鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

佐渡市相川「京町通り」 その14

2019-02-24 06:45:30 | Weblog

  脇道を入っていくと「次助町」と刻まれた案内標柱があり、それには「鉱山労働者の居住跡」とありました。

 付近には住宅の基礎石と思われる苔むした石垣があちこちに露出しており、ここにも集落があったことを示しています。

 集落の名前は「次助町」であり、鉱山労働者の居住区でした。

 その標柱の右側に菩薩像、標柱の向こう側に六地蔵がありました。これらは比較的新しいもので、菩薩像には新しい花が備えられロウソクとお線香も立っています。六地蔵にはそれぞれ赤い帽子とよだれ掛けがほどこされています。

 また「普明の鐘」と記された案内板があり、平井晩村(1884~1919)という前橋市出身の民謡詩人が明治36年に作った「佐渡が島」という歌が紹介されていました。

 その説明に、「金採掘の労働者は信越・北陸を中心に全国各地から渡ってきて多くは鉱山の土になりました」とあり、さきほどの「諏訪町」の案内標柱や浄土真宗の万照寺などからもうかがえるように、佐渡へは全国各地から鉱山労働者がやってきますが、中でも信越や北陸などの出身者が多かったことがわかります。

 歌に「金の鈿(かんざし) 玉の櫛 桐の箪笥に五百両」とあるように一攫千金を夢見て佐渡に渡った若者もいたことでしょう。

 「←40m 無宿人供養塔」と記された案内標示にしたがってさらに奥へと進むと、いきなり広い空き地が現れ、そこに供養塔や墓石などが空き地右手に並んでいました。

 案内板も立っていて、それには「水替人足(無宿)の墓 次助町」とありました。

 この空き地があるところも「次助町」であり、どうやら「京町通り」から折れて入る(大工町からだと「京町通り」から右へ折れて入っていく)脇道の両側にずらりと人家が並んでおり、それが「次助町」であったようです。

 「大工町」や「諏訪町」も鉱山労働者(金穿り人足など)の居住していた区域ですが、それは相川町のメインルートである「京町通り」の両側に展開していました。

 それとは異なり、この「次助町」は「京町通り」から折れて奥へと入っていく脇道の両側に展開しています。

 「水替人足(無宿)の墓」と記された案内板によると、その墓は嘉永6年(1853年─鮎川)に建立されたもので、坑内作業中に死んだ二十八人の生国、戒名、名前、年齢が刻まれているとのこと。

 坑内の水をくみ上げるため、江戸・大坂・長崎の天領地から千八百余人の無宿者が目籠で送られたが、それらの無宿者は失職・流浪の果てに幕府の治安対策のために捕えられた若者たちであり、ほとんどが相川で死んだ、といったことが記されていました。

 坑内の事故で死んだ無宿人たちの墓であり、それは幕末に建立されたものであることがわかりました。

 坑内事故で死んだ28名の無宿人一人ひとりの「生国・戒名・名前・年齢」が刻まれているということに驚きを覚えました。

 無宿人一人ひとりの「生国」「年齢」が記録されていたということであり、また「戒名」が付けられたということは、それを付けたお寺の住職がいたということを示しているからです。

 私は最初、「無宿人」たちはこの「無宿人の墓」があるあたりに住んでいたものと思っていましたが、実はそうではなく、矢来(やらい)で囲まれた「水替人足小屋」に差配人の管理監視のもとに集団生活を送っていたこと、またその小屋は坑道(間歩〔まぶ〕)の入口近くにあったことを知りました。

 従って「大工町」「諏訪町」「次助町」は幕末において一般鉱山労働者の居住地であって、「無宿人」の居住地ではありませんでした。

 ではなぜ、ここ「次助町」に無宿人の墓が建てられたのか。またそれらに「生国・戒名・名前・年齢」までしっかり刻まれたのか、そういった疑問が湧いてきました。

 説明板には、スペースの問題もあってか、それに関する説明はありませんでした。

                     続く



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