鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.9月取材旅行『游相日記』番外編-孫兵衛の歩いた道-その2 

2014-09-30 05:51:08 | Weblog
『道しるべを追って 厚木の街道』鈴村茂(県央史談会厚木支部)によれば、「甲州道」は、岡田村~厚木村~妻田村~荻野村~半原村~長竹村を結ぶ古道でした。また「巡見道」というのもあって、これは石田村~愛甲村~下荻野村~〈甲州道〉~田代村~三増(みませ)村を結ぶもの。下荻野村から田代村までの道は「甲州道」を歩くことになります。「とのさま道」というのも興味深い。これは荻野山中藩主の参勤交代路であるために「とのさま道」という。ルートは、下荻野村~荻野新宿~妻田村~小鮎川に架かる橋~厚木宿~酒井村~戸田村~大神村~田村~田村の渡し(相模川)~一の宮~東海道藤沢宿というもの。下荻野から厚木宿までは「甲州道」を歩いたものと思われる。この「甲州道」、半原村から津久井方面へのルートは、真名倉坂(まなぐら)を上がって長竹村へと入り、韮尾根(にろおね)~長竹~関~荒屋敷~三ヶ木(みかげ)~寸沢嵐(すわらし)~鼠坂(ねんざか)~与瀬の渡し(桂川)~甲州街道与瀬宿というものであり、それから先は甲州街道で甲州地方へ向かうことになります。この「甲州道」、半原では「大道」(おおみち)と呼ばれていたことは、すでに触れたところ。半原村を貫く幹線道路であり、起伏が激しいために重い物資の運送は馬を主に利用したものと思われる。「馬坂」という坂の名前に、そのことを伺うことができます。崋山が荏田宿の旅籠「升屋」で出会った半原村の孫兵衛は、秋も半ばを過ぎると、猪や鹿を撃ち取って江戸へと出荷することを生業(なりわい)の一つとしていました。猪や鹿の肉は、重いために馬の背に載せて江戸へと運んだものと思われる。ということは、孫兵衛は、背に菰(こも)にくるんだ猪や鹿の肉を載せた馬と一緒に大山街道を江戸へと向かっていたことになる。その猪や鹿の肉は生肉であったのだろうか。それとも燻製のようなものだったのだろうか。江戸のどこの店に運ぼうとしていたのだろうか。私は半蔵門近く麹町あたりの「ももんじ屋」を連想してしまうのですが、詳しいことは何もわからない。 . . . 本文を読む
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2014.9月取材旅行『游相日記』番外編-孫兵衛の歩いた道-その1 

2014-09-29 05:33:29 | Weblog
天保2年(1831年)9月20日(陰暦)の夜、大山街道荏田(えだ)宿の旅籠「升屋」に宿泊した渡辺崋山は、そこで二人の旅人に出会います。一人は相州下今泉村(現海老名市下今泉)の百姓佐右衛門という者であり、もう一人はやはり相州半原村(現愛甲郡愛川町半原)の孫兵衛という者でした。この相模の山奥の半原村に住む孫兵衛は、「むくつけき男」であり、秋の半ばから猪と鹿を撃ち取り、江戸へ出荷することを生業(なりわい)とする者でしたが、崋山に書画を求め、また俳諧をともに詠み交わした教養人でもありました。この孫兵衛は崋山に対して、半原村や厚木村などを支配する下野(しもつけ)烏山(からすやま)藩の苛政やまた天明年間に近辺で発生した「打ちこわし」(土平治騒動)について詳しく物語ったようであり、崋山はそのことをわざわざ日記に記録しています。孫兵衛の話が頭に残った崋山は、9月22日の夜から泊まった厚木宿において、知り合いとなった町医者の唐沢蘭斎や、また訪ねてきた侠客(きょうかく)駿河屋彦八から、烏山藩の苛政の実態を詳しく聞き出しています。水陸交通の要衝として江戸と変わらない程に繁栄を見せている厚木宿でしたが、烏山藩の苛政により、人々の間には強い不満がうっ積していることを崋山は肌で感じ取ることができたのです。もし荏田宿で孫兵衛から烏山藩の苛政についての話を聞いていなかったとしたら、崋山はこのような積極的な情報収集を厚木宿で行わなかったかも知れないし、またもしかしたら駿河屋彦八と出会うこともなかったかも知れない。崋山は日記の終わりのところで、「するがや彦八、厚木酒井村、きつい男」と記しています。また「侠客彦八像」も描いています。駿河屋彦八は、よほど崋山にとって印象深い男であったようです。半原の孫兵衛とは、9月21日の朝に別れているはず。というのも孫兵衛は崋山とは反対に、大山街道を江戸へと歩いて行ったからです。この孫兵衛の家が半原村のどこにあったかということについては、すでに触れたところであり、おおよその場所を推定することができました。この孫兵衛、半原村から江戸へと向かう途中で崋山と出会ったわけですが、厚木宿からは大山街道を歩いたものと思われる。では、半原村から厚木宿まではどういうルートを辿ったのだろう、ということに興味を持ち、実際にそのルートを歩いてみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その最終回

2014-09-23 07:14:15 | Weblog
『北前船と津軽西浜』所収の「海運がもたらした北陸文化-笏谷石とその周辺-」(石山晃子)によれば、白八幡宮の本殿に上っていく石段は笏谷石(しゃくだにいし)製であるとのこと。幅は一尺、厚さは三寸以上あるという。石山さんによると、町奉行所跡の近くでも笏谷石製の敷石を見つけたとのこと。この笏谷石というのは、福井県福井市足羽山(あすわやま)北西地域で採掘された火山礫凝灰岩。軟質できめが細かく、加工が容易なため、石塔、石仏、狛犬、鳥居、墓石などあらゆるものに加工され、幅広く用いられた石材で、良質のものは濡れると青味を帯びるという。長四角に切り出されたものが石積船に積み込まれ、足羽川から九頭竜川へと運ばれ、九頭竜川河口にある三国湊から全国各地に船で運ばれました。石山さんは、海運業・廻船業にたずさわる人々が、各々のゆかりの寄港地の社寺に、福井城下や三国湊で買い求めた笏谷石の狛犬などを奉納し、航海の安全や商売繁盛を願ったものだろうと推測されています。白八幡宮の笏谷石製の石段も、三国湊から北前船に積み込まれてわざわざ鰺ヶ沢湊まで運ばれてきたものであり、石山さんは、笏谷石は「北陸地方と津軽地方の人と物の流れをより具体的に教えてくれる絶好の歴史資料である」と結論付けています。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その17

2014-09-22 06:20:48 | Weblog
鰺ヶ沢湊は、江戸時代においては弘前藩の藩米を大坂に積み出す御用港として栄え、宝暦年間(1751~1764)には12軒の廻船問屋が建ち並んでいたという。この鰺ヶ沢湊の廻船問屋の実態について、古文書を通して詳しく調べておられるのが鰺ヶ沢在住の桜井冬樹さんであり、私は初日に訪ねた青森県立図書館で、『北前船と津軽西浜』、『地方史論文集 北前船主との交流-付文久二年諸品覚─』という2冊の本を見掛け、そのお名前を知りました。この2冊の本を、幸いに深浦町の資料館「津軽深浦北前の館」で購入することができ、鰺ヶ沢の廻船問屋と日本海沿岸各地の北前船主とのつながりについて理解を深めることができました。桜井さんが主に利用しているのは「丸二塩屋文書」というもの。鰺ヶ沢に塩屋(屋号は丸二〔まるに〕)という家があって、その家の古文書全てが歴史資料として鰺ヶ沢町教育委員会に寄贈されたのが「丸二塩屋文書」。この「丸二塩屋文書」というのは郡役所文書も含む広範囲なもので、その量も膨大であって、その中には海運に関する文書も数多く含まれているとのこと。これらの文書の一部が紹介されているのが『北前船主との交流』であり、それにざっと目を通しただけでも、鰺ヶ沢の廻船問屋が北陸地方などの北前船主と密接につながっていたことがよくわかります。越前河野浦の右近家、加賀瀬越の大家・広海両家、越前三国の「木甚」こと木屋甚右衛門、若狭小浜の古河家、加賀塩屋の西野家、加賀粟崎の木谷藤右衛門などの北前船主が、この『北前船主との交流』には登場してきます。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その16

2014-09-19 05:46:36 | Weblog
『北前船と津軽西浜』所収の「北前船と津軽西浜」(昆政明)によれば、弘前藩では、青森・鰺ヶ沢・深浦・十三は「四浦」と呼んで町奉行を置き、青森と鰺ヶ沢は特に重要な港として「両浜」と呼ばれたという。弘前藩では大坂への廻米は、鰺ヶ沢から積み出すのが原則とされ、津軽平野の米は、岩木川を利用して河口の十三湊に集められ、そこから鰺ヶ沢に搬送した後、大型船に積み替えられて上方(かみがた)に送られたという。そして上方からの物資は、鰺ヶ沢湊から陸路や十三湊経由で岩木川をさかのぼり、津軽平野の各地に運ばれました。日本海海運で活躍した「北前船」は、大坂を起点に瀬戸内海から日本海側の諸港を回って北海道に至る「買積船」(かいづみふね)。この「買積船」とは、寄港した先々で安く仕入れた荷物を商いする船のこと。行き(下り荷)は生活必需品である米や塩や古手木綿、砂糖や酒や綿や紙、石材などを売り、帰り(上り荷)は、ニシンの〆粕、身欠きニシン、昆布などの海産物や農産物、木材等を買い込んで、大坂までの各湊で売りさばき、地域間の価格差を利用して大きな利益をあげた、という。今回の取材旅行は、弘前藩において「四浦」(しうら)と呼ばれた青森・鰺ヶ沢・深浦・十三を訪ねることが主な目的であったのですが、この「四浦」には町奉行所が置かれており、鰺ヶ沢の場合は、「本町一丁目」バス停近く、鰺ヶ沢警察署の裏手の高台に町奉行所があったことを知りました。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その15

2014-09-18 05:54:42 | Weblog
中世十三湊については、市浦歴史民俗資料館の展示品や展示パネル、また発掘調査をまとめた『中世十三湊の世界』などによって理解を深めることができましたが、近世十三湊や明治になってからの十三湊の実態は、どうであったのか。『北前船 寄港地と交易の物語』には、鰺ヶ沢(あじがさわ)から積み出す弘前藩の米が、北方の十三湊に集荷された後、鰺ヶ沢へ回漕されて大船に積み替えられたこと、それは、津軽平野の幹線輸送路、岩木川が十三湖に注いでいたからであること、また回米船に限らず多くの回船が十三湊に来航したことは、神明宮とその境内社である金毘羅神社に奉納された多数の船絵馬や、湊迎寺(そうげいじ)にあるたくさんの石地蔵(身内の供養のために北前船の船頭が運んだ佐渡の石仏)、民謡「十三の砂山」の歌詞に「弁才衆」という言葉が出てくることなどからわかる、といったことが記されています。近世十三湊について私が目にした論文は、『北前船と津軽西浜』(鰺ヶ沢町古文書学習会編)に収められていた「岩木川の川湊と十三小廻し」(岩崎繁芳)という論文。それによれば、近世十三湊は中世十三湊と異なって、岩木川舟運と日本海海運を結ぶ「川湊」へと変貌しています。その「川湊」への変貌の理由は、湊口が浅くなって大型船の自由航行が不可能であったからだと、長谷川成一論文を引用しながら指摘しています。近世の水戸口はもちろん、現在のセバト沼や前潟などの水路も、底が浅くなったために、積荷を満載した大型船が航行することは不可能であったのです。弘前藩による「十三小廻し」が本格的に始まったのは寛文年間に入ってからのこと(17世紀後半)と岩崎さんは推測されています。御蔵米は川舟で運ばれて十三湊の御蔵に入り、そこから前潟を通って日本海に停泊している小廻し船に積み替えられ、鰺ヶ沢湊の御蔵まで運ばれる。これが「十三小廻し」のコースでした。ということは十三湊には藩の「御蔵」があり、回米運送に関わる商人や船頭や人足たちもいたことになる。岩木川を運行していた船は高瀬船やひらた船。このひらた船は鰺ヶ沢への小廻し船としても利用されていたらしい。近世の十三湊は造船基地でもあったことも記され、「十三小廻し」に関係する仕事を生業(なりわい)とする人々が住んでいたのが近世十三湊であったことがわかってきました。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その14

2014-09-16 05:21:40 | Weblog
十三湖と日本海を結ぶ、船の出入り口を「水戸口」といい、それは現在においては十三湖大橋のやや西側にあり、中世においては「明神遺跡」の西側(十三集落より3kmほど南に下ったところ)あったことは、すでに触れたところです。このあたりのことが地図上においてすっきりとまとめられているのは、「十三湊の都市構造と変遷」(榊原滋高)の「図1」であり、北から「長谷川水戸口」(明治時代・中島遺跡の近く)、「現在の水戸口」、「本田水戸口」(江戸時代)、「セバト水戸口」、「古水戸口」(中世)が示されており、一番南にある「古水戸口」の東側には「浜明神遺跡」(宗教施設)と記されています。「本田水戸口」は「セバト沼」の北端にあり、「セバト水戸口」は「セバト沼」の南端に位置しています。かつては前潟・セバト沼・明神沼はつながっており、十三湖から「古水戸口」まで一つの水路のようになっていました。私は近世十三湊にも関心を持っていることから、江戸時代の「本田水戸口」や同じく江戸時代の「セバト水戸口」についても関心を持つのですが、「水戸口」から「セバト沼」や「前潟」の水路に入ってしまえば、日本海の荒波を避けることができ、近世十三湊も、たいへん安全に船を碇泊させることができる良港であったとがわかります。榊原さんも、「船は一旦、水戸口を通過してしまえば、日本海と接する七里長浜の砂洲が防波堤となるため、日本海の荒波から逃れて安全に湊の船着場までたどりつくことができたと考えられています」と記しています。中世の水戸口(古水戸口)付近に現在でも鎮座している神社が、浜明神で、それは「出船入船の明神」として、現在も十三漁業関係者の信仰を集めている、と榊原さんは記しています。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その13

2014-09-15 06:25:14 | Weblog
中世港湾都市十三湊の始まりと終わりはいつであったのか、ということについての考察は、『中世十三湊の世界』所収の「十三湊の都市構造と変遷」という論文(榊原滋)に詳しい。榊原さんは、発掘調査10年の成果から、十三湊の始まりは、奥州藤原氏の影響下で12世紀末であったという説は無理があり、十三湊の始まりは13世紀初め、鎌倉時代初期であると推定しています。榊原さんは、人々が住みつき始めたところは、前潟地区のほぼ中央であり、湊迎寺の門前に初期の湊町が発生し、14世紀前半(鎌倉時代後期)には内陸部に方形居館が出現したとしています。この14世紀に十三湊は最盛期を迎え、15世紀の半ば頃(室町時代)まで継続しました。ではいつ衰退・消滅していったのかというと、発掘調査により、衰退する前にこの十三湊は大規模な火災に見舞われたことがわかり、それが中世十三湊の衰退・消滅につながったらしいと榊原さんは推測しています。その火災後、復興の動きはあったものの、15世紀になって急速に台頭した南部氏との抗争に安藤氏は敗れ、十三湊を捨てて蝦夷ヶ島へと落ちのびていったとのこと。それが15世紀の中頃のことであり、それ以後、十三湊は無人の地となって砂に埋もれていき、再び人が住みついて近世十三湊が出現するのは、それから一世紀ほど経ってからのことであるということです。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その12

2014-09-14 07:38:37 | Weblog
「中世の主要港 三津七湊の現状と十三湊」(坂井秀弥)では、「七湊・三津」の現状が紹介されています。中世秋田の港「土崎湊」については、今回の取材旅行で訪ねたので、あとで少し詳しく報告したいと思います。私が「七湊」の中でも特に興味関心を持っているのは、越前・三国。福井県北部を流れる九頭竜川の河口右岸にある港町。私が生まれた家は、福井平野の足羽川と九頭竜川に挟まれたところにあり、子どもの時にも、田んぼ道を歩いて九頭竜川の川岸まで行くことができました。あの九頭竜川の流れの河口部にある町が三国。その三国の町の中に「下町」とよばれるところがあり、その地区が中世段階の港町ではないかとのこと。土崎や三国も含めて、現在どこも都市化され市街地となっている中で、坂井さんは、十三湊遺跡については遺跡も景観もほとんどかつてのまま残されていると指摘しています。安藤氏館や家臣団屋敷群と推定される十三湊遺跡の中枢部分の地割形状は、広島県の草戸千軒町(くさどせんげんちょう)遺跡と共通しているとも述べられており、今後も発掘調査によってより全貌が詳しくわかってくる可能性のある遺跡であると結論付けられています。今後も計画的な調査ができる遺跡であること、また景観がほとんどかつてのまま残されているということ(これは私も今回初めて訪れて感動をもって実感したところです)から、この遺跡は全国的に見ても稀有の遺跡であると私には思われました。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その11

2014-09-13 06:50:52 | Weblog
『中世十三湊の世界』所収の「中世の主要港 三津七湊の現状と十三湊」(坂井秀弥)によれば、「三津七湊」(さんしんしちそう)と称される10ヶ所の港が、日本最古の海商法である『廻船式目』に記載されているという。その10ヶ所の港は、中世後期頃に栄えていた本州の重要な港であると考えられ、「三津」は、伊勢安濃(あのう)、博多、泉州堺、「七湊」は、越前三国、加賀本吉(もとよし)、能登輪島、越中岩瀬、越後今町(いままち)、出羽秋田、そして奥州十三湊(とさみなと)。「七湊」が所在する地域は、日本海側の北陸越前から本州北端の奥州津軽にかけて。中世の初期には、近江日吉神人(ひえじにん)の活動によって若狭小浜から越後までの経済圏が成立し、鎌倉末期から室町期になると、時宗(じしゅう)や浄土真宗に組織された商人が目立ち、出羽や北海道までの圏域に拡大したという。この記述は、「北の中世港湾都市 油川とその時代」(工藤弘樹『市史研究あおもり 3』所収)における、油川の町場の中心付近に一向宗(浄土真宗)寺院があることなどから、「海の有徳人」たちの流入による「自治都市的」「中世港湾都市」油川の成立を論ずる内容を想起させるものでした。とくに浄土真宗(一向宗)の教派拡大と、越前若狭から奥州津軽地方ないし蝦夷地に至る「北東日本海域経済圏」の成立との関連について、さらに理解を深めていく必要があると思われました。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その10

2014-09-10 05:47:23 | Weblog
市浦歴史民俗資料館には『中世十三湊の世界』青森県市浦村編集 千田嘉博編集協力(新人物往来社)という本が売っており、購入しました。この本は2000年10月22日に、五所川原市ふるさと交流県民センター・オルテンシアで行われた「十三湊遺跡発掘十周年記念フォーラム」の記録集をもとにまとめあげた本で、2004年9月に初版第1刷が発行されています。2000年ないし2004年の時点での、十三湊研究の最新成果がまとめられたものと言えるでしょう。青森大学教授村越潔さんの「実行委員長あいさつ」によれば、十三湊遺跡関連の本格的な調査は、1955年(昭和30年)の東京大学東洋文化研究所、江上波夫教授を中心とした福島城跡の調査が最初であり、それ以来2000年10月まで、調査は23回に及んだとのこと。とりわけ十三湊遺跡の調査において画期的であったのは、10年前に、国立歴史民俗博物館が中心になって、富山大学あるいは村の協力を得て、福島城ならびに十三湊の調査が行われたことで、このフォーラムも、それから十周年を記念したものでした。特別講演をされた石井進さんの「十三湊遺跡発掘調査10年」によれば、最初に国立歴史民俗博物館によって十三湊の調査が行われたのは1991年(平成3年)から1993年(平成5年)まで。そして94年(平成6年)からは、村の教育委員会によって調査が現在(2000年)まで継続されているという。石井さんはこの講演で、その重要性と貴重性から、国際的な中世港湾都市・十三湊を国の史跡指定にするようにとの提言をしています。また大正年間から始まった国の史跡指定が、畿内中心あるいは西の方が中心になっていて、東あるいは北のほうの地域の指定が非常に薄いというアンバランスな状況があることを指摘しています。幸いにそのフォーラムから5年後の2005年(平成17年)7月14日に、十三湊は国史跡(重要文化財に対応する)に指定されています。もっとも石井さんは、十三湊は特別史跡(姫路城や平城宮跡、一乗谷遺跡などが指定されており、国宝に対応する)に該当するクラスのものだと評価されていましたが……。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その9

2014-09-08 05:47:14 | Weblog
今回の取材旅行で一番興味関心があった場所は十三湖(じゅうさんこ)でした。十三湖にあった「十三湊」(とさみなと)は日本中世の代表的な国際的貿易港であったこと。また津軽藩の藩米は、岩木川からこの十三湖に運ばれ、そこから鰺ヶ沢へと運ばれて大坂へと積み出されたこと。それを「十三小廻し」と言ったこと、などを事前に知っていました。『北前船 寄港地と交易の物語』には、関連施設として「市浦村歴史民俗資料館」(現在は「市浦歴史民俗資料館」)が紹介されており、十三湖や十三湊付近の景観とともに、その資料館を訪れて関連資料をぜひ見たいと思っていました。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その8

2014-09-07 08:38:01 | Weblog
前に油川に立ち寄った時に、天田内川に架かる浜の橋から右折した天田内川の河口部分あたりがかつての油川港ではなかったかとしましたが、『市史研究あおもり 6』所収の「北の中世港湾都市油川とその時代」(工藤弘樹)によれば、そこには「九浦外町絵図」のうち「油川之図」が掲載されており、天田内川の北に油川が流れており、その河口部に「湊番所」があることを知りました。油川の町は、「海岸線と平行に南北にのびる松前街道と津軽地域を北上する羽州街道の合流点を中心に拡大」した町であり、その「二街道の合流点に成立したのが本町」であって、それは現在の中町にあたるという。その図には青森へと延びる道が「青森道」と記され、三厩方面へと延びる道が「上磯道」と記されています。工藤さんは、町場の中心部付近に一向宗寺院が二つも存在していたことから、油川は北方交易を行う商人に開かれた「自治都市」的な性格を持っていた町ではないかと推測しています。天田内川と油川の両河口部の間の海岸側が「浜町」であり、このあたりが油川の陸奥湾に面したところであり、商家などが軒を並べていたところは松前街道沿いの「本町」あたりであったと思われます。工藤さんは、安藤氏の十三湊が衰退した後、北方世界と和人社会をリンクする役割の一部が、油川に受け継がれたのではないかとされていますが、自治的性格をもっていた町ではなかったかという指摘とともに、たいへん興味深い指摘でした。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その7

2014-09-06 06:28:24 | Weblog
『北前船 寄港地と交易の物語』によると、陸奥湾に面した津軽半島東岸を外ヶ浜といい、下北半島に最も近い平舘には御台場が築かれたものの、青森までの間で千石船が入港できたのは蟹田(かにた)港だけだったとのこと。蟹田港はヒバ材の積み出し港として賑わったという。「ヒバ材」と言えば、同書の下北半島西岸にある佐井村について、「下北半島西岸で最も栄えたのは、佐井村」であり、「江戸初期から、ヒバ材が大坂まで運ばれた」との記述がありました。下北半島北通りの大畑についても、「ヒバ材の大集積地」であったとの記述がありました。ネットで「ヒバ」について調べてみると、「木曽ヒノキ」「秋田スギ」「青森ヒバ」は、日本三大美林であり、「青森ヒバ」は和名ヒノキアスナロで、その約8割が青森県内に集中しているという。特に下北半島と津軽半島に集中しています。この青森ヒバは、雪の多い地方でなければ育たず、直径70cmの巨木に育つのに300年かかるとのこと。抗菌・防虫・防ダニ効果が著しく、そのため社寺仏閣や城の建築材として珍重されたらしい。有名なところでは中尊寺金色堂や弘前城、山口県岩国の錦帯橋などに使われているとのこと。藩政時代に津軽藩や南部藩はヒバ山を厳しく管理。伐採後は「留山」(とめやま)として、入山を禁止したという。そのヒバ材の積み出し港が、津軽半島(津軽藩)では蟹田港、下北半島(南部藩)では佐井港や大畑港であったことになります。 . . . 本文を読む
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2014.夏の取材旅行「青森~竜飛~十三~鰺ヶ沢」 その6

2014-09-04 05:54:53 | Weblog
『青森市の歴史』(青森市)によると、油川は、中世の末期あたりから外ヶ浜の中心港として栄え、寛永2年(1625年)、津軽藩による青森開港によって港を閉ざされたという。油川は津軽内陸部から外ヶ浜に出たところに位置し、かつての海上交通と陸上交通とを結ぶ交通上の要地でした。「外ヶ浜」というのは、津軽半島東部の陸奥湾沿岸部をさす古来の地名であり、油川から三厩(みんまや)までをさすらしい(津軽半島の日本海沿岸を含むなどの説もある)。江戸時代においては弘前藩領に属していました。現在は陸奥湾に沿って「松前街道」(国道280号)が走り、また一部内陸部に入っていますが、JR津軽線が三厩まで走っています。竜飛岬はその三厩からさらに奥、津軽半島北西部の突端、津軽海峡に面したところに位置しています。菅江真澄は、「外が浜づたい」「外が浜風」「外浜見聞」という紀行記を残しているという。外ヶ浜を三厩へと歩いて行ったものと思われますが、その紀行文を読んで見たくなりました。 . . . 本文を読む
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