鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.10月取材旅行「ふたたび押切と桐生」 その最終回

2013-11-29 05:40:30 | Weblog
桐生駅構内で開催されていた「毛武游記」の写真パネル展を観て、あらためて崋山の紀行文の面白さを再確認しました。崋山が赴くところ、どこにおいても崋山の観察眼は行き届き、また接する人々一人一人がよく捉えられているのです。その場の情景や、また崋山の感動や心の動きがよくわかる。今泉定右衛門から巨鮎を贈られた時の崋山の感動、そしてそれをサラサラと「写真」する崋山、その巨鮎を前に「写真」する崋山の技量を感嘆の思いで見守る岩本家の人々、囲炉裏で巨鮎が塩焼として焼かれていくようす、そしてそれを酒の肴として食べる崋山を見守る人々…といった一連の情景が、紀行文には書かれていないけれどもありありと見えてくるのです。早朝に起き出して、蔦屋の戸口を出て、足利坂をいそいそと登っていく崋山。たもとには筆と硯が入っています。観音堂まで上がり、そこから足利の町がよく見える場所を探して、眼下に一望のもとに足利の町を見下ろせる場所を見付けて座り、足利の町を一気にサラサラと描く崋山。街道沿いに櫛比する人家のあちこちの屋根から、朝餉の煙が薄く立ちのぼっています。蔦屋も旅客のために朝餉の準備をしていることだろう。その2階の一間では、まるでずっと昔からの知り合いでもあったかのように意気投合し、崋山の三ヶ尻調査の支援を約束してくれた岡田東塢(とうう)がまだ寝息を立てていることだろう。足利学校を訪ねた楽しく愉快な思い出も蘇ってきます。崋山は充実した幸せな思いを味わいながら、この「足利の町図」を描いたのです。私は、崋山がいつも雁皮紙と筆と硯を持ち歩いて、記録すべきものがあれば、それに書き、そして描いていたことに注目したい。これはおそらく谷文晁から教わった作画態度であり、崋山はおそらく死ぬまで、それを継続していったのだと思う。崋山の友人で弟子であった椿椿山もそうでした。日々の感動やときめきや、また好奇心などを大切にして、それを記録していくことを継続したこと。その上に成り立った紀行文であるということが、崋山の紀行文の面白さを生みだしているように私には思われます。 . . . 本文を読む
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2013.10月取材旅行「ふたたび押切と桐生」 その6

2013-11-28 05:55:17 | Weblog
『客坐録』(かくざろく)には、荒川の鮎漁についての詳しい記述と、それに関する絵があります。そこには鮎の習性を利用した、荒川近辺の農民が最近発明したという漁法が紹介されています。それは川に一文字に張られた白い網と、カーブするように張られた黒い網、そして「モジリ」という篭(かご)のようなものを利用して多数の鮎を捕るもの。白い網に驚いた鮎が、黒い網へと逃げ込んで、さらに「モジリ」へと入った鮎を捕るというもの(モジリ一つに150尾ほどが入るとされています)。これが『訪瓺録』(ほうちょうろく)となるとさらに詳しく、また正確になって、この漁法は「張キリ網」と言われていることがわかります。また黒糸網の底に「笱」(やな)を置き、黒糸網があることに驚いた鮎はすぐに「笱」に避難するのですが、その一笱に150尾ほどの鮎が掛かると記されています。「モジリ」に鮎が150尾ほども入る、となっていた記述が、「笱」に150尾ほど掛かるという記述に変えられています。『渡邊崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』において馬場國夫さんは、この「張キリ網」と「モジリ」の図絵を紹介し、その説明において、鮎用の「モジリ」1個は10尾以上は入る、とされており、「モジリ」に鮎が150尾前後も入るとはどうも考えられない。崋山は、「モジリ」と「笱」とを間違えたことに、後で気づいたものと考えられます。また崋山は『訪瓺録』(ほうちょうろく)において、荒川の鮎漁の最盛期は秋であり、その捕れた鮎の大きなものは「一尺四五寸」に及ぶと記しています。「一尺四五寸」とは、堤村天王宿の今泉定右衛門が崋山に贈った巨鮎と同等の大きさ。かつての荒川では、渡良瀬川と同じく、「一尺四五寸」もの大きさの巨鮎が捕れたことになります。味はどうであったかというと、崋山は「味亦美ナリ」と記しています。鮎の塩焼を食べたものと思われますが、それは大麻生村の古沢家であっただろうか。それとも押切村の持田家か、三ヶ尻村の黒田家であっただろうか。崋山は江戸に帰ってから、土産話として、渡良瀬川や荒川の巨鮎のことや、その漁法のこと、そしてその鮎の塩焼が美味であったことなどを、親しい人たちを前にして熱情込めて物語ったのではないでしょうか。 . . . 本文を読む
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2013.10月取材旅行「ふたたび押切と桐生」 その5

2013-11-26 05:05:04 | Weblog
熊谷在住のBさんは、崋山の三ヶ尻調査の内容を知るためには、『訪瓺録』とともに『客坐録』を併せ読むべきである、と教えてくれました。『客坐録』は備忘録とでも言えるもので、記録しておきたい情報や文物の絵などが収められたもの。三ヶ尻関係や足利関係、つまり『毛武游記』の旅関係の記事や絵等は、その「天保二年八月」の中に収められています。記事中には、「三尻村黒田氏」、「上野國山田郡薗田庄桐生村」、「三尻村清水井戸」、「運派塚 三尻村」、「黒川茸 方言ボクリツカケ」、「三尻八幡」、「前小屋天神」、「高島村伊丹新左衛門 号水郷 弟唯右衛門 号溪斎」、「黒田平蔵」、「下押切持田宗右衛門」、「観音山」、「三尻村隣村 舞臺村」、「東楊寺 押切村」、「大麻生村」、「深谷」、「槐市古澤喜兵衛 大麻生村名主 子吉之介」、「桐生風流」、「岡田隆助 トウウ」、「烏洲」、福田ソウテイ」などといった、すでに今まで触れてきたことのある地名や人名などが多数出て来ます。出てくる順序は、必ずしも時系列とは言えず、それぞれの場において紙にサラサラとメモをしたり描いたものを、あとで無造作に(しかし丁寧に)まとめたもののように思われます。崋山が旅の途次、何に興味関心を持ったのかを知る上で、大変貴重な資料です。 . . . 本文を読む
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2013.10月取材旅行「ふたたび押切と桐生」 その4

2013-11-24 05:00:22 | Weblog
押切村の持田宗右衛門は、崋山が訪ねた時(天保2年〔1831年〕)、何歳であったのか。『客坐録』によると72歳であったことがわかります。俳号は「逸翁」とあるから、俳諧を嗜む人であったらしい。大麻生村の古沢喜兵衛(俳号は槐市〔かいち〕)とはおそらく名主仲間および俳諧仲間として親しく、もしかしたら三ヶ尻村名主の黒田平蔵(俳号は観流亭幽鳥あるいは清水幽鳥)の数多い門人(500人を数えたという)の一人であったのかも知れない。持田宗右衛門も古沢喜兵衛も、そして黒田平蔵もまた名主であり、そして俳諧を好むことにおいて共通していました。『客坐録』には押切村に関して、「東楊寺」(天台宗系の修験道寺院東陽寺-当時の住職は円盛〔のりもり〕であり、崋山はこの円盛を訪ねています)や、「合給」の地であること(旗本の領地が入り混じっていること)、「上下」ある村であること(上押切、下押切)、「東楊寺」を含む寺社のこと、「家数」が120戸であること、村の石高が672石であること、などといったことが記されています。これらのことは持田宗右衛門や東陽寺の住職である円盛(のりもり)〔御正山(みしょうやま)円盛〕から聞いたのかも知れません。東陽寺は上押切にあり、京都聖護院の末寺であり、御正山若宮坊と号しました。本尊は役行者像であり、天台宗系の修験道寺院でした。関東の修験を統轄する大先達であった幸手(さって)の不動院の支配下にあり、年行事の寺格を持つ有力寺院でしたが、明治初年の神仏分離令によって廃寺(幸手の不動院も同様)となり、現存していません。崋山が荒川を渡って、持田家のある下押切や、東陽寺のあった上押切を歩いたことは確実です。ちなみに当時の持田家の領主は旗本の大道寺仁太郎であり、『客坐録』の「下押切持田宗右衛門」の名前の下に、「大道寺仁太郎知行所」とちゃんと崋山は書き留めています。 . . . 本文を読む
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2013.10月取材旅行「ふたたび押切と桐生」 その3

2013-11-22 05:42:49 | Weblog
崋山が大麻生の古沢家にやってきたことを聞いて、訪れてきた持田宗右衛門は、その最初から自分の来し方を細々と語りだし、聞く方の崋山としてはちょっとわずらわしく思うほどであったのですが、その内容をよく聞いてみると、ただひとひらの真心(まごころ)をもって、家を再興し、人の危難を助け、また領主や親のために神仏に祈り、まるでその真心で描いたような人生を送ってきた「いとめでたき翁」であることがわかってきました。よほど崋山はその持田宗右衛門という老人に惚れこんだのでしょう。おそらく持田宗右衛門の誘いに応じて、ある晩秋の一日、わざわざその自宅へと出掛けて行ったのです。崋山は記す。宗右衛門は、儒教の教えに通じているわけでもない。和歌や漢詩を嗜む風流人でもない。財産があるわけでもないし、和漢の書をたくさん持っているわけでもない。話題が豊富で、世の中のことに精通している人物でもない。崋山はそのような友人を多数もっていましたが、それら多数の友人のそれぞれの範疇に入る人物では宗右衛門はありませんでした。しかし、その純粋な真心に徹した生き方は、崋山の心をゆさぶるものであったのです。そして実際に押切村の持田家を訪れてあたたかな歓待を一家の者たちから受けた時、崋山は、宗右衛門の「真心」が家中に行き渡っていることを感じとり、さらに大きな感動と喜びを覚えたのです。 . . . 本文を読む
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2013.10月取材旅行「ふたたび押切と桐生」 その2

2013-11-21 05:52:44 | Weblog
三ヶ尻村調査のため、大麻生村の古沢家に滞在していた崋山が荒川対岸(南岸)の押切村に住む持田宗右衛門を訪ねていったことを知ったのは、『渡邊崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』(熊谷市立図書館)による。この中で、馬場國夫氏が、崋山が持田家に残した御礼状の全文を活字化して紹介されています。この御礼状の内容をみてみると、まず持田宗右衛門が(おそらく大麻生村の古沢家に滞在していた)崋山を訪ねてきたことがわかります。崋山は「我が此地にいたりしを聞て訪ひ来たり」と記しています。崋山が大麻生村の古沢家にやってきたのを聞いて、わさわざ訪ねてきたというのです。そこで11月半ば頃のある日、崋山は押切村に住むという持田宗右衛門家を訪ねていったのです。その持田家で歓待を受けた崋山は、その家のまるで「春の日」を思わせるようなのどかであたたかな雰囲気や心配りの一つ一つに感動し、こみあげるような感動と喜びを覚えたのでしょう。立ち去る間際に、その感動と喜びを御礼状に書き記し、持田家に残していったのです。この文は、あとで送り届けた書簡文ではなく、その場で書いて渡したものであり、崋山のその時の感動や喜びが直截にあらわれているものであり、実に貴重なものであると私は思っています。末尾には、和歌が一首書き記されていますが、それは次のようなもの。「月かけも  にこりにそまて あら川乃 きよき流れに すめる魚かな」。荒川の清冽な流れに棲む魚とは、私は「鮎」をまず連想しますが、この文章の流れから考えて、これは荒川近くの押切村に住む持田宗右衛門のことをさしているはずです。 . . . 本文を読む
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2013.10月取材旅行「ふたたび押切と桐生」 その1

2013-11-20 05:06:17 | Weblog
熊谷在住の渡辺崋山研究家で、取材を通じて知り合ったBさんから、「桐生駅で崋山関係の本が販売されているという話があるけれども、行ってみませんか」というお誘いがあり、私の方は、押切(おしきり)の持田家の場所をしっかり確かめてみたいという気持ちがあり、そのことをお伝えするとともに、桐生でどういう崋山関係の本が販売されているのかという興味関心もあって、「私の車でぜひ一緒に行きましょう」という話になりました。押切には現在も持田家があり、Bさんは幸いに持田さんとはお知り合いであるということであり、持田さんに連絡をとられて訪問日時の約束までして下さいました。桐生駅構内での崋山関係の本の販売については、Bさんは詳しくは御存知ないようであり、Bさんも私もそこへ実際出向いてみてのお楽しみという感じでした。熊谷のBさん宅から押切までは車で荒川を渡ってすぐですが、桐生までは利根川や渡良瀬川を渡って1時間ほどのドライブ。当日は幸いに天気もよく、久しぶりに桐生まで車で行くことになりました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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2013.9月取材旅行「大麻生~押切~上新田」 その最終回

2013-11-18 05:45:51 | Weblog
荒川上流部への崋山の関心はどうであったか。『訪瓺録』の「路程図」には、大麻生の荒川対岸(南側)に「押切」と記され、その左側(西側)に「男衾郡」とあり、「鉢形ノ城」と「荒川」のことが小さい文字で記されています。「鉢形ノ城址アリ太田道灌縄張後北条氏邦コレニ居」「荒川源ヲ秩父山中ニ発シ入間、綾瀬、諸流湊合シ下両国川トナル或ハ云源ハ大滝ト云ヘル所也トイへドモ其実ハ中津川ナルベシ渡ハ羽根倉、火野、早瀬、戸田、川口沼田小台等也」。『訪瓺録』には、龍泉寺の開基は「小此木紀伊守」とあり、「三宅公御領ノ時」すなわち藩祖三宅康貞が徳川家康から三ヶ尻を領地として賜った時、この小此木紀伊守の子どもである平馬が村長であったと記した上で、この小此木紀伊守は、もしかしたら鉢形北条家の家臣であって、鉢形城滅亡の後にこの地(三ヶ尻)に逃れて住み着いたのではないか、とも推測しています。この小笠原紀伊守は小笠原運派の子どもであり、この運派の墓(運派塚)を、崋山は幸安寺住職、黒田平蔵(幽鳥)、下宿岩次郎らとともに訪れ、その様子を絵にしています。この塚の前にあった碑は、「秩父青石」を使用したものであり、「高三尺五寸」、「横二尺三寸」もある大きなものでした。おそらく荒川上流から筏に載せて運んできたものであるでしょう。 . . . 本文を読む
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2013.9月取材旅行「大麻生~押切~上新田」 その8

2013-11-17 05:28:42 | Weblog
秩父の山奥で切り出された材木は、荒川で筏(いかだ)に組まれ、江戸へと運ばれたのですが、では江戸のどこに運ばれたのか。三ヶ尻村近くの荒川南岸にある押切(おしきり)村が、筏流しの中継点(乗り継ぎの場所)であったことはすでに触れた通り。ここで中継された筏は、新川(しんかわ)河岸(荒川最上流の河岸)で筏舟に組まれるのですが、この新川河岸には、筏を商う岩崎・荒井といった大手の回船問屋がありました。筏舟は、その新川河岸からおよそ三十余里の距離を、江戸を目指して荒川を下っていくのですが、その向かう先は千住大橋のたもと(千住河岸)の材木問屋でした。千住は材木問屋の町であり、秩父や川越方面からの材木の集積地であり、大きな貯木場がいくつもありました。広重の『名所江戸百景』の「川口のわたし善光寺」には、筏舟が6艘も描かれています。この浮世絵は、荒川を挟んで岩淵宿(赤羽)側から対岸(川口宿側)を眺めたもの(岩淵宿や川口宿は日光御成街道〔岩槻街道〕の宿場町)で、手前に描かれる茶屋は、岩淵宿側の土手上にある茶屋。右上の「川口のわたし善光寺」と記されている黄色い四角の左側にあるお寺が「川口の善光寺」で、右下の川面に描かれるのが渡し船。『謎解き 広重「江戸百」』(原信田実)の「絵索引」では、この絵は安政4年(1857年)の2月に分類されています。雪解け水で荒川の水量が増え、木材の運搬が活発化して、荒川の上流から多くの筏舟が千住の材木問屋を目指して下ってくるようになったのです。江戸の家造りは、秩父方面の木材が多く使われたとの指摘もあり、「火事と喧嘩は江戸の花」と言われた江戸にあって、荒川上流から運搬されてくる材木は、大変な需要があったものと思われます。 . . . 本文を読む
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2013.9月取材旅行「大麻生~押切~上新田」 その7

2013-11-15 05:52:45 | Weblog
「秩父石」について、崋山は『訪瓺録』の「物産」において次のように記しています。「秩父石は荒川に流れ出たもので、その大きなものは筏に載せて運送している。石は青色で平たく、薄いものが多い。その石質は緻密であり、墓碑の材料にふさわしい。白や赤、あるいは白黒の班紋のあるものや、筋のあるものは、庭石や文房具などに愛用すべきものである。」 「石は青色」としていますが、これが「秩父青石」として知られるもの。「青鉄平石」ともいい、秩父地方に産出する青緑色の結晶片岩。古来、石碑や庭石などに使われています。関東武士の供養塔としての板碑や塔婆などは、おもにこの「秩父青石」が使われているという。白は「石英片岩」であり、赤は「紅廉片岩」。「秩父青石」は、一枚一枚が玉ねぎの皮を剥ぐように剥がれる性質を持っているとのこと。崋山は、実際に庭石や文房具として、また板碑や塔婆として「秩父青石」などが用いられているのを目にしたことがあるのでしょう。私にとって興味深いのは、その大きなものは、筏に載せて運送している、との記述。もちろん荒川の筏です。荒川を利用して下流地域、特に江戸に運ばれ、庭石として珍重されたということでしょう。『江南町史 資料編5 民俗』には、押切では川原の石を行田あたりに売りに行くなどして小遣いを稼いだもの、あるいは川原の石を売るのは押切の権利のようだったといわれる、などの記述があり、荒川の川原の石も珍重されていたようです。荒川の大洪水などを考えると、上流の秩父の石や岩が流れてきて川原やその周辺に堆積していることが考えられ、その中には「秩父青石」も含まれているように思われますが、押切の人々が売って小遣い稼ぎをしたというその石は、普通の川原石だったのだろうか、それとも「秩父青石」だったのだろうか。いずれにしても、荒川の筏流しの中継地(乗り継ぎの場所)であった押切の人々が、川原の石を筏の上に載せて運んだことは確実であり、同じく荒川近くの三ヶ尻の人々も、川原の石を売って小遣い稼ぎをしていたらしいことは、崋山の『訪瓺録』の「物産」の記述から推測できることです。 . . . 本文を読む
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2013.9月取材旅行「大麻生~押切~上新田」 その6

2013-11-14 05:04:31 | Weblog
一つの村に領主が何人もいるというのは、崋山が調査した三ヶ尻村においても同様でした。崋山は『訪瓺録』に、7人の領主の名前を挙げています。「黒田豊前守」・「林大学頭」、「夏目日向守」・「天野亀吉」・「小栗忠一郎」・「鈴木金之丞」・「小栗庄右衛門」。一番石高が多かったのは天野亀吉で、427石でした。収穫された年貢はどこから江戸に運ばれたのか。たとえば『江南町史 近世 資料編3』のP208には、嘉永5年(1852年)6月の「野原村明細」として、「米津出シ新川河岸迄道法弐里半、河岸ヨリ江戸迄河路三拾里余」という記述があり、荒川の新川河岸まで陸路運送(馬の背か)して、新川河岸から江戸まで荒川を利用して船で運ばれたことが推測されます。「野原村」というのは現在は熊谷市野原であり、江南台地(洪積台地)上であって、立正大学があるところ。荒川の一番上流にある河岸は新川河岸であって、新川河岸よりも上流地域の年貢米は陸路、新川河岸へと運ばれ、高瀬舟に乗せられて江戸へ運ばれたものと思われます。大麻生村や三ヶ尻村、押切村や野原村などの年貢米も、基本的には、陸路、新川河岸まで運ばれたのでしょう。では、なぜ荒川を利用して下流の新川河岸まで運ばれなかったのか。おそらく新川河岸から上流の荒川においては、川底が浅いところがあちこちにあり、また船を常時運行させることができるほど水量も安定していなかったからではないか。崋山が大麻生村から押切村の持田宗右衛門家を訪れた時、荒川を徒歩で渡っているのは、その時、徒歩で渡れるほどに荒川が浅かったからだ、ということができるでしょう。しかし『江南町史 資料編5 民俗』によれば、下押切には大正時代中頃まで蔵屋敷と呼ばれる河岸があって、米蔵が並んでいたという記述があり、荒川の水量が多い時には、小舟で年貢米が新川河岸まで運ばれた可能性も否定できません。また押切は荒川の筏流しの中継地であり、その筏を利用して荷物を運んだという記述があり、たとえばその筏の上に乗せた荷物の上に漬物用の河原の石などをいくつか載せていって、その河原の石を売るのは押切の権利のようだったと言われる、との注目すべき指摘もあって、筏を利用した物資の運搬が行われていたことが推測されます。 . . . 本文を読む
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2013.9月取材旅行「大麻生~押切~上新田」 その5

2013-11-12 05:20:55 | Weblog
『江南町のあゆみ』によれば、押切村には幕府領と旗本領があり、押切村に知行地を持つ旗本は、米倉・筒井・竹内・松平・大道寺・米津・横地の7氏。お寺は円光寺(新義真言宗)・宝幢寺(ほうどうじ・天台宗)・西光寺(曹洞宗)・東陽寺(天台宗系の修験道寺院)の4寺(円光寺と東陽寺は明治になって廃寺となっている)。神社は八幡社・諏訪社・稲荷社・神明社の4社(現存するのは八幡社と稲荷社)。押切村は比較的大きな村であり、上押切と下押切があり、荒川の渡し場(押切の渡し)や八幡神社、双体道祖神などは上押切にあり、宝幢寺(ほうどうじ)や稲荷社、河岸場や蔵屋敷などは下押切にありました。修験道寺院の東陽寺は、明治初年の神仏分離令により廃寺となり、円光寺は明治43年(1910年)の荒川の大洪水により流されて廃寺となり、また宝幢寺や稲荷社も、やはり明治43年の大洪水によって流されて現在地に移ったというから、明治43年の荒川の大洪水は、このあたりに大きな被害をもたらした大災害であったことがわかります。さて崋山が荒川を徒歩で渡って訪ねた持田宗右衛門家はどこにあったのか。『江南町史 資料編5 民俗』によれば、現在は下押切公民館の隣にある持田稲荷(稲荷社)は、持田一家で祀る稲荷神社であり、かつては荒川の近くにあったが、明治43年の荒川の大洪水のため現在地に移ったのだという。また宝幢寺はかつては持田家の裏手にあったが、やはり明治43年の大洪水によって流されてしまい、現在地に移転したという。したがって持田家は下押切にあったことがわかります。おそらく隣接地に稲荷社があり、裏手に天台宗寺院である宝幢寺があったのです。下押切の持田家のある一帯の領主は誰であったのか。これについては『江南町史 近世 資料編3』の史料を見ていくと、旗本大道寺氏であり、崋山が訪ねた頃の領主はおそらく大道寺仁太郎であったらしいことがわかってきます。 . . . 本文を読む
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2013.9月取材旅行「大麻生~押切~上新田」 その4

2013-11-11 05:22:12 | Weblog
押切は現在熊谷市に属していますが、以前は大里郡江南町に属していました。江南町が熊谷市に編入合併されたのは平成19年(2007年)2月のこと。それまでは大里郡江南町押切であったのです。「江南町」の「江南」とは、荒川の南岸地域ということであり、特に荒川と近接していたのが押切地区や上新田地区でした。荒川の氾濫原である沖積地帯にあるということは、ずっと昔からしばしば荒川の洪水の被害を受けるとともに、それによる実りも受けてきた地域であるといえるでしょう。江南町の近世関係の資料としては、『江南町のあゆみ』江南町教育委員会編集(江南町)や、『江南町史 近世 資料編3』(江南町)、『江南町史 資料編5 民俗』があり、それらによれば、押切は荒川の筏流しの中継地・乗り継ぎの場所であり、大正時代中頃まで河岸があったとのこと。下押切には蔵屋敷と呼ばれていたところがあり、そのあたりに河岸があって、米蔵が並んでいたという。筏流しの中継地や乗り継ぎの場所であり、米などを運ぶ河岸があったことによって、押切では物がよく売れ、押切の人は金遣いが荒いと言われるほどであったという。荒川の川筋にあって、物資の売買や流通が盛んであったということでしょう。また舟を操るのが得意な人が多く、荒川で魚を捕ったり、河原の石を行田あたりに売りに行くなどして、小遣いを稼いだものであった、とも記されていました。荒川には「押切の渡し」があり、その渡し場は八幡神社(上押切)の裏あたりにあったという。現在押切橋が架かっているところの南詰付近であり、対岸(北側の岸辺)は、現在、「大麻生ゴルフ場」の南端の河原となっています。そこから北へと進めば、武体を経て三ヶ尻や深谷へと至ることになります。 . . . 本文を読む
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2013.9月取材旅行「大麻生~押切~上新田」 その3

2013-11-10 06:10:30 | Weblog
 『訪瓺録』の「形勢」では、荒川は、秩父山中の諸河川が合流して大河となったもので、戸田川や両国川の源であると記されています。「戸田川」というのは中山道で荒川を渡るところが「戸田の渡し」であることを考えれば、戸田付近の荒川のことであり、「両国川」というのは両国付近を流れる隅田川であるということになるでしょう。荒川は江戸の両国を流れる隅田川の源流である、という認識は、崋山にはあたりまえのことであったに違いありませんが、それだけに三ヶ尻村や大麻生村近くを流れる荒川は崋山にとって身近な親しいものに感じられたものと思われます。次に荒川が出てくるのは「賦役附沿革」の用水関係の記述において。三ヶ尻およびその周辺には「三水柵」というものがあり、それは奈良・玉ノ井・大麻生の三用水であり、そのうちの「奈良堰」(奈良用水)が三ヶ尻村を流れるものであり、それら三用水は全て荒川からの引水であると崋山は記しています。崋山が大麻生の古沢家から三ヶ尻調査に赴く場合、この三つの用水を小橋で渡ったことは、すでに触れたところです。次に荒川が出てくるのは、「物産」に関する記述において。ヘチマやトウガン、カワラヨモギ、ノゼリなどは荒川の砂地に生育しており、三ヶ尻村の人々は荒川に行って採取してくると記しています。そしてもっとも詳しく記されているのは荒川の「香魚」つまり鮎のこと。荒川においては、人々は三月と四月の交わるあたりから網漁や釣り漁を始め、秋に至って最も盛んであると、崋山は記します。大きいものはなんと長さ一尺四五寸(45cm近く)に及ぶものが獲れ、その味もまたとてもよいものである(味亦美味なり」)と、美食家である崋山にとって、荒川の鮎は十分に記述に値するものであったのです。崋山の筆は、さらに鮎の生態を利用した網漁の仕方や鵜飼のことにまで及び、その記述は実に詳細です。 . . . 本文を読む
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2013.9月取材旅行「大麻生~押切~上新田」 その2

2013-11-09 05:19:59 | Weblog
『毛武游記』の旅で、崋山が渡った大きな川は3つあります。一つは荒川であり、二つ目は利根川であり、そして三つ目は渡良瀬川。荒川は江戸から中山道を通って、板橋宿を過ぎたところでまず渡っており(「戸田の渡し」)、利根川は中山道鴻巣宿を出立して、熊谷宿から桐生道へと入り、妻沼(めぬま)を過ぎたところでまず渡っています(「妻沼の渡し」)。渡良瀬川は、太田を経由して桐生に入る手前でまず渡っています(「松原の渡し」)。渡良瀬川については、大間々(おおまま)に出向いた時に「高津戸の渡し」や「赤岩橋」で渡ったりしています。利根川については、前小屋天神で行われた書画会に出向いた時に「前小屋の渡し」や「三ツ小屋の渡し」を利用しています。そして11月7日にも、桐生から中山道深谷宿を経て大麻生村へ赴く途中において、ふたたび「前小屋の渡し」を利用しています。そして荒川については、崋山は押切(おしきり)村の持田宗右衛門宅へ赴く時にふたたび渡っていますが、この時は渡し舟(「押切の渡し」)を利用してはおらず、徒歩で渡っています。古沢家のある大麻生村は荒川の北岸にあり、また三ヶ尻村も荒川からそれほど離れておらず、大麻生村に二十日間ほど滞在していた崋山にとっては、いたって身近な大河であったようであり、『訪瓺録』(ほうちょうろく)や『客坐録』(かくざろく)においては、荒川についていろいろなことが触れられています。 . . . 本文を読む
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