鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その9

2014-06-05 05:27:52 | Weblog
では、大川清蔵家(「お銀さま」の家)は小園村のどこにあったのだろうか。これについては『游相日記』に崋山が描いた小園村の図があり、それで大体の位置を推定することができます。それには東西南北を示す記号も記されています。左端上の「柏ヶ谷」は、大山街道に沿った柏ヶ谷(かしわがや)村のことであって、その赤坂の上から南へと延びている細道が、いわゆる「古東海道」で途中「望(モウ)地村」と記されています。ややカーブして人家のあるところに下りてくる道が、伊勢山の「古東海道」であり、車止めのあった山道のような下り道のこと。下って人家のところを東へと延びている道が、「子之社」(小園村の鎮守様)の鳥居前を通過する「宮の前坂」。そこで左折せずにまっすぐに延びる道が小園村を貫くメインルートであり、途中で右へと折れる道(この角に現在「コンビニエンスマートカネコ」がある)が目久尻川に架かる小園橋(国役橋)へ至る道。右折せずにまっすぐに進むと両側に人家があり、突き当たったところで左折すると、その道の奥に地蔵堂(東光山延命寺)が見えてきます。この地蔵堂が寺子屋のあったところ。この地蔵堂を左手に見て右折していくと人家があって、そこに「小園」と記されています。道はそのあたりでまた左折し、すぐに右折しますが、しばらく進んで右手の道を入って行くとそこに「清蔵家」とあります。幾右衛門家については、目久尻川(早川)を小園橋で渡ったところが「早川」となっており、そこに「幾右衛門家」と記されています。これはこの位置に幾右衛門家があったということではなくて、早川村に幾右衛門家があるということを示すもの。当時早川村には小園橋を渡って川沿いに南下したものと思われる。小園橋の架かる川には「是早川といふ」と記されています。この図より、大川清蔵家は地蔵堂を左手に見て通りを折れ(右折し)、しばらく進んで左へ折れ、すぐに右折して、やや進んだ通りの右手奥にあったことになります。これが現在のどこかというと、実は『ホントに歩く 大山街道』に明示されています。それには次のように記されています。「旧東海道古道を経て、1.4kmほどでJAさがみ早園支店に出る。ここは、お銀の家の跡であり、すぐ近くにお銀の墓もある。」 つまり「JAさがみ早園支店」のあるあたりが大川清蔵家(「お銀さま」の家)があったところであったのです。 . . . 本文を読む