鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.2月取材旅行「行徳~八幡~鎌ヶ谷」その8

2011-02-28 05:37:44 | Weblog
「釜谷原放牧」の絵をもう少し見てみたい。この二人(親子?)は旅人だろうか。旅人にしては軽装すぎる。崋山一行がこの付近を歩いている時刻は、本行徳村の「新河岸」の大坂屋で昼食を摂り、また成田街道(佐倉道)沿いの葛飾八幡宮に立ち寄っているから、午後4時前後かと思われる。崋山の日記には、「上山新田南東の分、藤原新田北西」と記されていたりするから、現在の「藤原1丁目」や「上山町」のバス停のある道筋(木下街道)をたどっていることは間違いない。「釜谷宿二里八町」とあるのは、八幡宿から鎌ヶ谷宿までの距離と思われるから、八幡宿から鎌ヶ谷宿までは、途中葛飾八幡宮に立ち寄らずに急ぎ足で歩いていけば、およそ2時間の距離。崋山一行はこの鎌ヶ谷原内にある鎌ヶ谷宿の旅籠「鹿島屋」で酒を飲み、夕飯を摂っているから、おそらくこの絵は、その鎌ヶ谷宿の手前で描かれたものと推測することができる。ということは、この二人の親子は、鎌ヶ谷原の木下街道を鎌ヶ谷宿の方向に向かって歩いていることになります。旅人と考えるには、振り分け荷物などを背負ってはいないし、軽装すぎる。香取・鹿島・息栖の三社詣や銚子遊覧、ないしはその方面への商用の旅とは考えられない。となると、この二人は地元の人間ではないか。杖をつき、木の枝をもったこの二人は、そのくつろいだひょうひょうとした感じからも、夏の夕刻前に、村の農家を出て牧場を見回りに来た親とそれにくっついてきた子どもとは考えられないか。牧場の向こうには鎌ヶ谷宿があるけれども、崋山一行のようにそこで休憩や夕食を摂って、さらにその先の白井宿まで目指そうという二人ではなく、街道筋から牧場(まきば)を見回った後、日暮れに踝(くびす)を返して自分の村に戻る二人のように思われる。と考えると、この二人の住む村は、鎌ヶ谷宿の手前の馬込沢村かあるいは藤原村あたりということになりますが、これ以上は絞り込むことは難しい。手がかりは、絵に描かれた牧場の向こうの丘陵の稜線の様子になりますが、木下街道は現在は家並みが続いていて、道を歩いていてもそのような低い山稜を確かめることはなかなか容易ではありません。 . . . 本文を読む
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2011.2月取材旅行「行徳~八幡~鎌ヶ谷」その7

2011-02-27 06:52:46 | Weblog
芳賀徹さんの『渡辺崋山 優しい旅びと』(朝日選書)には、口絵として、『四州真景図巻』のうち「釜谷原放牧」という一枚がカラーで掲載されています。真ん中の菅笠を被った父親らしき人物とその子供(男の子)らしき人物が、後姿を見せて歩いている道が「木下(きおろし)街道」。原っぱの向こうに低い丘陵が描かれ、またこの絵を描いた崋山が向かっている方向からいって、この親子は木下河岸方面へと「木下街道」を進んでいるといっていい。父親は手に杖を持ち、男の子は細い枝のようなものを手にしています。炎天の夏ということもあって、二人はいたって軽装。しかし微風は吹いているようで、父親の上着(白い法被)の裾がその微風に揺らいでいます。「木下街道」に轍(わだち)のようなものが見られるのは、ここを鮮魚を運ぶ荷車が秋から春にかけて頻繁に行き交っているからだろうか。もちろん、それ以外の時期にもさまざまな物資を載せた荷車が行き交っていたものと思われる。またこの道を鮮魚(秋~春)やさまざまな物資を背に載せた馬も頻繁に行き交っていました。今は昼過ぎの炎天下のためか、街道にはこの二人以外に、人の姿も荷車や荷馬の姿も見えない。街道の両側には広々とした牧草地が広がり、左右に一頭ずつ草を食む馬が描かれています。何とも広々とした風景であることに感動します。街道はこの鎌ヶ谷原(「釜谷原」)の中を走っているのですが、やや左手へとゆるやかにカーブしていることがわかります。崋山のメモには「両牧釜谷原放牧、原縦四十里、横二里或は一里と云。即小金に続くとぞ」と記されています。芳賀徹さんは、「むかし陸軍の大演習などが行われた習志野原の下野牧(しものまき)五百余町歩にすぐつづく中野牧千百数十町歩の中心部で、ともに当時関東郡代の管轄下であった」と記されています。この道筋が現在はどうなっているのか。この絵を見て以来、ぜひこのあたりを歩いてみたいと思っていました。 . . . 本文を読む
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2011.2月取材旅行「行徳~八幡~鎌ヶ谷」その6

2011-02-26 05:04:25 | Weblog
『東山魁夷の軌跡』(市川市)によると、東山魁夷(かいい)は本名東山新吉。明治41年(1908年)に横浜に生まれています。3歳の時に、一家で神戸に転居。大正15年(1926年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学しています。昭和20年(1945年)7月、37歳の時、召集を受けて、まず千葉の連隊に入りますが、この時泊めてもらったところが、以前より懇意にしていた市川の中村勝五郎宅でした。翌8月、敗戦。その年の12月から東山魁夷は、その中村勝五郎氏が経営していた工場の事務所の2階に住むようになり、昭和28年(1953年)には、その中村家に提供してもらった土地に自宅を新築。以後、平成11年(1999年)に亡くなるまで、この自宅のアトリエで旺盛な創作活動を続けました。東山魁夷と市川は、戦前より、懇意にしていた中村勝五郎氏との関係で深いつながりがあり、そして50余年もの間自宅が所在していたところであったのです。『東山魁夷の軌跡』には、「自宅庭にて」という、東山魁夷が自宅庭を歩いている写真が掲載されています。それを見ると庭に雑木林が広がっていることがわかりますが、この庭を含む東山家の敷地はもともとは中村家の土地であったわけだから、中村家の土地はこのような雑木林を含むかなり広大なものであったことが推測されます。おそらく戦後においても、この敷地前を走る「木下(きおろし)街道」の沿道は、このような雑木林の広がる地域であり、また鎌ヶ谷原に入れば、崋山の『四州真景』「釜谷原放牧」に見られるような広大な原っぱや、雑木林、また畑地などが広がっていたものと思われます。 . . . 本文を読む
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2011.2月取材旅行「行徳~八幡~鎌ヶ谷」その5

2011-02-24 06:19:55 | Weblog
銚子から船積みされ、「なま道」を運ばれた鮮魚とは、鯛・すずき・こち・ひらめ・鰹・鮪などでした。しかし1年中、「なま道」を運ばれたのかというとそうではなく、鮮魚は腐りやすいので、5~7月は関宿まわりで「活船」(生簀仕立てのある船)で運ばれ、8~4月にかけて「なま道」を馬の背で運ばれたという。銚子で鮮魚を載せた船(これを「なま船」といい、猪牙船〔ちょきぶね〕のような小型船)は、夕刻に銚子を出発し、翌日未明に木下河岸や布佐河岸に到着。そこから鮮魚は馬の背に載せられて、木下河岸の場合は行徳(祭礼河岸)へ、そして布佐河岸の場合は松戸へと運ばれました。行徳(祭礼河岸)や松戸からは、またまた船に載せられて、そのまま江戸日本橋の魚市場まで運ばれたのです。ということは、崋山一行が木下街道を進んでいった時、鮮魚を背に載せた馬と行き交うことはほとんどなかったものと思われる。しかしこの木下街道は、香取・鹿島・息栖の三社詣や、銚子遊覧に向かう旅人で賑わった道であったから、崋山一行はそういう旅人たちと行き交ったものと思われます。 . . . 本文を読む
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2011.2月取材旅行「行徳~八幡~鎌ヶ谷」その4

2011-02-23 06:20:10 | Weblog
山本忠良さんの『利根川と木下河岸』(崙書房)によると、「行徳みち」と「松戸みち」というのがある。「行徳みち」は、木下(きおろし)→大森→白井(しろい)→鎌ヶ谷(かまがや)→八幡(やわた)→本行徳という道筋であり、本行徳から江戸までは船運で約3里。一方「松戸みち」は、布佐→発作→亀成→浦部→平塚→藤ヶ谷→佐津間→金ヶ作→松戸という道筋であり、松戸から江戸までは船運で約7里。 「行徳みち」は、利根川筋の木下河岸から見て行き先の「行徳」をとって付けた名前であり、「松戸みち」は、やはり利根川筋の布佐河岸から見て行き先の「松戸」をとって付けた名前であるということがわかります。これはたとえば「大山(おおやま)道」や「津久井道」、「富士道」、「甲州街道」などの例からもわかることで、行き先から道の名前が呼ばれるのです。木下(きおろし)からは「行徳みち」と呼ばれ、逆にその道は行徳からは「木下街道」と呼ばれる。現在「行徳街道」(浦安~本八幡)というのがありますが、それは古くからの呼称ではなく、浦安や行徳の人々からは「八幡みち」と呼ばれていたように思われます。行き先が八幡宿であり、葛飾八幡宮であったからです。この「行徳みち」と「松戸みち」には共通点がある。それは何かというと、両者とも銚子からの鮮魚輸送の主要街道であったということ。前掲書によれば、銚子を夕方出船した鮮魚は、日本橋の魚市で、3日目の朝売りに間に合うようにするのがしきたりでした。銚子で船積みされた鮮魚は利根川で木下河岸や、それよりやや上流の布佐河岸に運ばれ、そこから馬の背に乗せられて、陸路をそれぞれ行徳や松戸へと運ばれ、そこからまた船積みされて船で江戸日本橋の魚市場まで運ばれたのです。この鮮魚を運んだ陸路を総称して「なま道」と言いますが、「行徳みち」も「松戸みち」も、銚子に水揚げされた鮮魚を一大消費都市江戸へと運ぶきわめて重要な「なま道」でした。 . . . 本文を読む
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2011.2月取材旅行「行徳~八幡~鎌ヶ谷」その3

2011-02-22 06:15:23 | Weblog
『地図に刻まれた歴史と景観 明治・大正・昭和 市川市浦安市』によれば、江戸川を「市川の渡し」で渡ると、佐倉道(千葉街道・成田街道)沿いに、市川村・市川新田・平田村・八幡町が並んでいました。八幡町の中でも、葛飾八幡宮の一画が八幡村で、江戸時代においては八幡神領となっていました。八幡町は宿場町であり、宿場は現在の市川市役所から東に街道沿いに伸びており、西半分が上町、東半分が下町で、古くは上宿、下宿と呼ばれていたという。『房総の道 成田街道』によれば、成田街道(佐倉道)は、日光道中千住宿の外れを右折し、中川を渡った新宿の外れで右の道へ入ったところから始まる。そこを左へ行けば水戸道。小岩→市川関所→八幡→船橋→大和田→臼井→佐倉→酒々井(しすい)を経て成田に至ります。江戸~成田間は16里余。八幡宿は江戸から5里33町の宿場町ですが、本陣や脇本陣はなく、中小の旅籠屋が合わせて8軒ばかりありました。この八幡宿にある八幡宮(葛飾八幡宮)は朱印地52石を有し、「武の社」として源頼朝や徳川家康の信仰を得たところでもありました。この八幡宮を、明治初年の神仏分離以前、別当寺として管理していたのは上野の天台宗東叡山寛永寺の末寺である法漸寺(ほうぜんじ)であり、崋山も、その日記に「総州葛飾郡法漸寺」と記しています。 . . . 本文を読む
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2011.2月取材旅行「行徳~八幡~鎌ヶ谷」その2

2011-02-21 05:44:31 | Weblog
『地図に刻まれた歴史と景観 明治・大正・昭和 市川市浦安市』の冒頭に、玉蘭斎貞秀の「利根川東岸一覧」(明治元年)という絵が出てきます。この「利根川」とは江戸川(旧江戸川)のことであり、小岩側から見て、北は国府台から南は堀江村(現浦安市)までを細密に描き込んだもの。左画面中央の大きく誇張されて描かれた川は真間川であるという。ここに描かれている景観は、「40年余り以前の『江戸名所図会』の景観とほとんど変わら」ず、そして「明治期をつうじて大きくは変わらなかった」と記されています。その景観が大きく変化したきっかけは、まず大正3年(1914年)の京成電車の開通。東京からの流入人口で最初の都市化が進んでいきます。そして次が昭和43年(1968年)の地下鉄東西線の開通。これによって旧行徳地域や浦安地域の宅地化が進み、昭和45年(1970年)頃を最後に、「郊外田園都市としてのこの地域の性格はなくなっていった」と結論づけられています。さて、「玉蘭斎貞秀」とは誰かと言えば、これは「横浜浮世絵」で有名な、「空とぶ絵師」「五雲亭貞秀」のこと。この五雲亭貞秀は、本名橋本兼次郎。文化4年(1807年)に下総国の布佐(ふさ)に生まれています。布佐は、利根川筋の木下(きおろし)河岸近くの、やはり河岸のあるところ。兼次郎は、利根川筋・木下街道・行徳河岸・新川・小名木川・隅田川に詳しかったはずで、彼の絵画姿勢から考えてもこの江戸川(旧江戸川)周辺を隅々まで歩き回った上で、この絵を描いたものと思われます。ここに描かれている景観は、崋山一行が歩いた頃においてもほぼ同様であったと考えられます。 . . . 本文を読む
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2011.2月取材旅行「行徳~八幡~鎌ヶ谷」その1

2011-02-20 05:20:01 | Weblog
前月は、本行徳の新河岸から行徳街道→寺町通り→成田道を経て江戸川(江戸川放水路)の堤防上まで歩き、そこから東京メトロ東西線の妙典駅へ向かって帰路に就きました。北関東の利根川水系を中心とした水運に関心を持ち、隅田川から小名木川へと歩いた時、中川船番所資料館で渡辺崋山の「四州真景図」のうち「中川船番所」を描いた絵(複製)を見て、実は私が歩いてきた道筋は、渡辺崋山が「行徳船」で辿ったことのあるルートに沿ったものであったことを知りました。江戸日本橋小網町の行徳河岸から「行徳船」に乗り込んだ崋山一行は、日本橋川→隅田川→小名木川→中川→新川→江戸川を経由して、本行徳村の「新河岸」に上陸し、そこから成田街道の八幡(やわた)宿→木下(きおろし)街道を経て、木下河岸から利根川水運を利用して、潮来(いたこ)や香取神宮などを経由して銚子へと向かったのです。では、本行徳の新河岸から八幡まではどういう経路を辿ったのか。前回は、『江戸名所図会』の「行徳徳願寺」の絵から、崋山一行は「神明(豊受)神社」の前を通って八幡宿へと真っ直ぐに進んでいったものと推測しました。ということでそれを確かめるべく、前回進んだ地点から、さらに江戸川(江戸川放水路)を渡って八幡方面へと歩いてみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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「浦安市郷土博物館」と「浦安市立中央図書館」 その最終回

2011-02-13 05:48:57 | Weblog
「はじめて図書館を利用される方へ。浦安市立図書館のサービス」という案内パンフレットに載せられている「浦安市立図書館の目指すもの」は、以下のようでした。 図書館に働く私達は本を読むこと、情報を得ることは、人が生きるうえで大きな力になることを信じています。 私達は、「読みたい、知りたい」という希望に対し、それがどんなに小さなものであっても謙虚に受けとめ、専門職として培った経験を生かしその実現への助力を惜しみません。 私達は、社会の動きを敏感に察知し、一人でも多くの市民が「読むこと、知ること」を享受できる環境を守るため最善の努力をすることを自らに課します。 私達は、市民の得た「知ること」の喜びを自分の喜びとし、図書館の仕事を誇りに、生き生きと働く図書館員を目指します。 平成15年7月 中央図書館開館20周年の節目に 浦安市立図書館 職員一同 . . . 本文を読む
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「浦安市郷土博物館」と「浦安市立中央図書館」 その6

2011-02-12 07:10:56 | Weblog
「はじめて図書館を利用される方へ。浦安市立図書館のサービス」というパンフレットの内容で、興味深い点をいくつか列挙します。①本・雑誌 紙芝居 貸出点数10点 貸出期限2週間(紙芝居を貸出できるのです)②図書館利用講座で資料の探し方のご案内をしています。③お電話でも予約することができます。④市内の図書館に所蔵していない本は、新たに購入したり、千葉県内の図書館や国立国会図書館等から取り寄せることもできますので、ご相談ください。⑤子どもたちの読書や調べもののお手伝いをしています。子どもの興味や年齢に合った本の選び方、絵本の読み聞かせの仕方など、子どもの本に関する大人の方からの問い合わせにもお答えしています。お気軽にご相談ください。「えほんのじかん」や「おはなし会」等、こどものための行事を行っています。(児童サービスを徹底していることがよくわかります)。⑥来館や図書館の資料をそのまま利用することに障がいのある方のために、次のようなサービスを行っています。・宅配サービス・対面朗読・点訳図書、録音図書等の貸出・大きな字の本の貸出 障がい者手帳は必要ありません。(障がい者サービスの充実ふりがうかがえます)⑦中央図書館には、休憩や飲食、図書館資料の閲覧ができるラウンジがあります。…飲み物や軽食も販売しています。(長時間の利用者にはこれはありがたいサービスです)そのパンフレットの最後の方のページには「浦安市立図書館の目指すもの」という一文が載せられていました。「職員一同」とあり、これも他の図書館の案内パンフには見られないものでした。 . . . 本文を読む
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「浦安市郷土博物館」と「浦安市立中央図書館」 その5

2011-02-11 06:34:58 | Weblog
浦安市立中央図書館のカウンターで、「図書館案内のようなものはありますか」とお聞きすると、係の方が「はじめて図書館を利用される方へ。浦安市立図書館のサービス」というパンフレットと、「一般フロア書架案内図」を手渡してくれました。「一般フロア書架案内図」の裏には、書庫棟の書庫1階と書庫2階の配置図もあって、分類・内容・書架番号がわかるようになっています。今回、レファレンス室が中心で、一般フロア書架や書庫棟などをゆっくりと見て回ることはしませんでしたが、地方図書館であるにも関わらず、蔵書数が相当なものであることに驚きました。しかもそれが細かく分類されて配列されており、案内図から、探している本がどのあたりにあるかすぐわかるようになっています。パンフレットによれば、浦安市立図書館は、私が今回利用した「中央図書館」と、7つの分館で構成されています。分館は堀江・猫実(ねこざね)・富岡・美浜・当代島・日の出・高洲にあります。首都高速湾岸線が走っているラインがかつての海岸付近であることを考えると、猫実・堀江・当代島の各分館は、かつての浦安の町にあり、美浜・富岡・日の出・高洲の各分館は埋め立てられて拡大した新しい浦安の地にあることになります。京葉線の新浦安駅前には「プラザマーレ図書サービスコーナー」、舞浜駅前には「行政サービスセンター」があり、パンフレットによると、ここでは図書館で借りた資料の返却と予約した資料の受取りができるという。新浦安駅前プラザマーレの方の受付時間は午前7時~午後9時まで(休業日は祝日、年末年始)、舞浜駅前行政サービスセンターの場合は午前7時~午後8時まで(休業日は、土・日、祝日、年末年始)となっています。つまり京葉線で通勤・通学をしている図書館利用者は、通勤・通学の行き帰りに、図書館資料の借り出しができるということです。 . . . 本文を読む
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「浦安市郷土博物館」と「浦安市立中央図書館」 その4

2011-02-10 05:46:44 | Weblog
昭和46年(1971年)の漁業権全面放棄前まで、海苔養殖業は、冬期の浦安の基幹産業で、東京沿岸でも海苔養殖が最も盛んな地域の一つであったという。かつて、江戸前の海苔といえば、アサクサノリが主流でしたが、昭和20年代後半に大森にスサビノリが移植されて以来、東京湾にはスサビノリが定着し、その後、昭和35年(1960年)頃に人工採苗技術が全国に普及していくとともに、このスサビノリも全国へ普及していくことになりました。昭和39年(1964年)の3月、千葉県の奈良輪漁業協同組合の和田嘉一氏が、「沖の軍艦棒」と呼ばれるところで、長くて厚い変わった海藻を発見。人工採苗を試みて、このノリの養殖を開始。かつてのアサクサノリは15cmほどしか伸びないのに、このノリは50~60cmはあたりまえ、長いものでは1mも伸びるものがあり、しかも幅においても従来のアサクサノリよりも広かったという。そのためこのナラワスサビノリは千葉県内に普及していったのはもちろんのこととして、全国的にも普及していき、現在では養殖ノリの99%以上がこのナラワスサビノリ系のものであるという。そしてかつて江戸前の海苔の主流であったアサクサノリはどうなったかといえば、現在、アサクサノリは絶滅に瀕している仲間として「絶滅危惧種」に認定されているという。ノリの場合、コスジノリは野生絶滅と判定されており、カイガラアマノリ、ソメワケアマノリ、マルバアサクサノリ、イツマツノリ、アサクサノリが「絶滅危惧種」になっているとのこと。現在の千葉県において海苔養殖が始められたのは文政5年(1822年)、人見村(現君津市)においてのことでした。それ以来、昭和30年(1955年)頃まで養殖海苔のほとんどはアサクサノリであったというから、郷土博物館野外展示場で再現されている昭和27年(1951年)頃の浦安においても、また山本周五郎が滞在していた昭和初年の浦安においても、そこで養殖されていた海苔はアサクサノリであったということになり、昭和30年代以後にはそれに代わってスサビノリが普及し、昭和40年代にはナラワスサビノリが普及していったものの、昭和46年(1971年)の漁業権全面放棄によって、それまで浦安の基幹産業であった海苔養殖は終焉を迎えた、ということになります。 . . . 本文を読む
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「浦安市郷土博物館」と「浦安市立中央図書館」 その3

2011-02-09 06:01:53 | Weblog
一番通り(フラワー通り)にあった天ぷら屋「天鉄」をモデルにした「天ぷら屋」の店内には、「もう一度、青べかの世界へ」というパネルがあり、それによると、山本周五郎がふたたび浦安を訪れたのは、『青べか物語』の最後の章である「おわりに」を書き上げた後の、昭和35年(1960年)の秋であったという。このおよそ30年ほどの間に浦安やその近辺は大きく変わっていましたが、その後の浦安の変化に較べれば、まだまだその変化の程度は小さいものであったかも知れない。山本周五郎が浦安に滞在していた昭和初期頃の浦安の様子は、「豆腐屋」店内の「在りし日の浦安アルバム」2冊から知ることができました。「昭和初期通船が停泊している『蒸気河岸』」は、現在浦安橋が架かっている下のあたり。蒸気船である「通船」が「蒸気河岸」に横付けされています。「手前に『新橋』左から『浦安町役場』『浦安町漁業組合』『大松』」は、昭和10年頃の様子。「浦安町役場」向こうの森は、清瀧神社の杜になる。「かつて浦安一番の繁華街であった『フラワー通り』」は昭和5年の撮影。手前に着物姿の小学生4人が写り、その向こうに白い手ぬぐいをかぶった後姿の女性がいます。通り左手には「和洋御菓子各種パン」と記された看板がある。「お祭り好きな浦安の人々(当代島のお祭り)」は昭和15年。奥の左の家は茅葺で、右の家は板屋根。「江川橋からみた町並み」は昭和初期のもの。野外展示場は、キティ台風被災後に復興した、昭和27年頃の浦安を再現したものですが、全体的には景観は昭和初期のそれを受け継いでいるように思われます。 . . . 本文を読む
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「浦安市郷土博物館」と「浦安市立中央図書館」 その2

2011-02-08 06:16:48 | Weblog
『浦安市郷土博物館 常設展示解説書』によると、ここが開館したのは平成13年(2001年)4月とのこと。今から10年ほど前に開館したことになります。展示にあたっては、「もの」と「人」とのつながりを重視し、特別なものを除いて、自由に触れることができるようになっており、また「もやいの会」というボランティアの方とのふれあいを通して、楽しく学ぶ工夫がされているという(「はじめに」より)。地下1階は、「浦安のまち」という野外展示場と「船の展示室」などがあり、橋の架かる川は境川を現しています。1階は「テーマ展示室」と「視聴覚室」など。2階は「企画展示室」と「体験学習室」になっています。野外展示場の「浦安のまち」は、終戦後、キティ台風の被害から復興して浦安が漁師町としてもっとも活気に満ち溢れていた時期、昭和27年(1952年)頃の情景を再現したものだという。 . . . 本文を読む
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「浦安市郷土博物館」と「浦安市立中央図書館」 その1

2011-02-07 05:47:50 | Weblog
浦安の境川沿いを歩いた時に出会ったあるおじさんが、「この先に郷土博物館があるから、そこへ行くといろいろなことがわかるよ」と教えてくれました。その日は、帰る時間が迫っており、ゆっくり立ち寄るにはちょっと遅かったため、途中で左折して、浦安駅に戻りました。帰宅して調べたところ、この浦安市郷土博物館は、浦安市立中央図書館に隣接していることを知りました。浦安市立中央図書館については、市民一人あたりの利用実績が高いことで全国的に有名で、全国各地から施設見学者が訪れる地方図書館であるということを、新聞記事か何かで読んで記憶していたので、いつか訪れてみようと思っていた図書館でした。ということで、浦安および浦安近辺のことについてさらに詳しく調べるべく、ふたたび浦安へと足を向けました。 . . . 本文を読む
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