鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その最終回

2014-06-16 05:23:17 | Weblog

 「コンビニエンスマート カネコ」のところの四つ角で西の方へと道を進む(地蔵堂から来た場合は左折することになる)と、目久尻川に架かる小園橋に出ます。

 この小園橋がかつての村境(むらざかい)で、橋を渡るとその向こうは早川村でした。

 橋の手前右側には河童の置物があり、「河童伝説」の石碑もあります。

 目久尻(めくじり)川はかつてはもっと曲がりくねった流れであったといい、氾濫の起きやすい暴れ川でした。氾濫等によりその流路はかなり頻繁に変わったりしたことでしょう。

 現在の目久尻川は、かなり深く掘られており、両岸の護岸工事もコンクリートによってかなりしっかりと行われているようです。

 どこの川もそうですが、川が子どもたちの遊び場であった頃の面影はありません。

 そこから丘陵の新興住宅街の間の坂道をのぼっていき、出たところが相鉄バスの「国分寺台第1」バス停。

 そこから住宅団地の中を通過し、旧国道246に架かる橋を渡って、旧大山街道に合流したのが10:18。

 そこで左折してゆるやかな下り坂を下って行き、右手に国分寺跡を見て、神奈中の「国分」バス停前を通過したのが10:22。

 それからまもなく、左手に「県央に さすが海老名の大欅(おおけやき)」という看板が現れて、その背後に巨大な幹を持った大ケヤキがこんもりと枝葉を繁らせていました。

 「神奈川県指定天然記念物 海老名の大ケヤキ」と記された案内板によると、このケヤキは、かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなったものだという。

 根回りは15.3m、目通りは7.5m、樹高は20m。

 樹齢は記されていませんが、相当の古木であると思われる。

 「船つなぎ用の杭として打った」というからには、かつて相模川はこの大ケヤキがあるところの近くを流れていたということになります。

 相模川もその流路や幅を、長い歴史のなかで頻繁に変えてきた川であったでしょう。

 大山街道に戻った崋山と梧庵は、馬を引いて道案内をしてくれる「まち」と「清蔵」の長男「清吉」から、この巨木の前で、「むかしは船つなぎ用の杭として打ったものが、こんなに大きくなったと言い伝えられています」といった説明を受けたかも知れません。

 近くにあるという国分寺(真言宗)に立ち寄って国指定重要文化財という梵鐘を見たり、境内からの大山の眺めを楽しんだりした後、ふたたび大ケヤキを見て大山街道へと戻り、海老名の市街地へと入って途中で右折。

 海老名駅に到着したのが10:43でした。

 そこから相鉄線で大和駅に向かい、大和市立図書館でしばらく調べ物をした後、帰途に就きました。

 

 終わり

 

〇参考文献

・『客坐録 獄廷素描 他』(平凡社教育産業センター)

・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)



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