鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.6月の「戸塚宿・藤沢宿」取材旅行  その4

2007-06-29 21:03:21 | Weblog
 藤沢市には、1988年3月から1992年3月まで住んでいたことがあります。小田急線の湘南台駅から歩いて15分ほど。アパートの2階で、南側の窓から、境川向こうの河岸段丘の緑の茂りやドリームランドの白いタワーが見えました。新婚生活4年間をそこで送り、2人の子供が生まれました。地図を見ると、境川の向こうは戸塚区になり、旧東海道が走り、旧戸塚宿もあるのですが、その頃はそれほど「街道」や「古道」に関心があるわけでもなく、戸塚宿を訪ねようとか、藤沢宿の名残りを訪ねてみようとか、そういう気持ちは全くなく、車や小田急線で藤沢の街中にはよく行ったものの、藤沢の旧東海道筋や時宗(じしゅう)総本山の「遊行寺(ゆぎょうじ)」などを見て歩くということはありませんでした。ということで、藤沢宿を歩くのも今回が生まれて初めて。特に「遊行寺」見学は、今回の取材旅行のメインでした。 . . . 本文を読む
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2007.6月の「戸塚宿・藤沢宿」取材旅行   その3

2007-06-23 05:31:03 | Weblog
戸塚(とつか)は、慶長6年(1601)の宿駅指定から外れていましたが、保土ヶ谷宿の協力を得て、慶長9年(1604)に戸塚宿として新設されました。戸塚宿は、東海道から大山道・鎌倉往還との分岐点として交通の要衝であり、当初は戸塚町あたりだけが町場を形成していましたが、やがて近隣の村を東海道沿いに移転させ、吉田町・矢部町を加えた三ヶ町からなる宿場町として発展していきました。本陣(2軒)・脇本陣(3軒)は戸塚町にありましたが、問屋場は各町に1ヶ所ずつありました。「東海道宿村大概帳」によると、人口総計は2906名。総家数は613。旅籠屋の数は75。旅籠屋の数では、神奈川県下では、小田原宿(95)に次ぐ規模でした。江戸時代、一般の人々の1日の行程はおよそ10里。この戸塚宿は、江戸日本橋からちょうど1日の行程(10里18町)の位置にあたりました。明治20年(1887)に東海道線が開通し、戸塚駅が旧宿場内にできたため開発が進み、当時の面影はほとんど残っていない。現在、柏尾川沿いに工場が進出して内陸工業地帯として発展。丘陵地区は、首都圏のベッドタウンとして発展しつつある、とのことです(『「東海道」読本』より)。 . . . 本文を読む
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2007.6月の「戸塚宿・藤沢宿」取材旅行   その2

2007-06-21 05:20:08 | Weblog
 この日は暑かった。梅雨入りしたばかりなのに、朝から陽射しが強く、まわりの景色がくっきりとしている。歩いている時は、意識的にコンビニに入ってスポーツドリンクを飲み、水分を補給するようにしました。幸いに、コンビニは次々と行く手に現れる。東海道であるからかも知れませんが、コンビニの多いことには驚くばかり。少々疲れたかな、と思ったらコンビニに入る。飲み物を買い、トイレを使わせてもらい、立ち読みをして最新の芸能ニュースなどを仕入れる。クーラーが効いているので、汗も引っ込む。かつて東海道筋には「茶屋」があって、お茶を飲み、菓子を食べ、しばしの休息を取ることが出来ましたが、今は、コンビニがその役割を果たしているようにも思われます。違うのは、「茶屋」の看板娘(?)がいないこと、ぐらいでしょうか。 . . . 本文を読む
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2007.6月の「戸塚宿・藤沢宿」取材旅行   その1

2007-06-18 22:31:43 | Weblog
 JR相模線の入谷駅から、茅ヶ崎行きの一番列車に乗ったのは5:35。大山・丹沢山系がくっきりと見え、沿線の田んぼはほとんど田植えが済んで、青々と広がる早苗がすがすがしい。早朝だというのに車両には10人ほどの乗客。厚木駅あたりでは、丹沢山系は大山にほぼ隠れてしまいましたが、社家駅を出てすぐ、大山の左手に、白い雪を被った富士山がくっきりと見えてきました。表丹沢や秦野の丘陵も見えてきます。寒川駅で、乗客は20名ほどに。終点茅ヶ崎に着いたのは6:09。5番線の「湘南新宿ライン」は6:15の東京行き。土曜日の早朝にも関わらず、車両はほぼ満員。大船駅で横須賀線に乗り換え。大船始発6:32の宇都宮行き(「湘南新宿ライン」─宇都宮ライン)。進行方向左手に富士山が見える。東戸塚駅に着いたのが6:41。入谷駅より740円。料金はややかさむものの、小田急線・相鉄線を利用するよりも早く着きました。右手に出ると、陸橋 (デューブリッジ)の突き当たりのビルの正面に時計があり、その上方に、ちょうど朝陽が輝いていました。見上げる空に雲はほとんどない。陽射しがくっきりとしていて、今日は暑くなりそう。「オーロラシティ」の長いエスカレーターでどんどん上に。環状2号線に架かる陸橋(福寿歩道橋)を渡って突き当たりの道が、旧東海道。その陸橋を渡った左手に、前回は気付かなかったのですが「福寿観音」というのがありました。 . . . 本文を読む
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中江兆民とフュウレ神父 その2

2007-06-15 21:16:28 | Weblog
 パリ外国宣教会は、幕末、多くの宣教師を琉球(沖縄)および日本に、布教を目的に派遣しています。フォルカード(1816~1885)、ムニクゥ(1825~1871)、ジラール(1821~1867)、カション(1828~1871?)、フュウレ(1816~1900)、プティジャン(1829~1884)、ローカニュ(1838~1885)、クゥザン(1842~1911)などです。フュウレは、これらの宣教師の中でも、もっとも年齢がいっている。『日本キリスト教復活史』に、「フュウレは、外国宣教会の神学校に入ったのが遅かったので、彼の頭髪と髭は半白になりだし」た、とありますが、フュウレがパリ外国宣教会神学校に入学したのは36歳の時(1852年)。琉球那覇にやって来た時は39歳(1855年)。横浜に上陸(初来日)したのが46歳(1862年)。長崎にやって来たのが47歳(1863年)。長崎新町の済美館で、中江兆民や山本松次郎などにフランス語を教え始めた時が50歳(1866年)。若き日の兆民の目の前にいたフュウレは、頭髪も髭も半分白くなった初老の宣教師だったのです。このフュウレと同年齢のフォルカードは、フランスのパリ郊外のヴェルサイユ生まれ。1843年に、マカオのパリ外国宣教会極東地区の会計助手として中国に渡りますが、翌1844年、会計部長のリボアの命令で、中国生まれの神学生アウグスチノ高(コー)を通訳として伴い、琉球那覇にやって来ます。リボアがなぜフォルカードを那覇に派遣したかと言えば、彼は、当時のフランス極東艦隊司令長官セシル提督から、「このたび琉球に軍艦を出すが、ついでに宣教師を1名、琉球に送り、日本語を習得させて、将来の日本布教に備えておく意志がないか」と要請されたことによりました。このフォルカードの琉球潜入が、フュウレに琉球および日本への布教を志させた大きなきっかけの1つになったようです。宣教師に琉球で日本語を習得させ、将来の日本布教に備える。その方針に従って、まずフォルカード、そして、ジラール、カション、フュウレ。それからムニクゥ、プティジャンが琉球に入り、そしてフォルカードを除く全員が、開国したばかりの日本に入国する(日本の布教を目的に)のです。 . . . 本文を読む
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門脇禎二先生のこと

2007-06-13 20:58:09 | Weblog
 今朝、朝食の際に『毎日新聞』朝刊(6/13)を開いたところ、門脇禎二(ていじ)先生の訃報が目に飛び込んできました。亡くなったのは昨日12日。死因は肝内胆管ガンとのことでした。享年81歳。「亡くなられたのか」と感慨深く思うとともに、今から33年前の、門脇先生のことが思い出されました。浪人時代、私は京都市内のある予備校で、門脇先生から1年間にわたって日本史を教わったことがあるのです。年齢から逆算すると、その頃、門脇先生は48歳。現在の私よりも若かったことになります。 . . . 本文を読む
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中江兆民とフュウレ神父 その1

2007-06-08 06:11:41 | Weblog
 長崎時代の中江兆民が、フランス語を習ったフランス人の1人は、フュウレ神父でした(そう断定してよいと、私は思っています)。  高知から藩派遣の留学生として長崎にやってきた兆民(篤助)は、新町にあった済美館に入学し、そこでまずプティジャン神父からフランス語を学び、その後、プティジャンの授業を受け継いだフュウレ神父からフランス語を学びます。  そしておそらく、フュウレ神父が長崎を離れて横須賀へ向かった後、フランス人の教師を失った兆民は、土佐藩参政後藤象二郎から25両を工面してもらい、フランスの飛脚船(郵船)に乗って、長崎から横浜へ向かうのです。  この、中江兆民にフランス語を教えたフュウレ神父というのは、どういう人物なのか。  それを知ることが出来るのは、プティジャン神父と同様に、フランシスク・マルナスの『日本キリスト教復活史』(みすず書房)と、神奈川県立図書館で見つけた『人物中心の日本カトリック史』。  それと、もう1つ。綾瀬市立図書館でたまたま手に取った『市史研究 横須賀』第6号(横須賀市総務部総務課)の「幕末フランス人村に滞在した宣教師の記録─ルイ・フュレ「回顧録」─」という一文(解説は吉田ゆり子さん)。  この「ルイ・フュレ」が、中江兆民がフランス語を教わったフュウレ神父のこと。  フュウレ神父は、1895年(明治28年)に、自分の人生を振り返って「回顧録」をまとめており、その一部(横須賀に滞在していた頃のこと)を訳出したものが、『市史研究 横須賀』(第6号・2007年3月発行)に掲載されていたのです。  ある人物に興味を持って調べていくと、思いがけなくも、その人物に関する貴重な資料に「出会う」ことがしばしばあるのですが、この『市史研究 横須賀』の「幕末フランス人村に滞在した宣教師の記録─ルイ・フュレ「回顧録」─」とも、そういう「出会い」を私は感じました。  この三つの資料から、日本に滞在していた頃のフュウレ神父のことについて、これから数回にわたって、そのあらましをまとめて見たいと思います。 . . . 本文を読む
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2007.5月の「東海道保土ヶ谷宿」取材旅行   その3

2007-06-01 05:52:01 | Weblog
 この日(5月19日)は、朝方は、にわかにあたりが暗くなって雨が降ったりと、やや不安定でしたが、相鉄線の天王町駅を過ぎてからは、空も明るくなり、汗ばむほどの陽気になりました。浅間神社を過ぎた芝生(しぼう)村の追分は、東海道と八王子道(「絹の道」)が分かれるところ。この八王子道は、鶴ヶ峰→原町田→鑓水(やりみず)を経て、八王子に達します。高札場跡を過ぎたところの金沢横町は、金沢道・浦賀道(往還)への出入り口。道標四基には、①円海山之道②かなさわかまくら道③杉田道④富岡山芋大明神社の道、と刻まれています。この「かなさわかまくら道」とは、いわゆる金沢道と鎌倉街道下ノ道のこと。いづれも浦賀に行き着きます。ということで、保土ヶ谷宿はかなりの交通の要所であったことになります。お世話になった休憩所の前の通りは、金沢道で、東海道線の踏み切りを越えて南に向かうことになりますが、いつか、横須賀を経て浦賀まで歩いてみたいと思っています。 . . . 本文を読む
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