鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅰ」 その5

2013-07-30 05:08:38 | Weblog
台地の下の平地部においては荒川から引水した用水路が流れていて、集落の人々の生活用水や田畑の灌漑用水として利用されていたことがわかりましたが、では台地の上の集落の場合はどうだったのだろうかという疑問が湧いてきました。また用水路が引かれる以前においては生活用水はどうしていたのだろうかという疑問。台地上においてはまず飲用水が得られやすいところに人々は居住し始めたはずです。沢があったり湧き水があったりするようなところです。「奈良堰」は慶長年間(1600年前後)に、関東郡代伊奈忠次によって開削された用水路であるから、それ以前においては生活用水や灌漑用水はどのように手に入れていたのだろうかという疑問。そのことを考える上で参考になるのが崋山の描く「清水井」の絵(P110~111)。崋山は「清水」について次のように記しています。「清水ハ馬場ト壌ヲ接シ、南上野二連(つらな)ル 上祖ノヲハシマセシ時ヨリ清水湧出デ、旱魃ノ時モ涸ルヽコトナシ。屋敷ノ溝水ハ此ヨリ引シトゾ。…清水ハ今井戸トナシ林間ニ残リ、土人ノ用ヲ為セリ。」つまり旱魃でも涸れることのない湧き水があって、「藩祖康貞公の屋敷(三宅屋敷)の生活用水はその湧き水を引いて手に入れていたらしい」という土地の人の話を崋山は書き留めているのです。絵を見ると中央に四角い木枠があって、桶を持ってきた村の女性が、井戸の中の水を柄杓状のもので汲み上げています。これが林間に残っている「清水井」(湧き水)であり、そのような湧き水のあるところや沢水が得られるところに人々はまず住みついていって、集落が生まれていったのです。 . . . 本文を読む
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2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅰ」 その4

2013-07-29 05:41:36 | Weblog
荒川から引水した「奈良堰」は、崋山が記すように三ヶ尻村には必要不可欠の用水路であり、それは村人の生活用水であるとともに田畑の灌漑用水でもありました。その「奈良堰」の用水は、あちこちで枝分かれされて流れており、三ヶ尻村各地の人々に利用されていました。それがわかるのが崋山が描く「上宿」図あるいは「下宿図」です。旧秩父街道(熊谷道)にそって商家や人家が並ぶかつての三ヶ尻村の景観が描かれたものとして、私には特に興味深い2枚の風景画です。 . . . 本文を読む
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2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅰ」 その3

2013-07-28 06:29:26 | Weblog
三ヶ尻およびその周辺が、八幡太郎義家の奥州征伐(前九年の役)に関わる重要な故地であるということについては、三ヶ尻八幡神社の立て看板や崋山の八幡社に関する記述によって確認されました。それは、私としてはその立て看板や崋山の記述を知るまでは知らなかったことであり、三ヶ尻が藩祖三宅康貞に家康から領地として与えられたのは、それほど単純なものではなく、三宅康貞も、そしてまた家康も、この三ヶ尻という土地の歴史的重要性を認識していたからではなかったか、という推測が成り立ってきます。三ヶ尻の地は、荒川左岸櫛挽(くしびき)台地の荒川寄り東縁辺部および一部妻沼(めぬま)低地の新荒川扇状地上にあり、櫛挽台地の東縁辺部に位置する三ヶ尻遺跡には、縄文時代前期から中・近世にかけての集落跡及び墓地跡が検出されるということについては、すでに触れたところです。つまり縄文時代から人々が住みついて居住し続けたのが三ヶ尻の地であったのです。ポイントは①台地であったこと(荒川の氾濫があっても大丈夫)、②そばに荒川が流れていたこと(漁撈や水運)、③狭山(観音山)というランドマークとなる山があったこと(目印)、④妻沼低地の新荒川扇状地が水田地帯として開発可能であったこと、などが挙げられます。三宅屋敷跡は三ヶ尻の中宿にあり、近世初期における三ヶ尻の中心地であったわけですが、その跡地やその周辺一帯(八幡神社や三尻小、三尻中あたりも含めて)には、原始・古代から中世にかけてのおびただしい遺跡が埋没しているはずです。 . . . 本文を読む
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2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅰ」 その2

2013-07-26 05:32:20 | Weblog
崋山は「八幡社」についてどのようなことを記しているか。まず所在地は「上野」だとしている。松林が鬱蒼としていて、本殿のまわりは細かい彫刻が施され色が塗られている。屋根は茅葺。本殿の前に拝殿があり、また舞台もある。境内には金毘羅と王子稲荷が祀られている。神主は篠田中務。土地の人が言うには、ここは八幡太郎義家が奥州追伐の時、旗を立てて勝利を祈願したところであり、勝利をおさめた後、奥羽防衛のためにこの社殿を建立したということであり、そのため鳥居を初めとしてすべてが北向きであるとのこと。当時陣営があったところは現在十六軒と言われている。寿永2年(1183年)に鶴岡八幡宮の社領となり、それにより勧請(かんじょう)されたものであるとのこと。神主の篠田中務の語るところによれば、八幡太郎義家が奥州から帰ってきた時、自らが着用していた甲冑をこの八幡社に奉納したといい、後にこの甲冑は新田万次郎が勧請した八幡社の神宝となったとのこと。神祭は3月と8月15日に行われる。その時には村中の人たちが集まって相撲を取るという。八幡神社が南向きではなく北向きであることについては私も不思議に思っていましたが、奥州(東北地方)を意識したものであるらしいということで合点がいきました。崋山は神主である「篠田中務」と会い、この神社のことについて詳しく聞いていることが、先ほどの記述からよくわかります。 . . . 本文を読む
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2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅰ」 その1

2013-07-25 05:05:49 | Weblog
三ヶ尻(みかじり)のある熊谷市は夏は相当に暑いというイメージがあり、7月の三ヶ尻の本格的な取材旅行は、無理をせず、なるべく午前中早めに終えることにして、2回に分けて行うことにしました。1回目は朝早く三ヶ尻を歩いた後、荒川そばの熊谷市立図書館へと直行し、2回目も早朝に三ヶ尻を歩いた後、早々と帰途に就きました(途中、6月の取材旅行でお世話になったBさん宅に立ち寄ることになりました)。2回目の時は、ちょうど八幡神社のお祭りの準備が地域の人々によって行われている最中であり、そのことで予期せぬ貴重な出会いがありました。以下、その2回にわたる取材旅行の報告です。 . . . 本文を読む
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2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その最終回

2013-07-23 05:38:31 | Weblog
三ヶ尻には延喜式内社が二つあるという。一つは三ヶ尻八幡社であり、もう一つは田中神社。この延喜式内社二つを崋山は絵図として描いています。それが『渡辺崋山集 第2巻』P96~97の「田中神社」であり、P98~99の「八幡社」。その位置もP82~83の「瓺尻全図」でわかります。「田中神社」は「延命寺」のやや南の水田の中に鎮座し、「八幡社」は「運派ツカ」や「三宅屋敷」跡の北側に位置しています。現在その「八幡社」の南側には三尻小学校があり、その東側には三尻公民館、道路隔てた向こう側(北側)には三尻中学校があります。「田中神社」は現在の国道140号線バイパスの「武体西」(ぶたいにし)交差点の近くに位置しています。中島廸武さんの『やさしい熊谷の歴史』によれば、田中神社の祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)や建甕尻命(たけみかじりのみこと)などであり、もとは古墳上に祭られた神社であったという。『延喜式』に記載されている古社として、崋山も注目した神社であったと思われる。『平成14年度熊谷市埋蔵文化財調査報告書 三ヶ尻遺跡Ⅲ』(埼玉県熊谷市教育委員会)によれば、三ヶ尻遺跡というのは、荒川左岸櫛挽台地の東縁辺部に位置する、東西約900m、南北約650mに広がる遺跡であり、三ヶ尻古墳群には100基以上の古墳があったという(現在でも61基の所在が確認されるとのこと)。三ヶ尻遺跡は縄文時代前期から中・近世にかけての集落跡および墓地群が検出されるところであり、縄文の太古から人々が住み続けてきた場所であることがわかります。 . . . 本文を読む
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2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その11

2013-07-22 05:13:47 | Weblog
嶋野義智さんの「訪瓺の旅~やさしい旅人崋山」によれば、三ヶ尻の黒田平蔵(観流亭幽鳥)は、荒川の南側(三ヶ尻から見れば荒川の対岸)にある上新田(かみしんでん)の代官柴田家の次男でした。この柴田家は龍泉寺の大丹那であったらしい。崋山来訪時の龍泉寺の住職は隆弁。その来訪時にたまたま仁王門の上棟式があったことについてはすでに触れた通りです。現在ある観音堂は当時すでにほぼその姿で存在しており(延享4年〔1747年〕の建立)、近在近郷の多くの人々の信仰を得ていました。この観音堂の本尊は一寸八分(約5cm)の千手観世音菩薩(千手観音)であり、金銅で造られているとのこと。観音山の前にはかつて荒川の水が流れた跡の池が広がり、それを「狭山ヶ池」といったことが嶋野さんによって指摘されていますが、Bさんによるとこの「狭山ヶ池」あたりでこの小さな金銅仏(千手観音)が見つかったという伝承があり、この龍泉寺の観音堂の本尊はその大きさから言っても、かつてここで戦(いくさ)があった時、戦死した武士の兜(かぶと)に付けられていた守り本尊ではないか、ということでした。「狭山」は、土地の人々から「観音山」と呼ばれていますが、その由来は観音堂にまつられている小さな金銅仏(一尺八寸)の「千手観音」に由来しているのです。 . . . 本文を読む
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2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その10

2013-07-19 05:18:18 | Weblog
『訪瓺録』(ほうちょうろく)の絵図で「龍泉寺」を描いたものは3枚ある。「龍泉寺」「其二」「其三」の3図。『渡辺崋山集 第2巻』では、P86~91に掲載されています。「龍泉寺」は、建物の様子から、当時の住職一家が居住していた家を描いたものであると思われ、「其二」は、その前で額づんでいる人が描かれていることから考えると当時の本堂であると思われ、そして「其三」は「仁王門」とその奥にある「観音堂」を描いたものであると思われる。現在の本堂は昭和9年(1934年)に改築されたものだから、崋山が描いた当時のものではありません。仁王堂は崋山が訪れた年の11月18日(陰暦)に上棟式が行われたもの。観音堂は延享4年(1747年)の建立というから、ほぼ当時のまま(つまり崋山が見たものと同じ)ということになります。「其三」には鐘楼も描かれていますが、現在はその場所に鐘楼はなく、現在の鐘楼は明治初年に建てられたもの。仁王門には両側に仁王像が描かれています。また現在、仁王門と観音堂の間の右側には水屋がありますが、これは明治14年(1881年)に建立されたもので、崋山来訪時にはなかったもの。仁王門の屋根も観音堂の屋根も、現在のものと描かれたものとでは若干異なっており、もし絵図のそれが正確であるとするならば、屋根はどこかで改装されているのかも知れません。絵図では観音堂は小ぶりに見えますが、実際は見事な細工が施されたかなり立派なものです。実は正確には、「龍泉寺」を描いた絵図はもう1枚あります。それが「自宮島望狭山」という絵(P92~93)。この絵で右側にある小高い山が三ヶ尻観音山。その中腹に大きな屋根が描かれていますが、これが「龍泉寺」。その手前の田んぼ道を歩いている二人は、先頭が二本差しであることを考えると崋山自身であり、その後ろを歩くのが高木梧庵であるように思われます。崋山はこのような田んぼ道を歩いて、大麻生村の古沢喜兵衛(槐市)宅から三ヶ尻村へと向かったのです。現在の景観とは何と異なることか。 . . . 本文を読む
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2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その9

2013-07-17 05:45:26 | Weblog
大麻生村中郷の古沢喜兵衛(槐市)宅から三ヶ尻村観音山の龍泉寺まで歩いておよそ30分。途中、武体(ぶたい)村や宮島を経由し、奈良堰を小橋で渡れば、そこが三ヶ尻村の上宿でした。現在は国道140号線や国道140号線のバイパスが東西に走っていて、それに沿って人家なども建ち並んでいますが、かつてはいくつかの集落が点在するだけであとは一面の田んぼや畑地の広がりではなかったか。崋山は大麻生村から三ヶ尻村まで、田んぼの中の一本道のようなところを、三ヶ尻観音山を目当てに歩いたものと思われる。崋山が初めて三ヶ尻村の黒田平蔵(幽鳥)宅を訪れた時は、古沢喜兵衛(槐市)が道案内したのではないか。上宿からさらに西へと進めば龍泉寺のある観音山の麓に至り、上宿から東へと進めば中宿を経て下宿へと至り、その道をずっと進んで行けば熊谷宿に至ります。上宿から北へと道をとれば深谷宿へと至る深谷道が延びています。三ヶ尻観音山は「狭山」または「沙山」とも呼ばれていたらしい。その観音山の南を東西に走る小道を西へと進めば「狭山ヶ池」という池もありました。それらのことがわかるのが「瓺尻全図」。ただし嶋野義智さんによれば、この絵図の「下宿」と「上宿」の位置は反対であるらしい。本来は三ヶ尻の「上宿」は秩父寄りであり、「下宿」は熊谷寄りであるというのです。「中宿」には「三宅屋敷」跡があり、その「堀ノ内」には「笠原清七宅」があって、崋山は幸安寺住職・黒田平蔵・下宿の岩次郎・高木梧庵とともに、その笠原清七宅を訪れています。それがわかるのが「三宅屋敷堀ノ内笠原清七宅」の絵図です。 . . . 本文を読む
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2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その8

2013-07-16 05:06:40 | Weblog
大麻生村の名主で俳人の古沢喜兵衛(槐市)を崋山に紹介したのは、高島村の伊丹唯右衛門(渓斎)であったと思われる。崋山はこの伊丹唯右衛門について、「号渓斎、嗜俳諧、師梅室」と記しています。「梅室」とは誰か。「梅室」とは、桜井能充(1769~1852)のことで、俳号は「梅室素芯」。加賀金沢の人で加賀前田藩の研刀御用をやっており、文政5年(1822年)から天保5年(1834年)まで江戸に住んでいたという。伊丹渓斎は、梅室が江戸にやってくる以前に、京都で梅室に入門したものであるらしい。その高島村の俳人伊丹渓斎から大麻生村の俳句仲間古沢喜兵衛を紹介された崋山は、その紹介状を持って古沢家に到着。今度はその古沢喜兵衛から三ヶ尻村の黒田平蔵(観流亭幽鳥)を紹介されます。というのも、黒田平蔵は古沢喜兵衛にとって俳句の師匠にあたる人であったから。黒田平蔵は大里郡上新田村の代官柴田又兵衛の次男であって、天明4年(1784年)生まれ。崋山が三ヶ尻にやって来た時は48歳。一方古沢喜兵衛は33歳でした。崋山は当時39歳。この黒田平蔵(観流亭幽鳥)の門人は、「渡辺崋山の調査協力者『三ヶ尻村黒田平蔵』考察」(馬場國夫)によれば、500人を数えたらしい。この黒田平蔵(幽鳥)という人は、『訪瓺録』の絵図の中に登場しています。「運派塚」の絵図においてであり、その「運派塚」の左手に「黒田平蔵」と記されている人物がそれ。ちなみに「運派塚」の前にいる人物「季雄」は高木梧庵のことであり、「運派塚」の右側で崋山(登)と話をしているのが「下宿岩次郎」(三ヶ尻村の下宿在住)で、その右にいるのが「幸安寺主」(幸安寺の当時の住職「隆弁」)。「運派塚」とは、幸安寺の建立者である「小笠原運派」のお墓のことであり、崋山をそこへ案内したのは黒田平蔵(幽鳥)や下宿在住の岩次郎(おそらく平蔵の使用人か)であったでしょう。この「運派塚」近くの幸安寺は、藩祖三宅康貞の菩提寺とも伝えられているお寺であり、崋山にとって興味関心のある寺社の一つであったものと思われます。 . . . 本文を読む
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2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その7

2013-07-15 05:11:49 | Weblog
『訪瓺録』(ほうちょうろく)は藩祖三宅康貞公の事績を記録した藩主康直公への上表文であるので、最初に漢文の上表文があり、ついで凡例・采用書目・移封年月考・図絵という順で続きます。解説によれば、上巻の内容は、名義、彊域、形勢、賦役附沿革、風俗、物産であり、そのうち名義については、瓺尻・甕尻・瓶尻・三箇尻などを列挙し、『日本書紀』『延喜式』をはじめ多くの書物にあたって検証しているという。彊域・形勢・賦役附沿革などでは、家康の関東移封に従った時の三宅屋敷について詳細に記述し、風俗・物産については地誌によったものであるらしい。下巻は、幸安寺・竜泉寺・八幡社・天王・三宅屋敷・黒沢屋敷・火雨塚・旧家(笠原清七)について詳細に記してある、という。そして解説の最後は、「文献のみによる考証ではなく、現地の住民から聞き取り調査していることは、すぐれた地誌編集の方法といえよう」と結ばれています。徹底的な現地調査(聞き取りも含む)に基づく詳細な記録に拠るばかりか、各種多様の書物等を参照しており、藩主からの命令ということもあって、崋山が相当の力を込めてまとめあげたものであることがわかります。 . . . 本文を読む
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2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その6

2013-07-13 06:08:33 | Weblog
崋山が藩祖三宅康貞の旧領三ヶ尻村についての調査記録をまとめたものが『訪瓺録』(ほうちょうろく)であり、それは『渡辺崋山集』(日本図書センター)の第2巻のP63からP158にわたって、その解説や全文・全図絵(「鈴木まさ筆写本を底本とするもの)、およびその頭注や後注が収められています。解説によれば、『訪瓺録』の原本は、豊橋市の画商鈴木氏の手に入り、青森県五所川原の佐々木嘉太郎氏が所蔵するに至ったが、昭和18年(1943年)に佐々木氏宅の火災により焼失してしまったという。この『訪瓺録』のテキストとしては、先ほどの「鈴木まさ筆写本」と「竜泉寺本」の2つがあり、「鈴木まさ筆写本」というのは、豊橋市の画商鈴木氏の娘である鈴木まさが崋山の自筆本を影写したもの。「竜泉寺本」は『新編埼玉県史』資料編10の底本となっており、熊谷市三ヶ尻の竜泉寺に所蔵されているもの。この「三ヶ尻の竜泉寺」というのが、埼玉県熊谷市三ヶ尻の観音山という山の麓にある「龍泉寺」のことであり、この「竜泉寺本」の序文は崋山の自筆といわれ、「図絵」には「梧庵模」または「如山模」の落款があるとのこと。つまり「梧庵」と「如山」が「図絵」を模写したということですが、この「梧庵」とは、『游相日記』や『毛武游記』の旅、そして三ヶ尻調査にも同行している高木梧庵のことであり、「如山」とは崋山の末弟である五郎のこと。崋山は天保2年(1831年)に落成した龍泉寺の仁王門の落成式典に参加しており、また龍泉寺には大麻生の古沢家で描いた「双雁図」を寄贈し、また翌3年には椿椿山(つばきちんざん)の「寒椿図」とともに格天井画「松図」を寄進しているなど、三ヶ尻の龍泉寺とは深い縁がありました。 . . . 本文を読む
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2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その5

2013-07-11 05:34:11 | Weblog
『新編武蔵風土記稿』によれば、文化文政期において、幡羅郡三か尻村は、広さは東西30町、南北16町。人家300軒。小名として、上宿・中宿・下宿・横町・宮島・馬場・久保・小屋・上野・清水・森・林がありました。また『熊谷市郷土文化会誌』第63号の「渡辺崋山と毛武のこと細見」(井上善治郎)によれば、崋山来訪時、三ヶ尻村に領地を持っていたのは次の7人の領主でした。黒田豊前守(279石)・林大学頭(2石)・夏目日向守(1石5斗)・天野亀吉(427石)・小栗忠一郎(240石)・鈴木金之丞(100石)・小栗庄右衛門(290石)。「7人の領主で石高1339石余」の「旗本領の相給(あいきゅう)」でした。7人もの領主が支配する領地の入り混じっていた村であったということになります。しかも人家は300軒ほど。『やさしい熊谷の歴史』(中島迪武)によれば、太古の昔、荒川は三ヶ尻観音山近くを流れており、「三尻村から二町たらず」の近さにあったという。養蚕・野菜・果物・西瓜・瓺尻茆(みしりぬなわ)・木綿織物・絹織物などが特産であったらしく、また鮎が美味であったという。その鮎は近くを流れる荒川で獲れたものであったでしょう。 . . . 本文を読む
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2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その4

2013-07-10 05:22:45 | Weblog
『熊谷市郷土文化会誌』第65号の「渡辺崋山訪瓺の道すじ」で、井上善治郎さんは、崋山は11月7日ではなく6日に桐生を出立し、深谷の旅籠屋土屋万右衛門に泊まり、国済寺薬師堂を見たとしています。具体的に宿泊した旅籠屋の名前まで出てきており、その依拠するところも記されていたと思いますが、その依拠する史料が何であったか今は確かめることができません。近いうちにまた確かめてみようと思っています。国済寺というのは、深谷から中山道を熊谷方面に向かって進んで行った途中にあるお寺で、その薬師堂に崋山は立ち寄っているというのです。同じ指摘は、『渡邊崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』所収の「渡辺崋山の足跡」で、馬場國夫さんも、深谷国済寺は前小屋と大麻生の中間にあり崋山が立ち寄ったとしています。中山道深谷宿に崋山が泊まったとすると、順路としては深谷宿から中山道を熊谷宿方面へと向かう途中で国済寺に立ち寄ったと考えた方が自然であり、そこからさらに中山道を進み、途中で、熊谷宿の手前で分岐する秩父街道へと入ったのではないか。その秩父街道を進んで行けば、荒川を渡る手前のところに大麻生村があったのです。造り酒屋を営む大麻生村の古澤喜兵衛(槐市)宅は、その熊谷方面から延びる秩父街道に沿ってありました。 . . . 本文を読む
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2013.6月取材旅行「大麻生~三ヶ尻」 その3

2013-07-09 05:32:25 | Weblog
桐生新町の岩本茂兵衛宅を出立した崋山が、「前小屋の渡し」で利根川を渡ったことがわかるのは、『訪瓺録』(ほうちょうろく)の「路程図」による。『渡辺崋山集』においてはその第2巻のP80~81にその「路程図」が出ており、そのP81の右上隅に書き込みがある。P150~151には活字化された「路程図」が載っており、それによればその書き込みの文章は以下の通り。「臣上州ヲ発シ前小屋ヲ渡此処二出ツ前小屋ハ即刀利川也コヽヨリ深谷迄凡二里半モアルベシ地皆平土黒豆一升ヲ蒔キ二斗五升ヲ得ルト云時十一月七日」。これで崋山が「前小屋」を「十一月七日」に渡ったことはほぼ確実です。「コヽヨリ深谷迄凡二里半」ということは、時間で言えば2時間ちょっとの距離。前小屋から桐生まではおよそ六里で、時間で言えば5時間ほど。現在の朝8時頃に桐生の岩本家を出立したとして、この前小屋の渡しで利根川を渡るのは、遅くても午後2時頃。そして午後5時頃には深谷宿に到着する勘定になります。 . . . 本文を読む
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