鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.5月の「東海道保土ヶ谷宿」取材旅行   その2

2007-05-25 20:48:56 | Weblog
相鉄線天王町駅は、相鉄線と旧東海道がちょうど交わるところにあります。改札を出たガード下が実はかつての東海道という珍しい駅。この天王町駅を下りて少し歩いたところに健康診断を受ける機関があり、かつて何度か来たことがあるのですが、天王町が保土ヶ谷宿の一部であることを知ったのは、昨年の秋頃。検診を受けた帰り、星川町にある保土ヶ谷図書館を訪ねた折です。それ以来、ぜひゆっくりと歩いてみたいと思っていました。保土ヶ谷宿を西に行くと、権太坂というのがありますが、旧東海道の権太坂ではなく、国道1号線の権太坂を、かつて歩いた記憶があります。もう17年ほど前。職場の飲み会の帰り、横浜駅まで来て東海道線で藤沢駅まで帰ろうとしたところが、終電車はすでに発車した後。仕方なく、国道1号線を真夜中歩いて、権太坂を越えて、戸塚あたりからアパートのある湘南台方面に向かって歩いていたところが、1台のタクシーが停まり、乗っていた中年の男性が「どこまで行くの」と尋ねたので、「湘南台まで」と答えると、「乗っていけよ」と言ってタクシーに同乗させてくれた、ということがあったのです。帰宅したのは午前4時頃だったでしょうか。横浜駅からタクシーに乗るお金は、おそらく持っていなかったのでしょう(今のように24時間営業のコンビニはなかったので)。今となれば、懐かしい思い出となっています。あの時、真夜中の道を歩く私に親切に声を掛けてくれた男性は、今でもお元気にお過ごしでしょうか。 . . . 本文を読む
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2007.5月の「東海道保土ヶ谷宿」取材旅行   その1

2007-05-20 09:54:11 | Weblog
 天気予報は、曇のち晴ということで、雨マークも消えたため、5月の取材旅行を決行しました。行き先は東海道保土ヶ谷宿。4月に、日本橋に到達し、神奈川宿から日本橋までを踏査したので、これからしばらくは、神奈川宿から西へ向かいます。神奈川県内の東海道については、行程すべてを自分の足で歩いてみようと考えています。出来ることなら、年内に「箱根八里」を越えて、三島宿まで行ってみたい。神奈川宿を取材したのは、昨年(2006年)12月。「神奈川通東公園」(長延寺〔旧オランダ領事館〕跡地)から神奈川宿の西の外れ「上台橋(かみだいはし)」までを歩きました。今回は、この「上台橋」から「保土ヶ谷宿」、そして「権太坂(ごんたざか)」を越え、「品濃(しなの)の一里塚」を経て、東戸塚駅(横須賀線)に出ることにします。 . . . 本文を読む
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中江兆民とプティジャン神父 その3

2007-05-18 22:28:56 | Weblog
長崎新町の済美館でフランス語を教えた教師について詳しく記されているのは、宮永孝さんの『日本史のなかのフランス語』(白水社)という本。そこでは、フランス語の教師として次のような人々が挙げられています。宣教師(パリ外国宣教会所属)ベルナール・タデ・プチジャン、フィーゲ、平井希昌(ゆきまさ)、名村泰蔵(たいぞう)、志築龍三郎。そして長崎駐在フランス領事レオン・デュリー。レオン・デュリーについては、元治元年(1864年)の6月、長崎奉行服部長門守常純が、フランス語の教授を嘱託しています。もっとも非常勤の教師であったようですが。プティジャン、平井、名村、デュリーについては、その事績をある程度たどることが出来ますが、フィーゲと志築については、全く不詳。飛鳥井雅道さんの『中江兆民』(吉川弘文館)でも、松永昌三さんの『中江兆民評伝』(岩波書店)でも、全く触れられていません。特に気になるのはフィーゲという人物。というのも、中江兆民は、済美館時代を振り返って次のように書いているからです。「文法書の如きも、其(それ)始(はじめ)て臨読するや、天主教僧侶に就(つい)て質疑す。彼れ日本語を能(よ)くせず、我れ仏蘭西語に通ぜず。目、察し、口、吟じ、手、形し、苦心惨憺(さんたん)として、其(その)終(おわり)は、則(すなわ)ち相共に洒然(せんぜん)一笑して、要領を得る事能(あた)わざるもの、日に幾度なるを知らず。」この兆民が学んだ「天主教僧侶」を、私はプティジャン神父のことだとずっと思っていたのですが、「信徒発見」の経緯を見てみると、プティジャン神父はそれなりに日本語を話し、また日本語を聞き取ることも出来ているのです(「中江兆民とプティジャン神父 その2」参照)。となると、兆民が学んだ「天主教僧侶」は、プティジャン神父ではない可能性も出てくる。済美館にはフランス語を教えたもう一人の「天主教僧侶」がいて、それが「フィーゲ」という人物ではないか、という推測が成り立ってくるのです。しかし、宮永さんが、どういう資料に基づいて「フィーゲ」という人物を挙げたのかがわからないため、「フィーゲ」について絞り込んでいくことはなかなかむずかしい。ともかく、プティジャン神父の周辺に、「フィーゲ」らしき人物(神父)はいないか。そのあたりのことを念頭に置いて、『日本キリスト教復活史』をさらに読み進めてみることにします。 . . . 本文を読む
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ウォーキングの効用  1年間を振り返ってみて

2007-05-12 17:36:58 | Weblog
 昨年の5月9日から、本格的に朝のウォーキングを始め、先日、丸1年を迎えました。雨が強いときは休み、また土・日については、疲れている時には休むようにしたので、年間の達成率としては7割ちょっとといったところ。平日は80分、休日は80分以上。休日で一番歩いたのは、ゴールデンウィーク中の「丹沢三ツ峰縦走」のおよそ10時間。各地の取材旅行でもけっこう歩きました。最近の休日は、夏の富士登山に備えて、近辺の低山を歩くことが多くなりました。山歩きは、私にとっては、高低差のあるウォーキングなのです。このウォーキングを1年間継続したことにより、心身も生活も大きく変化しました。私にとってのウォーキングの効用を、1年間の実践と結果を通して、ここにまとめてみることにします。 . . . 本文を読む
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中江兆民とプティジャン神父 その2

2007-05-11 20:06:16 | Weblog
 浦上村山里本原(もとばる)郷平のドミンゴ(岩永)又市は、1865年3月17日(和暦2月20日)の「信徒発見」の翌々日に、大浦の天主堂(「フランス寺」)で初めてプティジャン神父と会い、その年の夏には、訪れてきたプティジャン神父とローカニュ神父を近くの杉山(大きな樅〔もみ〕の森のなかの彼の家から数歩の所、ともいう→『日本キリスト教復活史』)に案内し、天主堂へ行けない老人や病人を、2人に紹介しました。その時、1人の老人が、プティジャンとローカニュに対して、「あなたさま方が天主堂をお建てになりませんでしたら、たとえ10年たっても、お知り合いにはなれなかったでしょう」と言ったという(『人物中心の日本カトリック史』池田敏雄〔サンパウロ)。 そのことを踏まえると、大浦の地に、天主堂が建設され始め、そしてそれが完成し、やがて落成式が行われるといった一連の出来事は、長崎に住む人々だけでなく、長崎周辺のキリシタンたちにとっても大きな関心事であり、特にキリシタンたちにとっては大いなる喜びであって、それが3月17日(和暦2月20日)の「信徒発見」につながったと推測することが出来ます。 . . . 本文を読む
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2007.4.新緑の丹沢三ツ峰縦走  その2

2007-05-05 07:52:16 | Weblog
江戸時代、東丹沢一帯(現在の県有林にあたる)は江戸幕府直轄の「御林」で、「丹沢御林」とか「丹沢御留山(おとめやま)」と呼ばれていたことは前回触れました。それに対して西丹沢一帯(現在の国有林にあたる)は小田原藩の藩領であって「三保」と呼ばれていたそうです(そう言えば、丹沢湖をつくっている三保ダムというのがありますね)。小田原北条氏の時代は、丹沢一帯はこの北条氏の「御留山」で、山奉行が置かれて管理をしていました。茶の湯や暖房用に使用するものとして、煤ケ谷村が白炭を生産し、毎年12月に伝馬(てま)をもって小田原に運んでいたという記録があります。小田原城下の建築物の建設用として、愛甲郡や津久井の山々より木材が伐り出されてもいたようです。この丹沢一帯は明治になると官有林になります。明治22年(1889年)に、全国の官有林のうち343万ヘクタールが帝室(皇室)財産として農商務省山林局から宮内省の帝室林野局に移されますが、そのうち140万ヘクタールが「世伝御料」(永久財産)となり、実は丹沢は全てこの「世伝御料」となっているのです。この「御料林」からの収益(建設用材・焚き木用材)は皇室の重要な収入源になっていました。 . . . 本文を読む
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2007.4.新緑の丹沢三ツ峰縦走  その1

2007-05-03 07:11:41 | Weblog
 前回は東京都心「日本橋」の取材報告でしたが、今回はガラリと変わって、丹沢の山歩きの報告です。昨年のゴールデンウィーク明けから、通勤途上において朝のウォーキングを始め、それを継続していくなかで、「ご来光」を見るために富士山へ登ってみたいという気持ちが高じてきて、そのためには上り下りの脚力が必要だ、ということで、ウォーキングの時も職場でも階段を少しでも多く上り下りするように意識するようになり、また、日曜日の朝方、天気のよい日には、近辺の小高い山に登るようになりました。たとえば、宮ケ瀬湖畔園地から登る春の木丸(別名ハンノキ丸)、宮ケ瀬三差路から登る高畑山、土山峠から登る辺室山(へむろやま)などなど。いづれも、朝5時半頃から登り始めれば、午前8時前後には戻ってこれる山。先日高畑山に登った時、丹沢山・塔ノ岳を経由して大倉に出る山道、すなわち「丹沢三ツ峰縦走」に挑戦したい、という気持ちが湧き起こってきました。十数年前に、三差路から塔ノ岳まで行き、そこからヤビツ峠に下りて、県道を宮ケ瀬まで戻ってきたことがあり、その時に濃い霧の中で立ち現れてきたブナ林の幻想的で荘厳な姿が思い出されもしたのです。家に戻って「ヤマケイ登山地図帳」を調べてみると、三差路から大倉まで、地図上の水平距離18.9キロ。最大標高差1200メートル。標準歩行時間8時間。私の今の足なら、朝5時前に出発すれば、ゆっくりと景色を見ながら歩いたとしても、遅くとも夕方までには塔ノ岳を下りて大倉に出ることが出来るだろうと判断しました。大倉からは渋沢駅に出て小田急線で本厚木駅まで行き、そこからバスで愛川町の自宅まで戻るのです。決行はゴールデンウィーク中の快晴の日。疲れも出るだろうから、出来ればゴールデンウィークの前半に決行したい。歩き切ることが出来れば、今まで1年間のウォーキングの成果を確かめることとなり、また富士登山に向けての大きな自信となるに違いない。そう考えて、連休2日目の4月29日(日)の4:51、宮ケ瀬三差路の丹沢登山口から「丹沢三ツ峰縦走」の登山道に取り付きました。以下、その報告です。もちろん「幕末・明治の日本を歩く」なので、丹沢に関する歴史的なことも織り交ぜていくことにしたい。 . . . 本文を読む
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