鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その最終回

2013-09-30 05:35:04 | Weblog
「余波」によれば、明治29年(1896年)の大津波は、海底地震によって引き起こされたもの。宮古測候所は、津波発生前後に11回の地震を記録していたという。震源地は宮古測候所から東南方の東経145度、北緯39度。海底に発した陥没が原因。地震の規模は、先の東日本大地震のように巨大なものではなく、微弱なものであったことは前に触れた通り。日本本土では、北海道から関東地方にわたる海岸線でその余波を受け、また小笠原諸島やハワイ諸島でも余波を受けたという。ホノルル北西の位置にあるカウアイ島カバー港に碇泊中であったアメリカ商船「ジェームス・マキー」号は、波が引いた際に船底がしばしば海底に接触したが、その碇泊位置は水深40mであったという。最後の「津波の歴史」では、明治29年の大津波までに、三陸沿岸を襲った津波の主だったものが列挙されています。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その17

2013-09-29 05:56:39 | Weblog
「挿話」で注目されたのは、津波の高さについての記述。宮城県本吉郡相川村では、津波は村の中を流れる渓流に沿って3キロ奥の上流にまで駆けのぼり、また海岸近くに残った大樹の梢には、昆布等の海藻が引っかかっていたという。同じく本吉郡唐桑村では、押し寄せた津波の高さは20mに達したという。岩手県気仙郡広田村では、背後の裏山の山腹に帆船が打ち上げられ、また20mほどの高地にカツオ船が打ち上げられているのが人々の眼を引いたという。東閉伊郡船越村では、津波は40m余の波高で村を襲ったという。また同郡田老村では、村民の一人が山上から津波襲来前後の光景を目撃したが、40mほどの高さの黒い波濤が海岸に突進してきて、もやわれていた船や海岸に密集する家屋にのしかかったという。さらに北閉伊郡普代村では、17mほどの大樹の枝に生後1年も満たない赤ん坊が泣いているのが発見されたという。このように見てくると、津波は、以上挙げられた地域においては約20m以上もの高さで押し寄せており、三陸沿岸中、最も激甚をきわめた被害を受けた田老村では、40mほどの高さでもって押し寄せてきたことがわかります。たとえ10mほどの高さの防潮堤であったとしても、易々と乗り越えられてしまう津波の高さであったことを、吉村さんがこの本できちんと指摘していたことを私たちは忘れてはならない。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その16

2013-09-28 07:32:41 | Weblog
「前兆」の次の「被害」では、被害状況や繰り広げられた救援活動などが記されています。死者については宮城県下が3,452名、青森県下が343名、岩手県下が22,565名。明治29年(1896年)の津波では、岩手県下の死者が圧倒的に多かったことがわかります。梅雨の時期の高い気温と湿度によって、放置された多数の死体の急速な腐敗が進み、三陸海岸の町にも村にも死臭が満ちたという。「被蓋」の次は「挿話」。その「挿話」においては、『風俗画報』の「大海嘯被害録」の「上巻」「下巻」の挿画が6点掲載されています。<「唐桑村にて死人さかさまに田中に立つの図><広田村の海中漁網をおろして五十余人の死体を揚げるの図><釜石町海嘯被害後の図><溺死者追弔法会の図><志津川の人民汽笛を聞て騒乱するの図><釜石の永澤某遭難の図>というもの。絵図は写真に代わるものであり、津波被災地における情景の一端を具体的に知ることができます。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その15

2013-09-24 05:44:41 | Weblog
明治29年(1896年)の大津波の経験者で、吉村さんが取材した一人は田野畑村の早野幸太郎(津波当時13歳)さん。早野少年はその年6月10日頃からの前代未聞のマグロの大漁の様子を記憶していました。このような大豊漁は、田野畑村だけでなく三陸海岸一帯に共通したものでした。もう一人、吉村さんが取材した明治29年の大津波の経験者は、田野畑村羅賀の中村丹蔵さん。吉村さんは田野畑村村長の早野仙平氏の案内で、車で羅賀の村落に入り、急坂を上がって坂の途中で下り、そこからさらに石段を上って中村宅に到着しました。丹蔵さんは大津波当時10歳。端午の節句(旧暦では)の夜で、家で遊んでいたところ、突然、背後の山の中からゴーッという音が起こり、と同時に山とは逆の海方向にある入口の戸が押し破られて、海水が激しい勢いで流れ込んできました。祖父の「ヨダ(津波)だ!」の叫びに、中村少年は家族とともに裏手の窓から飛び出すと、山の斜面を夢中になって駆け上がりました。吉村さんが早野村長に「四〇メートルぐらいはあるでしょうか」と聞くと、村長は「いや、五〇メートルは十分あるでしょう」と呆れたように答えたという。押し寄せた津波が、湾の奥に進むにつれてせり上がり、50メートルの高さにまで達したという事実に、吉村さんは驚愕しています。地形によって、津波の押し寄せ方やその津波が達した高さはまちまちであったと思われますが、羅賀においては津波が湾の奥に進むにつれて、標高50メートルほどのところにまでせり上がっていったということであり、ここに安易な人間の想定を許さない津波の「想定外」の怖ろしさが、しっかりと吉村さんによって(中村丹蔵さんの証言を通して)指摘されていたのです。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その14

2013-09-23 05:58:46 | Weblog
吉村昭さんの『三陸海岸大津波』から、まず「一 明治二十九年の津波」をみていきたい。記述は「前兆」から始まる。明治29年(1896年)前半の漁は例年になく不漁だったが、6月に入った頃から三陸海岸一帯に著しい漁獲が見られるようになり、ついには前例を見ないような大漁になった。とくにマグロやイワシやカツオがその処置に困るほど獲れたという。2つ目の前兆は潮流の乱れ。漁船が、変化した潮流のために岸に戻るのに困惑したという。3つ目の前兆が井戸水の異変。宮古町では6月14日から60mの深さをもつすべての井戸の水が、一つ残らず濁りはじめたという。巨大津波が襲来したのは6月15日のこと。この日は陰暦の端午の節句の日でした。しかしその日に発生した地震は、人々に気づかれぬほどの微弱なものであったという。宮古測候所では午後7時32分30秒に弱震を記録。それは5分間の長さにわたり、ついで同53分30秒にも弱震が発生しました。さらに8時2分35秒にも弱震が発生。この弱震が発生してから20分ほど経過した頃、海上では、「ドーン」「ドーン」という雷鳴や砲撃音に似たような音響や、まるで「狐火」のような怪火を発生させながら、巨大津波が三陸海岸一帯に押し寄せようとしていたのです。大津波は、約6分間の間隔を置いて襲来。第一、二、三波を頂点として、波高は徐々に低くなったものの、津波の回数は翌16日正午頃まで、大中小合計数十回にも及んだという。先の東日本大地震の時のように、巨大地震が発生したことによる巨大津波の発生ではなかったということになります。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その13

2013-09-22 05:47:59 | Weblog
今日の『毎日新聞』の「今週の本棚」を開いたところ、『吉村昭が伝えたかったこと』の書評が出ていました。評者は磯田道史氏。この『吉村昭が伝えたかったこと』は、『文藝春秋 9月臨時増刊号 吉村昭が伝えたかったこと』の文庫本(文春文庫)〔あの臨時増刊号は、文庫本化されていたのです〕。磯田さんは、吉村昭は、「少ない記録文学作家の独立峰であった」という。「記録文学のドラマチックさと、創作物のドラマチックさでは『希少価値』に雲泥の差があるのだが、それが理解されるかどうかは読者の良識にゆだねるしかない」とも、磯田さんは記しています。磯田さんは、吉村さんの創作姿勢について、次のように紹介しています(誰かから聞いた話か)。「吉村は『休まない作家だった。正月以外は、日々取材と執筆に勤(いそし)んだ』」というもの。しかし吉村さんはその真摯な創作態度にも関わらず、「寡作」でした。なぜなら、その理由は、「史実の森」に分け入ってドラマを見つけることの大変さと、取材費がかさむことにありました。磯田さんは、「あえて記録文学を書き続けるのは、よほど志のある人間でなければ、困難である」と記しています。確かに吉村さんは、そのよほどの志のある人であったのですが、一方で私は、吉村さんはは「史実の森」に分け入っていくことを、やや語弊はあるものの、楽しんだ人ではなかったかと思っています。「史実の森」に分け入って行くことに、常にワクワク感を持っていた作家ではなかったか。なぜならそこから人間や社会の真実が浮かび上がってくるからです。三陸海岸大津波の取材調査を振り返って、吉村さんは、「私はまだ十分に若く、元気で、一カ月近く町から村へとたどる旅はいっこうに苦にならなかった」と記していますが、それは若く元気だったから、というだけではなくて、「史実の森」に分け入っていくワクワク感(心の高揚)が吉村さんにあったからではないか、と私は思っています。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その12

2013-09-19 05:26:52 | Weblog
吉村昭さんの『三陸海岸大津波』は、目次をみるとその構成は、「まえがき」、「一 明治二十九年の津波」、「二 昭和八年の津波」、「三 チリ地震津波」、そして「参考文献」となっています。そのあとに「あとがき-文庫化にあたって」、「再び文庫化にあたって」があって、最後に高山文彦さんの「解説 記録する力」があります。この「解説」を書かれている高山文彦さんが、『文藝春秋 平成25年9月臨時増刊号』で、現地ルポルタージュの「『三陸海岸大津波』を歩く」を書かれている方です。本文を読み終えて、特に私が感動を覚えた文章は、末尾の文章です。吉村さんは、次のように記して文章を終えています。「私は、津波の歴史を知ったことによって一層三陸海岸に対する愛着を深めている。屹立した断崖、連なる岩、点在する人家の集落、それらは、度重なる津波の激浪に堪えて毅然とした姿で海と対している。そしてさらに、私はその海岸で津波と戦いながら生きてきた人々を見るのだ。私は、今年も三陸海岸を歩いてみたいと思っている。」 吉村さんが三陸海岸に対する愛着を深めるに至ったのは、三陸海岸の津波と向かい合ったその地の歴史を詳細に知ったからであり、毅然とした態度で大いなる自然である海(それは大津波という悲惨な災害をもたらすものでもある)と対し、そして豊かな海(生活を成り立たせる豊富な海産物をもたらすものでもある)とともに生き、そして死んでいった人たちの姿を知ったからにほかならない。ある意味では過酷で厳しい環境に身を置きながらも、そこで毅然として生きた人々、そして現に毅然として生きている人々に、吉村さんは限りない魅力を感じたのに違いない。吉村さんは田野畑村島越(しまのこし)について、次のようにも言っています。「村人は『何もないところで』としきりに言うが、都会の雑踏を逃れてきたものには、俗化をまぬがれた風光とあたたかな人柄がことのほか嬉しい。」 しかしそれらの人々によって積み重ねられてきた営為(歴史)の上に成り立った景観が、さきほどの東日本大震災による大津波で壊滅的に破壊されてしまったことを、私は至るところで目にすることになりました。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その11

2013-09-18 05:37:55 | Weblog
吉村さんは、津波による被害を受けた現場を直接見たわけではありません。たまたま友人の勧めで訪れた三陸海岸で、異様に高い防潮堤を目にしたり、その地に住む人たちから過去の大津波のことを聞いたりすることにより、三陸海岸を襲った大津波というものに関心を持ち、仙台方面から青森方面までの三陸沿岸を約一ヶ月間にわたる一人旅をして、津波の体験者の回想を求めて歩き回って、『海の壁』(後に『三陸海岸大津波』に改題)をまとめ上げていったのです。その時、吉村さんは46歳。吉村さんはその旅を回想して次のように記しています。「その調査の旅をした頃、私はまだ十分に若く、元気で、一カ月近く町から村へとたどる旅はいっこうに苦にならなかった。今あらためて読み返してみると、その調査の眼が四方八方に十分にのびていて、自分で言うのはおかしいが、満足すべきものだったという思いがある。」 「調査の旅」が満足すべきものであったということであるとともに、作品自体も満足すべきものである、ということでしょう。「調査の眼が四方八方に十分にのびて」いたからこそ、満足すべき作品に仕上がったということです。ここには「吉村記録文学」の真骨頂が示されています。1ヶ月近くに及んだ46歳の時の三陸沿岸調査旅行を中心に、この一つの作品が生みだされるのに、どれほどの聞き取り調査や資料探索が綿密・丹念に行われているか、ということです。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その10

2013-09-17 05:43:04 | Weblog
原題は『海の壁-三陸沿岸大津波』で、1970年7月に中央公論社から中公新書として刊行されています。そして『三陸海岸大津波』と改題されて、中公文庫として刊行されたのが1984年8月のこと。それがふたたび文庫化されて、文春文庫として刊行されたのが2004年3月のこと。私が今、手に取っているのはその文春文庫の『三陸海岸大津波』です。文庫化にあたって改題した理由については、吉村さんは次のように記しています。「津波の調査をし、それを書いてから早くも十四年がたつ。『海の壁』と題したが、文庫にするにあたって『三陸海岸大津波』と改めた。津波を接近してくる壁になぞらえたのだが、少し気取りすぎていると反省し、表題の通りの題にしたのである。」 文春文庫として文庫化されたのは、田野畑村羅賀のホテル(ホテル羅賀荘)で吉村さんが津波について講演した三年後のこと。沿岸の市町村から多くの人々が集まってきて、熱心に吉村さんの講演を聴いてくれたということですが、その時、吉村さんは、耳を傾けている方々のほとんどがこの沿岸を襲った津波について体験していないということに気づいたのだという。その文の最後に吉村さんは次のように記しています。「今も三陸海岸を旅すると、所々に見える防潮堤とともに、多くの死者の声がきこえるような気がする。」 吉村さんがそう記したのは、「平成十六年新春」であり、それは亡くなる(自死する)二年半前の「新春」のことでした。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その9

2013-09-16 07:02:50 | Weblog
吉村昭さんのすぐれた「ドキュメント」である『関東大震災』(文春文庫/文藝春秋)を私は感嘆と感動を持って読んだことがありますが、『三陸海岸大津波』についてはまだ目を通したことがありませんでした。吉村さんの本は単行本や文庫本を含めて、歴史小説を中心にかなりの冊数が書庫に並んでいます(もちろん『関東大震災』も)。しかし『三陸海岸大津波』はなく、今夏の三陸取材旅行で『文藝春秋 平成23年9月臨時増刊号』を携行したのを機に、取材旅行後近くの行きつけの書店に探しに行きました。ところが、ダメでもともとと思っていたところ、5冊ほど並んだ吉村昭さんの文庫本の中に、やや薄手の『三陸海岸大津波』があり、これは幸いと早速購入し、やっと読むことができました。田老(たろう)や田野畑村島越(しまのこし)を初めとして、気仙沼も大船渡も大槌も、釜石も宮古も、そしてその他の小さな村落の名前も、実際自分で見たり、あるいは歩くことによって、本でただ見るだけとは違って、その地の風景やその地に生きる人々(あるいは出会った人々)とともに具体的に立ちあがって来て、『三陸海岸大津波』における詳細な記述を、生々しいものとして受けとめることができました。また吉村さんが、いかに現場を歩いて取材し、現地のさまざまな情報収集(聞き取り、文献調査)を集中的に行っているかを実感することもできました。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その8

2013-09-15 06:16:10 | Weblog
1枚は断崖絶壁の下の、白い波しぶきが上がる砂浜を、ネクタイ・背広姿の吉村さんが歩いている写真。画面ほとんどいっぱいにそそり立つ断崖絶壁がすさまじい。1枚はモーターのついた小漁船に地元の漁師とともに乗った、やはりネクタイ・背広姿の吉村さんが網にくっついているワカメを引き上げようとしているもの。1枚は島越(しまのこし)の港と思われるところで、早朝、漁から戻ってきた小漁船の陸揚げの賑わいの中で、ネクタイ・背広姿の吉村さんが、頭に白い手拭を巻いた一人の漁師と談笑しているもの。港の向こうの海岸際には絶壁がそそり立ち、その沖合いに岩山のような小島が見える。集落の女性が漁船の陸揚げを手伝うために多数出てきています。もう1枚は吉村家の人たちが、海岸べりの岩礁で漁師鍋を楽しんでいる光景を写したもの。すててこ・甚平姿の吉村さんがくつろいだ姿でコップのビールを飲み、となりには奥さまである作家の津村節子さんが座り、岩礁の真ん中には漁師鍋が置かれています。吉村さんや津村節子さんが談笑している漁師鍋を囲む男たちは、村の漁師たちだろうか。これらの写真を見てみると、田野畑村島越は、断崖絶壁がそそり立ち、岩山のような岩礁が点在する海岸べりの、小漁船での漁業を生業(なりわい)の中心とする小さな集落であったことがわかります。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その7

2013-09-13 05:41:33 | Weblog
高山文彦さんが、空からではなく陸路から三陸沿岸に向かったのは、震災から1ヶ月余経った4月16日のことでした。新幹線は盛岡まで通じていなかったため、品川から宮古行きの深夜直行バスで赴いたのです。高山さんは宮古駅前に到着すると、レンタカーで三陸沿岸の被災地を走り巡りました。高山さんが宮古から向かったのは、田野畑村の島越(しまのこし)でした。田野畑村の高原のような高台から急峻なV字谷を下り、沢沿いに海岸へと近づいていくと、護岸工事の施された沢筋は茶褐色に埋まり、ひっくり返った車や根こそぎにされた樹木や家々の瓦礫ばかりか、港に舫(もや)われていたサッパ船のたぐいまでが押し運ばれてきている情景が目に入りました。目の前に開けてきた港の風景は息を飲むばかりで、分厚い防潮堤が破壊され、建ち並んでいたはずの家々や商店、郵便局は跡形もなく砕け散っていました。三陸鉄道北リアス線のコンクリート橋はトンネルの出口付近から強烈な暴風を食らったように吹き飛ばされており、レールはぐにゃりと折れ曲がり、垂れ下がり、引きちぎられていました。駅舎を兼ねた2階建ての観光センターも、跡形をとどめてはいませんでした。三陸鉄道は、高架橋と駅のホームを安全地帯に指定していましたが、その高架橋も駅のホームも木っ端微塵に巨大津波によって破壊されてしまっていたのです。この田野畑村島越が、吉村昭さんが夏になると家族みんなで訪れていたところであり、『文藝春秋』臨時増刊号の扉写真には、その時に撮られた写真が4枚掲載されています。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その6

2013-09-12 05:42:29 | Weblog
高山文彦さんの乗る読売新聞社の飛行機は、石巻、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、大槌、山田、宮古の上空を経て田老上空に達し、そこから三陸鉄道北リアス線に沿って少しだけ北上し、「グリーンピア三陸みやこ」の上空をめぐってから南下、松島の上空を経て帰路に就きました。高山さんが田老上空から田老を見下ろした情景はどのようなものであったのか。海面からの高さが10,65m、総延長2.4kmに及ぶという全国一の規模を誇っていた防波堤のうち、湾の外側の防波堤は粉々に壊れ、内側の海岸線を東西南北にXのかたちに切りとるように築かれた長大な防波堤の一部も破壊されていました。女子美の画学生たちが描いた海側を向いた堤防の壁面の絵はきれいに残っていましたが、山側を向いた壁面には土砂が真っ黒にへばりついていました。家々はことごとく瓦礫と化し、高台に建っている学校や寺院だけがわずかに原形をとどめていました。被災直後の発表では、4000人の住民のうち1000人が行方不明になっていると伝えられた、という。昭和8年の大津波の後、田老の人々は同じ場所にとどまって村を再興することに決め、大津波被災の翌年から長大な防潮堤の建設を開始。戦争による中断の後も建設を進め、昭和33年(1958年)までに総延長2,4kmに及ぶ「城塞と見紛うばかりの大防潮堤」が完成したのです。この防潮堤はチリ地震津波の時も十勝沖地震の時もビクともせず、田老では一人の死者も出ず、また家屋の損壊もありませんでした。しかし先の東日本大地震の後に発生した大津波は、「堤防の倍くらい高」く、東大地震研究所の調査では、田老の山の斜面37,9mの地点に駆け上がったことがわかっており、あるいはそれよりも高い地点に達しているところがあるのではないか、と推測されているという。明治38年の大津波よりも巨大な津波が田老を襲った可能性がある、と高山さんは結論付けています。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その5

2013-09-10 05:30:30 | Weblog
吉村昭さんの講演記録(「災害と日本人-津波は必ずやってくる」)のあとに、高山文彦さんの「【現地ルポルタージュ】『三陸海岸大津波』を歩く」が掲載されており、これも貴重な記録でした。それによると、吉村昭さんが田野畑村出身の友人にすすめられて岩手県下閉伊(しもへい)郡田野畑村を訪れたのは昭和40年(1965年)秋のことでした(これが初めてではない)。当時においては旅館も民宿もなく、吉村さんが泊めてもらったのは島ノ越(しまのこし)という海岸近くの集落の、漁師の番屋であったという。車で村内を案内してくれたのは当時村長になったばかりの早野仙平という人であったという。この早野仙平らから吉村さんが教えられたのが、三陸沿岸をたびたび襲い、その地に壊滅的な打撃を与えてきた巨大津波の話であり、その巨大津波への関心が、やがて『海の壁』(後に『三陸海岸大津波』に改題)という作品として結実することになったのです。高山さんが、東日本大震災の報を知って、最初に思い出したのは、この吉村さんの『三陸海岸大津波』という一書でした。高山さんは文春文庫になった『三陸海岸大津波』に解説を書いており、その内容をはっきりと覚えていましたが、実際に現場に足を運んでみた時、それ以上の惨事が起きてしまったことを実感したと告白しています。高山さんが、震災後、初めて三陸沿岸に向かったのは3月29日のことであり、それは陸路からではなく、読売新聞社の飛行機に乗ってのことでした。羽田を離陸し、山形県の庄内空港で燃料を補給した飛行機は、奥羽山脈を越えて仙台平野を横切り、そこから海岸を北上していきました。高山さんは上空から、巨大津波に襲われた三陸沿岸の情景を眺めていったのです。 . . . 本文を読む
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2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その4

2013-09-09 05:33:07 | Weblog
吉村昭さんが明治29年(1896年)の大津波の次に語っているのは、昭和8年3月3日の大津波のことです。津波を引き起こした地震の震源地は、釜石町の東方300kmの海底で、発生時刻は午前2時32分。まだ寒い時期の真夜中です。この津波では、この沿岸で2995名が亡くなり、田老と乙部では911名が亡くなっています。428戸はほとんどすべてが流失してしまったという。吉村さんは、昭和8年当時小学校6年生であった牧野アイさんという女性の作文を紹介しています。アイさんは、祖父・父・母・おば・弟・二人の妹、合わせて7名の家族を失いました。その昭和8年の三陸海岸大津波のあと、吉村さんが触れているのが関東大震災のこと。東京では7万名が亡くなり、横浜では2万3千名が亡くなるという、明治以来最大の災害でした。この講演の最後の方で、吉村さんは「津波というものは、地球上にある限り、必ずやってくるもの」であるけれども、「科学の進歩はきわめて著しいもの」であり「決して恐れることはない」と述べています。ただ、道路を確保するために「携行品は持って歩かない」「車で逃げない」こと、そして「警告があったら、それに素直に従うこと」「物に対する欲」を捨てることが大事であると指摘されています。しかしながら東日本大震災を振り返ってみると、確かに「科学の進歩はきわめて著しいもの」の、地震の予知や津波の高さの予知が実際にはきわめて困難であったことや、「想定外」の事態が多々生じてたくさんの人々が犠牲になったことを考えると、大自然の威力を前にして、人間による「科学の勝利」というものはいつまでもありえないと考えた方がいいと私は考えています。大自然に対して人間はもっと謙虚であるべきであり、畏れを抱くべきものだということであり、進歩した科学への過信(津波情報・防潮堤の高さやその堅固さ・安全な避難場所の設定)から失わなくてもよかった命を失った人々も多かったのではないか、と私には思われます。 . . . 本文を読む
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