鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 赤岡まで その2 

2010-01-31 07:07:44 | Weblog
『中岡慎太郎全集』には、冒頭部分に10枚に渡って写真のページがある。最初のページの肖像写真は、慶応2年(1866年)11月に撮影されたもので、慎太郎28歳(満年齢)。「年譜」を見ると、「十一月十五日夜、刈谷(説太郎)望月(清平)来着。二十四日北川武平次(季姉かつの夫)父の訃報を携え面会に来る。写真撮影のことあり。…二十九日故郷の義兄と初太郎宛亡父哀悼の書」とありますが、父である中岡小伝次が亡くなったのはその年6月26日(86歳)。これにより中継養子であった中岡源平が、8月3日に家督を相続し、名実ともに北川村大庄屋となっています。この年の「年譜」の記述をたどっていくと、この年9月24日、慎太郎は京都二本松の薩摩藩邸において土佐藩の小笠原唯八らと面会し、さらに10月6日、入京した小笠原唯八が中岡を訪ねていることがわかります。この小笠原唯八こそ、「二十三士」の逮捕および処刑の現場責任者であり、長姉縫(ぬい)の夫(川島総次)や親友新井(にい)竹次郎、同志の田野郷士清岡道之助らの斬首を藩庁側の役人として見届けた人物。その小笠原唯八と慎太郎が面会をしていることになる。慎太郎も、そして小笠原唯八も、もちろん「野根山事件」のことについてはお互いよく承知していたものと思われます。面会の際、時勢論のこと以外に二人の間でどういう会話がなされたか。あるいはお互いそのことについてはまったく触れなかったか。さて、この冒頭の肖像写真を撮影したのは、「京都下京区寺町仏光寺祇園写真茶屋大阪屋与兵衛」とあるように、祇園の写真茶屋の「大阪屋与兵衛」。この与兵衛について私は詳しいことは何も知りませんが、この与兵衛は、この年11月に慎太郎とその義兄北川武平次を女性を挟んで一緒に撮影しています。さらにあの有名な、笑っている慎太郎の写真もこの与兵衛が撮影しているようだ。この『全集』掲載の3枚の写真を見てみると、3枚とも慎太郎の着ている衣服は全く同じ。ほぼ同時期に、同じ人物によって撮影されたものと思われる。「同じ人物」とは与兵衛ということになる。義兄と一緒に写した写真でも慎太郎は笑みを浮かべています。左手を頬にあててにこやかに笑っている写真は、北川村柏木の「中岡慎太郎館」の前にもありました。当時の武士の写真で笑っているのは珍しい。この3枚の写真を撮影したほぼ1年後、慎太郎は龍馬とともに幕吏に襲われ暗殺されます。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 赤岡まで その1 

2010-01-29 06:54:17 | Weblog
『土佐の民家』によると、室戸市吉良川町の商家造りが並ぶ表通り(浜地区)は、明治になって、木炭を介して京阪との物流が本格化したことで発展した町並み。したがって、ここの建物は明治中期から昭和中期にかけてのものが中心、だという。「明治中期」というと、兆民が魚梁瀬(やなせ)から高知までを歩いた頃。兆民はこの吉良川を歩いてはいませんが、土佐漆喰の白壁に「水切り瓦」、左右の桟瓦(さんがわら)、また「いしぐろ」で囲まれた、この地域独特の民家の集落景観を目にしているはずです。安田の場合は物資の集散地として栄え、田野や奈半利の場合は木材の搬出で栄え、そしてこの吉良川の場合は木炭で栄えたのです。赤れんがを利用した造りも見られましたが、これは、海路、京阪に木炭を積んでの帰途、質の良さで知られた大阪あたりのれんがを積んで帰ったものを利用したとのこと。御田(おんだ)八幡宮付近も歩いてみましたが、このあたりは「丘地区」で、丸石や丸石を割って積み重ねた「いしぐろ」(石垣塀)が独特の景観を見せていました。このあたりは江戸時代中期の地割りが残されているという。この「いしぐろ」は、赤土を用いて石を積み上げたものであり、南海大地震や室戸台風などの大災害にも耐えてきたものだという。「視点」には次のように記されています。「当時の物資流通の主流といえば、阪神方面への海運であり、県外と交易する回船や県内を就航する市艇(いさば)が活躍していたのである。阪神への往路は、津呂、室戸の鯨や鰹節を中心とする水産物。そして羽根、吉良川、佐喜浜の薪、木炭、木材等の林産物。復路には食品、鉄製品、呉服、反物などの日用雑貨品が入ってきた。当然、阪神方面からは物資のみならず、新技術や文化などが有形、無形でもたらされ、このような浪速文化の影響は、呉服商を営んでいた細木家の建築意匠や間取りにも見ることができる。」徳島県の阿南地方も、またこの高知県の東部地方(安芸)も、京阪神との経済的な結びつきがたいへん大きな地域であったことがわかります。これは明治以後になって強まったことですが、明治以前(藩政期)においてもおそらく活発なものであったと思われ、この海(回船)を利用した活発な流通網については、坂本龍馬の「海援隊」や岩崎弥太郎の「九十九商会」や、土佐藩の「土佐商会」などを考える場合に、おさえておかなければならないことだと思いました。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 室戸岬まで その5 

2010-01-28 07:12:47 | Weblog
「小笠原唯八日記」によれば、まず囚人7名を東股関で阿波藩から引き取ったのは9月1日。そして翌2日に8名。そして翌3日に残りの囚人を引き取ると、すぐにその囚人23名の護送団は甲浦を出立し、浦坂からは松明(たいまつ)をともして、岩佐まで野根山街道の尾根道を急行。岩佐でいったん休憩し、翌4日の黎明、岩佐を出立しておそらく安芸郡役所に入りました。そして奈半利川の河原で処刑されたのが5日の黎明。高知の藩庁から8月28日附の書状が甲浦の大目付小笠原唯八のもとに届いたのが8月30日。その書状は、麻田楠馬・森権次・乾退助(後の板垣退助)・後藤象二郎連名のものであり、別に藩主豊範の「御直書」の写しも同封されていました。そこには次のように記されていたという。「郷士の清岡道之助ら二十余名、野根山に馳せ集まって強訴(ごうそ)し、ついには自国を捨てて阿波路に逃亡したことは不届き至極(しごく)。吟味を待たず、東部の郡内において速やかに斬首せよ。」奈半利川の河原において処刑を行うことが決まり、23名の親族や関係者などに奈半利川の河原での処刑に立ち会うようにとの指示が出されたのは、この書状が到着して以後のことであると考えていい。23名すべての引き取りが終了したのが9月3日であることを考えると、この日以後であるかも知れない。となると、処刑場である河原に長い溝が掘られたのも、城下から処刑役人(首斬り役人)が呼ばれたのも、また親族や関係者に立ち会うようにとの指示が出されたのも、かなり急なことであったと考えられる。北川村柏木の中岡伝平のもとに、奈半利川河原の処刑に立ち会うようにとの指示が届いたのも、9月に入ってから(遅くとも9月4日まで)のことであるに違いない。しかし折悪しく伝平は病床にあり、その伝平に代わって妻である絹が、気丈にも、5日の黎明に処刑場に赴いたのです。伝平に立会いが求められたのは、彼が北川村の大庄屋であったこと、そして山崎保太郎によれば、その先妻であるお京(中岡慎太郎の姉)の再婚相手である「木下某」(岩佐関の番所頭)が23名のうちの一人であったから。「吟味(裁判)をせずに、即刻、斬首せよ」というのは、藩主豊範および藩庁の重臣たちの判断(背後には前藩主の山内容堂がいる─鮎川)であったことがわかります。9月5日の黎明、処刑に立ち会った唯八は、その日暮れに赤岡に到着、そこで宿泊をしています。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 室戸岬まで その4 

2010-01-27 06:43:35 | Weblog
『土佐維新史料』平尾道雄編(高知市民図書館)というのがあって、その「日記編二」に、「小笠原唯八日記」から多数の史料が紹介されています。その中に、野根山事件についての小笠原唯八の一連の日記が出てきます。当時、小笠原唯八の役職は大目付。土佐藩庁側の重臣の一人です。つまり、土佐勤王党を弾圧する側にいた人物であり、同じ側の重臣としては、乾退助(後の板垣退助)、後藤象二郎、麻田楠馬などがいました。彼らの背後には前藩主の山内容堂(豊信)がいてなお隠然たる力を持っています。この野根山事件の時に、実際に現場で指揮をとり(もちろん藩庁の判断を仰ぎながら動いています)、阿波藩との23名の引き取り交渉などに動いたのがこの小笠原唯八で、彼の日記を見ると、その動きの一部を垣間見ることができます。彼が城下を出発したのは元治元年(1864年)8月12日。江口番所のところで駕籠に乗っていますが、この「江口番所」というのは「江ノ口川」(「大川」とも)に架かる橋(山田橋)の手前にある番所で、城下三番所の一つ。兆民(篤助)の住む山田町にあり、獄舎(山田町の牢)ともいたって近いところにありました。以下、彼のたどった道筋は次の通り。山田橋→立田(泊)→赤岡郡府→岸本→和食(わじき)→安芸浦(泊)→安芸→奈半利→野根山→岩佐(泊)→野根→甲浦真乗寺(泊)〔この後ここに滞在・8月15日~9月1日〕→野根(泊)→甲浦真乗寺(泊)→東股関(ここで囚人〔二十三士のこと〕を受け取る)→野根山→岩佐→田野(泊)→9月5日早朝奈半利川の処刑に立ち会う→赤岡(泊)→山田橋→高知城下 甲浦の真乗寺に滞在中の小笠原唯八は、阿波藩との交渉や藩庁との連絡に忙殺されています。阿波藩との交渉の末、9月1日に7人を受け取り、翌2日には8人を受け取り、そして3日に残る8名を受け取ると、すぐに甲浦を出発(23名を伴って)。浦坂で松明(たいまつ)をつけ、岩佐近くでその火を消しています。岩佐関で休憩の後、早朝に出発。その翌日5日の早朝に処刑が行われたのです。このように見てくると、甲浦から岩佐までの野根山街道において、彼ら一行は夜の闇の中を松明をともして山道を急いだことになる。23名と、それを引き連れ、警護する集団。その指揮をとる責任者は小笠原唯八。そして岩佐関を出発した翌日には、裁判が行われることもなくすぐに処刑が行われたことがわかるのです。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 室戸岬まで その3 

2010-01-26 07:03:32 | Weblog
高知城下から上方(かみがた)や江戸に向かう公路(参勤交代路)としては、二つの道筋がありました。一つは、海沿いに東へ進み、奈半利から野根山の岩佐関を越えて甲浦(かんのうら)へ出て、そこから船で大坂に向かうルート。もう一つは、北山の立川関を越えて伊予国に入り、瀬戸内海を船で大坂へ進むルート。土佐藩主の参勤交代路としては、この二つの道筋のどちらかが利用されましたが、野根山越えの場合は、天候の具合によっては長い船待ちを余儀なくされたため、大きく予定を狂わすことがあり、したがって「北山越え」という険しい山道を越えていかなければならないものの、参勤交代路としては多くの場合、「北山越え」が利用されたようです。しかしどちらのルートであっても、藩主の一行は港に到着したら船を利用しなければならない。この船のことを「御座船(ござぶね)」といいました。この「御座船」など、藩所有の各種船舶を管理していたのが、浦戸湾の仁井田(にいだ)にあった船奉行所。この船奉行所には、幕末の土佐藩の参政であった吉田東洋(元吉)が、有能な奉行として藩主送迎の船団を指揮していたこともありました。今回の取材旅行で、私が奈半利から甲浦に向かった道筋は、野根山の岩佐関を越える「野根山街道」に沿った国道であり、「野根山街道」そのものではないけれども(このことは取材の過程で知りました)、往時の「野根山街道」の雰囲気のいくぶんかを感じ取ることができた道筋でした。『中岡慎太郎全集』の「中岡慎太郎年譜」によれば、土佐国安芸郡の郷士清岡道之助ら23名が野根山に屯集したのは元治元年(1864年)の7月26日(旧暦)のこと。彼らが奈半利川の河原で処刑(斬首)されたのが同9月5日のこと。この40日ばかりの間に、「二十三士」側と藩庁側双方において、あわただしい動きがありました。藩庁側の動きとしては、まず足軽を中心とする800名余の鎮圧部隊が派遣されました。この動きに「二十三士」は大坂へ向かうべくいったんは甲浦より船に乗り込みますが、折悪しく天候が崩れたためにやむなく隣りの阿波藩領に逃げ込み、牟岐(むぎ)に拘束されていました。この阿波藩との「二十三士」の引き取り交渉のために藩庁から派遣されたのが、大目付の小笠原唯八。小笠原は8月12日に高知城下を出立し、15日に甲浦の真乗寺に入ります。このルートが、参勤交代路でもある「野根山街道」でした。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 室戸岬まで その2 

2010-01-25 07:15:12 | Weblog
藩校文武館の学生であった17歳の兆民(篤助)が、山田町にあった獄舎(山田町の牢)の塀から、土佐勤王党の3名の処刑を目撃していたことは先に触れましたが、その3名とは、平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太でした。そのうち間崎哲馬というのは、天保5年(1834年)の高知城下に生まれ、幼少より学問にすぐれており、17歳の時に江戸へ遊学。安積艮斎(あさかごんさい)の塾で塾頭に推されるほどの秀才でした。20歳で帰国すると塾を開き、集まった塾生は数百人。土佐勤王党随一の学者として知られたという。この門下生には、高岡郡梼原(ゆすはら)村の吉村虎太郎がおり、また奈半利川を遡(さかのぼ)った北川村で生まれた中岡慎太郎がいました。中岡慎太郎は、天保9年(1838年)、北川村大庄屋中岡小伝次とその妻ウシの長男として、北川村柏木で生まれています(光次)。異母姉として、縫(ぬい)、京、かつの三人がいましたが、このうち京を妻としたのが中継養子の伝平。この京に代わって後妻として入ったのが絹で、これが後に病気の伝平に代わって奈半利川の河原における二十三士の処刑に立ち会った女性で、山崎保太郎にとっては祖母にあたる人。京は、野根山の番所頭の木下某に嫁ぎ(再婚か)、安馬とお照の二人を生みますが、夫が処刑されたため、柏木の実家に子どもとともに戻ります。山崎保太郎が魚梁瀬(やなせ)に学校がなかったため、柏木の絹の家から学校に通いますが、その家にいたのが安馬とお照、それに伝平と京の子どもである初太郎(照之)でした。つまり、京の子ども三人(初太郎、安馬、お照)がいたことになります。源平が中岡小伝次の次女京の養子婿となったのは、嘉永2年(1849年)のこと。その時、中岡慎太郎(光次)は11歳。この頃すでに慎太郎は、後に二十三士の首謀者として晒し首となる田野の郷士、清岡道之助やその兄治之助らと同志的結合を持っていました。嘉永5年(1852年)14歳の時、間崎哲馬が田野浦勤役としてやってきた時、慎太郎はその間崎に師事して詩書を学びました。慎太郎はその後も間崎の「江ノ口塾」で学んでおり、慎太郎にとっては10年ばかりにわたって学問的な影響や人間的な影響を大きく受けた人物が、間崎哲馬であったのですが、その間崎が処刑される場面(最期の時)を、獄舎の塀の上から目撃していたのが若き日の兆民(篤助)であったのです。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 室戸岬まで その1 

2010-01-24 07:44:05 | Weblog
『兆民研究 3号』の橋詰英昭さんの「魚梁瀬に行きて」には、「追記」として、「中岡一族と奈半利川二十三士処刑」という史料が紹介されています。これは、『中岡慎太郎全集』(勁草書房)に収められている文書を載せたもので、これは山崎氤(さかん)、すなわち山崎保太郎が、明治初年頃、祖母である「お絹」から中岡家のことや奈半利川二十三士処刑のようすを目撃した話を聞き書きしたもの。山崎保太郎は明治15年(1882年)、15歳の時に東京に出て中江兆民の塾である「仏学塾」に入っていますから、「明治初年」とは、彼が物心ついてからと考えると明治10年頃のことと思われます。この史料によれば、山崎保太郎の祖母にあたる「お絹」は、北川村大庄屋中岡小伝次の中継(なかつぎ)養子である伝平(源平・照之とも=中岡慎太郎の姉である「お京」を先妻とする)の後妻となりますが、「二十三士」が奈半利川の河原で処刑される時、北川村の大庄屋である伝平に立会いが求められたものの、たまたま伝平は病気であったために立会いをすることができず、その伝平に代わって、この「お絹」が立会いのために奈半利河原の処刑場に赴いたのです。「お絹」が孫である山崎保太郎に語った「二十三士」の処刑のようすは次のようなものでした。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 田野まで その2 

2010-01-22 07:07:41 | Weblog
現在、馬路村の総面積の97%は山林。この馬路村のシンボルが、昔も今も「やなせ杉」。魚梁瀬の千本山の杉林は、秋田杉や吉野杉とともに日本三大美林の一つに数えられています。その山林面積のうち75%が国有林。かつて村内には二つの営林署が配置され、山には多くの山師(森の仕事人)が集まっていたという。天然木の「やなせ杉」は、太くて節が少ないのが特徴で、木目や色合いの美しさは天下一品とのこと。私は「やなせ温泉」(森林保養センター)の売店でお土産として、杉材を使った携帯ストラップや敷板を購入しましたが、木目や色合いを生かしたいろいろな木工芸品が生産されているようです。魚梁瀬から安田に出る途中、左手に見えた安田川は鮎が泳ぐ清流。解禁(かわあき)の6月1日になると、多くの鮎釣りの人たちが集まる川だとのこと。平成10年の「きき鮎大会」(鮎のうまさを競う高知県大会)では、この安田川の鮎が優勝したという。夏に旅行した兆民は、この安田川の下流の安田に宿泊していますが(明治21年7月31日)、この安田川の鮎を賞味して可能性が高い。馬路村の名物には、「やなせ杉」や安田川の「鮎」以外に、「ゆず」も挙げなければいけない。「ゆず」の加工品は、「道の駅」などいたるところで売られていました。「ゆず」は、山の中や谷間(たにあい)の畑で栽培されていますが、すべて自然流の栽培。「自然流」とは、山や土の力と自然条件の気候によって栽培する方法で、もちろん防除も一切」していないという。したがって見かけは悪いものの、香りや鮮度においては非常にすぐれているとのこと。「ゆず」で作られた「ゆず酢」は、むかしから、お寿司、タレ、香りづけとして一年中親しまれてきたとも。ほかにも「ゆずジュース」、「ゆずみそ」、「ゆずママレード」、「ゆず湯」などさまざまなゆず関連品が生産されています。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 田野まで その1 

2010-01-21 06:53:12 | Weblog
「やなせの湯」(魚梁瀬保養センター)の売店で、『あおぞら』という地域雑誌の「創刊1周年記念号」(1991 10月号)を購入しましたが、こには大特集として「イラストで訪ねる懐かしの魚梁瀬森林鉄道」という企画がありました。写真ではなくイラストで、森林鉄道をめぐるかつての生活風景が紹介さています。イラストは21枚にも及びます。この森林鉄道が馬路~田野間に敷設さ、トロッコによる原木搬出が開始されたのは明治44年(1911年)のこと。この安田川林道本線に加えて、原木搬出量の増加のために「奈半利川森林鉄道」が敷設されたのは昭和6年(1931年)。この2本の路線を中心とする「魚梁瀬森林鉄道」の路線図は、同書P66~67に載っています。魚梁瀬ダムから上流の路線跡は、現在、ダム湖に水没しているため見ることはできませんが、「『林鉄』を探しに森へ行こう!」の記事によれば、森林鉄道の跡は各所に残っているようです。海岸部の田野や奈半利には巨大な貯木場があり、そこから材木の船積みが行われたという。同書の記述で興味深かったのは、魚梁瀬杉は明治20年初期(兆民が魚梁瀬を訪れたのは明治21年)までは被害林の伐採だけで量もごく少ないものであったが、明治35年(1902年)頃から伐採事業が本格化していったということ。この魚梁瀬から奈半利・田野に搬出さた官材、民材の原木集荷量の80%は大阪に出荷されたのだという。魚梁瀬杉のほとんどは、船積みされて大阪へ運ばれたのです。この記述によれば、兆民が訪れた頃の魚梁瀬杉の伐採は、被害林、すなわち台風や集中豪雨などで被害を受けた杉等の伐採が中心で、その量も極めて少なかったということになる。兆民は、山崎保太郎とともに、保太郎の父唯次が雇っている木こりたちの宿泊所(木こり部屋=シバコ山中にあった)に泊まっていますが、そこで、杉や檜の切り出しとその搬出風景を目撃しています。幹回り六尺(1.8m)もある大木を伐採して、板や角材にし、それらを谷川に落として海へと流し、海上で船に積み込んで大阪へと送るというやり方でした。大阪へ出荷することは、もうこの時点で行われているのですが、その幹回り六尺もある大木というのは、被害木であり、その伐採量もきわめて少なかったということになる。しかしながら、その木こり部屋へいろいろな生活物資を運ぶ人たちは、女性たちも含め、かなりいたことになります。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 魚梁瀬まで その4 

2010-01-20 06:59:33 | Weblog
魚梁瀬村に、兆民は7月28日から31日まで4日間を過ごしています。もちろん滞在先は山崎唯次(その息子が山崎保太郎)宅。この山崎宅が、集落のどのあたりにあったのかは、結局わからずじまいでした。この魚梁瀬は、奈半利川と安田川の源流の村であり、平家落人伝説のあるところ。魚梁瀬の杉林は、杉林として「日本三大美林」の一つであり、「魚梁瀬杉」の産地として有名。兆民がここを訪ねたのは、明治21年(1888年)の夏のことでした。この魚梁瀬で、兆民はどのように過ごしたか。天気は、魚梁瀬に到着した28日は晴れ(夜になって雨)。29日は降ったり止んだりで天気はきわめて悪い。30日も同様。31日も雨。ようするに天気がよかったのは到着したその日だけで、あとはずっと雨が降ったり止んだりと天気は悪かったことになる。この魚梁瀬まで、および魚梁瀬滞在中の日々、真夏の太陽がジリジリと照りつけたのは、由岐を経て浅川浦に到着した頃までで、あとは台風の影響か、雨や強風にたたられました。しかも道はかつて経験したことのない険悪な道でした。さんざんな旅になってしまったのですが、しかし、兆民は次のように記しています。「しかし余がはるばる海や山を越え、谷を渡り、足の指に浮腫を生じてさえ、この旅行をした大目的はアメノウオを食べることにあったのだが、そのアメノウオは、山崎氏が飼っている川鵜(かわう)がとても賢く捕えてくれたため、毎日飽きるほどに食べることができたので、まことにもって愉快であった。」この記述を見ると、山崎家では川鵜を飼っており、それでアメノウオを捕っていたことがわかります。「川鵜」というのは、「鵜飼い」で知られるように、鮎など川魚を捕る時に利用される鳥のこと。この川鵜が捕ったアメノウオを、兆民は飽きるほど毎日食べることができ、大満足であったと言っています。兆民のことだから、雨が止んでいる時などには、魚梁瀬の集落やその近辺を散策したと思われますが、それに関する記述はありません。8月2日のところで、兆民は、「魚梁瀬村で大目的のアメノウオを食べたことで、この旅行記は正に円団をなした」から、高知到着以後のことは、その「余波」とでも言うべきことだとして、書く必要はないといって何も記していません。この兆民がアメノウオを食し、散策したところの魚梁瀬の集落は、現在はそのほとんどが静謐なダム湖の下に沈んでしまっています。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 魚梁瀬まで その3 

2010-01-19 07:00:12 | Weblog
兆民は「貴嬢子貴婦人に告ぐ」において、次のように言う。「今のお金持ちの女性たちは、束髪(そくはつ)とか島田とか丸髷(まるまげ)とか、あるいは洋服とか小袖とか、衣服や身の回りのことにずいぶん贅沢三昧(ぜいたくざんまい)をしながら、なおそれでも満足することなく、衆人の中で他の女性たちやその服装を見てうらやましがる人たちが多いようだ。しかし私が四国のシバコ山の山中で出会った女性たちは、生まれてから金持ちの貴婦人たちのようすを見たこともなく、また第二の性ともいえる慣習で養われてきたために、日々の労働をそれほど苦しいとも思っていないようだ。しかし学問をする目的は、とどのつまり社会の現状や、その現状がどうして出来上がったのかを理解することにあるとすれば、地方の山中にはこのように苦労艱難をして日々の生活を送っている女性たちがいるということを知ることも、自身の益になるところがあると思うが、いかがだろうか。椅子に座り、机に向かって、古典や洋書を読むのもたしかに苦労であり、その苦労という点からすれば、山中で働く女性たちと読書学問をする貴婦人たちとでは、身体的苦労と心的苦労の違いであって、苦労にそれほど差異はないかも知れないが、肝心な点は、読書学問ばかりでなく、庶民の生活の実際というものもしっかりと心得ておくことである。髪を飾り、衣服を着飾って、その上で、頭の上に十六貫目(約60kg)の米俵を置き、足に藁草履(わらぞうり)を履いて、銀座の大通りを歩いてみることを想像してみたまえ。その想像を時折りしてみるならば、あなたたちが、両親や夫や、また下女下男や友人たちと交わったりして日々の生活を送っていく上で、心術上きっと益するところがあるだろうと私は思う。心術の学問というものは、読書ばかりでは得られないものなのだ。」ここで兆民が問うているのは、何のための読書・学問か、ということと、想像力の大切さということであろうと私は思います。この文は「貴嬢子貴婦人」に向けられていますが、これは金持ちの(生活に余裕のある)女性ばかりでなく、金持ちの男性(学者や政治家など)に対しても向けられているものと考えた方がいい。机上の学問だけではだめだ。現実をしっかりと見て「心術の学問」をすることが大事だ。底辺の現実に接し、あるいはその知識の上に立って想像をめぐらせ、読書学問をすることが大事だと兆民は訴えているのです。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 魚梁瀬まで その2 

2010-01-18 06:15:20 | Weblog
 東京の「八百善」に勝る美味を嘆賞して、木こり小屋で一泊した兆民は、その翌日の7月28日(明治21年=1888年)、東川の源流近くから、川沿いに魚梁瀬に向かって出立します。天気は快晴。「シバコ山」の木こり小屋を出立したのは、やや遅めの午前10時頃。魚梁瀬村の山崎家に到着したのは午後1時頃。「シバコ山」の東川源流付近から魚梁瀬の集落があるところまでおよそ3時間かかったことになります。この日、夜になってからまた雨が降り出します。この「土佐紀游」には書かれていませんが、この「シバコ山」の木こり小屋で、兆民は、杉や檜(ひのき)といった材木の切り出し風景を目撃しています。兆民は木こりたちからもいろいろと材木の運搬方法や販路などについて聞きだしています。もう一つ書かれていないことは、その「シバコ山」の木こり小屋に、阿波の奥浦や土佐の安芸郡安田から、米や麦、その他の日用品などを運ぶ人々の中に、時々18、19から3、40までの女性が混じっていることを目撃したこと。木材の切り出し、運搬については、兆民は次のようにまとめています。周囲六尺余りもある大木を切ってそれを板にしたり、あるいは皮をはいでやや四角形にしたままで、それを十余丈(約20m)ほど下を流れる谷川に落下させ、そより六、七里も下の海へと流し、その海上で船に積み込んで大阪へ送るという手続き。女性の運搬人については、よほど兆民は驚いたようです。「シバコ山」の木こり小屋に行く道は、兆民自身その大変さを体験したところですが、その道はいわゆる「犬道」(けもの道)であって、木の根っこや岩の角が直立して道を遮(さえぎ)り、それを登ったり下ったりするのはまるで火の見梯子を上り下りするのに異ならない。そのような険悪な道を、日々上り下りして貨物を運搬するのを仕事とする人たちがいるのさえ驚きなのに、その中に女性が交じっていることに兆民は大いに驚きました。その女性の中には、白米一俵ほどの量(約60kg)を袋に入れ、または一枚五、六貫目(20kgK)ほどもある檜の板を三枚重ねて谷川の上まで運ぶ者がいました。男はみんな天秤棒で運び、女はというとみんな頭の上に置いて、バランスを取りながら運搬しています。兆民はその一日の稼ぎ賃について聞いていますが、たいてい24、5銭から30銭ほどだという答えが返ってきました。女性たちは頭上運搬で山道を登ってきたのです。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 魚梁瀬まで その1 

2010-01-17 06:25:51 | Weblog
兆民たちが杉の根っこのところを出発して一里ばかり進んだところ、いきなり盆を傾けたような大雨となり、兆民が被っていた麦藁帽子には穴が開き、また衣服も雨でびしょ濡れになってしまったため、懐中の紙入れまで全部濡れてしまいました。兆民にとってもっとも恨めしいことであったのは、袖に入れてあったマッチが濡れてしまい、木の根や岩角で休んだ時に、煙草を吸うことが出来なくなってしまったこと。険しい山道であって、さらに大雨が追い打ちをかける。浴衣もびしょ濡れ。紙入れもマッチも濡れてしまって、大好きな煙草を吸うこともできない。なんとまあ、さんざんな旅行となってしまったのです。なんとか「シバコ山」のきこり部屋に至り、それから十丁ばかり(およそ1km)のところですっかり日は暮れてしまい、しかも雨はますますひどくなる。稜線を越えて山道は険しい下り坂。しかも夜。さらに下方には渓流のものすごい音がするから、もし一歩踏み外せば、まっ逆さまに落下する危険性がある。ということで、後ろ向きになって這いながら下っていくこと五、六丁(5~600m)にして渓流の音がますます近くなって、一歩も進むことができなくなってしまいます。保太郎が、「この下の渓流の上にきこり部屋がありますけん。そこの木こりは、オヤジのために材木を切り出している者たちじゃき」と言ってから、下に向かって、「山崎じゃー、松明(たいまつ)を持って迎えに来おい」と大声で叫ぶこと十数回。するとやっと下の方の木々の間から松明の火がチラチラと見えて来ました。保太郎が言うには、「3年ほど前、ここで木こりが数人、材木につぶされて死んじょります。木こりたちは愚かじゃからみんな幽霊を怖れちょる。先生、見ちょれ。今、松明を持ってやってくる木こりは必ず二人連れで、そのもんたちは必ず刃物を持っちょりますから」。彼らがやって来ると、はたして保太郎が言ったように、一人は鎌を持ち、一人は斧(おの)を持っていました。「皆大(おおい)に笑ふ」とあります。この夜、兆民たちはその木こり部屋に泊まりますが、そこで木こりたちのもてなしを受けました。塩鯖(さば)と梅漬けと濁酒(どぶろく)、それに麦飯を3杯。その味わいは、兆民にとって東京の有名な料理店である「八百善」の料理も及ばないほどでした。もちろん酒を酌み交わしながらの木こりたちとの会話も、兆民にとって楽しいものであったでしょう。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 轟の滝まで その5 

2010-01-16 07:56:10 | Weblog
兆民の「阿土紀游」に戻ります。「シバコ山」の登りたてのところで、杉の根っこに腰を下ろして、兆民・山崎保太郎・荷担ぎの男の三人が喫煙していると、例の「浴衣の紳士」(密偵=官憲)がやって来て、三人を見て足を止め、兆民に向かって、「あなたはどういう用事でどこへ行かれるのか。また今夜はどこに泊まるのか」と訊きました。兆民は答えて、「私とこの青年の二人は、今夜はきこり部屋で泊まるつもりだ」と言う。それを聞いた「紳士」は、少し頭を伏して「八字眉」の顔となりました。つまり困ったような表情を浮かべたのです。こんな人も住んでいないような山奥へ、兆民が何をしに行くかわからなくなってしまったということでしょう。しかも山奥のきこり小屋に今夜は泊まるという。尾行はほぼ不可能になってしまったのです。その男の困った表情を見て、兆民は悄然(しょうぜん)とした気分となり、次のように思いました。「余はただアメノウオを食べたいという目的でこの旅行をしている。とどのつまり自身の物好きのため。しかしこの紳士は何か官用(政府の御用)のためにこの旅をしているようである。それにしても海岸通りを進むならば道も平坦で馬もあり旅籠屋もあるというのに、この道は道とは言っても、道ならざる道であり、宿を借りるべき人家さえないという道なのだ」。そう考えると、兆民は自分に対する尾行という任務を命じられて、それを必死に遂行しようとしているこの男に対し、心底から気の毒な気持ちが湧いてきました。そこでその浴衣姿の男に向かって、「これからは山道がことに険悪だし、しかも通行する人はきわめて稀(まれ)な道だという。これから私たち二人と一緒に連れ立っていけば、君にも話し相手ができることだし、少しは苦労を慰(なぐさ)めることもできるだろう。そして今夜は木こり部屋で一緒に泊まろうではないか。どうかね」と聞くと、その紳士は「ただ……」とうち黙って、「八字眉」の表情を浮かべるばかり。結局、この「浴衣の紳士」はいつのまにかいなくなってしまいます。つまりついに尾行を諦めたのです。杉の根っこで喫煙をしながらいったん英気を養った三人は、これから最も「険悪」である山道を進み、山崎保太郎の家のある魚梁瀬(やなせ)に向かって「シバコ山」を越えていくことになります。 . . . 本文を読む
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2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 轟の滝まで その4 

2010-01-15 06:51:54 | Weblog
『森繁自伝』で森繁久彌さんは、「私の泊った宿は、前に大きな島があったので、津波が直接来なかったために被害は少なかった」と記していますが、この「私の泊った宿」とは、奥浦の「みなみ旅館」のこと。ここで森繁さんは昭和21年12月21日未明に発生した南海大地震に遭遇するのですが、その「みなみ旅館」は津波による被害は少なかったというのです。「前に大きな島があった」からと森繁さんはその理由を示していますが、日和佐の大浜海岸で「日の出」の撮影をしていた地元のおじさんの話から考えると、「前に大きな島があった」からだけではなく、海部川という川幅の広い川がまっすぐに海に向かって流れ込んでいたということも、奥浦の被害を少なくした理由であるに違いない。森繁さんによれは、宿泊て宴会をしている最中にすでに大地震の予兆はありました。それは「地鳴りのようなものを感じた」ことでした。森繁さんは、2、3度、「地震じゃないの?」と宿の人に聞いたそうですが、「ありゃア、海鳴りですよ」と軽く片付けられたという。森繁さんは宿の女将(おかみ)から、あとで、もっと顕著な大地震の兆候について聞いています。それは、宿泊した当日(大地震の前日の夜)、森繁さんは厚さ2センチメートルもある「モンゴウいか」の刺身を食べていますが、女将さんがそのイカを家の井戸で洗っていたところ水が濁っていたというのです。女将さんは「いかの墨でも入ったかな」と思って、100メートルほど先の井戸へ水を貰いに行ったところ、そこの井戸も濁っていたため、「おかしいのう、おかしいのう」と言っていたというのです。森繁さんは、この南海大地震の津波のことがよほど鮮明に記憶に残ったようで、津波のことについて詳しく記しています。津波は三波に渡って押し寄せてきたこと。津波は引いていく時の力が来る時の何倍かで、第一波が家屋の壁をひっさらい、第二波が屋台骨を崩して屋根を落下させ、続く第三波が、屋根も箪笥も柱もすべて山や田んぼに運び去るのだという。「まるでブルドーザーでならしたような、何もない平地となってしまうのである。これが津波で、来る時はまだしも、引く時の力は、いかなる頑丈なものも立ち尽す術(すべ)がないという」と記しています。屋根も箪笥も柱も。まして人間をや。この津波による大被害の様子を、上嶋さんとともに自転車に乗った森繁さんは、浅川浦でまざまざと目撃したのです。 . . . 本文を読む
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