鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その4

2014-04-30 05:31:13 | Weblog
『緑区史 通史編』(緑区史刊行委員会)によれば、荏田宿の天保期の家数は162軒、往還の左右に軒を連ねる家数は24軒。人馬の手配をし運送業務を扱う問屋は1軒。升屋喜兵衛は、先代徳江理兵衛から受け継いだ旅籠「升屋」を営むとともに、江戸の紀州藩邸出入りの農産物の御用商人でもありました。この喜兵衛は、江戸の太白堂六世江口孤月の門人である俳人でもありました。太白堂の初代は天野桃隣。この桃隣は、芭蕉が北国旅行中に留守を預かるほどの人であり、太白堂一門は、大山街道沿いに3700人に及ぶ門弟を擁し、桃家と称して一大勢力を保持していたという。崋山が休憩した長津田宿のたばこ屋「万屋」の主人藤七(兎来)も太白堂孤月の門人であり、また旅籠を営んでいた農民河原松五郎(琴松)もまた太白堂孤月の門人でした。『横浜・緑区 歴史の舞台を歩く』相澤雅雄(昭和書院)によれば、荏田宿は、東より西に向かって下宿・中宿・上宿に分かれ、旅籠屋は升屋・柏屋・和泉屋の3軒があったとのこと。しかし明治27年(1894年)の火災により宿場のほとんどが焼失してしまい、当時の面影は失われてしまったという。『都筑文化4』(緑区郷土史研究会)の「荏田宿」(横溝潔)によれば、明治27年の荏田宿の大火は7月26日の正午に発生しており、それはちょうど日清戦争の出征兵士の見送りの最中のことであったらしい。崋山が宿泊した「升屋」は、この大火で焼けた後、一時は観福寺の近くでお茶屋をやっていたこともあるが、現在では大井町に転居している、とのこと。 . . . 本文を読む
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2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その3

2014-04-27 06:34:38 | Weblog
荏田宿までの記述は簡潔ながら、崋山の観察眼はしっかり働いています。「瀬田、土黒、杉黄、稲秀」の「土黒」とは土が肥えていて良質であるということ。村尾嘉陵が「打ひらきたる田の面見わたす所より先は瀬田村」と記したように、用賀を過ぎて瀬田あたりになると谷沢川沿いに田んぼが広がっており、行善寺坂を下った多摩川流域の平地にも水田が広がっていました。したがって「稲秀」であったのです。崋山が歩いた旧暦の9月20日頃は、稲が黄金色に実っていたのでしょう。一方、用賀あたりまでは、大部分が武蔵野台地の上であり、水田と言えば蛇崩川の両岸にわずかにあるばかり。あとは畑地や竹やぶ、森や雑木林が多い地域であり、大麦や小麦、また野菜やイモ類などが主に栽培されていました。「土白」とは、そのような台地上の畑地に対しての表現ではなかったか。従って崋山は、「地勢自与用賀瀬田異」(地勢自ずから用賀と瀬田異なる)と記したのです。荏田については崋山は「此地は有馬坂下にて、山多田少し…産物なし」と記しています。早渕川沿いに田んぼはわずかばかりあるが、目だった産物はないということ。ところが長津田に至ると、崋山は「地小阜多、土モ又黒、蚕ヲ専ニス」と記しています。「土 …黒」とは土地が肥えていて良質であるということであり、田んぼの間に桑の木が植えられ養蚕が専ら行われているとしています。蚕や蚕卵紙のことについて詳しく記していますが、これは誰から得た情報であるのだろう。長津田宿のたばこ屋の主(あるじ)新倉藤七(俳号兎来)から聞いたことなのだろうか。それとも長津田で旅籠を営む河原松五郎(俳号琴松)から聞いたことであったのだろうか。崋山は「琴松ハ農夫也」とも記しており、河原松五郎は農業を営む傍ら、旅籠も経営していたことになります。「兎来よりハ大きやかなる家」に住んでいて、それを旅籠にしており、崋山に対して、今夜は是非私の家に泊って行くようにと強く勧めました。この「農夫」である「琴松」=河原松五郎から、長津田近辺で行われていた養蚕のことについて詳しく聞いた可能性が高いと私は考えています。 . . . 本文を読む
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2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その2

2014-04-26 05:28:36 | Weblog
溝口宿を過ぎてから始まる「ねもじり坂」より荏田宿まで、大山街道は丘陵地帯を上下し、蛇行しながら進んでいきます。この間の崋山の記述も、渋谷から溝口までと同様、いたって簡潔。「土白、赤松多、岡多、上下蛇行、笹原、有馬、小兀山蜿蜒送我行、地勢自与用賀瀬田異。宿荏田」 「岡多、上下蛇行」に、この区間の大山街道の特徴が簡潔に表現されています。「笹原」とは、溝口を過ぎて「ねもじり坂」を上りきったところにある地名。そこには「笹の原子育地蔵」がありました。「有馬」は、鷺沼駅前から八幡坂を下ったところに流れている川が「有馬川」であり、そこからまた丘陵を上がって行ったところにあった公園が「有馬さくら公園」であったから、そのあたり一帯であったと思われる。時々低地に農家や田んぼを見ながら、崋山と梧庵(高木梧庵)の二人は、多くは丘陵地帯を蛇行し、坂道を上ったり下りたりを繰り返しながら、ひたすら第一日目の宿泊予定先である荏田宿を目指して歩き続けたのでしょう。 . . . 本文を読む
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2014.4月取材旅行「鷺沼~荏田~下鶴間~さがみ野」 その1

2014-04-24 05:46:08 | Weblog
先月は三軒茶屋から鷺沼(さぎぬま)までを歩きました。「行善寺坂」を下り、多摩川を渡って、二子・溝口(みぞのくち)を経て「ねもじり坂」を上がり、丘陵地帯の上り下りを繰り返しながら東急田園都市線の鷺沼駅に至ったわけですが、特に「ねもじり坂」から鷺沼までにおいては、かつての大山街道のルートをそのままたどっていくのは不可能であることを実感しました。というのもかつて雑木林や畑が広がっていた丘陵地帯は、特に戦後から大規模な宅地化が進んでいったからです。かつての大山街道は、都市近郊鉄道や道路の新設、整然とした住宅団地の開発等によって、寸断されたり失われてしまったりしている箇所が多く、ガイドブックの手助けがなければ、かつてのルートに沿って歩いて行くことさえ容易ではありません。要するにかつて崋山が『游相日記』の旅で歩いたルートを、そのまま歩いていくことはもう不可能であることをあらためて知った取材旅行でした。今回は、東急田園都市線から相鉄線さがみの駅までの間を歩きました。崋山はこの区間のルートにおいて2泊しています。一泊目は荏田宿であり、二泊目は下鶴間宿。荏田宿の「升屋」において崋山が出会った旅人は、下今泉村の佐右衛門と半原村の孫兵衛であったことは、すでに触れたところです。この荏田宿あたりから崋山の日記は俄然内容が詳しくなり、いきいきとしてきます。では、この区間において、崋山はほかにどういう人々と出会い、またどういうことに興味・関心を持ったのだろうか。以下、その取材旅行の報告です。 . . . 本文を読む
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2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その最終回

2014-04-19 06:56:48 | Weblog
津久井地方のほとんどが天領(幕府直轄領)であったことは先に触れた通り。では誰が治めたかと言えば、それは韮山代官所の代官である江川太郎左衛門でした。「土平治騒動」が起きた天明7~8年(1787年~1788年)当時の代官は34代の英征(ひでゆき)であり、崋山が大山街道を歩いた天保2年(1831年)当時の代官は35代の英毅(ひでたけ)でした。英毅は寛政4年(1792年)に代官職を継ぐと、英征時代の放漫経営によって行き詰まった天領財政の再建に努め、新田開発や殖産興業策を積極的に推進。引き継いだ時には5万石であったのが、天保5年(1834年)には9万石余であったというから、見事に財政再建を果たしたと言える。多摩川・相模川・酒匂川・道志川・狩野川・興津川に無数の鮎の稚魚を放流させ、副業として鮎漁の奨励に努めたのはこの英毅であったという。韮山代官所は、韮山村の江川氏屋敷内にあり、江戸には本所南割下水の津軽藩邸門前に拝領屋敷がありました(江戸役所・ここに江戸詰の代官所の役人が滞在)。相模国津久井県は韮山代官所江戸役所の支配地であり、相模川に面した荒川という地に「五分一運上取立番所」(荒川番所)がありました。この荒川番所は、材木・薪炭などの林産物を中心に「五分の一」の運上金を徴収しました(年2回、7月と12月)。つまり水運(相模川)と陸運(津久井往還)両方の物資の流通を取り締まるとともに、運上金を徴収したのです。この荒川番所は、天領となった天和3年(1683年)に設置され、明治3年(1870年)に廃止されるまで、200年近くに渡ってこの地方の支配を行っていた番所であり、代官の手代が一人と下役が二人、常駐していました。「天明の大飢饉」の時、耕地が少ないこの津久井地方の山間農民は、年貢の過重と食糧の不足により極めて悲惨な状況に追い込まれました。飢食に対する措置としては、たとえば藁餠(わらもち)や松皮のまんじゅう、木の実、葛、蕨(わらび)、ところ根、田螺(たにし=田んぼや小川にいる田螺を子どもたちに獲らせ、湯をかけて干し上げて貯蔵し非常食とする)などが奨励されたという。飢えのために「行き倒れ」になった人々があちこちで見られるほどの悲惨な状況が、「土平治騒動」の背景にはあったのです。 . . . 本文を読む
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2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その15

2014-04-17 04:26:27 | Weblog
天明7年(1787年)から翌8年(1788年)にかけて「土平治騒動」と呼ばれた「打ちこわし」に、その多くが参加した津久井地方の人々。その津久井地方はほとんどの村が天領(幕府直轄領)であり、そしてほとんどが山林であったために米作可能な平地は至って少なく、したがって産業は林業と漁業(川魚)が中心でした。津久井地方で「オヘーシ」(御林)と呼ばれた幕府直轄林は、津久井全域で52ヶ所ほどあり、御林のある村はその維持管理の責任を負わされ、村人の中から2~4名の山守(多くの場合組頭クラス)が選出され、御林の監視にあたったという。樹種はほとんどが松と雑木であり、切り出された木材は相模川を利用して運ばれ、河口部にある須賀湊から、海路江戸へと運ばれたとのこと(以上『津久井郷土誌』による)。『津久井郡誌』によれば、江戸時代の津久井地方の産物は、林産物・漆・絹・柏皮・牡丹石・椎茸・蕨(わらび)・鮎などでした。これを見ても、主産業は林業であったことがわかります。このうち鮎について触れたい。「津久井の五川」というものがある。それは道志川・沢井川・秋山川・早戸川・串川であり、これらはいずれも相模川上流の支流であり、これらの河川の存在する津久井の村々には、「上げ鮎御用」が命ぜられていました。道志水系に育つ鮎は、俗に「道志川の鼻曲り鮎」とも言われ珍重されました。鮎を献上する村々の河川は、「御留川」の名の下に、「上げ鮎御用」の期間中はそこにおける漁撈は固く禁じられていたという。獲られた鮎は「御膳鮎桶」に入れられ、さらにこれを「上げ鮎上げ籠」に入れて、鮎持人(鮎運搬請負人)が夕方に出立。宿々において継人足によって引き継がれ、朝、江戸城御本丸台所まで届けられたとのこと。そのルートとは、津久井→橋本→小山→柚木→関戸→府中→高井戸→内藤新宿→江戸城というものであり、大山街道を利用するルートではありませんでした。この「上げ鮎」が廃止されたのは、慶応4年(1868年)のことであったという。 . . . 本文を読む
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2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その14

2014-04-16 06:16:08 | Weblog
『郷土くしかわ』(第八号)の「相州百姓騒動『土平治の打ちこわし』(その2)」(菊地原輝臣)によれば、「うちこわし」が始まる前の天明7年(1787年)12月16日に、「近国にも聞こえる大身者」で「質屋」であった、田代村の惣右エ門、半原村の六右エ門、下平井村の喜右ヱ門に対して、「米八百俵」「金子五百両」を「年越の手当」として出すよう廻文が送られたという。そして12月18日には、三ヶ木村の諏訪神社に26ヶ村の人々が集まり、米穀・金子が分け与えられたとのこと。そして12月22日の明け七ツに、久保沢村の八幡神社に八千余人が集合したという。「救民」や「大山石尊権現」などと記された筵旗(むしろばた)を掲げ、「よき、まさかり、かけや、竹槍、十手、なが柄の鎌」などを所持して、まず久保沢村の酒造人であった孫兵衛宅を打ちこわしたとのこと。これが騒動(打ちこわし)の発端でした。同じく菊地原輝臣さんの論文(『郷土くしかわ』第七号)によれば、天明7年や8年は大凶作であり、飢えた人々は、牛・馬・犬・猫・わら・干葉や松の木の真皮(干してだんごにした)まで食べ、厚木・小田原・八王子などには多数の人々が乞食となって流れ込んだという。「天明の大飢饉」により生活に困窮した津久井地方の村人たちが「徒党」を組んで、「質屋」や「酒造」を営む富裕商人等をねらい、「打ちこわし」を行ったということです。崋山が荏田宿の升屋という旅籠で出会った半原村の孫兵衛は、崋山にこの「土平治騒動」について語ったらしいが、この半原村松葉沢の造り酒屋であった「伝重(十)郎」宅が打ちこわしを受けたのは、天明8年(1788年)1月6日夜のこと。おそらく津久井方面から群集が真名倉坂(まなくらさか)を下って半原村になだれこんできたものと思われます。孫兵衛が43年前のこの騒動を目撃していたかどうかはわからない。あるいは親から聞いたことであるのかも知れない。いずれにしても旅先の旅籠でたまたま知り合った一人の武士(崋山)に語り聞かせるほどの、大事件として記憶されていた出来事であったのです。 . . . 本文を読む
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2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その13

2014-04-14 06:08:13 | Weblog
では「土平治騒動」とは、どういう事件であったのか。これについては、「津久井郷土史料館」に「土平治騒動年表」があり、それをもとに概略をまとめてみたい。天明7年(1787年)12月22日(陰暦・以下同じ)の夜、上川尻村久保沢宿造り酒屋近江屋源助方が打ちこわされる。12月28日の夜、日連(ひづれ)村勝瀬の造り酒屋惣兵衛方が打ちこわされる。翌天明8年(1788年)の1月4日の夜、青山村・中野村・根小屋(ねごや)村・鳥屋(とや)村の造り酒屋5軒が打ちこわしを受ける。1月6日の夜、半原村、田代(たしろ)村が打ちこわしを受ける。1月12日の夜、太井村の荒川周辺においてほら貝が鳴り、鬨(とき)の声が上がる。1月14日、青野原村の伴蔵、青山村の庄蔵が伊奈代官所(関東郡代)役人に召し捕えられる。その日の夜、土平治が太井村源助方に止宿していた伊奈代官所役人に直訴。1月15日、土平治・伴蔵・庄蔵の3名、八王子に送られ吟味を受ける。1月、田代村・半原村の願いにより、青野原村の源之丞、利左衛門の両名、召し捕えられる。2月21日、土平治・伴蔵・利左衛門、入牢を申し付けられる。5月20日、土平治、牢死。7月11日、伴蔵、没。8月11日、牧野村篠原の専蔵(土平治)、死罪。青野原村下原の利左衛門、死罪。青野原村長野の重郎兵衛(伴蔵)、死罪。吉野宿吉右衛門、手鎖三十日。半原村伝重郎、諸色御取上江戸払。半原村名主、急度(きっと)御叱。半原村の伝重(十)郎は造り酒屋(鳥屋村に出店があった)。田代村の造り酒屋惣右衛門とともに、打ちこわされた側(被害を受けた側)であり、それが処罰を受けています。この「土平治騒動」は、このように見てくると「打ちこわし」であり、狙われた対象は主に「造り酒屋」であったことになる。「打ちこわし」参加者は、津久井全村から数千人に達したという。『〔保存版〕土平治騒動二百周年実行委員会ニュース』(土平治騒動研究会)によれば、青野原村の伴蔵の墓は見つかっており、俗名は井上伴蔵、戒名は「一法源秋信士」、行年31歳であったという。同じく青野原村の利左衛門の墓については見つかっていない。戒名は「仏見塔宝信士」。打ちこわしを受けた半原村の伝重郎家の酒蔵からは、屋敷の前に流れている松葉沢という小川に酒が流れ落ちたという伝承があるという。 . . . 本文を読む
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2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その12

2014-04-13 07:14:40 | Weblog
『烏山町史』によれば、大久保佐渡守常春が烏山藩領に転封の命を受けたのは享保10年(1725年)のことであり、享保13年(1728年)の老中就任と同時に、在京賄料(まかないりょう)として相模4郡のうち39ヶ村1万石を加増されました。その中の愛甲郡10ヶ村の中に厚木村・半原村などが含まれ、高座郡13ヶ村の中に田名村などが含まれていました。半原村の孫兵衛が崋山に語った、烏山藩が厚木村に2000両の御用金を命じた年は、文政5年(1822年)であり、その年烏山藩は厚木村の有力商人15名に合計2000両の御用金を命じ、その後も、藩は次々と多額の御用金の調達を相州領の村々に命じているという。では相州領田名村門訴事件とはどういうものであったか。田名村は石高1659石余、家数は600軒弱、人口は2700人余と、烏山藩の相州領のうち高座郡13ヶ村の中で第一の大村でした。この田名村の農民による門訴事件が発生したのは文政7年(1824年)12月のこと。田名村の農民が江戸の烏山藩邸に押しかけて苛政を訴えたのですが、その事件の発端についての資料はないという。相州領において藩金の調達にあたっていたのは谷登次兵衛(とじへい)という者でしたが、この門訴事件により隠居を申し付けられ、その後自害したとのこと。崋山は孫兵衛に聞いた話として、「そのあづかる所の谷土地兵衛というもの、腹きりて怨にことふ」と記しています。この「谷土地兵衛」が「谷登次兵衛」のことであり、烏山藩相州領の代官のようなことをしていたのかも知れない。この時の藩主は5代忠成。4代藩主忠喜の在任中に発生した「天明の大飢饉」による藩財政の窮乏化の対策として、烏山藩領全収納のうち半分以上を占めるという相州領の収納(江戸藩邸の経費の3分の2は相州領で賄われていたという)強化策が、厚木村や田名村などへの度重なる御用金の賦課となり、その「苛政」への反発や不満が、烏山藩相州領内の人々の間に高まっていたということになるでしょう。 . . . 本文を読む
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2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その11

2014-04-11 06:02:22 | Weblog
半原の孫兵衛は、崋山にどんなことを語ったか。酒食をともにしながら、孫兵衛は次のようなことを語っています。①厚木や半原は烏山藩領であること。②その烏山藩による苛政が行われており、しばしば御用金を取り立てていること。③御用金として厚木村に二千両取り立てたことがあったこと。④そのような苛政が行われているため、田名村というところに土平治という者がいて一揆を起こし、江戸に出て門訴をしたり、そのために切腹させられる者がいたりして、その一揆の首謀者である土平治も獄門となって死んだこと。以上ですが、④については混乱がある。おそらく半原の孫兵衛は、近くの田名村で起こった門訴事件(江戸に出て烏山藩邸に苛政を訴えたこと)と、かつて半原村をも巻き込んだ「土平治騒動」と呼ばれる事件の二つを、崋山に語ったものと思われますが、崋山はその二つをひとまとめに簡略化してしまったために、事実の混乱が生じてしまったのでしょう。「土平治」の頭注には、「相模国津久井郡牧野村…篠原の組頭佐藤茂兵衛の子専蔵は土平治と名乗り、天明七年青野原村…の重郎兵衛らと打毀しを計画、騒動後逮捕され死罪」と記されています。「天明七年」とは、西暦で言えば1787年。孫兵衛が天保2年(1831年)、崋山と荏田宿の「升屋喜兵衛」方で会った時、何歳であったかは分からないが、「土平治騒動」は44年も昔のことでした。幼少時に目撃したことか、あるいは親たちから印象深く聞かされたことであったかも知れない。具体的には、それはどういう事件であったのか。そしてまた、田名村における門訴事件とはどういうものであったのか。 . . . 本文を読む
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2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その10

2014-04-10 05:56:03 | Weblog
荏田宿の升屋喜兵衛という旅籠では、もう一人、崋山が出会った旅人がいます。それは隣の部屋に宿泊した百姓であり、「佐右衛門」という男でした。相模国高座郡下今泉村の者で、領主である旗本大沢二十郎に用事があって江戸へと向かうところでした。おそらく崋山は宿屋の主人である喜兵衛に声を掛けたのでしょう。主人は崋山の部屋にやって来て、崋山に書画を描いてくれと依頼し、そのかわりに酒肴を提供したのです。そしてその場に、俳句を嗜む二人の客を呼んだものと思われる。おそらく宿屋の主人喜兵衛にとって、下今泉村の佐右衛門も、そして半原村の孫兵衛も、よく知っている泊り客(常連客)であり、崋山が江戸俳諧の宗匠の一人である太白堂孤月(江口孤月)の紹介状を持っていることを知り、自分も俳句を嗜むこともあって(名は一池、号は旭陽)、酒肴を用意して座を設けたということであるらしい。酔いにまかせて崋山は、「燈のもとに、数十枚」の書画を描いています。さらに崋山は今泉の佐右衛門と半原の孫兵衛に俳句を贈りました。佐右衛門には「百姓と寝もの語(かたり)や稲の秋」。孫兵衛には「いざとはん紅葉のしぐれもる家か」。佐右衛門や孫兵衛は、崋山と酒食をともにしながらいろいろなことを語ったようだ。孫兵衛に贈った俳句から察すると、孫兵衛は、「半原村のあたりや周辺の山々は晩秋ともなれば紅葉がことに美しいところだから、機会があったらぜひ半原の我が家を訪ねて来て下さい。大いに歓待しますから」と崋山を誘ったのではないかと思われます。 . . . 本文を読む
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2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その9

2014-04-09 06:06:06 | Weblog
大山街道を利用して丹沢の猪や鹿を江戸に運ぶ者として崋山の『游相日記』に登場するのは、「孫兵衛」という名前の「むくつけき男」です。崋山はこの孫兵衛に、荏田宿の「升屋喜兵衛」という旅籠で出会います。この孫兵衛の在所は「相模の山おく」の「半原」(はんばら)というところ。崋山は、「こは秋の半より猪と鹿とを打て都へ出すを業とするものなり」と記しています。秋から冬にかけて丹沢山中で猟をし、獲った猪や鹿を江戸に運んで売ることを生業(なりわい)としている男であるということでしょう。頭注には、「孫兵衛」の説明として、「井上孫兵衛。半原村の鍛冶屋」とあり、村の鍛冶屋を平常は営みながら、秋から冬にかけては狩猟に従事していたものと思われる。おそらく火縄銃のような猟銃を担いで近所の山に入り、鹿や猪を獲っていたのです。江戸という巨大市場向けに猪や鹿を獲り、江戸に運ぶ人たちがいたということであり、半原の孫兵衛以外にも多くのそういった人たちが大山街道を往き来していたものと思われます。鹿や猪などの獣肉を売る店は「ももんじ屋」と呼ばれ、崋山の住まい(三河田原藩邸上屋敷)の近くでは麹町にも「ももんじ屋」がありました。この孫兵衛は、俳句を楽しむ人でもありました。『游相日記』には、孫兵衛作の「秋の蝶 入日をあとに 後の月」「秋の暮 色もかはらぬ 辻地蔵」の二首が載せられています。ここには、相模の山奥に住む「むくつけき」猟師が、その外見に似合わぬ趣きのある俳句を詠んだことに感動している崋山がいます。 . . . 本文を読む
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2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その8

2014-04-08 06:02:05 | Weblog
多摩川沿岸と言えば、梨などの果樹栽培が有名でしたが、梨の栽培は江戸時代の初め頃から行われていたらしい。しかし明治時代になって大師河原に住む梨農家の当麻辰次郎が「長十郎」梨を発見したことによって、梨の生産が拡大し、大正時代末期から最盛期を迎え、それは昭和15年(1940年)頃まで続いたという。桃の栽培も行われましたが、これは「多摩川水蜜」と言われ東京神田の市場に送られました。昭和初期頃が最盛期であったらしい。梨は水田地帯を畑にして栽培し、桃は多摩川沿岸の砂地で栽培されたようで、砂地の多い宿河原あたりでは「桃は宿河原」と言われるほどでした。果樹栽培が盛んになるのは明治時代末からのことであり、それ以前においては多摩川沿岸地域は水田やあるいは畑(桑畑)が広がる地域でした。田んぼや畑(果樹畑も含む)の肥料として大山街道を運ばれたのは、江戸・東京からの人糞尿でした。集められた下肥は、畑の肥溜めに一定期間保存されて有機肥料として使われました。このような人糞尿の利用も、戦後しばらくまでは全国至るところで見られたものでした。 . . . 本文を読む
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2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その7

2014-04-07 05:28:59 | Weblog
『二子・溝口 宿場の民俗』によれば、大山街道(矢倉沢往還)を介して江戸・東京に運ばれたものは、富士山麓の茶・タバコ・真綿・藍玉、伊豆の炭・わさび・しいたけ、秦野のタバコ、厚木の麦、丹沢の猪、相模川の鮎、多摩川の梨や桃、柿生の柿(禅寺丸)などでした。丹沢の猪は、菰(こも)包みの野猪を馬の背に乗せて運んだらしい。鮎は「鮎かつぎ人足」が天秤棒に担いで運びました。「鮎かつぎ人足」の風体は、印半纏(しるしばんてん)・半股引(ももひき)・草鞋(わらじ)にホッカムリというものであったらしい。相模川を夕刻出立した人足は、溝口の亀屋か千代鶴で休憩をし、江戸・東京日本橋の魚問屋に翌日の明け方には到着。帰りは昼前にまた亀屋か千代鶴で休んでいったという。昭和に入ってそのような「鮎かつぎ人足」の姿も見られなくなったとのこと。『大山道今昔』には、目黒大坂の「坂上榎茶屋」のところで次のような記述がありました。「幕末のころ、数人一組になって、相模川、道志川の鼻曲りアユを天びんにかつぎ、大山道を夜通しエッサホイ、エッサホイと来て、明け方近く、この榎茶屋に着く組もある。小田原ちょうちんを天びんの先から、はずし、肩の天びんを地面におきながら、その茶屋の軒に下げ、『大坂苦患(くげん)だ。団子屋起きたかい』とまだ森の中の木の葉の陰に眠っている小鳥も、びっくりするような大きな声で、板戸をたたきながらどなりこむ。」「鮎かつぎ人足」は、数人一組になって、夕方から翌朝にかけて、小田原ちょうちんを掛けた天秤棒で鮎を担いで、夜通し大山街道を走り、途中、溝口や目黒の大坂上で休憩したことが、以上のことからわかります。そして江戸・東京に着いたその日には帰途に就き、お昼前には溝口の宿(亀屋や千代鶴)で休憩していったのです。 . . . 本文を読む
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2014.3月取材旅行「三軒茶屋~瀬田~二子玉川~鷺沼」 その6

2014-04-04 06:17:04 | Weblog
天保2年(1831年)当時の、多摩川「二子の渡し」付近のようすはどのようなものであったか。嘉陵が土手を越えて河原に出てみると、川の向こう側もこちら側も河原が広く見渡され、形もさまざまな石が転がっていました。また河原のところどころに小さな草も生えていました。石ころの多い河原で、ところどころに小さな草が生えているばかりであったのでしょう。嘉陵はその河原を歩いて石ころをいくつか拾ってふところに入れ、またところどころに生えている草が何の草なのか確かめています。摘み取ってよくよく観察してみると、その草は蓬(よもぎ)でした。川風に吹かれたり、直射日光を浴びたりしているために十分に生育せず、通常とは異なる姿になってしまったのです。嘉陵は、環境が悪ければ草も人もこうなってしまうのだ、と感想を洩らしています。また草の中には翁草もあって、花も葉も真っ白なもの。その姿に嘉陵は老いた自分の姿を重ねています。「玉川の清きながれに影みれば老のなみそふ我もはづかし」といった歌を口ずさみ、昔のことを思い出したりしながら河原をあちこち歩いていると、未の刻(午後2時頃)になったため、もとの道へと戻り、行善寺の門の前より東に折れて、嘉陵は九品仏へと向かっていきました。丸子川(六郷用水)から多摩川の土手にかけては、道(大山街道)の両側には稲田が広がり、土手を越えると石ころや砂利の多い河原が広がり、その向こうに多摩川の川面が見え、その川面の向こう側も広い河原が広がっていたことが、嘉陵の記述からわかります。草は、石の多い河原のところどころに蓬や翁草などが生えているばかりでした。その河原の先には二子の渡し場があるはずですが、嘉陵はそれについては何も記していない。川向こうの二子宿や溝口宿など、そこからの大山街道は嘉陵にとってはまったくの未知の世界でした。 . . . 本文を読む
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