鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その最終回

2008-11-29 05:38:15 | Weblog
当時のスイス領事にルドルフ・リンドウという者がいましたが、彼は「鎌倉事件」が起きる10日ほど前に、イギリス公使オールコック邸(公使館である高輪の東禅寺か)で日本にやって来たばかりのボールドウィン少佐と会っていました。その時、ボールドウィンが、「近々、バード中尉と鎌倉に行くつもりだ」と話していたことをリンドウは覚えていました。鎌倉で2人の外国人が殺傷されたとの神奈川奉行所からの急報を得たリンドウは、プロシャ領事のフォン・ブラントとともに奉行所に急行。応接間に通されると、そこにはすでに横浜駐屯のイギリス歩兵第20連隊の司令官ブラウン大佐と、通訳書記官ラクラン・フレッチャーが到着していました。ということはすでにこの時までに、鎌倉で殺傷された外国人は第20連隊の者であるらしいことが判明していたのでしょう。リンドウとブラウンは、とりあえず鎌倉まで行ってみることに話がまとまり、22日未明(午前3時15分頃)に横浜を、奉行所から派遣された3、4人の護衛兵とともに出発(彼らとはすぐにはぐれる)。金沢、朝比奈の切り通しを経て、鶴岡八幡宮の参道に沿った大きな茶屋に到着しました。そこにはすでに奉行所の役人が詰めていました。2人はそこから現場に向かいます。すると四辻から右手に折れたところにある掛茶屋の前の松の木の根元に、小さな2枚のむしろが竹で支えられており、その下に2つの死体が仰向けに並べられていました。一人は、リンドウが10日ほど前にオールコック邸で会ったばかりのボールドウィン少佐でした。黒い顎顎が彼であることを示していました。もう一人の若い男は、ボールドウィン少佐が話していた案内役のバード中尉であるのでしょう。やがて日の出直後、ウッド中尉の率いるイギリス駐屯軍の騎馬隊と通訳官ラクラン・フレッチャー、それに外科医助手のヘンスマンが到着し、ヘンスマンの手により2人の死体の検分が行われました。 さて、ボールドウィンやバード(さらにはリンドウやブラントなど)が、鎌倉方面に向かったルートは、どこであったのか。私は、彼ら外国人たちが利用した道は、出来たばかりの外国人遊歩道を使って、根岸経由(根岸湾にほぼ沿った道筋)で金沢に向かい、そこでいったん休憩して、朝比奈切り通しを抜けて鎌倉に至る道であったろうと推測しています。外国人遊歩道を利用すれば。横浜から金沢まで、馬で最短2時間のコースでした。 . . . 本文を読む
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2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その6

2008-11-26 05:45:43 | Weblog
一方、ボールドウィン少佐とバード中尉は、この元治元年(1864年)の10月21日(西暦では11月20日で日曜日)の朝、馬に乗って横浜の外国人居留地あるいは山手の駐屯地を出発しました。元治元年、横浜の外国人居留地に居住していた外国人は300名余。横浜の山手に駐屯する英仏軍は1800名を超えていました。横浜に英仏軍がやってくるのは前年の夏頃から。1863年の7月中旬(西暦・以下同じ)には、フランス軍艦モンジュ号が、中国上海からアフリカ大隊の増援軍を乗せて日本に到着。1864年1月後半には、イギリス正規軍200名がオールコック護衛のために上陸。その年3月2日にオールコックが帰任した時には、アプリン中尉率いる護衛隊と騎兵隊がオールコックを出迎えています。同5月28日の午後には、イギリス海兵隊1大隊530名余がコンケラー号で横浜に到着。そして7月9日には、第20連隊第2大隊が増強部隊としてカンチクリール号とクイーン・オブ・イングランド号で中国香港から横浜に到着しました。これで、横浜港の沖合いには、英蘭仏米四ヶ国の連合艦隊23隻が碇泊することになりました。この四ヶ国連合艦隊が、8月27日から28日にかけて次々と長州下関に向けて横浜を出港し、四ヶ国連合艦隊の下関砲撃事件が起きるのですが、この時、長州に向かったイギリス軍は海兵隊1個大隊であり、イギリス軍の主力をなした第20連隊と、第67連隊分遣隊などは横浜の居留民を保護(防衛)するために横浜に残留しています。四ヶ国連合艦隊が横浜に「凱旋」したのは9月30日。10月20日には、第20連隊や第67連隊などイギリス駐屯軍が、海軍の戦勝(下関戦争の勝利)を祝して、居留地背後の埋立地において大閲兵式を挙行しました。これには、野毛に駐屯して洋式訓練を受けていた幕府兵約2000名も参加していたという。ボールドウィン少佐もバード中尉も第20連隊に所属する。ということは2人とも下関砲撃には参加していないことになる。しかもボールドウィン少佐は10数日前に日本に着いたばかりというから、バード中尉が案内して鎌倉・江の島に向かったと考えられます。警護や案内の武士がいた形跡はないから、バード中尉はかつて鎌倉・江の島方面へ行ったことがあり、来日したばかりのボールドウィン少佐(バード中尉にとっては上官にあたる)の道案内をしたと考えられるのです。 . . . 本文を読む
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2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その5

2008-11-24 07:57:10 | Weblog
先に触れたように、この写真家ベアトと画家ワーグマンら外国人6名(それに日本人の助手や従僕、馬丁などが加わる)の鎌倉・江の島旅行は、元治元年(1864年)の10月(旧暦)に行われたもので、4泊5日の行程でした。横浜居留地を出発したのは10月19日(西暦では11月18日)の朝。彼ら外国人たちは徒歩ではなく、馬に乗って出発しています。彼らが金沢までどういうコースをたどったのかは確定できませんが、①横浜→〈保土ヶ谷道or横浜道〉→保土ヶ谷宿→〈金沢道〉→能見堂→称名寺→金沢町屋→金沢瀬戸→旅館 ②横浜→地蔵坂→不動坂→根岸→磯子→冨岡→金沢町屋→金沢瀬戸→旅館、という2コースを想定することができます。馬に乗ってただ目的地に急ぐのであれば、2時間~4時間ほどで金沢に到着することができるのですが(遅くともその日の午前中には到着できる)、ベアトやワーグマンたちは途中、いろいろなところで写真を撮ったりスケッチをしたりするわけだから、時間がかかる。金沢八景を遠望できる景勝地の能見堂にも立ち寄って、そこから写真を撮ったりスケッチをしたりしています。金沢の旅籠に到着したのは、その日の夕刻頃(17:00前後)であったでしょう。翌10月20日(旧暦)は金沢で写真撮影やスケッチを行い、その日のうちに朝比奈の切り通しを抜けて鎌倉の旅籠に到着。そこで2泊し、21日(西暦では11月20日で日曜日)の朝、鎌倉の旅籠を出発して江の島に到着。江の島で写真撮影やスケッチをした後、東海道藤沢宿に向かい、そこの旅籠で一泊。22日の朝、藤沢宿を出立して、東海道経由で横浜居留地に帰着しました。この4泊5日の旅の最中の21日(西暦11月20日の日曜日)、ベアトやワーグマンらの一行は、江の島においてたまたま2人のイギリス人と出会います。一人はジョージ・ウォルター・ボールドウィン少佐。もう一人はロバート・ニコラス・バード中尉。ボールドウィンは黒い巻き毛で顎鬚があり30半ばほど。バードは金髪で20代後半の背の高い青年。2人とも、横浜山手に駐屯するイギリス軍の中でも主力部隊である第20連隊第2大隊の将校で、その日の朝、居留地を馬に乗って出発し、金沢→朝比奈切り通し→鎌倉を経由して江の島に到着したのです。ベアトたちの馬が繋(つな)いであるところに彼らは到着。その2人に最初に会ったのは、そこで写真撮影をしていたベアトでした。 . . . 本文を読む
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2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その4

2008-11-23 06:58:44 | Weblog
前回、ベアトやワーグマンなどの一行の、鎌倉・江の島への写真撮影およびスケッチ旅行の行程を、保土ヶ谷道ないし横浜道を利用して東海道保土ヶ谷宿に出て、そこから「金沢道」を通って目的地へ向かったとしましたが、その根拠は、金沢道の道筋にある能見堂から金沢八景を遠望していることにありました。しかし、外国人遊歩道を利用して、根岸湾に臨む根岸村に出て、そこからほぼ海岸に沿いながら金沢に向かい、金沢に一泊した後、朝比奈の切り通しを抜けて鎌倉・江の島に向かった可能性も捨てがたい。外国人遊歩道を利用したということは、横浜居留地から元町通りを通って地蔵坂で山手に登り、そこから不動坂を下って、白滝不動の参道にぶつかったところで右折。さらに右折して根岸村の浜辺に沿った道(不動道)を、金沢に向かって進むコースです。すなわち今、私がたどっているコースとほぼ重なるコース。というのも、『F.ベアト幕末日本写真集』のP42の「金沢」の説明に、次のようにあるからです。「金沢ほど、休日を過ごしたりピクニックに行ったりするのによい場所は滅多にない。横浜から12マイルほど離れた、馬で2時間もあれば充分に行けるところなので、訪問者のお気に入りの場所である。また、鎌倉や大仏や江の島へ行く途中の休憩所としても便利である。谷間を通る道と、競馬場の側を通って根岸湾沿いに行く道と、2通りの道があるが、後者の方がはるかに快適で近道である。…金沢は以前は鎌倉の在にあった村で、塩田があることと、近くでいろいろなおいしい魚が獲れることで有名である。1万石の大名米倉丹後守の陣屋がある。」前者の「谷間を通る道」とは井戸ヶ谷村を通る道かも知れません。後者の「競馬場の側を通って根岸湾沿いに行く道」がすなわち「外国人遊歩道」で元治元年(1864年)に造られたもの。ベアトやワーグマンらの一行が横浜居留地を出発したのは元治元年の10月(旧暦)だから、もしかしたら完成したばかりの外国人遊歩道を利用して根岸村に出たのかもしれません。そう推測して『F.ベアト幕末日本写真集』のP18(下)やP24の写真に写っている外国人遊歩道を見ると、まだ出来て間もないように見えて来ます。つまり、これらの写真もベアトやワーグマン一行が金沢・鎌倉・江の島に写真撮影およびスケッチ旅行に出掛けた時に、ベアトが撮ったものかも知れないという可能性が出てくるのです。 . . . 本文を読む
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2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その3

2008-11-21 05:54:26 | Weblog
『F.ベアト幕末日本写真集』のP42とP43には、金沢八景を遠望した写真が掲載されています。P42の写真には、「能見堂からの眺めであろう」とあり、写真には木々の密生する丘陵越しに、左手から夏島、烏帽子島、それに野島が写っています。野島はP43の中央左端にも写っています。この「能見堂」というのは、現在は存在しませんが、京浜急行金沢文庫駅の北北西、旧保土ヶ谷道に面したところにあった仏堂で、金沢の入海(いりうみ)をもっとも内陸部から見晴るかすことができる景勝地でした。「旧保土ヶ谷道」というのは、東海道保土ヶ谷宿から、蒔田(まきた)→上大岡→中里→称名寺→瀬戸→朝比奈の切り通しを経て鎌倉に至る道で、「金沢道」とも言いました。この中里と称名寺間の道筋にあったのが能見堂で、金沢八景を遠望できる絶好のビューポイントであったのです。ベアトが写したこのP42の写真は、その能見堂からのもので、おそらく金沢八景を写した写真としてもっとも古いものであると思われます。では、ベアトはこの写真をいつ写したのか。私はその年を1864年(元治元年)と推定しています。この年の11月18日の金曜日(旧暦では10月19日)の朝、ベアトは親友である『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』誌の通信員であって画家でもあるワーグマンらとともに、鎌倉・江の島方面へのスケッチおよび写真撮影旅行のため横浜居留地を出発しています。同行するのはヴェッキィ少佐、ボネェ侯爵、ルーサン、ド・ヴェッキィ少佐の下僕のフランシスコ、さらにベアトの下僕やそれぞれが乗る馬の別当(馬丁・日本人の馬曳き)など。すなわち外国人6名と日本人数名。総勢15名ほどであったと思われます。彼らは18日の夜は金沢で泊まり、19日(土曜日)と20日(日曜日)は鎌倉に泊まり、そして21日(月曜日)には東海道藤沢宿に泊まりました。そして東海道経由で横浜へ戻るのですが、P42~57にかけての一連の写真は、このスケッチおよび写真撮影旅行の時に撮影された可能性が高い。もしそうであるならば、ベアトらの一行は、横浜から保土ヶ谷道または横浜道を通って保土ヶ谷宿に出て、そこから今度は「金沢道」に入り、蒔田→上大岡→中里を過ぎたところで能見堂に立ち寄り、金沢八景の遠景を撮影(ないしスケッチ)。それから金沢に入り、そこで第一泊目の宿をとったということになります。 . . . 本文を読む
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2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その2

2008-11-19 06:28:10 | Weblog
『横浜周辺外国人遊歩区域図』を作成したのは、英海軍のA.G.S.ホース大尉。このホース大尉は、後に、あの有名なアーネスト・サトウとともに、『日本の中部・北部旅行案内』を編集した人物だという。この区域図が作成された年代は、1867年(慶応3年)末か翌年(1868年・明治元年)初頭のことであるらしい。作成者である「A.G.S.ホース大尉」については、『明治日本旅行案内 東京近郊編』(アーネスト・サトウ編著・庄田元男訳:東洋文庫/平凡社)の解説(庄田元男)に、その略歴が触れられています。それによると、「A.G.S.ホース」とはアルバート・ジョージ・シドニー・ホーズ(1842~1897)のこと(ということは、この区域図を作成した時、彼はまだ25歳ほどの青年であったということになる)。『明治日本旅行案内 東京近郊編』は、サトウとこのホーズの共編著による。ホーズは、英国海軍大佐であったエドワード・ホーズの息子として1842年に生まれました。英国海軍学校を卒業した後、彼は英国軍艦セヴァーン号に乗務して東インド方面へ赴き、ついで英国艦隊旗艦ブリンセス・ロイヤル号に移って、英仏米蘭の四ヶ国連合艦隊の兵庫遠征(下関遠征?─鮎川)に参加。1869年(明治2年)に自己都合で退役し、それ以後、肥後熊本藩・工部省・海軍省に、お雇い外国人として1884年(明治17年)まで勤務。その後、アフリカのイギリス領ナイアサ、フランス領ソシエテ諸島、サンドウィッチ諸島で領事となり、1894年にはハワイ国ホノルル府駐在総領事に就任しましたが、1897年にヒロ島訪問中に死去。軍葬によってホノルルに埋葬されたという。日本滞在中はアーネスト・サトウと親交を結び、「日本アジア協会」に所属して登山や競馬などを楽しんだらしい。また日本の女性との間に生まれた男子は、明治の大実業家小野義真(ぎしん)の養子になったという。日本政府は、このホーズを日本海軍の父として評価し、勲三等瑞宝章を与えている、とある。このホーズは、1866年10月、ミッチェル、ギブソンとともに横浜→根岸→金沢→鎌倉→片瀬→戸塚→横浜というコースを馬に乗って旅行し、また同年11月には、横浜→戸塚→厚木→飯山→蓑毛→伊勢原→戸塚→横浜というコースで大山に登頂。このホーズの区域図の星印は「美しい風景」を示していますが、その一つに能見堂付近が挙げられています。 . . . 本文を読む
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2008.11月「根岸~能見台」取材旅行 その1

2008-11-18 06:13:04 | Weblog
『F.ベアト幕末日本写真集』の折込ページにある「横浜周辺外国人遊歩区域図」の解説(P28)によれば、幕末における横浜居留地在住の外国人にとっての、遊歩区域内における旅行コースとしては五つ挙げることができたようです。その五つのコースは、青・緑・緑(点線)・赤・黄の5色に色分けされていて、それぞれのコースについて次のような記載があります。◇青─W.R.ミッチェル、ギブソン、ホースの乗馬旅行のコース(1866年10月)─根岸→町屋→金沢→鎌倉→片瀬→戸塚 ◇緑─大山への徒歩旅行のパーティのコース(1866年10月)─保土ヶ谷→厚木→飯山→宮ヶ瀬→八王子→橋本→田名→原町田 ◇緑(点線)─C.H.ハーバード、リヴィントン、ホースの大山登頂コース─日本の兵士に登頂を妨げられ、阻止線を突破して、5,000フィートの高さに達したところで捕えられた、という武勇談付きのコース ◇赤─ホース一行のコース(1866年11月)23日夜大山登頂に成功したという─戸塚→藤沢→一の宮→田村→厚木→飯山→蓑毛→神戸→伊勢原→粕屋→愛甲→戸塚 ◇黄─W.H.スミス一行の乗馬旅行のコース(1867年11月27日)、14時間30分かかったという─保土ヶ谷→厚木→飯山→宮ヶ瀬→八王子→橋本→木曽→原町田  そして最後に、「本書に収録されている写真によって、ベアトもほぼこれらのコースに沿って撮影旅行をしたことがわかる」と書かれています。このように見てきて、ふと気になったのは、最後のコースの「木曽」という地名。前に「清水清次の首」(2008.7.31のブログ記事)のところで、『新版 写真で見る幕末・明治』小沢健志編著(世界文化社)に掲載されているベアトの写真を紹介しましたが、そのP120に「処刑された荘吉」という生々しい写真がありました。それは「木曾村」の荘吉という23歳の青年が、主人とその息子を殺害した罪により磔(はりつけ)となった姿を撮ったものでした。その際、「木曾村」とは「今の町田市にある木曾のことか」としましたが、おそらくこのW.H.スミスの乗馬コースの内容から見て、それに間違いないと思われます。もしかしたら、ベアトはこのW.H.スミス一行の中に加わって旅行し、木曽を通過した際に磔にされたばかりの荘吉の死体に遭遇したのかも知れない。今回は「青」のコースの一部を歩きました。その報告を以下数回に渡って。 . . . 本文を読む
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松本逸也さんの『幕末漂流』について その3

2008-11-13 06:44:02 | Weblog
『幕末漂流』の見開きページには、スフィンクスをバックにしての侍集団の記念写真が掲載されていますが、これについては本文に、「1864年(文久四年、元治元年)は、彼にとって忙しい年になった。池田長発をリーダーとする第二回遣欧使節の取材である」とあります。この写真の左下にはA.Beatoのサインがあるという。日程的に厳しいことと、この写真一枚だけということなどから、松本さんは、「この疾風のような行動力について、A.Beatoは別人ではなかったかという説すらあるほどだ」と新聞の記事に記していたことがありましたが、これはやはり別人でした。といってもベアトの兄であるアントニオ・ベアト。このことがわかったのは、横浜開港資料館の斎藤多喜夫さんの『F.ベアト写真集2』の解説篇および『幕末明治 横浜写真館物語』によれば、フランスの『モニトゥール・ド・ラ・フォトグラフィー』の1886年6月1日号の記事。そこには「ルクソール在住の写真家アントニオ・ベアト氏は、イギリス通信欄で語られている写真の実験とその発表に本人がまったく関わりがないことを報道するよう本誌に求めている。この写真コレクションは、かれの弟である日本在住のフェリーチェ・ベアト氏の手になるものであるとのことである」と書かれていました。この「スフィンクスと侍」として有名な写真は、フェリーチェ・ベアトの兄であるアントニオ・ベアトが、1864年4月4日(陽暦)の午後に、スフィンクスをバックにした侍集団(遣欧使節のメンバーたち)を撮影したものでした。松本さんによれば、1986年の段階では、次第にベールがはがされてきたとはいえまだまだベアトは「ナゾの写真師」であり、また「A.Beato」と「F.Beato」は、長い間、同一人物であると信じられていたようです。斎藤多喜夫さんによると、ベアトの写真が世に知られるきっかけとなったのは、昭和34年(1959年)に刊行された『横浜市史・第二巻』の口絵として「生麦事件現場」が収録されたことにあるという。その後『市民グラフ・ヨコハマ』24号(昭和53年)や『週間読売』(昭和56年)でイギリスの貿易商バロウズ氏のアルバムが紹介されたことにより、ベアトの存在が広く知られるようになり、時をほぼ同じくしてベアトについての伝記的研究も進んでいくことになったのです。 . . . 本文を読む
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松本逸也さんの『幕末漂流』について その2

2008-11-12 06:20:30 | Weblog
『幕末漂流』や『新版 写真で見る幕末・明治』に載っている清水清次のさらし首の写真は、『F・ベアト幕末日本写真集』にも『F・ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本』にも収められていません。ちなみに『幕末漂流』のP285の写真は、〈「ライデン大学所蔵「甦る幕末」より〉とある。ということは、ベアトが写した日本の写真は「写真集」の写真以外にもまだまだあるということになります。とうぜんに日本以外で写した写真は「写真集」にはほとんど収められていませんから、私たちが知るベアトの写真は多くは日本で写したものに限られるということになります。『幕末漂流』には、ベアトが1858年に、イギリス戦争局の委嘱を受けて撮影した「セポイの乱」に関係する写真が掲載されています(P307)。写した場所は、「セポイの多くの者たちの出身地であるアウド(北インド)の主都ラクノー」。上の写真は「川岸に寄せられた魚の形をしたアウド王所有のボート」を右手前に写したもので、下の写真は「二人のセポイが絞首刑にされた現場」を写したもの。後者においては、絞首刑にされてぶら下がっている二人のセポイを、「シーク族と思われるターバンを巻き銃剣を手にした十人ほどのインド人」が見上げています。1860年、「太平天国の乱」を鎮圧するために、英仏連合軍が太平天国軍と激戦を繰り広げた場所をベアトが写した写真も掲載されています(P309)。場所は大沽の太平天国軍陣地。英仏軍に占拠された後のようすです。陣地には戦死した中国兵の死体が散乱しています。P313には、1871年に朝鮮に遠征したアメリカ軍に同行した時の写真が掲載されています。下の写真は捕虜となった朝鮮の兵士2人を写したもの。日本以外でベアトが写した写真が掲載されているという点においても、この『幕末漂流』は興味深いものでした(『F・ベアト写真集2』には、このアメリカ軍の朝鮮出兵の時の写真がP43~45に掲載されています)。欧米諸国には、ベアトが日本を含めた世界各地で写した写真がたくさん残っているのでは、と思わせるものでした。 . . . 本文を読む
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松本逸也さんの『幕末漂流』について その1

2008-11-11 05:55:22 | Weblog
手元に『幕末漂流』という本があります。いつ購入したかは覚えていません。初版発行は1993年となっていますから、それ以後に購入したものと思われますが、これを久しぶりに読み返したのは、夏の北海道西海岸取材旅行から帰ってからのこと。きっかけは函館で元町公園内の「旧北海道庁函館支庁庁舎」を訪ねたことにあります。現在、この「函館支庁庁舎」は、観光案内所および写真歴史館となっていて、古写真を通して函館の歴史がわかるようになっています。ここには国指定の重要文化財になっている日本最古といわれる写真(厳密には、外国人が日本国内で日本人を撮影した現存する最古の写真)の複製が展示されていました。写っているのは松前藩勘定奉行兼旗奉行であった石塚官蔵とその槍持の万吉、そして草履取の卯之吉、それに貸人(かしにん)の村田某。撮影したのはペリー艦隊に随行していた写真家E・ブラウン・ジュニア。カメラはダゲレオ・タイプ。したがって写真は銀板写真。また木津幸吉、田本研蔵(土方歳三の写真を撮った人物)、横山松三郎といった草創期の日本人写真家を知りました。つまり日本写真史の上で、函館が重要な一舞台であることを知ったのです。北海道取材旅行から戻って、書棚から『幕末漂流』という本を何気なく手に取ったところ、それには、日本への写真の伝来ルートとして、「ペリーの黒船が伝えたアメリカ・横浜ルート」、「プチャーチンのロシア・函館ルート」、「オランダ・長崎ルート」の三つのルートがあることが記されていました。長崎も横浜も函館も、幕末の三つの開港場。それらの窓口と縁の深い国々が、独自の写真術を日本に伝えたというのです。そしてペラペラとページをめくっていくと、あの「鎌倉事件」の清水清次のさらし首の写真が出てきたのです(P285)。 . . . 本文を読む
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村山古道について その2

2008-11-01 05:26:17 | Weblog
『富士山 村山古道を歩く』の著者である畠堀操八さんに誘われて参加した「黄葉の富士山・村山古道」という山行き。類い稀な秋晴れの下、村山浅間神社の登山口から中宮八幡堂を経て旧四合目までの「村山古道」(村山口登山道)のルートをほぼ正確に歩くことができました。畠堀さんや村山から参加された松浦伸夫さんを始めとする人たちからお聞きした話もたいへん有意義なものでした。畠堀さんがこの村山古道に出会ったのは「登山家」としてでした。前にも触れましたが、2003年の1月、雪遊びのため吉田口五合目の佐藤小屋に泊まった際、登山家の篠原豊さんとの会話の中で村山口登山道のことが話題になり、「いっしょに藪漕(やぶこ)ぎをやりましょう」と意気投合。最初は「撃退」されたものの、地元の村山の鯛津勝良さんと松浦伸夫さんの協力を得て、その年の11月から4人による本格的な「道探し」が始まったのです。そして2004年8月、ついに4人は新六合目に到達。この間に畠堀さんは村山の人々との多くの出会いを経験。その交流を通して「当初、自分ひとりが村山古道を通り抜ければいいと思っていた」畠堀さんの考えは大きく変化。「村山口登山道を復活させよう」という思いを抱くようになりました。畠堀さんにとって、「登山をはじめて40数年、山登りが人様のためになるという体験ははじめてのこと」でした。私の場合、村山古道への接近は、幕末の初代駐日公使オールコックの大著『大君の都』によるものでした。最初からその意図が明確にあったわけではありませんが、幕末の東海道の様子はどういうものであったかを実地に歩いて探っていく(神奈川近辺を舞台にした歴史小説を書く上で必須の作業だと思いました)中で、『大君の都』の関係する記述を精読し、それを実地に検証していくうちに当時の富士登山のメインルートの一つである「村山古道」に辿り着いたというわけです。畠堀さんが「登山家」としてのアプローチであったとすると、私の場合は市井(しせい)の「歴史家」(ないし「物書き」)としてのアプローチから、「村山古道」に遭遇したということになる。畠堀さんはその「村山古道」に見事にはまりました。困難を極める実地の踏査ばかりか膨大な歴史的資料等を読み込んだ上での考察を進め、一冊の本としてまとめられたのが『富士山 村山古道を歩く』。私もいつかこの体験を歴史小説としてまとめてみたいと思っています。 . . . 本文を読む
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