鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.11月の「国府津・小田原宿」取材旅行 その6

2007-11-24 06:20:21 | Weblog
オールコック以前に小田原宿を通過した西洋人として有名な人物には、エンゲルベルト・ケンペル(1651~1716・ドイツ人・オランダ商館長江戸参府に随行)、カール・ピーター・ツンベルグ(1743~1828・スウェーデン人・医師としてオランダ商館長江戸参府に随行)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1776~1866・ドイツ人・医師としてオランダ商館長江戸参府に随行)、そしてタウンゼント・ハリス(1804~1878・アメリカ人・外交官として下田から江戸に赴く)がいます。ケンペルは1692年3月29日(西暦・以下同じ)に箱根を越えて小田原宿に到着し、ツンベルグは1776年4月25日に箱根を越えて小田原宿に到着。シーボルトは1826年4月7日に箱根を越えて小田原宿に到着。ハリスは1857年11月26日に、やはり箱根を越えて小田原宿に到着しています。いづれも芦ノ湖が見える箱根宿の本陣で休息をしています。小田原宿でも本陣に泊まっているはず。どこの本陣であったかはわかりませんが、やはり宮前町の筆頭本陣「清水金左衛門」家であったのでしょうか。ケンペルは、その『江戸参府旅行日記』の中で、今から300年以上前の小田原宿を次のように描写しています。 . . . 本文を読む
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2007.11月の「国府津・小田原宿」取材旅行 その5

2007-11-23 08:07:41 | Weblog
小田原は小田原北条氏以来の城下町であるとともに東海道沿いの宿場町。東側には酒匂川の渡しがあり、西側には「箱根八里」(箱根の関所越えと山越え)を控えた宿場町で、参勤交代の諸大名が江戸の行き帰りに必ず宿泊したところ。そのために本陣は4軒、脇本陣も同じく4軒ありました。本陣・脇本陣合わせて8軒というのは、東海道の53宿の中で一番多い。城下町を兼ねた宿場町である小田原は、大きく武家地と町人町、そして寺社地に分かれます。武家地はお城の周辺や町の出入り口部分にあり、町人町は町の東西を走る東海道沿いと北へ通ずる甲州道などに沿ってありました。東海道沿いの町、すなわち「通り町」は9町。江戸見附から、新宿(しんしゅく)町→万(よろず)町→高梨町→宮前(みやのまえ)町→本町→中宿(なかじく)町→欄干橋町→筋違橋町→山角(やまかく)町。山角町を過ぎると上方見附(板橋口・枡形や番所がある)。「通り町」にある旅籠屋は、本町・宮前町を中心におよそ90軒。小田原宿惣町の総鎮守は松原神社でした(宮前町の「宮」とは松原神社のこと)。甲州道は、青物町から右折する道で、現在の「国際通り」。その通り沿いには、一丁目町・台宿町・大工町・須藤町・竹花町などがありました。東海道の新宿(しんしゅく)から大手門に続く通り、「御成道(おなりみち)」というのもありました。これが現在の国道1号線。この「御成道」には、明治になって、国府津駅前からまず馬車鉄道(明治21年開業)が走り、その後電気鉄道(明治33年開業)が走りましたが、大正9年(1920年)の国府津~小田原間の鉄道開通に先立って、国府津~小田原間の東海道(海沿い)を走った電気鉄道(路面電車)は廃止されました。 . . . 本文を読む
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2007.11月の「国府津・小田原宿」取材旅行 その4

2007-11-22 06:40:41 | Weblog
酒匂川を川越えし、小田原藩兵に先導され警護された駐日公使オールコック一行は、山王橋を渡って江戸口見附から小田原宿に入ります。彼らイギリス人たちは背の高い西洋馬にまたがり、縦に列を作って宿内の街道をゆっくりと進み、新宿で左折。すぐに右折して街道を真っ直ぐに進み、おそらく宮前町(みやのまえちょう)の筆頭本陣「清水金左衛門」家に入ったと思われます。宮前町は、江戸時代末期に、本陣1軒・脇本陣2軒・旅籠23軒が軒を並べ、西隣の本町(ほんちょう)とともに、小田原宿の中心となる町でした。清水本陣は通りの左側(海側)にあり、その当主は江戸期において町年寄として宿場全体を掌握する立場にいるなどして町政に大きな力を有していました。オールコックは『大君の都』において、イギリス人の騎馬の一行が小田原宿に入っていった時の宿場の人々の様子を活写していますが、たいへん印象的な場面です。 . . . 本文を読む
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2007.11月の「国府津・小田原宿」取材旅行 その3

2007-11-21 06:19:21 | Weblog
オールコックの『大君の都』には、多くの挿絵(さしえ)が載っていますが、これはオールコック自身が描いたもの。オールコックが観察眼に優れた人物であることがわかります。同書(中)のP161には、「小田原への川越え」というスケッチが載っています。現在酒匂橋が架かっている辺りの河原の東側から、一行の川渡しの風景を描いたもの。手前右端に護衛の侍(おそらく幕府役人)が立ち、手前の川を荷物を担(かつ)いだ人足と馬(おそらくオールコックらイギリス人が乗って来た西洋馬)を引っ張る人足が渡り、さの上流を幕府役人やイギリス人を乗せた輦台(れんだい)を担ぐ人足たちが渡っています。中央の輦台には、大柄なイギリス人が山高帽を被った西洋服姿で乗っています。1台の輦台を担ぐ人足は6名。輦台には、必ずしも1人だけ乗せるというわけではなさそう。右端のそれには3人の侍がおのおの思い思いの方向を眺めながら乗っているからです。小田原側の河原には川越えを終えた馬や別当が描かれ、その奥の松林の手前には、やはり川越えを終えた一行の集団が描かれています。オールコックは河原に立って、スケッチブックかノートに川渡しの光景を素描し、後に丁寧に描き直したのでしょう。神奈川宿を出て初めて経験する「川越え」は、オールコックにとって新鮮な感動を覚えるものだったのでしょう。 . . . 本文を読む
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2007.11月の「国府津・小田原宿」取材旅行 その2

2007-11-20 06:26:57 | Weblog
 前回、国府津町の「昭和レトロ」を感じさせる建物のいくつかを紹介しましたが、実際はもっと多くある。その建物がいつ建てられたものかはわかりませんが、おそらく関東大震災(大正12年〔1923年〕9月1日)以後から昭和30年代にかけてのものかと思われます。これも私の素人(しろうと)判断ですが、駅前の「神戸屋」同様、昭和初年のものが多いのではないでしょうか。というのも、大震災前の大正9年(1920年)まで、この東海道の通りには小田原電気鉄道(路面電車・通称「オダデン」)が走り、かつての県西の交通の要衝(ようしょう)としての国府津町の賑わいが、昭和9年(1934年)の丹那トンネルの開通頃まで残っていたと思われるからです。戦災に遭わなかったことや、「西湘バイパス」の開通などにより、その昭和初期から中期にかけての建物が残ったのではないか。「レトロ」を感じさせるものは、商店の通りに面した構えだけではない。各所に見られる古い蔵もそう。いろいろな造り(素材・色・窓…)の蔵が通りからちょっと入ったところにあり、国府津町が繁栄していた頃を偲(しの)ばせる。中には江戸時代にさかのぼるものもあるのかも知れない。表通りだけでなく、ちょっと奥に入ったところにある古い蔵を見つけながら歩くのも楽しい。 . . . 本文を読む
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2007.11月の「国府津・小田原宿」取材旅行 その1

2007-11-19 06:23:54 | Weblog
国府津駅に着いたのは7:34。空は快晴ですが、朝の大気は冷たく、手がかじかむほど。駅前広場を抜けて東海道へ。通り手前左角に「神戸屋」というしゃれたパン屋さんがあって、すでに開店していて店先からは焼きたてのパンの香りが漂ってくる。何気なく通り過ぎようとして、壁に「登録有形文化財 第14─0085号」とあり、「この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」と記してあるのに気付きました。歩を止めて改めて外観を見てみると、お店の部分は新しいが建物自体は歴史を感じさせるもの。東側に接する2階建ての木造家屋も古そう。早速中に入って焼きたてのパンを購入かたがた、店の人に聞いてみると、昭和初期の建物で元はタクシー会社。1階部分はタクシーを停めておく駐車場であったらしい。2階も私宅として使用しているが、古いからミシミシいうとのこと。昭和初期というからは80年前後の歴史を持っていることになる。前の通りを渡って、少し離れたところから全景を写真におさめる。「昭和レトロ」を感じさせる建物ですが、実は、歩いてみると、国府津駅前から小田原方面に向かう東海道の道筋には、「昭和レトロ」を感じさせる建物がたくさんあったのです。これは新鮮な感動でした。やはり歩いてみるものです。 . . . 本文を読む
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2007.11.横浜「馬車道・本町通り」 その8

2007-11-13 06:13:43 | Weblog
ネットで「有隣堂」を検索すると「有鄰」の第479号が出てきます。それに「古写真でみる文明開化期の横浜・東京」という座談会の記事が出ています。座談会の参加者は、石黒敬章さん(古写真収集家・石黒コレクション保存会)、斎藤多喜夫さん(横浜都市発展記念館調査研究員)、青木祐介さん(同)、松信裕さん(有隣堂社長)の4名。その中で、斎藤さんは、下岡連杖の弟子の「臼井秀三郎も鈴木真一も、残された写真は極めてクリアで技術が高」く、横浜都市発展記念館所蔵の鈴木真一の7枚組のパノラマ写真は、「水平線がまっすぐで写真のつなぎ目が間近に寄って見ないとわからないぐらいきれい」だとしています。また「鈴木真一はパノラマ写真が好きだ」ったのだともコメントされています。ネットで「横浜市街全景写真 斎藤多喜夫」で検索すると、「ハマ発Newslettr第5号~横浜都市発展記念館」というページが出てきますが、そこに、鈴木真一の撮影した「明治初期の横浜市街全景写真」(伊勢山上からのもの)と、それについての斎藤多喜夫さんの詳細な解説が掲載されています。それによるとこの写真が写された時期は、明治7年(1874年)頃であるらしい。この写真左手前には、ガス会社が大きく写っていますが、これは現在の本町小学校所在地であるという。これを手掛かりに、明治7年頃の、現在の伊勢山皇大神宮から桜木町駅(旧横浜駅)にかけての様子を知ることも出来そうです。 . . . 本文を読む
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2007.11.横浜「馬車道・本町通り」 その7

2007-11-12 06:16:21 | Weblog
 誰もが五雲亭貞秀のように「鳥の目」になれるわけではない。しかし誰もが「鳥の目」になって新興横浜の町の全景を見下ろせるビュー・ポイントがいくつかありました。それは野毛山と山手でした。しかし野毛山からは港も居留地も遠い。港(外国船が沖合いに浮かぶ)に近く、異国的雰囲気を漂わせる居留地全体を見下ろせる恰好の場所は山手でした。その山手には、誰でも簡単に登れるビュー・ポイントがありました。一つは谷戸坂の上。もう一つは百段坂の上でした。明治7年(1874年)、本町通りに(これは誰でも登ることが出来るものではなかったようですが)、横浜の日本人区も外国人居留地も見下ろせる新たなビュー・ポイントが出来ました。それはアメリカ人建築家プリジェンス設計の町会所の塔(時計台がある)。これらのビュー・ポイント、すなわち野毛山(伊勢山)・山手(谷戸坂上)・町会所(時計台)から、横浜全体のパノラマ写真を写した日本人がいました。それが、鈴木真一(1835~1919)です。横浜都市発展記念館の「写された文明開化」展には、その3枚のパノラマ写真が展示されている。「明治初期ニ於ケル横浜及其近傍」というアルバムの中に入っている写真で、「谷戸坂からの横浜全景」と「町会所楼上より本町通り」、それに「伊勢山からの横浜全景」です。町会所は今はなく(1906年に焼失)、そこには今「横浜開港記念会館」が建っていますが周りはビルが建ち並んでいる。谷戸坂や伊勢山(それに百段坂上)からも、ビルやマンションが視界をさえぎって横浜全景を見下ろすことは全く出来ない。五雲亭貞秀のように「鳥の目」になれる現在のビュー・ポイントは、やはり「ランドマークタワー」と「マリンタワー」ということになるのでしょう。 . . . 本文を読む
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2007.11.横浜「馬車道・本町通り」 その6

2007-11-10 05:56:27 | Weblog
 横浜駅近くでの用事を終え、紅葉坂の県立図書館には向かわず、横浜都市発展記念館に行くことに。「写された文明開化 ─横浜 東京 街 人びと」展を観るためです。みなとみらい線の「日本大通り駅」構内の開催記念パネル展示から受けた印象は強烈でした。特に鈴木真一撮影の、明治初期の横浜居留地を写したパノラマ写真は印象に残りました。幕末・維新期の横浜を写したパノラマ写真というと、私はベアトの写真をまっさきに思い浮かべるのですが(『F・ベアト幕末日本写真集』P13~16)、日本人で当時の横浜のパノラマ写真を写していた人物がいたのです。この「鈴木真一」という明治期の写真家の名前を、私はこのパネル展示で初めて知りました。「鈴木真一」とはどういう人物なのか。それを知りたいという思いもあって、みなとみらい線に乗って「日本大通り駅」で降り、横浜都市発展記念館へ。この横浜都市発展記念館の建物は、横浜市認定の歴史的建造物「旧横浜市外電話局」を保存・活用したものだという。もともとは「横浜中央電話局」として昭和4年(1929年)に建てられたもので、レンガ風のタイルを外壁一面に張り巡らした建築です(『なか区 歴史の散歩道』による)。パンフレットの「開催にあたって」には、次のように記されています。  「西洋との出会いに際して、わたしたちの祖先が出した答えが“文明開化でした。横浜と東京には洋風の建物が造られ、電信や鉄道で結ばれました。人びとはチョンマゲや刀を捨て、新たな生活スタイルを創造していきます。古写真を通して、近代都市として生まれ変わろうとする横浜・東京の風景や人びとの表情を紹介します。」  展示構成は、Ⅰ 写真でみる文明開化 Ⅱ 各地の風景 Ⅲ 明治の人びと Ⅳ カメラマンのプロフィール─横浜写真小史─ 〔特設コーナー1〕 西南戦争と西郷隆盛の写真の存否 〔特設コーナー2〕1 幕末のトリック写真 2 下岡蓮杖・内田九一写真鑑定術。  会期は、平成19年9月14日(金)~20年1月4日(月)。 . . . 本文を読む
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2007.11.横浜「馬車道・本町通り」 その5

2007-11-09 03:41:51 | Weblog
この横浜天主堂の創設に関わるフランス人宣教師として2人のフランス人を挙げることができます。ジラール神父(1821~1867)とムニクゥ神父(1825~1871)です。2人ともパリ外国宣教会の宣教師。ジラールは、フランスのブールジェ司教区のアウリィシュモに生まれ、パリに出て外国宣教会に入会。1855年2月(西暦)、フュウレ神父(1816~1900)、カション神父(1828~1871?)とともに(この両名もパリ外国宣教会宣教師)、香港からフランス貨物船リヨン号で琉球国那覇沖に到着。上陸した3人は、天久村の聖現寺で日本語を勉強し、日本に入国する機会をつかもうとします。フュウレは間もなく琉球を離れますが、ジラールとカションは翌年、聖現寺から那覇の中心部久米村に居を移し、海外との貿易(密貿易)と軍備の強化をもくろむ薩摩藩と密接な関係を持つことになります。このフランス人宣教師を介した薩摩藩とフランスの関係は、藩主島津斉彬の急死(1858年夏)によりご破算となってしまいますが、同年9月(西暦)、カションは日仏修好通商条約締結のために派遣されてきた全権公使グロの通訳として品川に上陸。以後、その堪能な日本語を生かして幕末日仏外交交渉の舞台で活躍することになります。一方ジラールは、日本教区長に任命されるとともに、香港・上海を経て1859年9月(西暦)、総領事ベルクールの通訳兼カトリック司祭として開港して間もない横浜に上陸します。初めは領事館が置かれた三田(みた)の済海寺に住んでいましたが、領事館の横浜移転とともに横浜に移住。総領事ベルクールの協力を得て、外国人居留地80番に司祭館および天主堂(教会)の建築に取り掛かりました。これに協力したのがムニクゥ神父。カション神父と交代して琉球に滞在していたムニクゥは、横浜の日本教区長ジラールの指示により1860年11月(西暦)に横浜に到着。横浜天主堂の建築に携(たずさ)わりました。そして1862年1月12日(文久2年12月13日)の日曜日、横浜天主堂(聖心聖堂)が竣工し落成式が行われたのです。 . . . 本文を読む
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2007.11.横浜「馬車道・本町通り」 その4

2007-11-08 06:05:28 | Weblog
港町横浜が、日本人町と外国人町に区画的に分けられていたことはよく知られていることですが、それがよくわかる絵が、やはり五雲亭貞秀の「横浜本町并ニ港崎町細見全図」(万延元年〔1860年〕。『絵とき 横浜物語』のP76~77に掲載されています。そこの絵は山手方向の上空から「鳥の目」になって描いたもの。右側手前に外国人町、上部中央に日本人町が描かれ、日本人町の向こうには弁天社の杜が広がっています。弁天社から延びている道が弁天通り。日本人町には、海岸に平行に、本町通り・南仲通・北仲通・弁天通・海辺通の五本の道が通じ、本町通りは外国人町を貫いていて、延長1500メートル。幅は10間(約18メートル)で、東海道の起点である江戸日本橋の通りと同じ道幅、と説明にあります。この道に直角に、一丁目から五丁目まで、それぞれが60間(約100メートル)のブロックで直線で仕切られました。絵を見ると、海岸町・本町東横丁・本町・本町西横丁・弁天町となっています。日本波止場から港崎遊郭へと延びる道が、日本人町と外国人町を分ける通りとなっていて、日本人町はそうではないのに、外国人町のは、各建物が板塀でがっちりと囲まれています。外国人町は丁目制ではなく、地番になっている。右下にアメリカ国旗が翻(ひるがえ)り、左下には港崎遊郭が微細に描かれています。 . . . 本文を読む
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2007.11.横浜「馬車道・本町通り」 その3

2007-11-07 06:19:41 | Weblog
神奈川県立歴史博物館の西北部一帯にあった弁天社。それが写っている写真がないかと調べてみると、『F・ベアト幕末日本写真集』にありました。同書P8の上部に掲げらていれ2枚の写真はいずれも弁天社を写したもの。左側は「弁天社の並木道」。入海ではあるけれどまるで池のようになっているところに架かる橋と鳥居、および石灯籠と森が写っている。その奥に弁天社があったはず。右手は「弁天社境内の料理屋」。左の写真の橋と似ているが、橋の向こうに見える景色を考えると別の橋であるようです。茶屋は2階建。橋之たもとで釣り糸を垂らしている男がいる。弁天社の森は、同書P12、13の「野毛山から見た横浜」にも写っています。P26には、「横浜の茶屋」という写真があり、「地点不明。弁天社境内か」としてあります。茶屋の中にベアトの方を見詰める2人の男が座っています。P8の写真に写っている茶屋と違って、この茶屋は平屋建。弁天社境内であるとすると、手前の川のように見えるのは、境内に池のように入り込んでいた入海(いりうみ)ということになる。幕末期の日本の風景を写しとどめたベアトの貴重な写真の一部です。 . . . 本文を読む
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2007.11.横浜「馬車道・本町通り」 その2

2007-11-06 06:09:12 | Weblog
馬車道から見て、県立歴史博物館の左側に伸びる道は弁天通り。右側(港側)の道は南仲町通り。弁天通りを桜木町方面に進んでいくとやがて左に曲がり、大岡川に架かる弁天橋を渡って桜木町駅付近に出ます。弁天通り6丁目のところに案内標示があって、そこには次のように書かれています。「埋立前、横浜…の谷戸橋付近から現在の弁天橋辺りまで大きな砂洲があって、ここに弁天を祭ってあった。この弁天社へ一直線に通ずる道ということで呼称され、安政6年にはすでに町の形態となり明治22年には町名ともなった。」現在この「弁天通り」には「すず風舗装」がなされています。「すず風舗装」というのは、車道および歩道に保水性舗装を施したもので、舗装内に保水した水分の気化熱で舗装表面の温度を低下させるというもの。いわゆる夏の「ヒートアイランド」現象の対策の一つと言えるでしょう。この埋立前の横浜村の様子をよく伺うことが出来るのは長谷川雪旦の「横浜弁財天社」(『江戸名所図会』)の絵。『絵とき 横浜物語』のP28~29に掲載されています。それによると、右上の丘陵は山手。手前は野毛山。山手から画面中央に延びるのが砂州「州干島。その先端の森が弁財天社。よく見ると弁財天社から山手に向かって、入海(いりうみ)沿いに曲がりくねった道(すなわち弁財天社の参道)が続いています。これが埋立によってどうなったか。それがよくわかる資料は、同書P72~73の五雲亭貞秀「神奈川横浜港案内図会」(万延元年〔1860〕)。この絵の中で、神奈川県立歴史博物館がある地点はどのあたりになるのでしょうか。 . . . 本文を読む
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2007.11.横浜「馬車道・本町通り」 その1 

2007-11-05 06:23:36 | Weblog
仕事の関係で横浜に出る用事があり、せっかく横浜に出るならと、早朝に自宅を出発。馬車道と本町通りを歩くことにしました。正午には用事が終わる予定なので、その後は県立図書館を訪れることに。馬車道は、今まで何度か歩いたことがありますが、本町通りを端から端まで歩いたことは1度もありません。吉田橋関門から馬車道の辺り、そして本町通りにかけての万延元年(1860年)頃の姿は、『絵とき 横浜物語』宮野力哉(東京堂出版)の五雲亭貞秀(ごうんていさだひで・本名─橋本兼次郎)「横浜本町景港崎街新郭」に描かれています。馬車道と本町通りが交わる地点から山手方向(本町通りの賑わい)を見た情景は、同書の同じく五雲亭貞秀の「神奈川横浜新開港図」(万延元年)に美しく描かれています。また同書の「開港当時本町を主とした横浜全景」(作者不詳・万延元年頃)は、本町通りをかなり誇張して横浜全景を描いた「泥絵」の大作。手前に弁天社、通りの奥に山手の丘、右手に雪を被った富士山、左手に港の沖合いに浮かぶ外国船とその向こうに房総半島が見える。この遠近法を駆使した泥絵は、全体の青みがかった色調とともにきわめて印象的。この3枚の絵は、いずれも万延元年(1860年)頃の横浜を描いたもの。横浜は、その前年の安政6年(1859年)6月2日(和暦)に開かれたばかりでした。ということで、根岸線の関内駅で下りて、馬車道を経て本町通りの突き当たり(山手の丘の麓)まで歩いてみることにしたのです。 . . . 本文を読む
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