鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.9月取材旅行「御坂みち」中萩原~上黒駒 その3

2009-09-30 06:42:59 | Weblog
甲州市塩山中萩原の慈雲寺には「一葉女史碑」がありますが、この撰文は幸田成行。すなわち幸田露伴その人。その碑文の拓本が、『樋口一葉と甲州』のP6に掲載されています。その碑の裏には賛助人の氏名が刻まれており、その拓本もP8に掲載されています。その賛助人の数は161。P8~9には、その賛助人がどういう人たちであったのか、一葉とどういうゆかりがあった人たちであったのかが、全員もれなく記されています。この全員解明という困難な作業を数年かけて行ったのは、荻原留則(おぎわらとめのり)氏。郷土史家で、甲州の地から見た一葉を調べる際にたいへん参考となる著作を、『樋口一葉と甲州』(甲陽書房)ほか、多数残された方。この賛助人の刻まれた碑の拓本を見て興味深く思ったことの一つは、「賛助人 京濱 順位不同」と記されながら、第一段目(最上段)は、幸田成行、高田早苗ら3名を除いて、あとは全員女性で占められていること。森鴎外は二段目、馬場孤蝶や島崎藤村は四段目となっています。一段目に刻まれている女性の多くは「萩の舎」の門人たち。「一葉門人」として、安井哲子と大橋時子(大橋乙羽夫人)の名前が入っています。「萩の舎」門人の女性は、四段目と五段目にも出てきます。六段目には親戚の名前がずらりと出てきます。その数14。このうち「坂本三郎」が親戚であったかというと、かつての一葉の許婚(いいなずけ)とは言え、親戚とは言えない。樋口虎之助(一葉の次兄)・樋口邦子(一葉の妹)・樋口政次(邦子の夫)・新山憲一(政次の甥)を除くと、ほかの人たちは中萩原村ないしその周辺の親族ということになる。大吉(則義・一葉の父)やあやめ(一葉の母・多喜)に関わる親族たちです。この碑建立の発起人は、樋口家の縁戚で生糸貿易商として横浜で活躍していた中萩原村出身の廣瀬彌七以下22名。この22名は、廣瀬彌七を会長として「一葉会」を結成し、多額の私財を投じた彌七に協力して、序幕までの一切を担ったという。この22名も、中萩原村およびその周辺の人々であるでしょう。その名前は一番下の七段目に刻まれています。この人たちの子孫は、甲州市塩山中萩原およびその周辺に、今でも多数おられるのではないか。「一葉女史」建碑の日(大正11年〔1922年〕10月15日)に撮ったあの記念写真(樋口くに・半井桃水・馬場孤蝶・坂本三郎らが写る)は、P11に掲載されています。 . . . 本文を読む
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2009.9月取材旅行「御坂みち」中萩原~上黒駒 その2

2009-09-29 06:34:10 | Weblog
一葉の父樋口則義(のりよし・大吉)が生まれたのは甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(じゅうろうばら)。小前百姓の樋口八左衛門の長男として生まれています。この八左衛門は、一葉が生まれる前年の明治4年(1871年)に69歳で亡くなっています。この八左衛門の家の南には柿の大木があり、北には馬屋と雪隠が並び、その背後には四基の墓が並んでいました。大吉は、江戸に出る時の資金を得るために、150冊もの蔵書を質屋に入れたということですが、このことからもわかる通り、八左衛門は学問を好み、多数の蔵書があったようだ。俳諧・狂歌・漢詩にも親しむ教養人でもあったのです。大吉があやめとともに江戸に出た動機としては、「則義記録」の中に、「思処アツテ当時飯田町九段坂下ナル蕃書調所勤番眞下専之丞方二依頼ス」とあるように、真下専之丞の影響が強い。真下専之丞は、八左衛門と同じく中萩原村の百姓の生まれで、八左衛門とは親友同士(鶴田家の生まれで幼名藤助)。文政8年(1825年)に江戸に出て、立身出世し、大吉とあやめが江戸に出た時には蕃書調所調役勤番衆を務め、慶応2年(1866年)には五千石の陸軍奉行並支配にまで成り上がった優秀な人物。品川沖の御台場の築造にも携わっており、江戸へ向かう大吉が、品川御台場を見学したことをわざわざ書き留めているのは、その故であるからかも知れない。八左衛門は、長男であるにも関わらず中萩原村を出奔した大吉に対して、怒りを見せるどころか積極的な支援を行い、また江戸の専之丞や大吉からの情報をもとに、開港直後の横浜に赴いて、生糸交易を試みるほどの進取的な人物でした。樋口一葉研究家の野口碩(せき)さんによれば、一葉は幼い時に(本郷六丁目に住んでいた5、6歳の頃)、母多喜とともに山梨の地にやって来たことがあるらしい。現山梨市の東後屋敷の「芦沢家の子孫たちの間では、一葉が…後屋敷に来て泊まり、芦沢家の子供広太郎、芳太郎等と寺(天台宗光福寺─鮎川)の境内で遊んだという記憶が語り伝えられている」という。山梨の地に多喜とともにやって来た(母多喜にとっては久し振りの帰郷)ということは、中萩原村の古屋家(多喜の生家)にも当然立ち寄っているということであり、祖母である「よし」にも会っているということ。もしかしたら多喜とともに重郎原にも足を向けているかも知れない。この野口さんの説は、大いに私の興味を引きました。 . . . 本文を読む
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2009.9月取材旅行「御坂みち」中萩原~上黒駒 その1

2009-09-28 05:59:19 | Weblog
先日、山梨県立文学館において開かれている「開館二十周年記念企画展 樋口一葉と甲州」に行ってきました。企画展の期間は、9月19日(土)から11月23日(月)まで。せっかく甲府まで行くのだからどこを歩こうか、と考えた時、選んだのは「御坂みち」でした。「御坂みち」はかつての鎌倉街道。甲州から鎌倉へとつながる道であり、「鎌倉往還」とも「駿州東往還」とも言われていました。「御坂みち」(御坂路)は、御坂峠を越えていく道であり、一般的には石和(いさわ)を始点とし、下黒駒→上黒駒→駒留→駒木戸口留番所→藤野木(とうのき)→御坂峠→河口子ノ神→吉田→山中→籠坂(かごさか)峠へ達する道。籠坂峠からは、須走から竹の下→足柄峠→矢倉沢→小田原へ出るコースもあれば、乙女峠を越えて湯本に出るコースもありました。いずれも東海道に合流します。甲州から江戸へ向かう主要道路と言えば甲州街道ですが、かつては甲斐と鎌倉や小田原を結ぶ主要道路は、この「御坂みち」を利用するものでした。ここをぜひ歩いてみたいと思ったのは、樋口一葉の父である樋口大吉と、母である古屋あやめ(後の樋口多喜)が、安政4年(1857年)の4月に中萩原村を出立し、真下専之丞を頼って江戸へ向かう時に利用した道筋であることを知ったことにあります。中萩原村から江戸へ向かうのであれば、目の前の青梅街道を利用して大菩薩峠を越えて青梅経由で江戸に向かうか、あるいは勝沼に出て甲州街道を利用し、八王子経由で江戸に向かえばよい。私はそのどちらかを利用しただろうと思い込んでいましたが、しかし二人は、そのいずれでもなく、「御坂みち」を利用して、御坂峠と足柄峠を越えて東海道に入り、それから江の島や鎌倉を経て江戸へ向かっていたのです。出奔した当日(4月6日)は藤野木(とうのき)で宿泊。郡内山中(4月7日)→矢倉沢(8日)→大磯(9日)→鎌倉(10日)→川崎(11日)と宿泊を重ねて、江戸の馬喰町二丁目丹波屋に到着したのは、中萩原村を出て7日目の4月12日のこと。途中、藤沢では遊行寺に参詣し、江の島に立ち寄って、鎌倉では鶴岡八幡宮に参詣。川崎では川崎大師に参詣してから、羽田弁天に参詣し、そこから大森へ向かう途中で御台場の見学もしています。江の島や鎌倉の鶴岡八幡宮への参詣が目的の、「御坂みち」の選択ではないかと思われるほど。その一部を歩いて見ました。以下その報告です。 . . . 本文を読む
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田村明さんの『まちづくりの実践』について

2009-09-26 06:21:41 | Weblog
『まちづくりの実践』(岩波新書)において、田村明さんは次のように言う。「『まちづくり』は、よい『まち』を『つくって』いくことである。『つくる』とは、ハードの施設だけでなく、生活全体のソフトを含んでいる。よい『まち』とはどういうものか。住んでいるすべての人々にとって、生活が安全に守られ、日常生活に支障なく、気持ちよく豊かに暮らせ、緊急時にも対応できる『まち』だ。住んでいてよかったという実感を心から感じ、次の時代にも継続が期待できるものである。『まち』は、生産・流通・業務・政治・観光・学術などの、その都市ごとの機能も重要だが、もっと重要なのは、老いも若きも充実して生き生きと生活できる場であることである。どんなに都市機能が充実し外見上はすばらしく見えても、住んでいる人達が不幸せなら、『よい』まちとはいえない。経済的に豊かでも、一部の者のためだったり、騒々しいばかりで、落ち着いて住めない『まち』もよいとはいえない。見える都市施設や機能ばかり優先させて、見えない『まちづくり』を疎かにした都市はそうなる。」この記述を読んで思ったことは、「まち」を「くに(国)」に置き換えても、全く同じことが言えるのではないか、ということでした。「くに」は、「生産・流通・業務・政治・観光・学術など」の「機能も重要だが」、「もっとも重要なのは、老いも若きも充実して生き生きと生活できる場であること」であり、見える施設や機能ばかり優先させて、見えない「くにづくり」を疎かにした「くに」は、「よい」「くに」にはならない、ということだ。 . . . 本文を読む
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青い朝顔の咲く日除け(グリーンカーテン)のことなど

2009-09-25 06:00:00 | Weblog
今回の取材旅行で、記憶に残った街道沿いの街の景観は、青い朝顔の花が咲く朝顔の葉っぱの日除け、今流行(はやり)の言葉で言うと、朝顔の「グリーンカーテン」でした。それを最初に印象深く見たのは、海野宿でした。ほとんど人っ子一人いない早朝の海野宿を歩いた時、白壁や軒に突き出した櫓(やぐら)、街道に張り出た見事な卯建(うだつ)、街道の中を清冽な音をたてて流れる用水路、その両側の並木の緑に加えて、鮮やかな彩りを見せていたのが、軒下から軒のところまで伸びている朝顔の涼しげなうす緑の葉っぱとその青い花々でした。帰宅して妻にその光景の話をすると、その青い朝顔は「ブルーへブン」(「青い天国」という意味)であるという。そのブルーへブンのグリーンカーテンが、海野宿のいくつかの人家の軒先に見られたのです。たとえば「大嶋屋」の場合、両側に茅の簾(すだれ)があり、その両側の簾の間に、その青い朝顔の日除け(グリーンカーテン)がありました。茅の簾の薄い茶褐色と、朝顔の葉っぱのうす緑、それにその葉っぱの間に点々と開く青い朝顔の花。なんとも美しく、涼しげで、それを眺める者に、心の潤いのようなものを感じさせるものでした。ほかにも白壁をバックにして、そのグリーンカーテンの緑(葉っぱ)と青(花)が鮮やかに映えている人家もありました。さらにそのような朝顔のグリーンカーテンは、海野宿だけでなく、小諸市内においても各所で見掛けることになりました。かつての北国街道沿いの人家の軒先に、そのような朝顔のグリーンカーテンがあったかどうかは知らない。しかし、かつてそのような景観があったのではないかと思わせるほどに、街道の街並みに見事にマッチした(融け込んだ)景観でした。あの青い朝顔のグリーンカーテンが、我が家の軒先にも欲しい、そう強く思わせるほどの魅力的な「日除け」でした。 . . . 本文を読む
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2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 最終日その2

2009-09-24 06:06:23 | Weblog
何に載っていたかは忘れましたが、兆民の長男丑吉は、長じてから母弥子(いよこ)が生まれた洗馬村を訪ねたことがある、という記述を目にした記憶があります。どういう動機で丑吉が洗馬村を訪ねたのかはわかりませんが、母が生まれたところを自分の目で見てみたい、親族がいれば会ってみたい、という気持ちがあったかと思います。もしかしたら生まれ故郷のことについて、弥子は丑吉に話したことがあるのかも知れない。祖先のお墓があれば、参って見たいものだという気持ちがあったかも知れない。弥子・丑吉・千美の3人が写った貴重な写真が、『評伝中江兆民』のP160に掲載されています。真ん中に座っているのが丑吉。首は据わっていますがまだ赤ん坊。ということは、この写真は明治23年(1890年)頃に撮影されたものと思われます。背景や子ども用の椅子、真ん中の布の掛けられた高いテーブル(?)から考えると、どこかの写真館で撮られたもののように見える。右端が兆民夫人の弥子。明治23年であるとすれば、この時、34歳。卵形の顔で、小柄。全体的な印象としては、清楚でつつましやかな感じがします。左端は千美。弥子がカメラのやや左手を見詰めているのに対して、千美の方はカメラを見詰めています。おかっぱ頭。明治18年(1885年)のことと思われるが、兆民は、弥子とともに西ヶ原村に転居して二人だけの生活を送るようになり、「全く世間の交際を絶ち唯文酒」を楽しむ生活をしていましたが、同年、6月12日に高知で療養中の弟虎馬が亡くなったため、母柳や猿吉(虎馬の娘)がふたたび東京に戻って来てことにより、自身は家族と共に番町に居住し、それまで一緒に住んでいた弥子には本郷菊坂下で宿屋を営業させていました。しかし翌明治19年(1886年)には、かつて弥子と同居していたところ(西ヶ原)に母柳(りゅう)らと転居。その西ヶ原から兆民はしばしば本郷菊坂下39番地の弥子の営業する宿屋に赴き、時には長期滞在をしていたのです。千美が生まれたのは、おそらくこの本郷菊坂下の弥子の家(宿屋)であり、明治20年11月19日の朝、小山久之助とともに信州に旅立った(上野停車場より汽車に乗る)のも、この本郷菊坂下の弥子のもとからであったかも知れない。千美が生まれたのは同年3月4日。ということは、弥子は8ヶ月になる千美を抱いていたということになる。 . . . 本文を読む
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2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 最終日その1

2009-09-23 06:20:00 | Weblog
兆民の妻は弥子(いよこ)という。兆民と弥子との間には二人の子どもが産まれました。長女が千美(ちび)で明治20年(1887年)3月4日生まれ。長男が丑吉(うしきち)で明治22年(1889年)8月14日生まれ。明治20年11月、兆民が小山久之助と信州へ向かった時は、千美はまだ赤ん坊で、丑吉はまだ生まれていない。明治25年1月末、ふたたび兆民が信州に向かった時には、千美は4歳と10ヶ月。丑吉は2歳と5ヶ月。二人とも可愛い盛りでした。丑吉の誕生日は戸籍の上では9月14日で、実際の誕生日よりちょうど1ヶ月遅れ。その前日9月13日に松沢ちの(弥子)が中江家に入籍しています。ということはそれまで弥子は、兆民の内縁の妻であったということになります。松永昌三さんの『評伝中江兆民』によれば、千美の誕生日から推測して、兆民と松沢ちの(弥子)とは、遅くとも明治19年(1886年)年前半には内縁の間柄に入っていた、という。松永さんによれば、弥子は長野県東筑摩郡洗馬村(現塩尻市洗馬)の出身で、安政3年(1856年)8月10日生まれ。兆民より9歳年下。長女千美を産んだ時は、したがって31歳ということになり、当時としてはけして若くはない年齢での初産ということになる。戸籍では洗馬村の平民松沢吉宝の姪で、母はワイ。ちの(弥子)の経歴はよくわかっていない。長女の千美によれば、3歳の頃に江戸の御家人の家に養女にやられ、長じて越後の物持ちのところへ嫁いだものの、間もなく離婚。その後、武士上がりの人の仲介で兆民と結婚した、らしい。ということは、兆民との結婚は再婚ということになる。再婚といえば、兆民も同様で、兆民は明治11年(1878年)に高知県士族松田庄五郎の娘鹿と婚姻、入籍。しかし鹿は入籍してからわずか1年5ヶ月後に親里に復籍している、とのこと。その最初の結婚生活がどういうものであったかはまったくわからない。興味深いのは、弥子は、明治10年代後半から20年代初頭にかけて、あの本郷菊坂!(菊坂下三十九番地)で「松沢ちの」として宿屋を営業していたらしく、兆民はその宿屋にしばしば滞在していたことがあるということ。兆民はあの菊坂界隈を歩いているのです。渋江保の証言によれば、弥子は芝兼房町の「金虎館」という宿屋の女主人をしていたこともあるようだ。それが明治17、8年頃で、どうも兆民はそこで弥子と知り合ったようです。 . . . 本文を読む
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2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 佐久平その4

2009-09-22 06:06:56 | Weblog
「みちの記」で、鴎外がこの温泉保養の旅を振り返って総括したことは、なんと「洋服の勢力」というものでした。鴎外は次のように言う。「渾(すべ)てこの旅の間に、洋服の勢力あるを見しこと幾度か知られず。…茶代の多少などは第二段の論にて、最大大切なるは、服の和洋なり。旅せむものは心得置くべきことなり。」洋服か和服かで扱いが露骨に異なったというのです。28歳の鴎外が、この旅において着用していたのは和服でした。夏の頃だから、絣(かすり)の単衣(ひとえ)に袴(はかま)とでもいった姿だったのでしょうか。汽車でも、宿でも、駅でも、店でも、洋服を着た者への待遇と、そうでない者への待遇が、明らかに異なっていることを鴎外は実見し体験したのです。茶代が多いか少ないかというのは二の次でした。「旅せむものは心得置くべきことなり」とは、鴎外の、そういった世間の風潮への皮肉が込められたものかも知れない。洋服を着て紳士然とした姿をしていれば、中身はともかく、一段上の者とみなされ、まわりがへいこらとする風潮。とくに地方がそうであったかも知れない。外見で判断するのです。鴎外が信州山田温泉に保養の旅に出掛けたのは明治23年(1890年)の夏。そういえば、明治10年代後半の追分宿「油屋」の写真に写っていた人力車の車夫は頬被りに膝上までの股引、それに対して四輪馬車の御者(ぎょしゃ)は洋服でした。「みちの記」には、鴎外が泊まった「藤井屋」の部屋の隣の間の男のことが出てきます。髭が立派な男で、鴎外の観察ではどうも県庁のお役人らしい。その男は何かにつけて「それがこの鉱泉の憲法か」などという口癖を持っていました。鴎外には好感を持てない男であったようですが、この男はもしかしたら洋装であったかも知れない。さて明治25年(1892年)2月の東信地方選挙応援の時の兆民はどういう姿であったかというと、二子縞の広袖のドテラ(手織り)に兵児帯といった、まるで「賭博者の親分」みたいな服装で、しかも腰には「火の用心」と書かれた煙草入れをぶら下げていました。おそらく東京をブラリと出発した時からそのような姿であったでしょう。洋行帰り(フランスに留学していた)のフランス学者として著名な兆民が、「火の用心」の煙草入れをぶら下げ、ドテラ・兵児帯姿で現れたのだから、信州の人々がその風采に目を瞠(みは)ったのは、まず間違いのないことでしょう。 . . . 本文を読む
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2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 佐久平その3

2009-09-21 07:01:41 | Weblog
鴎外の「みちの記」、山田温泉滞在中の記述にも興味深いところがいくつかあります。鴎外が宿泊したのは「藤井屋」で、7軒ある宿屋の一つ。部屋の中央に囲炉裏があって、そこで煮炊きが行われていました。湯壷の周囲には、多くの湯治客が手拭いを身に纏(まと)って臥しており、その状態で湯壷から湯を汲んで体に灌(そそ)いでいました。それをまたいで湯壷に入るのに、裸の鴎外は苦労したようです。近在から挽物細工を売りに来る、「お辰」という12、3歳の少女もいました。注目すべきは、「藤井屋」において鴎外は、2日前の『朝野新聞』と『東京新聞』に目を通していること。東京で発行された新聞が、その2日後には信州高山村の山田温泉の宿屋で読まれているということは、汽車や馬車鉄道、運搬業者などによって、東京の新聞が津々浦々に運ばれていたということであり、即日ではないが、信州の山奥であっても、2日後には届いていたということ。東京の新聞は、地方の、財力があり政治的関心を持つ人々(たとえば豪農層)の間に広く読まれていたであろうことをうかがわせます。その新聞は、鉄道の普及とともによりスピーディーに地方へ運ばれていくことになりました。佐久地方においても例外ではない。小諸停車場に下ろされた新聞各紙は、運搬業者により、それを定期購読している佐久地方の人々の家に届けられたのです。さて、山田温泉に滞在中、鴎外の関心を引いたのは「荼毘所」でした。「山田にては土葬するもの少く、多くは荼毘」に付していました。つまり火葬ですが、その火葬の現場を鴎外は目撃しました。鴎外は興味を持ったものについては詳細に記述します。火葬にするのに、薪のほかに糠(ぬか)を入れた俵を使っていることに注目しています。「秋月の乱」のことを詳しく知っている人にも会っています。鴎外が再び碓氷馬車鉄道に乗り込んだのは、その温泉保養の旅の帰途、明治23年(1890年)の8月27日のことでした。しかし客車ではなく、なぜか貨車に乗っています。「払暁(ふっぎょう)荷車(貨車─鮎川)に乗りて鉄道をゆく。さきにのりし箱(客車)に比ぶれば、はるかに勝(すぐ)」れ「壁なく天井なきために、風のかよいよくて心地あしきことなし。」今度は、鴎外は車酔いすることなく横川停車場に到着しますが、水害による鉄道不通のため、旧街道(中山道)を松井田停車場まで草鞋ばきで歩かざるをえませんでした。 . . . 本文を読む
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2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 佐久平その2

2009-09-19 06:26:05 | Weblog
鴎外が横川から軽井沢に向けて乗った碓氷馬車鉄道は2頭曳きでした。2頭曳きということは、これは基本的には10人乗りの客車であって、1頭曳き5人乗りの上等車ではなかったということになります。28歳の鴎外が乗り込んだのは上等車ではありませんでした。御者は洋服で、夏のことだから頭には帽子を被っていたかもしれない。山道に入ってからは、2頭の馬は喘(あえ)ぎ喘ぎ客車を引っ張りました。しかも軌道の幅は極めて狭い(幅50cmほど)ために、馬車の震動甚だしく、しかも雨が降って木綿の帳(とばり)を閉めているものだから、息が籠もり、密集した客の汗の臭いが車内に満ち、どうやら鴎外は車酔いをしたようです。「頭痛み堪へかたし。」つまり頭痛を覚えるような事態になってしまいました。鴎外がこの碓氷峠を越えたのは初めてではなく、5、6年前に越えたことがありました。しかしその時とは違って、道路は泥濘(でいねい)激しく、踝(くるぶし)が没するほどでした。鴎外はその理由を「こは車のゆきゝ漸(ようや)く繁くなりていたみたるならむ」としていますが、荷馬車(馬車鉄道ではない)や人力車の通行が頻繁になって、雨ともなればその轍(わだち)のために道はえぐれ凸凹になり、泥だらけになったということでしょう。このような状況は、別に碓氷峠だけで見られたものではなく、当時の荷馬車や荷車や人力車などが頻繁に往来するところにおいては、ほとんどすべてで見られたものでした。しかしここは碓氷峠を越える山道で、しかも大動脈。轍で道は荒れ、雨ともなれば、泥濘の道と化したのです。途中、軌道が複線になった部分がありましたが、そこは対向鉄道馬車の待合所(すれちがう場所)である「熊の平停車場」と、馬の取り替え場所である「中尾橋停車場」でした。付近の茶店から茶菓子などを売りに来たけれども飲食する人はいなかったようです。「中尾橋停車場」を過ぎ県境を越え、下りになると、霧が深くなって背後から冷たい風が吹いてきて、鴎外は、たちまち夏を忘れましたが、頭痛はいや増しました。軽井沢停車場のところでようやく馬車から降りたところ、ちょうど汽車の発車のベルが鳴りましたが、鴎外は頭痛が激しくてただちに乗ることは断念し、追分宿の「油屋」におそらく人力車を走らせ、そこで休憩。鯉料理を初めて食し、2時間ばかり眠ったところ、嘘のように頭痛は消えていました。車酔いが治ったのです。 . . . 本文を読む
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2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 佐久平その1

2009-09-18 07:11:35 | Weblog
鴎外の『みちの記』という紀行記が気になっていました。この紀行記に関心を持ったのは、鴎外がこの中で、自身が乗った碓氷馬車鉄道について詳細な記述を残しているからです。私がその記述を見たのは、その抜粋であって、全文ではなかったので、気になって図書館で『鴎外全集』を最終巻から順に調べていったところ、その二十二巻に、『みちの記』が収録されていました。やはり原文(全文)にはあたってみるものです。さすがに文豪森鴎外で、碓氷馬車鉄道についてはもちろんのこと、それ以外にも面白い記述がたくさん出てきました。鴎外(おうがいの「おう」の漢字は、口が三つなのですが、その漢字がないため「鴎」をやむをえず使用しています。悪しからず)が信州の須坂の奥にある山田温泉に向かったのは明治23年(1890年)の8月17日のこと。鴎外はその日、上野停車場より一番列車に乗り込み、途中で1回乗り換えて、横川停車場で下車します。それからの行程は以下の通り。横川停車場→〈碓氷鉄道馬車〉→軽井沢停車場→油屋(初めて信州の鯉料理を食べる)→軽井沢停車場→〈汽車〉→上田(宿泊)→8/18上田停車場→〈汽車〉→長野停車場→〈人力車〉→須坂(昼食)→〈牛の背〉→山田温泉(藤井屋に8/18~26まで滞在)→8/26山田温泉→豊野停車場→〈汽車〉→軽井沢停車場→油屋(宿泊)→碓氷馬車鉄道(客車ではなく「荷車」=貨車に乗る)→横川停車場→〈徒歩・草鞋履き─土砂崩れで汽車不通のため旧街道を歩く〉→松井田停車場→〈汽車〉→高崎(乗り換え)→新町→〈人力車─水害で汽車不通のため〉→本庄停車場→〈汽車〉→上野停車場。鴎外がドイツ留学から帰国したのは明治21年(1888年)。この頃は軍医学校教官や陸軍大学教官を務める28歳の青年です。この『みちの記』は、明治23年8月22日から9月2日まで、7回にわたって『東京新報』に「鴎外漁史」の署名で掲載されました。注目されるのは、往復とも軽井沢では「油屋」を利用していること。往きは休憩、帰りは宿泊しています。「油屋」は追分宿にありましたが、軽井沢あたりでは、ある程度お金を持った旅行者が宿泊・休憩する、もっとも上等な旅館であったと思われます。鴎外も食べているように、信州名物の鯉料理が出る旅館でした。他の興味深い点については、次回に記すことにします。 . . . 本文を読む
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2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 望月宿

2009-09-17 06:42:58 | Weblog
『保存版 古写真で見る街道と宿場町』児玉幸多編著(世界文化社)という本があり、それをたまたま紐解いていたら、そのP170に、「追分の旅館街」を写した写真が出てきました。「追分」とは、軽井沢の「追分宿」のことであり、その旅籠街を写したものですが、その画面右手に(ということは、これは追分宿を碓氷峠方向に撮影したものということになる)「油屋」(旧脇本陣)がしっかりと写っています。撮影されたのは明治10年代だとある。ということは、馬車鉄道が開通する前、おそらく碓氷新道(新国道)が開通してからの「油屋」を写した写真ということになる。信越線全通で衰退していく前の追分宿の賑わいを、最もよく写し撮った写真であると私には思われます。今回の取材旅行で、私はこの「油屋」(焼失前の)写真を何枚か目にしましたが、賑わっていた当時の「油屋」の様子はこのようなものであったのか、ともっとも感じさせてくれたのはこの写真でした。「油屋」の店先には用水路が流れており、その上には店への出入りのために厚板が敷かれています。右端に人力車が置いてありますが、その人力車の車夫は、膝上までの股引をはき頬被りをしていますが、そこからのぞく髪は散髪です。注目すべきは、2台の四輪馬車が写っていること。私がこの写真を、新国道が開通した以後の写真としたのはそのためです。旧碓氷峠は、人力車では通れたとしても四輪馬車では通れないから。この四輪馬車の御者は、人力車夫とは対照的に、洋服を着用し帽子を被っています。またもう一つ注目すべきことは、この「油屋」の1階や2階の庇(ひさし)の部分に、小旗のような四角い布がびっしりとぶら下げられていること。店先の竹竿のようなものにもその小旗がたくさん取り付けられています。相州江の島の参道両側に並ぶお店などを写した古写真を見ても、布地に店の案内や宣伝(品物・値段など)を書いたものを竹竿に吊るした情景を見ることができますが、この四角い布地は一般に何というのだろう。びっしりと隙間なくそれがぶら下がっているのが、この「油屋」の繁盛振りをうかがわせます。善光寺参りのための講の名前なども、もしかしたら記されているのかもしれない。この小旗については、今後、注意していきたいと思っています。兆民が休憩をし、小山太郎が泊まり、また鴎外が休憩して鯉料理を食べ、そして宿泊した「油屋」は、このようなものであったのです。 . . . 本文を読む
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2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 小諸その6

2009-09-16 07:06:55 | Weblog
「藤村の井戸」というガイドパネルによれば、足掛け7年間を小諸で過ごした藤村が、小諸時代を振り返った時、先ず思い出すのは「あの小諸の住居の近くにあった井戸端」でした。藤村の妻冬子は、お嬢さん育ちであったけれども、手拭いを頭に被り、着物を尻っぱしょりして、つるべ井戸から水を手桶に汲んで、桶をさげて持ち帰る姿を、近所の人は毎日見ていた、という。冬子も、近所の人との井戸端会議の輪に入っていたとも。「夜の九場過に、馬場裏の提灯はまだ宵の口のやうに光った。組合の人達は、仕立屋や質屋の前あたりに集まって涼みがてらに祭の噂をした。此の夜は星の姿を見ることが出来なかった。蛍は暗い流れの方から迷ってきて、町中を飛んで、青い美しい光を放った。(『千曲川のスケッチ』より)。季節は夏。迷い込んだ蛍が飛び、提灯がともる街路上で、集まった人々は涼みがてら祭の話に盛り上がりました。時刻はすでに9時を過ぎています。晴れていれば、夜空には無数の星の瞬(またた)きが見えたことでしょう。藤村も、妻冬子とともに、涼みがてら、そのような人々の話の輪に入ったのでしょう。明治32年(1899年)4月に、函館の網問屋の三女冬子と結婚した藤村は、冬子を伴ってその年に小諸に赴任し、足掛け7年を小諸の地で過ごします。藤村にとって、小諸は冬子との新婚生活の時代でもありました。明治38年(1905年)に小諸を去り上京することになりますが、その5年後、妻冬子は4人の子ども(そのうち3人は小諸で生まれる)を残して亡くなります。このパネルには、藤村が暮らしていた頃の旧居付近の様子として、地図が掲載されています。「仕立屋」や「質屋」は、島崎家のほんそばで、馬場裏通りに面し、その向かい側に井戸がありました。そこから右折してすぐに本町通り(北国街道)がありました。丸顔で頬がふっくらした冬子の写真も添えられています。藤村夫妻が住んだ家(借家)は、古い士族屋敷の跡で、二棟が続いた茅葺き屋根の平屋でした(とうぜん囲炉裏がありました)。家の裏側の細い水の流れを隔てて、水車小屋が見えるような、本町通りから近いわりには閑静なところでした。 . . . 本文を読む
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2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 小諸その5

2009-09-15 07:09:41 | Weblog
島崎藤村が、「堅実」「質実」「勤勉」と見た小諸商人の気風ですが、『小諸商人太平記』の「小諸商工業史」(大井隆男)にもそのことが指摘されています。たとえば、大井さんは、明治の小諸商人を代表する人物として「柳田茂十郎」という人を紹介しています。その中で次のように記しています。「それから商売の態度と申しますか、心掛けとして一番大事にしたものは、誠実と信用であったと思われます。つまり商業といいますと、ちょっと駆け引きしたり、ちょっと狡(こす)いことをして利益をあげるというような手段を、昔の商人はよくやったようでございます。小諸の商人はそういう手段は少しもとらなかった。あくまで正直と誠意をもって商売に当たり、客に満足感を与えるというような精神が、小諸の商業経営の特徴であったと思います。これと同時に商人はたいへん質素でありました。…小諸商人の場合、非常に生活が質素で勤勉で、忍耐強いのがその生活態度でありました。」そこで、明治初期の商人として柳田茂十郎のことが紹介されるのですが、この柳田茂十郎については、実は島崎藤村も言及しています。藤村は次のように言う。「私達の学校の校長に逢うと、よく故人(柳田茂十郎のこと─鮎川)の話が出て、客に呼ばれて行って一座した時でも無駄に酒を飲まなかったと言って徳利を控えた手付までして聞かせる。『酒は飲むだけ飲めば、それで可いものです』万事に茂十郎さんはこういう調子の人だったと聞いた。」「私達の学校の校長」とは木村熊二のことでしょう。この木村熊二に逢うと、よくこの柳田茂十郎の話が出たというのです。「先代柳田茂十郎さんと言えば、佐久地方の商人として、いつでも引合に出される。茂十郎さんの如きは極端に佐久気質(かたぎ)を発揮した人の一人だ」と藤村は述べているのです。柳田茂十郎が亡くなったのは明治33年(1900年)、藤村が小諸義塾の教師として小諸にやってきた翌年のことでした。大井さんは、「小諸の町というのは、信州で一人前の商人になるなら、まず小諸へ行って修業してこい、というような町になった」とも記しています。小諸で修業する中で、「堅実」「質実」「勤勉」「正直」「誠意」といった、根本的な商人道徳を、信州の商人の卵たちは学んでいったのです。 . . . 本文を読む
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2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 小諸その4

2009-09-14 06:55:53 | Weblog
島崎藤村が小諸義塾の教師として赴任したのは明治32年(1899年)、27歳の時。これに前後して、藤村は抒情詩の限界を自覚。散文による新しい自己表現の方法を求めて「習作(スタデイ)」を始めるようになりました。その藤村の散文は、信州の自然と人情の写生を試みたスケッチから始まり(後に『千曲川のスケッチ』)、やがて『破戒』(明治39年)に結実しました。藤村は明治38年(1905年)に小諸義塾を辞職して上京しますが、その時にはすでに藤村は散文の方法に習熟した小説家であった、という(『日本近現代人名辞典』より)。藤村が、小諸に小諸義塾の教師として滞在したのは、明治32年から38年までの、足掛け7年間。小諸の自然や人情などは、『千曲川のスケッチ』に描かれているという。藤村が見た小諸の自然や人情、景観などはどのようなものであったのか。『小諸商人太平記』には、「藤村がみた『小諸商人』 『千曲川のスケッチ』より」という章があって、それを探る格好の作品が紹介されています。それには上田と対比して小諸の気風が次のように記されています。「上田は小諸の堅実にひきかえ、敏捷を以て聞えた土地だ。この一般の気風というものは畢竟(つまり)地勢の然らしめるところで、小諸のような砂地の傾斜に石垣を築いてその上に骨の折れる生活を営む人達は、勢い質素に成らざるを得ない。寒い気候と痩せた土地とは自然に勤勉な人達を作り出した。ここの畠からは上州のような豊富な野菜は受取れない。堅い地大根の沢庵を噛み、朝晩味噌汁に甘んじて働くのは小諸である。十年も昔に流行(はや)ったような紋付羽織を祝儀不祝儀に着用して、それを恥ともせず、否むしろ粗服を誇りとするが小諸の旦那衆である。」「堅実」「質素」「勤勉」というのが「小諸の旦那衆」の「気風」である、というのが藤村の見方。藤村はその小諸人の気風を、たとえば町の景観に読みとります。「私は仕立屋と一緒に、町の軒を並べた本町の通を一瞥して、丁度そういう田圃側の道へ出た。裏側から小諸の町の一部を見ると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って、堅く石垣の上に築かれている。中には高い三層の窓が城郭のように曇日に映じている。その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾(のれん)と対照を成して土地の気質や殷冨(とみ)を表している。」「表面は無愛想でもその実親切を貴ぶのが小諸だ」という言葉もあります。 . . . 本文を読む
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