鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士山の宝永大爆発について

2008-06-28 09:48:04 | Weblog
原~吉原~村山を歩いて富士山を眺めつつ、常に目に付いたのは、その東側斜面に出っ張っている宝永山でした。イギリス公使オールコックがここを通った時は、台風襲来のために富士山の全貌を見ることはなかったように思われますが、しかし、『大君の都(中)』のP181には、「吉原から見た富士山」の挿絵がおさめられていて、その富士山右側(東側)斜面にはその出っ張り(宝永山)がしっかりと描かれています。この宝永山は、宝永4年(1707年)の富士山大爆発で生まれたものですが、その爆発について、オールコックは同書P189で触れています。「この火山は死火山になって久しい。記録にのこっているいちばん最近の爆発は1707年であった。」オールコックが、富士山の東側斜面の出っ張りを、その宝永4年の大爆発によって出来たものと認識していたかどうかは分からない。広重の『東海道五拾三次』の「原」にも、その宝永山は描かれています。広重はこの辺りからの富士山を、実際に眺めたことがあると思われますが、その彼の目にも東側斜面の出っ張りは見過ごすことが出来なかったもののようです。この富士山の「いちばん最近の爆発」が起こったのは、宝永4年(1707年)の11月23日(旧暦)午前10時~11時頃のこと。オールコックが富士登山をした万延元年(1860年)の153年前のことでした。 . . . 本文を読む
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2008.6月「吉原宿~村山浅間神社」取材旅行 その8

2008-06-27 05:45:44 | Weblog
オールコックの示した富士登山のための旅行計画に対して、幕閣はさまざまな理由や事情を挙げて、その実行を阻もうとやっきになります。その理由や事情のいくつかを、『大君の都』の記述から拾ってみましょう。閣老たちが強硬に主張した反対の理由の一つは、「いやしくもイギリス公使の肩書きを有する者が、法的にではなくとも、慣習的に下層階級の人びとだけにかぎられている巡礼に出かけることは、ふさわしいことではない」というものでした。「閣老たちのいうことを信ずれば、大名はもとより、他のいかなる階級の役人にとっても、(中略)多くの不潔な民衆とじかに接触せざるをえないという理由から、巡礼をすることはかれらの威厳をたもつゆえんにならないと考えられている」とオールコックは記しています。江戸時代を通じてさまざまな「巡礼」がありましたが、武士階級の人々にとっては、威厳をたもつという理由から、巡礼に出かけることは身分上ふさわしいことではないと考えられていた、というのです。イギリス公使の立場は、有力大名、いやそれ以上に匹敵する。それゆえ東海道の宿場に泊まる際には、オールコック(およびその大使館員一行)には「本陣」が提供されました。そのイギリス公使が、下層階級の者が行う富士巡礼(登山)をするなどといったことは、身分的にまったくふさわしいものではない、そう閣老たちは主張したのです。二つ目の理由は(オールコックの推測によれば)、ヨーロッパの理念や主義は日本のそれとは相容れず、そのヨーロッパの理念や主義が日本社会に浸透していくことは、今までの仕組みの破壊につながると感じられたので、現在の支配者たちはその浸透を全力で阻止しようとしている。外国人のすべての旅行や、外国人と住民たちの接触を出来るだけ制限しようとしているのはそのためであり、オールコックの富士登山の計画に反対するのもそのためである。三つ目は、道中が危険であるということでした。「政府の所在地である首都からそんなに遠く離れて旅行するのは危険だ」というもの。四つ目は、季節が遅すぎる、というものでした。さらに、山が崩れて遭難する危険性がある、祭りが行われているから、道路は酔っ払いやだらしのない者どもでいっぱいだといった理由も挙げられました。しかし、計画の実行が不可避であると判断された瞬間から、幕府はオールコックの旅行の成功に向けて十全な手配と配慮をしていきました。 . . . 本文を読む
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2008.6月「吉原宿~村山浅間神社」取材旅行 その7

2008-06-26 05:34:26 | Weblog
そもそもなぜオールコックは富士山の登山を計画し、それを実行したのか。「わたしは、さまざまの動機から名の知れわたった神聖な山(富士山)への遠征を計画した」とありますが、その「さまざまな動機」とは何であったか。一つだけの理由ではないということです。『大君の都』でオールコックはそれらの動機について、いくつかを記しています。一つは、外交使節団は、条約によって首都における居住の権利と、日本国内をどこでも自由に旅行する権利を保証されているのだから、外国代表として初めてその条約の条項を実際に行使しようと考えたこと。「条約上の権利を行使してレクリエーションと視察が目的であることを公言して計画し、慣例を破って奥地へ旅行するということは前代未聞」のことであったのです。二つ目は、海外との通商開始によって物価が高騰し、外国人に対する敵意が高まっており、国内は不安定な状態にあるとする幕府側の説明が、ほんとうに政治の中心地から離れたところにもあてはまるのかを実際に確かめてみたい、ということがありました。「これは、国内をぶらぶら旅行しているあいだに、個人的に観察してこそなしとげることができるのだ。」そういった政治的目的以外に、「まったく知られていない日本の山岳植物、とくに富士山のそれについてなにかを知る」という目的がありました。有名なロンドンの園芸家の息子である植物学者のヴィーチを、臨時大使館員として公使館に所属させ富士登山に参加させたのはそのためでした。ほかにはどういう目的を挙げているかというと、「江戸における一種の監禁状態から脱出する楽しみと、目新しい土地にひじょうに珍しい視察旅行をするという魅力」とがありました。富士山は江戸から比較的近く、江戸からも横浜からも天気のよい時にはさまざまな地点から見晴るかすことが出来る美しいコニーデ型の独立峰でした。また古来からの日本人にとっての聖地でもある。四季折々の秀麗な富士山を西方に見るにつけ、オールコックには、あの山に登り、あの山の頂上に立ってみたいという思いが膨らんでいったのかも知れない。彼は、東海道を西進し、箱根峠を越えて、吉原から東海道を離れて富士山に登り、その帰途、三島から山を越えて熱海温泉に泊まって休養し、そこから小田原に回って東海道を東進して、江戸に戻って来るという旅行計画を立案したのです。もちろんスコッチテリアの愛犬トビィーも一緒です。 . . . 本文を読む
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2008.6月「吉原宿~村山浅間神社」取材旅行 その6

2008-06-25 06:18:39 | Weblog
前回の記事で、興法寺側がオールコック一行をもてなすために、風呂(五右衛門風呂か)や蚊帳、そして椅子などを用意したことを記しましたが、その椅子は小さな桶の上に厚い板を打ち付け、その上に綿入れの掛けぶとんを二つ折りにしてかぶせたものでした。その数六つ。ということからオールコックを始めとする英国人一行は6名だとしましたが、『大君の都』を読み直してみると、一行の数は8人であったことが判明します(『大君の都(中)P149』)。すなわち、「八名からなるわれわれ一行が、その途上の首都から一日の行程のところにある指定集合地の神奈川のイギリス領事館(浄瀧寺〔じょうりゅうじ〕─鮎川註)を出発したのは、九月四日(万延元年七月十九日)であった。」興法寺側は幕府から事前に報告を受けていたはず。ではなぜ「六つ」の桶だったのか。考えられるのは個別の椅子ではなく、六つの小さな桶に長い厚板を打ち付けた長椅子ではなかったか、ということ。これもほんとうのところはわからない。オールコック自身の記すところですから、やはり8人が正しいのでしょう。その内訳は、というと全員の名前は今のところわからない。オールコックは、「公使館の常任館員」と、ほかにロビンソンとヴィーチの二人が加わっていたとしています。ロビンソンは、「科学的観察のために若干の器具を準備していたインド海軍」の「大尉」。ヴィーチは、「有名なロンドンの園芸家の息子」で「植物学者」でした。このロビンソン大尉は、箱根や富士山などで寒暖計を使って高度を測定したり、アネロイド晴雨計で気圧を測定したりしています。またヴィーチは、東海道筋や箱根山中、また富士山において日本の珍しい植物の採集をしています。ではあとの「公使館の常任館員」はだれだったのかは、『大君の都』の該当部分を読んでもわからない。この8名のイギリス人一行に、幕府側の副奉行1名、役人3ないし4名。そして目付1名。彼らの従者たち。さらに日本人通訳、別当(馬曳き)、人足などを含めると総勢100名以上の大行列でした。イギリス人たちはみな西洋馬に跨っています。副奉行を始めとする役人たちは、それぞれ駕籠(乗物)に乗っている。荷物を運搬するための馬もいる。馬の数は30頭以上。これだけの大行列が、神奈川宿のイギリス領事館を出発し、1860年9月9日(万延元年7月24日)の夕刻、村山の興法寺に到着したのです。 . . . 本文を読む
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2008.6月「吉原宿~村山浅間神社」取材旅行 その5

2008-06-24 05:33:13 | Weblog
村山の興法寺(現在の村山浅間神社)での、オールコック一行の一泊の様子はいかなるものであったか。『大君の都』には詳しく描かれています。興法寺側は、事前に幕府から連絡を受けていたと見え、周到に受け入れ体制を整えていました。僧侶たちは一行を平身低頭して出迎え、仏壇がある寺の内部を二つに仕切り、オールコック用の個室を用意していました。用意していたのは部屋ばかりでなく、特別の風呂や馬屋の設備なども整えていました。風呂はオールコックの記述によるとどうも五右衛門風呂のように思われます。この五右衛門風呂にオールコックはいたく感心しています。「日本人は、最小の材料を用い、しかももっともかんたんな手段でもっとも有用な目的を達成するという完全な才能をもっている─これは大いなる長所だ。」 そのことの具体例の一つが五右衛門風呂でした。彼は、後日、この浴槽のひとつの断面図を本国の地理学協会へ送りました。具体例のもう一つの例としてオールコックが挙げるのは蚊帳(かや)。道中宿泊した東海道の本陣ではどこでもオールコックらイギリス人のために蚊帳が吊られました。これがなかったならば、「われわれは蚊にむさぼり食われたことであろう」とオールコックは記しています。おそらく興法寺の宿所においてもオールコックらのために蚊帳が用意されていたのでしょう。オールコックは、その蚊帳のすそを蚊が入らないように上下にすばやく何度かはたいて蚊帳の中に入り、その蚊帳の四方のすそを綿入れの掛けぶとんか敷きぶとんの下へ押し込んだことでしょう。また彼ら一行を平身低頭して向かえた僧侶たちの長(「親切な僧院長)」は、西洋人一行のために即席の椅子を用意していました。それは、六つの小さな桶の上に厚い板を打ちつけ、その上に綿入れの掛けぶとんを二つ折りにしてクッションにするというものでした。これもオールコックにとっては、日本人の、最小の材料で、しかももっとも簡単な手段で、もっとも有用な目的を達成するという才能の具体例の一つでした。「六つの小さな桶」を利用したということは、イギリス人一行はオールコックを含めて6人であったということになる。オールコックら6人は、その即席の椅子に座って、用意された夕食を摂り、また翌朝の朝食を摂ったのです。 . . . 本文を読む
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2008.6月「吉原宿~村山浅間神社」取材旅行 その4

2008-06-23 20:19:11 | Weblog
吉原宿から大宮を経て村山の興法寺(現在の村山浅間神社)まで、沿道の風景はどうであったかというと、オールコックはその著書『大君の都』にほとんど何も描いていません。「午後二時ごろに荷物が送り出されて、例の僧院のすぐ近くの大宮に向けて出発し、途中で儀礼と感謝のために僧院を訪れたのちに、森山〔村山のこと─鮎川註〕へすすんでいった」。これだけです。村山までおよそ6時間ほどの行程であったはずなのに、何の記述もない。台風の風は次第に弱まっていたとはいえ、まだ雨は激しく降り続いていたのでしょうか。強いて記述を探してみると、次のような文章が見つかりました。「最初、われわれは穀物が波打っている田畑や一面に草が高くおいしげった草地のあいだをすすんでいった。だがやがて、森林の迷路にはいってしまった。森林はふもとをぐるりととり囲み、山腹まで高くはいあがって、そびえたつ高峰の両肩をまるでライオンのもじゃもじゃのたてがみのようにおおい、威厳を増大させている。はじめのうちは、大きく成長したカシ、マツ、ブナなどの木の大きな幹を見つけ、例の台風が吹き荒れたことをしめす多くの恐ろしい痕跡に出くわした。」この文章からすると、最初は穀物が波打つ田畑や一面に草が高く生い茂る草地の間を進み、やがてカシやマツ、ブナなどの大木が密集する樹林地帯に入ったことになる。大宮と村山についての事前の知識は、「この二つの小村は山〔富士山のこと─鮎川註〕のふもとに位置していて、いくつかの重要な寺や僧院がある」といったぐらいのものであったようです。登頂を果たして吉原に戻る時はどうであったかというと、これも全く描写がない。「九月十三日〔万延元年七月二十八日〕の朝、われわれは大宮の親切な宿所を出発した。われわれを富士山のすその斜面まで追いかけてきた雨はいぜんとして降りつづいていたが、わたしは前進することにきめた。そこで九時ごろに馬に乗って出発し、吉原をへて、昼食のために原へ立ち寄った。」以上のみ。沿道のなんの描写もない。しかし、「われわれの道中で人の住んでいる最後の場所である」村山の興法寺に着いてからのことについては、俄然、記述が詳しくなって面白くなります。 . . . 本文を読む
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2008.6月「吉原宿~村山浅間神社」取材旅行 その3

2008-06-22 07:14:44 | Weblog
三島宿を出立したオールコック一行は、ほぼ一日中土砂降りの中を東海道を吉原に向かって進みました。雨のため一行の大半は、油紙のマント(カッパ)や農民用の藁(わら)のマント(蓑〔みの〕)をまとっている。先導するのは大名の役人の護衛隊(おそらく沼津藩士)。沼津・原を経て吉原に到着しますが、その道中は、長い杉並木の一本道で、左手の松原から砕ける波の大きなうなり声が聞こえました。この土砂降りの雨は、台風襲来の前触れで、吉原の宿所に入って夜の10時頃、恐ろしい強風が滝のような雨を伴って襲来してきました。オールコック一行が吉原の宿所に到着して間もなく、夕方に「大宮の僧院長の代理人」が雨をついて大宮からやってきて、その「僧院」(これは富士山本宮浅間神社〔現在の富士宮本宮浅間大社〕のこと)を翌日の一行の休息所にしてほしいと懇願をします。つまり村山に直進しないで、大宮の浅間神社に立ち寄ってから村山へ向かうようにと要請したのです。このことは本宮浅間神社にとって大事なことでした。なぜなら、本宮浅間神社に参詣した上で村山へ向かうことが、彼らにとっては富士登山の正式な(正しい)ルートであったから。本宮浅間神社を、駐日英国大使オールコックに無視されれば、それは彼らの沽券(こけん)や威信に関わることだったのです。ということで翌日、要請を受け入れたオールコック一行が大宮に向かって出立しようとしたところ、相変わらず台風による暴風が激しく、早朝の出発を断念。昼食を摂った後、午後2時頃にようやく吉原の宿所を出発します。吉原から東海道を進み、間もなく「十字路」(四辻)を大宮の方へ右折します。この「十字路」の場所はどこかというと、小潤井川に架かる四間橋の手前に吉原宿の西木戸(上方見付)がありましたが、そこを抜けてすぐに右折する道がいわゆる「大宮道」(伝法村までは「村山道」と重なる・これが大宮へ向かう当時の「本道」)であったことを考えると、四間橋手前の四辻ということになる。そう考えると、先に、和田川を渡って源太坂を上る道筋をオールコック一行が通った道ではないかと推測しましたが、それは間違いということになります。おそらくオールコックは、ここの四辻を右折し、伝法村(ここから「村山道」が分岐)→厚原→久沢→若宮→下小泉→欠畑を経て大宮に到着。富士山本宮浅間神社に立ち寄ってから村山の興法寺への道をたどったと思われます。 . . . 本文を読む
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2008.6月「吉原宿~村山浅間神社」取材旅行 その2

2008-06-21 07:42:26 | Weblog
ネット「富士山のまち ふじのみや」の「Ⅳ富士山大宮・村山口登山道旧道」によると、東海道から分かれて富士山に登るルートは一本ではない。東海道を西(上方方面)からやってきた登山者(「道者」〔どうじゃ〕という)は、富士川を渡って、岩本より高原・黒田を経て大宮(現在の富士宮市)に入り、そこの浅間神社に参詣した後、阿幸地・舞々木・賽の河原・粟倉・山辻を経て村山に向かったという。途中、岩本から山裾を迂回して潤井川と凡夫川を渡り村山へ出る近道もあったらしい。さて、では東海道を江戸方面からやってきた登山者はどういうルートをたどったのか。オールコックと幕府側随行員を含む総勢100人以上もの一行は、いったいどういうルートをたどったのか。先のネットの記述によると、東海道吉原宿からの登山道は、宿の西口より、伝法→厚原→久沢→若宮→下小泉→欠畑を経て大宮に出て、浅間神社に参詣して村山へ上るのが本道とされていたという。しかし江戸末期には、吉原から直接村山へ向かうルートがあったようで、それは、吉原→伝法→三ツ倉→穴ヶ原→鳥追窪を経て、現在の富士宮市の石原・横沢を通って村山へ達するもの。これを「村山道」(「むらやま道」)と言ったらしい。ということは、東海道から分かれて富士山に登るルートは、少なくとも四つはあったことになります。いずれも村山(興法寺・現在の村山浅間神社)を最後の登山口としています。村山から富士山頂に至る登山道の成立は定かではありませんが、室町時代の終わり頃にはここを大勢の登山者(「道者」)が利用していたことは確かなことです。では、オールコックは「本道」を利用したのか。「村山道」を利用したのか。それとも岩本から大宮を経て村山に向かったのか。『大君の都』によると、吉原宿に泊まったオールコック一行は、翌日の午後2時過ぎ、吉原の宿所を出立し、吉原の先の十字路で右折して大宮と村山(訳文では「森山」)へ通ずるルートをたどっています。つまり「本道」(伝法村までは「村山道」と重なる)を通って大宮に向かい、「途中で儀礼と感謝のために僧院を訪れたのちに」村山へ向かっているのです。そしてこの村山の興法寺で一泊した後、ここからさらに富士山の途中まで馬で登山道を登り、途中で馬から下りて歩いて頂上を目指したのです。頂上までの道案内に立ったのは「三名の勇ましそうな僧侶、すなわち『山伏(やまぶし)』」たちでした。 . . . 本文を読む
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2008.6月「吉原宿~村山浅間神社」取材旅行 その1

2008-06-20 05:37:54 | Weblog
富士山の南側すそ野にある村山浅間(せんげん)神社は、神奈川宿浄瀧寺(じょうりゅうじ・イギリス領事館)を富士山を目指して出発、東海道を西進したイギリス公使オールコック(1809~1897)をリーダーとした一行が、吉原宿で東海道を離れ、富士山に登るために1泊したところ。当時は神仏分離令の前ということもあって、ここは興法寺(こうぼうじ)というお寺でした。オールコック一行は、吉原宿から四辻を右折してまず大宮(現在の富士宮)へ向かい、そこから村山浅間神社への道をたどりました。この村山浅間神社(旧興法寺)はどういうところなのか、その道筋はどういう景色であったか…などを探りに、吉原中央駅(バスのターミナル駅)から村山浅間神社への道を歩いてみました。その道は、おそらく一本道で、道なりに進んでいけば大宮(富士宮)や村山に行けるだろうと思っていたのですが、下調べが不十分であったということもあって、道に迷いながら、また土地の人にしばしばお聞きしながら、さらにまわりの景色(とくに富士山の位置)を常に確認しながら、歩くことになりました。ということで、オールコック一行が歩いた(正確には西洋馬に乗って進んだ)ルートとはおそらくあまり重ならない(一部重なりますが)。しかし、脇道にそれたり道に迷ったりしたことにより、おもしろい発見も多々ありました。では、何回かに渡って取材の報告をしましょう。 . . . 本文を読む
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千駄木・上野・両国 その8

2008-06-18 05:35:07 | Weblog
JR両国駅の近くには隅田川が流れ、両国橋が架かっています。「両国」というのは、武蔵国と下総国の二つの国という意味であり、両国橋はこの二つの国をつなぐということで命名された橋。初めて架けられたのは万治2年(1659年)とも、寛文元年(1661年)とも言われていますが、その架橋のきっかけとなったのは、明暦3年(1657年)に起こった「明暦の大火」(「振り袖火事」)であったという。火事で逃げまどい、隅田川のほとりに追いつめられた多数の人々(数万人)が、川を越えられずに(橋がなかったため)焼け死んだり溺死(できし)したりしたらしい。その対策として架けられたのが両国橋。それ以後、隅田川の東側にも武家屋敷や町屋、寺社などが建てられ、江戸の町はさらに拡大していきました。現在の両国橋は昭和7年(1932年)の竣工。ということは昭和20年(1945年)3月8日の「東京大空襲」を経験していることになります。この大空襲で亡くなった人々はおよそ10万人。明暦の大火で亡くなった人々の数とほぼ同じでした。両国国技館や江戸東京博物館、また旧安田庭園、東京水辺ライン両国発着場(水上バスのりば)などは、この両国橋や両国駅の近くにあります。 . . . 本文を読む
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千駄木・上野・両国 その7

2008-06-17 05:34:24 | Weblog
国立科学博物館で行われていた「ダーウィン展」については詳しいことは記しません。NHKの番組で「ダーウィンが来た」というのをやっているためか、親子連れや若い人たちの姿が多く見られました。立ち止まって展示物を熱心に観賞したり案内文を読む人たちで、「混雑」していると言った方がいいほど。チャールズ・ダーウィン(1809~1882)が、英国海軍の軍艦ビーグル号で世界一周の航海に出たのは1831年12月、22歳の時。それから1836年10月までおよそ5年を「新世界」の探索に費やします。とくに南アメリカ大陸やガラパゴス諸島の自然は、彼に大きな影響を与えました。この5年間で彼が書き記したノートは数十冊に及びました。そのノートから彼の進化論が生み出されたのです。1842年、ダーウィン一家は、ロンドン郊外のダウンという小さな村に転居しますが、ダーウィンはすぐに近くに「サンドウォーク」という小道を作り、それから亡くなるまでの40年間、毎日のように正午になるとその「サンドウォーク」に散歩に出掛けました。この小道は、ダーウィンにとって「思索の小道」だったのです。ダーウィンの『種の起源』や『人間の由来』といった著作は、この「サンドウォーク」の散歩中の思索やひらめきが結実したものと、私には思われます。このダーウィンの進化論が日本に紹介されたのは、明治7年(1874年)の『北郷談』によるという。明治7年に東京医学校教師(御雇い外国人教師)であるフランツ・ヒルゲンドルフが進化論を講じたといいますが、もっとも大きな役割を果たしたのがやはり御雇い外国人教師で東京帝国大学教授のエドワード・S・モース。その弟子である石川千代松は、『動物進化論』(モールス口述とある)『進化新論』を著しています。「進化」という訳語は、加藤弘之の考案したものであるらしい。「この世の全ての存在は神が創造した」「人間は自然の一部ではなく特別な存在である」といったキリスト教的自然観が、このダーウィンの進化論によって決定的に覆されることになりましたが、それはビーグル号航海での数十冊のノートの記録(現場での五感をフルに使った克明な観察)およびサンドウォークの散歩における思索とひらめきによって生み出されたものだと私には思われました。 . . . 本文を読む
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千駄木・上野・両国 その6

2008-06-16 05:27:58 | Weblog
近世文化・比較文化がご専門の田中優子さんの父親は、根津清水町で生まれたという。この「根津清水町」というのは、「根津神社の門前町通り西側裏で、現在の根津小学校の東裏」にあたる。祖父の代に、新潟の小国から東京に出て来て、根津清水町に落ち着いたらしい。田中さんは、この根津小学校裏あたりの「お化け階段」を下り、根津神社境内を歩いてその裏門を潜り、日本医科大学の間を抜けて「藪下通り」に入ります(『江戸を歩く』田中優子/写真・石山貴美子〔集英社新書〕)。そして観潮楼の前を通って、団子坂の上に出ます。田中さんによると、江戸時代、染井の職人が菊細工を作って寺で参拝客に見せていたが、明治になってそれが団子坂に移ったために、団子坂と言えば菊人形というほどに有名になったのだという。江戸川乱歩が、この団子坂で古本屋をしていたというのは、この本の「根津・千駄木界隈」の章による新知見でした。「根津」という地名は、忍岡(しのぶのおか=上野の山)や向丘(むこうがおか=根津神社の西側)の付け根の津(港)という意味であるらしく、海水あるいは湖沼がかつてきこの辺りまで入り込んでいたようです。それが土砂の堆積と海水の後退によって、不忍池ばかりを残すかたちとなった(室町時代に入ってから)、というのも田中さんの記すところです。 . . . 本文を読む
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千駄木・上野・両国 その5

2008-06-15 06:17:15 | Weblog
海野弘さんの『東京風景史の人々』(中公新書)という本がありますが、それに「夏目漱石と都市」という章があります(P202~215)。その中に「『吾輩は猫である』で、〈猫〉の視点を設定することで、ほとんどそれまで注目されなかった街の裏側、裏庭といった都市のディテイルが浮かびあがってくる。これは変りつつある東京への新しいまなざしなのである」という記述があります。また「漱石は変りゆく東京を描き出そうとした。彼は人間の視線より低い〈猫〉の視線を選ぶことにおいて、なにげない都市のディテイルを発見した」とも。では、漱石の時代に東京がどのように変わりつつあったかと言えば、それは「家がたてこんできて、その裏側を細かく仕切るようにな」ったことや、「大通りの裏側に路地が迷路のように走り、そこをぶらぶらする都市遊歩者があらわれ」たりしたことだと海野さんは説く。「〈猫〉は都市遊歩者」である。「古い建物と新しい建物がモザイク状に入りこんでいる」「面白」い「路地」を、〈猫〉は歩くのですが、そのように考えてみると、夏目漱石も森鴎外も、〈猫〉=都市(東京)遊歩者であったと言えるのかも知れない。 . . . 本文を読む
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千駄木・上野・両国 その4

2008-06-13 03:30:25 | Weblog
団子坂の菊見の賑わいは、例えば『東京風俗志』平出鏗(こう)次郎(ちくま学芸文庫)に次のように描かれています。「菊は駒込団子阪著しく、皆花戸の養へる所にして、ただ花の見事なるをこそ賞美すべけれ(中略)。いづれも戸毎に舞台を構え、当年興行の演劇の芸題などを取りて、菊にて人形を作り、それぞれ俳優の顔に似せ、廻り舞台、せり上げ道具を設くるなど、さまざまに意匠を凝らせり。概(おおむ)ね資金幾千円を費すといへり。されば、かかるたわいもなき作り物、却(かえ)つて主となりて、花壇に植ゑつけられたるは、ほとんど客となりたり。十月の季より始まり、十一月の下旬に至る。小春日和のうちつづくに、人の遊処に乏しき折柄なれば、自ら集ひ来りて雑沓を極む。」(下・P272~274)P273には、「団子阪菊人形」の挿絵があり、店小屋の名前は「金華円」。看板には「植冨」とある。お寺の門のようなものがあり、その門前と門の上に侍姿の菊人形が設えてある。そして通りにはそれを観賞している着物姿の多数の男女たち。立っている者もいれば、縁台に腰掛けている者も。「布引の瀑布」「山門五三(?)」「弁天小僧」などの展示物の題目が見られ、また右手下には「大人?銭小人?銭」と書かれ、見物を勧める「芝居の木戸番」のような者が座っている。坂は階段になっていて、通りの上にはヨシズが張ってあって、提灯が数珠繋ぎにぶらさがっている。この雑踏の中を、森鴎外も夏目漱石も、また高村光太郎も歩いたことがあるのです。団子坂が、「団子坂と言えば菊人形」といわれるほど有名になったのは明治20年代であるらしい。孔雀や鳳凰をかたどったものなどいろいろありましたが、なかでも人気があったのは、『東京風俗志』に記されるように、「勧進帳」など歌舞伎の舞台を模したものでした。ここは二葉亭四迷も歩いていて、『浮雲』の中で菊人形の様子を描いています。平出が『東京風俗志』を執筆したのは明治31年(1898年)のこと。ということは、平出の描く東京は、鴎外の『青年』よりも10年ほど前の東京ということになる。この団子坂の菊人形の人気も、明治40年代に入ると、そのほかの娯楽が盛んになったり、また両国の国技館で電気仕掛けの菊人形が作られるようになったりして、次第に衰えていったという。『青年』の小泉純一の見た菊人形の小屋は、その衰えかかった時期のものであったのです。 . . . 本文を読む
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千駄木・上野・両国 その3

2008-06-12 05:52:22 | Weblog
根津神社から「藪下通り」を通って「観潮楼」の門前を通過し、団子坂を下りて右折し「上野の山」の方へ向かう道筋については、鴎外の『青年』の最初の部分に出てきます。この道は鴎外が毎日のようによく歩いた道であるから、その描写は詳細を極めています。 『青年』が、雑誌『スバル』に掲載され発行され始めたのは、明治43年(1910年)の3月1日。翌年の明治44年(1901年)8月1日に完結していますから、『青年』に描かれている東京は、明治末年の東京であると考えていい。その頃の「藪下通り」は、どうであったか。鴎外の書くところをもとに、団子坂下から根津神社門前まで、私が歩いた道を再現してみたいと思います。 . . . 本文を読む
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