のこと)、祐天寺、中目黒の鬼子母神(正覚寺)、奥沢の九品仏浄真寺、新富士、目黒川、北沢村の淡島明神社(住僧によるお灸で有名)、駒場野、広尾原、光林寺(枝垂桜で有名)など。これらの記録から、当時の江戸近郊の渋谷周辺の様子をうかがうことができます。私にはそれらの記述が興味深い。慊堂の交友関係も興味深い。『慊堂日暦 1』の「解説」(山田琢)によれば、「慊堂の交友の範囲は広く、当時の学者文人はもとより、諸藩の藩士や儒官や医官にも及び、日記を読むと、羽沢山房には毎日これらの人々の来訪が絶え間もない有様」でした。その中の一人が渡辺登(崋山)でした。『慊堂日暦』に「渡辺登」が初めて出てくるのは文政7年(1824年)12月10日(旧暦)。そこには次のようにある。「薄暮、桜田に還(かえ)る。渡辺登より書あり。烟盆(えんぼん)二を送る。山荘の用に供す。」 崋山から贈られた煙草盆二つは、羽沢山房で利用することにしたというのです。また崋山が慊堂の肖像を写したことについては、文政8年6月5日に「華山人来(きた)り肖像を草す」と記され、また同年10月27日には「渡辺華山来り余が真を肖す」と記されています。ドナルド・キーンさんの『渡辺崋山』の口絵11は「松崎慊堂像稿本」であり、口絵12は「松崎慊堂像」。『慊堂日暦1』(平凡社)の巻頭の「松崎慊堂肖像」とは、それぞれ異なるものであり、崋山は何枚も慊堂の肖像画を描いたことがわかります。柔和な笑顔を浮かべた顔だけの肖像画は口絵12。探究心豊かで温かな人柄がここには活写されています。『慊堂日暦1』の「解説」(山田琢)には、「慊堂の知己に対する交情は厚く、その点が慊堂の人柄の魅力であったようである。また贄(し)を通じて慊堂に教えを請う人々の中には、二十歳前後の青少年が多い」とあり、「慊堂は年若い人々の間からも尊敬を受けていたのであろう」と指摘されています。崋山もまた、そのような慊堂を尊敬した若者の一人でした。 . . . 本文を読む
コメント

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その8

2014-02-08 05:19:32 | Weblog
東洋文庫(平凡社)に『慊堂日暦』(全6巻)というのがあり、古書店でそれを見つけて「1」と「3」があったので、それを購入したのがもう数年も前のことになります。しかし最近、ネットを利用して古書店から『慊堂日暦』(全6巻)をまとめて購入し、それが届いたのが新年に入ってからのことでした。その第1巻の「解説」(山田琢)には「江戸目黒の羽沢村に山荘を構えて」とあって、「山荘」があったのは目黒あたりかと思っていたのですが、たまたま今回の取材旅行で、渋谷区立渋谷図書館に立ち寄ったことにより、そこからほんの近くの国学院大学のあたり、現在で言えば渋谷区東4-9-1、かつては下渋谷村羽沢(はねざわ)と呼ばれたところに「山荘」(羽沢山房あるいは石経山房・木倉〔きのくら〕山房とも称した)があったことがわかりました。半蔵門近くの田原藩上屋敷からはゆっくり歩いて1時間ほどの距離であったと思われる。「松崎慊堂をめぐる空間と人物」(吉岡孝)によれば、その「羽沢山房」の広さは35畝(1000坪近く)、竹林があり、梅・桃・柿・栗が植えられ、野菜畑が10畝余(約300坪)もあったという。丘の下には水田があり、西から南へと「鳳凰の尾の形をして」延びていました。渋谷川から西にかけては水田が広がっていたのです。ここからは、夏には江戸の花火(両国の花火か)を眺めることもできたというから、水田や畑、竹林や雑木林などがある丘陵や谷戸の多い地域であるけれども、江戸麹町あたりからは歩いて1時間ちょっとという、城下町江戸からほんの近くの近郊農村地帯であったことになります。慊堂は文化11年(1828年)、44歳の時に息子である明徴に跡を譲って隠居し、掛川藩儒者を辞めています。それより前の文政5年(1822年)にすでに下渋谷村に抱屋敷を求め、隠居後は主にここで暮らすようになります。「羽沢山房」の別名に「木倉山房」(きのくらさんぼう)というのがありますが、これは慊堂が生まれた肥後国(熊本県)北益城(きたましき)郡北木倉村に由来しています。生まれ育った村の面影を下渋谷村に求め、隠居後も、そこから西条藩・佐倉藩・掛川藩・熊本新田藩などの藩邸に講義に出掛けていく日々がありました。また近隣への散策にもひんぱんに出掛けており、現在の渋谷区や世田谷区、また目黒区などのかつての様子を、その『慊堂日暦』の記述から推察することもできるのです。 . . . 本文を読む
コメント

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その7

2014-02-07 05:43:09 | Weblog
崋山が弟子である高木梧庵(ごあん)を伴って三河田原藩上屋敷を出立したのは、天保2年(1831年)9月20日(旧暦)のことでした。あいにく曇天で雨が降り出したため、途中で箕笠を購入します。値は「十一銭三分」。また「胡粉朱砂」(絵具)も購入しています。値は一朱。思いの外、安価であったようだ。購入したところは青山の手前であるらしい。なぜなら、蓑笠や絵具を購入してから、青山に居住している「太白堂主人長谷川氏」を訪ね、おそらく太白堂とともに連れだって青山の酒店に行き、一緒に酒を酌み交わしながら食事をしているからです。その値は「二百三十銭」。その酒店で、おそらく二人は太白堂と別れています。崋山が供とした高木梧庵は、『渡辺崋山集第1巻』の頭注によれば、名は晋吉。浦賀奉行用人一木平蔵の紹介で、崋山の弟子になったとあります。後、天保10年(1839年)に、賀茂季鷹(すえたか)の養嗣子となって季雄と名乗るようになり、賀茂社執事をつとめたという。「太白堂主人長谷川氏」というのは、太白堂六世である江口孤月のことであり、江戸俳諧の宗匠であったとのこと。崋山は同年の天保2年10月、「毛武游記」の旅に出立する際も、青山の太白堂を訪ねて「毛武諸人への手簡」をもらい、「これを道引とし」て旅に出ています。『渡辺崋山集 第2巻』の『毛武游記』の後注によれば、崋山は、長年にわたって太白堂の歳旦帖『桃花春帖』の表紙などの筆をとり、その連句の会にもよく出席していたという。「毛武諸人への手簡」とは、上州・武州地方にいる太白堂孤月の門人たちなどへの紹介状(太白堂自らが書いた手紙)であり、『游相日記』の旅に出立する際においても、太白堂孤月を訪ねて相州(相模国)の門人たちなどへの紹介状を書いてもらったということでしょう。青山居住の太白堂孤月とは、そういう依頼を気安く出来るほど親しい関係にあったということであり、その紹介状を携帯していれば、その土地土地の門人や俳諧を嗜む人たちからさまざまな便宜をはかってもらうことができたということです。ということは、江戸俳諧の宗匠である「太白堂」(江口孤月はその六世)という名前は、関東地方の俳諧愛好家の間ではかなりよく知られていたということであり、その自筆の紹介状ともなれば、旅先においてかなりの効力をもっていたということになります。 . . . 本文を読む
コメント

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その6

2014-02-05 05:53:30 | Weblog
「大山街道」の起点は江戸城外堀の「赤坂御門」。江戸時代中頃から、江戸の庶民が「大山詣(おおやまもうで」)の道として盛んに利用したことから、「矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)」を、「大山」へと至る道ということで「大山道」あるいは「大山街道」と呼ぶようになったと言われています。伊勢原で矢倉沢往還と分かれ、終点の大山阿夫利(おおやまあぶり)神社に至ります。大山は標高1252m。山頂には大山阿夫利神社本社や奥の院があり、晴れた日には相模湾や富士山をはるかに眺望することができる。私も2回ほど登ったことがあります。全行程およそ70km。私はしかし赤坂御門から大山山頂まで(つまり大山街道)を歩き通したことはありません。しかし「富士講」がそうであったように、「大山講」も江戸にのみあったわけではなく、関東平野を中心に各地に多数ありました。従って「大山」へと至る主要道はすべて「大山道」であり、特に私が住んでいる神奈川県内では、かつてはすべての主要道が「大山道」であったと言っても過言ではありませんでした。「大山詣」の時期ともなると、大山へ至る道にはどこにも白装束の姿をして歩く人々の集団が見られたのです。でも何と言っても多数の「大山詣」の姿が見られたのは江戸赤坂御門からの「大山道」でした。江戸は人口100万を超える巨大都市であり、「大山講」に入っている庶民が多数存在していたからです。この江戸赤坂御門から大山に至る「大山街道」について詳しいのは、「全区間にわたって幾度の現地調査を重ね」てまとめられた『ホントに歩く 大山街道』中平龍二郎(風人社)。「大山街道」のルートを歩くにあたっては、今後、特に断らない限りはこの本を利用していきたいと考えています。 . . . 本文を読む
コメント

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その5

2014-02-04 06:01:16 | Weblog
前回、私は子ども時代の崋山も、また佐藤まち(お銀)も、文化3年(1806年)2月(旧暦)に夭折した、8代藩主康友の世子(せいし・藩主の跡継)亀吉の養育に関係した人物であることを推測しました(崋山(当時虎之助)は「御伽役」(おとぎやく)として、お銀は「御守」(おもり)役として)。この推測が当を得ているかどうかは、ごく限られた資料しかないことから何とも言えませんが、もしそうであったならば、若君である亀吉の成長や早すぎる死に、子ども時代の崋山も奥女中時代の佐藤まちも、共通して関わったことになります。『游相日記』において、崋山はそのあたりのことは何も記していません。しかし、「我童(わらわ)なりし時、御身(おんみ)にいと憐(あわれみ)にあづかりたる者なり」という崋山には、その当時のさまざまな思い出が去来していたものと私には思われます。しかし文化3年にお銀が懐妊すると、お銀は崋山の前から姿を消し、翌4年(1807年)2月(旧暦)、母の急死の知らせを受けて「暇」(いとま)をもらって早川村の実家に帰ったお銀は、そのまま江戸の藩邸に戻ることはなかったのです。とすれば、崋山とお銀とは25年ぶりに再会したことになります。崋山はその時39歳、佐藤まち(お銀様)は46歳(推測)ほどでした。 . . . 本文を読む
コメント

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その4

2014-02-03 05:49:32 | Weblog
『江戸奥女中物語』には、「武家屋敷に奉公に行く女性というのは、多摩地域では上の階層に属し、親は、口減らしではなく、花嫁修業として箔をつけるために奉公に出した」とあります。「行儀見習」のための「奥奉公」であったわけですが、しかし大名屋敷においても、「採用時にすでに格差が生じて」いたという指摘があります。武家出身か、町人出身か、地方の農民出身かということで、スタート時点においてすでに格差があったというのであれば、高座郡早川村の「佐藤まち」の場合は、最も下の「御末」か「御守」あたりから出発したのではないかと考えられる。したがって、そこから藩主の「お手付き」となって側室となるというのは、相当異例のことではなかったか。「まち」が仮に享和3年(1803年)に18歳で田原藩邸において「奥奉公」をしていたとすると、友信を生んだ文化3年(1806年)には21歳。その年に「登」の名を賜った崋山は14歳。しかし、崋山が「お銀様」に25年ぶりで再会した時に、「我童なりし時、御身にいと憐(あわれみ)にあづかりたる者なり」と言ったその言葉からは、もう少し前から「まち」のことを知っており、「まち」が子どもであった自分を憐れんだりいたわったりしてくれたことを、崋山が懐かしんでいるようなニュアンスを私は感じてしまうのです。そう思って崋山の年表を見てみると、寛政12年(1800年)に康友(8代藩主)の世子亀吉の御伽役(おとぎやく)を命じられるものの、その亀吉は文化3年(1806年)の2月に夭折。そのため今度は、同年世子となった元吉の御伽役を命じられています。友信(鋼蔵)が生まれたのが同年11月。と見てくると、これは勝手な私の想像ですが、「まち」は世子亀吉の「御守」役を務めていた奥女中ではなかったと思われてくるのです。『江戸奥女中物語』には、「若君には乳持や御守といった女中が付けられ、側室が育児に携わることはなかった」とも記されています。「まち」が世子亀吉の「御守」であったとすると、その「御伽役」であった子どもの時の崋山(虎之助)と接する機会もあり、またその父親である藩主康友と接する機会もあったと思われるのです。しかし「お手付き」となって藩主の子(四男)である友信を生んだとは言え、最下層の農民出身ということから、正室や他の奥女中たちとの関係はきわめて難しいものになったとも考えられるのです。 . . . 本文を読む
コメント

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その3

2014-02-02 06:55:57 | Weblog
「お銀様」は、三宅氏田原藩邸で奥奉公をしていた奥女中であり、どういう経緯によるのかは定かではありませんが、8代藩主康友(1764~1809)の「お手付き」となり、文化3年(1806年)11月27日(旧暦)に、田原藩上屋敷で三宅友信(幼名鋼蔵)を生みました。「お銀様」は相模国高座郡早川村の佐藤幾右衛門の長女で、農家の出身(農民の娘)。江戸城や大名屋敷では大勢の女性が働いており、そのような女性を「奥女中」と言いました。出身は、公家の娘、旗本・御家人や大名の家臣の娘、町人や農民の娘などさまざまでした。こういった江戸で「奥奉公」をしていた「奥女中」(佐藤まち=「お銀様」もその一人)について詳しいのが、『江戸奥女中物語』畑尚子(講談社現代新書/講談社)。それによれば、裕福な町人や農民の娘にとって、武家奉公に出ることは「高等教育の意味合い」があったという。しかし武家奉公は一生続けるものではなく、結婚前の一時期に数年経験するものであって、結婚話がまとまればめでたく暇(いとま)を願うというのが理想的なパターンと考えられていたとのこと。武家奉公に行くには、読み書きなどの手習いは基本であり、それに加えて歌舞音曲(三味線や浄瑠璃)の素養を見に付けておくことが一般的であったという。ということは、娘に歌舞音曲を習わせることができるほどの余裕を持った町人や農民でなければ、娘を武家奉公には出せなかったということになる。また前掲書によれば、多摩地域から武家奉公に出る女性の場合、奉公のつては親類や近い地域で奉公の経験のある女性の紹介によることが多かったという。それ以外に、奉公先の大名家と奉公に行く側の家を結びつけるものとして商売があったとも記されています。大名家出入りの業者(町人や農民)から、十分な条件を満たした娘たちの武家奉公が斡旋されるということもあったということでしょう。といったことを考えると、相模国高座郡早川村佐藤幾右衛門の長女「まち」も、読み書きや歌舞音曲の素養を見に付けた女性であり、近辺の村の田原藩邸奉公経験者か、あるいは田原藩邸に何らかの形で関わる業者から見込まれて、藩邸での「奥奉公」を斡旋された可能性を考えることができるのです。だから「まち」は決して貧しい農家の出身というわけではなく、そしてそれなりの教養を見に付けた女性であったはずです。 . . . 本文を読む
コメント

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その2

2014-02-01 07:15:58 | Weblog
江戸巣鴨の田原藩下屋敷で若隠居の生活を送っている三宅友信の生母「お銀」は、相模国高座郡早川村の佐藤幾右衛門の娘(長女)で、「まち」という名前でした。いつ頃、三河田原藩邸の奥女中になったかはよくわからない。崋山は「お銀様」と再会した時に、「指を屈すれバ二十年あまりむかしのかたちにてあらんやうもなければ」と書き、また「我童なりし時、御身にいと憐にあづかりたる者なり」と述べているから、崋山が子どもの時には奥女中として勤めていたのかも知れない。『平成校注「游相日記」-渡辺崋山 天保2年 大山道の旅-』涌田佑(相模経済新聞社)によれば、「お銀」が側室として友信を生んだのは文化3年(1806年)11月27日(旧暦)のこと。「まち」(お銀様)が、「さすれバ渡辺登様にて候べし」と答えていることから考えると、崋山が「登」という名を賜っているのが文化3年の頃であるから、文化3年、4年頃の崋山を「まち」は知っていることになります。「お銀様」は、友信(幼名鋼蔵)を生んだ翌年の文化4年(1807年)に、早川村の母親が急死(2月4日)したため実家に帰り、そのまま江戸には戻らなかったようだ。友信を出産し、翌年早川村に戻るまでの間に、「まち」は「渡辺登」を知り、主君である三宅康友の側室としていろいろと目を掛けたり、細々とした用事を命じたりしたのかも知れない。文化3年(1806年)の1月以前に、「まち」が奥女中として田原藩邸で働いていたことはまず間違いないところ。もしかしたら、友信が生まれる前から、崋山(幼名源之助)が「まち」を知っていた可能性も考えられる。『綾瀬 綾瀬誕生100年記念』(綾瀬市)には、「巣鴨の下屋敷に下女奉公」に出たのが18歳とありますが、それがどういう史料に基づくものかはよくわからない。友信を生んだのが21歳の時という説もあり、それらが正しければ、高座郡早川村の佐藤幾右衛門の長女「まち」は、享和3年(1803年)か文化元年(1804年)の頃には、田原藩邸(巣鴨の下屋敷?)に奥女中として働くようになっていたものと考えられます。その時、崋山は11、12歳の少年でした。 . . . 本文を読む
コメント (2)