鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士山宝永大爆発と、原発事故 その4

2011-06-29 05:20:22 | Weblog
5月6日に、政府は静岡県御前崎市にある「浜岡原子力発電所」の全面停止要請を中部電力に対して出しました。御前崎市の市長は、「原発が危険なら、なぜ浜岡原発だけでなく、全国にある原発を全面停止しないのか」といった趣旨の発言をされましたが、なぜ浜岡なのかと言えば、それは東京を中心とする首都圏対策であることは明らかです。江戸時代、北関東では「利根川東遷」事業が大規模に進められましたが、それはかつて言われたように江戸や関東平野を洪水の被害から守るためのもの(つまり治水のためのもの)ではなく、「将軍お膝元」である巨大都市江戸の消費生活を支える「水運」上の観点から進められたものでした。しかし明治以降、政府は、首都東京を水害から守る観点から、利根川の大規模な改修工事や荒川放水路、さらに江戸川放水路の開削といった大規模な土木工事を展開していきました。荒川放水路の堤防は、都心側が高くてその幅も厚く、反対側が低くてその幅もうすくなっているという話がありますが、堤防は被害が大きくなる区域の側を高くし(本堤)、そうでない区域の側は低くしてある(小堤)のが一般的であるということで、荒川放水路の堤防は最終的には都心側を守るためのものであると言えるようです。日本の「首都東京」を水害から守るというのが、利根川の改修工事や、荒川放水路・江戸川放水路の開削といった大事業の大目的であったのは明らかです。菊池寛は大正6年(1917年)の8月、『時事新報』に掲載した「大利根の流れ」で、「権現堂堤こそ帝都を利根の脅威から護つて居る鉄壁の保証である、一度この堤が決すると、東京迄は坦々として降下して行く平野を、濁水は瞬刻にして殺到するであらう」と記しています。「権現堂堤」とは、現在の埼玉県幸手市にあり、かつては利根川本流であった権現堂川(現在は閉め切られていて河川ではなくなっている)の堤防のことで、かつての利根川から江戸川が分岐する地点からやや上流にあります。関宿を歩いた時、このあたりが明治になって以降、河川(利根川・江戸川)の流路変更を伴う大改修工事が行われたことを知りましたが、権現堂堤をはじめとするこのあたりの利根川(旧利根川)の治水工事は、菊池寛の言うように「帝都を利根の脅威から護つて居る鉄壁の保証」であったのです。 . . . 本文を読む
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富士山宝永大爆発と、原発事故 その3

2011-06-27 05:42:28 | Weblog
6月25日の土曜日、用事があって伊勢原市内経由で自宅に戻る途中、たまたま県道60号線(厚木~清川線)の及川(おいかわ)付近で「及川富士塚」と記されたバス停が目に入りました。あまり車で通る路線ではないものの、今まで何度か通っているはずなのに、「及川富士塚」というバス停に気付きませんでした。このあたりに富士塚が残っているのだろうか、と気になって付近に車を停め、「及川富士塚」のバス停まで戻って、その付近を歩いてみました。 . . . 本文を読む
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富士山宝永大爆発と、原発事故 その2

2011-06-26 05:20:25 | Weblog
大音響、地鳴りとともに火口直下に上昇したマグマは、ほぼ10億立方mの富士山の山体の一部をえぐりとるように噴き飛ばし、真っ赤な炎を上げて、灼熱の火山弾まじりの岩や砂を空高く噴き上げ続けました。噴火直後の数時間、噴出するテフラ(岩や砂など噴出物の総称)は白色であったものの、その後は黒色のものに変化して、空をテフラに覆われた地域は日中というのに闇夜のようになりました。遠く離れた江戸の町も、新井白石が蝋燭を灯して講義をしなければならなかったように、流れて来たテフラのために暗くなりました。しかし降灰は、富士山の南の東海道筋、あるいは北の郡内地方や道志川流域、西側の富士川流域では全くありませんでした。そういうこともあって、富士山大爆発を幕府に知らせる第一報は、駿河国富士郡の東海道吉原宿の問屋年寄から出されたものでした。そこからは富士山鳴動後まもなく、雪と木立の境あたりからおびだだしい噴煙が上がるのを目撃することができたのです。しかし富士山東麓の村々はというと、灼熱の火山弾とおびただしい量の降灰に見舞われて、ほとんどが壊滅状態になっていました。 . . . 本文を読む
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富士山宝永大爆発と、原発事故 その1

2011-06-24 05:32:10 | Weblog
6月22日に、国の原子力安全委員会が安全指針を大幅に見直す作業を始めたとの報道に接しました。これまでの「防災対策指針」では、原子力災害時に、住民に対して避難か屋内退避の措置がとられる範囲の目安は「8キロから10キロ」であったという。しかし、福島第一原発事故による避難は、その防災対策指針の想定を簡単に超えてしまい、現実には30kmを超える範囲でも避難の措置がとられています。それを踏まえての大幅な見直し作業が始まったということですが、「8キロから10キロ」という範囲の設定であったということに、正直言って、私は唖然としました。これが英知の粋を集めたはずの、専門家集団が出した値であった、ということに驚いたのです。というのも、その時私が想起したのは、富士山宝永大爆発による火山灰の降下のことであったからです。宝永4年の11月23日(西暦では1707年の12月16日)に富士山が爆発した時に、江戸にいた新井白石が、白い降灰のために草木がみな白くなり、外が暗くなってしまったために蝋燭を灯して講義をしたという記述(『折たく柴の記』)を残しています。火山灰は偏西風に乗って、その日のうちに江戸まで届いており、白石の記述では正午から午後8時まで降り、その後も、黒い灰に変わって大量に降っているのです。かつて永原慶二さんの『富士山宝永大爆発』を読んだ時、私は「もしこのような火山爆発による降灰が現在起こったら」とは想定してみましたが、原発事故と重ね合わせるような考えは全くありませんでした。しかし福島第一原発事故が起こってからは、私は富士山宝永大爆発と原発事故を重ね合わせて考えてみるようになりました。その視点から考えてみても、「8キロから10キロ」という「防災対策の指針」で示されていた範囲は、唖然とするほどの想定外のものでした。 . . . 本文を読む
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2011.6月取材旅行「木下~十里~神崎」その最終回

2011-06-20 05:48:44 | Weblog
ここに掲載した絵は、崋山の『四州真景』の「河嵜明神」(図七)の一部。原画はもっと横に長いもの。下総台地が利根川の流れの向こうに左右に延びています。その下総台地が利根川とぶつかるところ、つまり左端に独立した島のように見える丘陵が神崎神社のあるところ。その丘陵とその右側の下総台地との手前に杭が岸辺にたくさん並んでいるところが「神崎河岸」ということになります。図八の原画をよく見てみると、神崎神社のある丘陵(崋山は「河嵜明神山」としています)の左側奥に帆柱を立てた船(おそらく高瀬船)が浮かんでおり、そこにも杭が描かれていて「河岸」と記されていますが、これは対岸の「押砂河岸」のこと。さて帆に風を満々と受けた高瀬船は、図七において「神崎河岸」の手前の利根川を航行しています。「利根川高瀬船」の特色の一つは、長期航行のため船首付近に板屋根で覆われた「世事(せいじ)」の間があることですが、崋山はそれを的確に描いています。この絵を見ても、かつての利根川の流れは下総台地にもう少し寄ったところにあったことがわかります。 . . . 本文を読む
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2011.6月取材旅行「木下~十里~神崎」その9

2011-06-19 05:50:51 | Weblog
この「四ツ手網」漁を広重の『名所江戸百景』で見たことがあると思って、調べてみると、「八つ見のはし」にそれが描かれていました。「八つ見の橋」とは、正式には「一石橋」(いっこくばし)のこと。この橋からは江戸城内の銭瓶橋や、背後には日本橋や江戸橋など、一石橋を含めて八つの橋が見えたから、「八つ見のはし」とも呼ばれたとのこと。手前の番傘が見える橋が「日本橋川」に架かる一石橋で、中央下に見える橋が「道三堀」に架かる銭瓶橋。銭瓶橋の向こうに小さく見える橋がやはり「道三堀」に架かる道三橋。船が浮かんでいるのが江戸城の御堀(外堀)。銭瓶橋の向こう「道三堀」の左側の武家屋敷は、上野館林藩や肥後熊本藩の上屋敷。四角い網が広げられた「四ツ手網」漁をする船は、銭瓶橋の手前、外堀の石垣の手前に浮かんでいます。御堀を左に行けばすぐに呉服橋があり、右へ行けば常盤橋。石垣の上には「大番所」がありましたが、そのすぐ下の御堀で、「四ツ手網」漁が行われていたことになります。その船の手前の、積荷を載せた荷船は、まもなく呉服橋を潜って数寄屋橋方面へ向かおうとしています。「四ツ手網」漁は、江戸市内の御堀(外堀)でも行われていたことが、この広重の絵からわかります。獲っている魚は何か。コイやフナあたりだろうか。それともウナギでしょうか。 . . . 本文を読む
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2011.6月取材旅行「木下~十里~神崎」その8

2011-06-17 05:13:10 | Weblog
「四ツ手網」とは、竹竿を十文字に交差させて組み、それぞれの竹の先端に正方形の網を結びつけたもの。これをもう1本の竹竿に取り付けて、梃子(てこ)の原理で「四ツ手網」全体を引き上げて、網の上に集まった魚をとる漁法を「四ツ手網」漁という。網の上には餌を置いて魚をおびき寄せるわけですが、どういう魚をとるかといえば、コイ、フナ、ナマズ、ウナギ、白魚など。利根川は、かつてはこの「四ツ手網」漁が盛んな場所の一つであったという。崋山の絵を見てみると、漁師は船の中に腰を下ろしています。おそらく船底に座り、足先を船べりに押し当てて、渾身の力で「四ツ手網」を川面から引き上げたところ。では、何をとっているのか、というと、この漁をしている場所が丘陵に近い川岸であり、時期としては7月初旬(旧暦)であることを考えると、私はウナギをとっているのではないかと推測します。崋山は、滑川観音がその麓にある丘陵を描きながらも、その視野の一郭に「四ツ手網」漁をする漁師を捉えており、その漁師が「四ツ手網」を引き上げて、四角い網全体が広がった瞬間を的確に描いています。絵から察すると、この「四ツ手網」の一辺は3メートルほどはあるようです。 . . . 本文を読む
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2011.6月取材旅行「木下~十里~神崎」その7

2011-06-15 05:40:45 | Weblog
崋山の『四州真景』の第二巻図五が「利刀、常州、十里」で、図六は「滑川観音」。図七は「河嵜明神」で、図八が「河嵜明神山、河岸」。「滑川」は「なめがわ」と読み、「河嵜」は「神崎」が正しく、「こうざき」と読む。木下(きおろし)河岸を出て、利根川左岸、すなわち「常州」側の集落の風景に興趣を感じていた崋山は、「十里」を過ぎた後、今度は利根川右岸の風景に興趣を感じ始めたようだ。「滑川観音」も「神崎明神」も、利根川南岸にあるからです。なぜ視点を移したかというと、左へとゆるやかにカーブする利根川の流れの先に、木下河岸を出て以来今まで見えていなかった緑濃い丘陵が、ふたたび見えてきたからではないか。「滑川観音」はその丘陵のふもとにあり、その先の「神崎明神」は、遠くからはまるで独立した島のように見える、川べりの丘陵の上にある。崋山の乗った茶船は、その「滑川観音」がふもとにある丘陵を、右手ほんそばに見て進み、それからしばらくして「神崎」の河岸に到着します。その河岸を下りてすぐ目の前の丘陵の上に「神崎明神」がある。この3枚の絵を見てみると、それぞれに船が描かれています。図六には「四ツ手網」漁をする舟、図七には白い帆に風を受けて航行する「高瀬船」、図八には神崎河岸に碇泊する帆柱を立てた「高瀬船」が描かれています。図七に描かれた「高瀬船」を見ると、崋山が「利根川高瀬船」の特徴をしっかりと捉えているのがわかり、彼のすぐれた観察力に驚かされます。 . . . 本文を読む
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2011.6月取材旅行「木下~十里~神崎」その6

2011-06-13 05:46:49 | Weblog
利根川水系には、崋山一行が木下茶船を利用した時、どれぐらいの「河岸」があったのだろう。『ふるさと牛堀 人と水の歴史』(牛堀町)によれば、元禄期に80余、幕末期に300余の河岸が利根川水系にあったという。『高瀬船』渡辺貢二(崙書房)によれば、「正式には、船着場と問屋と所属船があり、幕府の公認を受けた河港を『河岸』といった」とのこと。境や関宿、木下(きおろし)は、その条件を備えているから、正式な「河岸」と言えるが、幕府の公認を受けていない河岸場も多かったのではないか。『ふるさと牛堀 人と水の歴史』の「幕末期に300余」という数字は、正式な「河岸」の総数だろうか、それとも非正式のものも含めての総数なのかはよくわからない。いずれにしろ幕末期に300余の河岸が利根川水系にあったということは、崋山が通過した文政期には200以上はあったのではないだろうか。「十里」は正式な「河岸」とは言えないように思われますが、そのような小さな集落にも、崋山が描いた絵に見られるように、土手から川岸へと下りる坂道があり、川岸には杭が打ってあって荷船や小船などが停泊していました。物資を大量に輸送する場合は、利根川を利用するのが一番であるし、また川で漁をするのにも船が必要だし、川沿いの他所へ出掛けるにも船は必要。川沿い近辺の集落の人々にとって、川は生活に密着したものであったから、正式ではない小さな河岸は無数にあったのではないか。要するに船着場だけの機能をもった河岸。しかし船着場があるということで、その集落はそれなりの繁栄とうるおいはあったはずです。 . . . 本文を読む
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2011.6月取材旅行「木下~十里~神崎」その5

2011-06-12 07:33:57 | Weblog
崋山一行が乗った茶船は、背の低い松や背の高い篠の繁りや水田の広がりを見せる川岸沿いに進むうち、やがて「布鎌新田」の広大な中洲は尽きて、枝利根川が利根川本流と合流する地点に出ました。現在、そのあたりの北岸は「大利根飛行場」や「ニッソーCC」というゴルフ場がある河川敷となっており、その北側の堤防上を歩いている私にとっては、その合流点を見ることはできません。崋山は、「南滑川、源太、高岡、北は金江津、押砂、結佐、而船達河嵜」としていますが、「河嵜」とは「神崎(こうざき)」のことであり、その神崎までの間に、利根川の南岸に「滑川(なめがわ)」「源太」「高岡」の河岸があり、北岸に「金江津」「押砂」「結佐」の河岸があったことを記しています。現在、金江津と滑川との間の利根川には「常総大橋」が架かっており、またその手前には「長豊橋」が架かっていますが、その「長豊橋」の手前の北岸に、「十里(じゅうり)」という集落があります。崋山は北岸に展開する集落の風景を見続けていますが、もとよりその集落の一つ一つの名前を知っているわけではありません。それらの中で特に興趣を感じた集落を彼はスケッチするわけですが、おそらく茶船の船頭に集落の名前を尋ねたものと思われます。船頭が答えた「十里」という変わった地名に惹かれ、特に「十里」という文字を書き入れたのかも知れない。なぜそこが「十里」という地名なのか。私も興味を持っていたのですが、結局、その地名の由来はわかりませんでした。 . . . 本文を読む
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2011.6月取材旅行「木下~十里~神崎」その4

2011-06-11 06:28:58 | Weblog
芳賀徹さんは続けて次のように記しています。「溢れるように豊かな流れの上には、土手下の岸辺の杭にもやう小船や、帆を下ろした荷船が、ほんの数本の焦墨の線で描かれて、静かに休んでいる。土手上にも、家々のあたりにも人かげは見えない。どの家も、その家に住む者の生活の表情を濃く匂わせながら、この昼下がりの静寂のなかにしずまっている。向こうの夏木立ちから蝉しぐれだけが、河水を越えてここまで、そしていまこの絵をのぞきこむ私の耳もとまで、聞こえてくるような気さえする。」 芳賀さんは「人かげは見えない」としていますが、実際の絵では、右端の土手上に菅笠をかぶって佇(たたず)んでいる男が一人描かれています。腕組みをし、土手向こうに広がる水田の中の、土手へと続く一本道を見つめているのだろうか。もしこの男が、土手の坂道を下りた川岸に浮かぶ荷船の船頭であるとしたら、積荷を受け取りに来る人馬を待っているのだろうか。利根川堤防に沿って点々としている集落は、大きな樹木に囲まれ、その外側には広々とした水田が広がり、そして水田を突っ切ってまっすぐにその集落へとつながる一本道を持っています。その道は土手にぶつかって土手へと上がり、土手に上がれば利根川の流れを見晴るかすことのできる茶屋などがあって、そこから坂道があって河岸場へと下りるようになっています。利根川に沿って点々の並ぶ集落は、利根川の河川交通と深い関係を持っていたことがわかるのです。崋山の描くこの絵も、そのような集落の一つのたたずまいをスケッチしたものであったのです。 . . . 本文を読む
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2011.6月取材旅行「木下~十里~神崎」その3

2011-06-10 05:32:14 | Weblog
芳賀徹さんは、次のように記しています。「淡い緑をほどこした土手が長く連なる向こうに、藁屋根や瓦屋根の家々が五、六軒、なかば土手かげに沈むように立ち並んでいる。黒瓦の屋根を見せる大きい家も、その軒端は土手の線にすれすれである。その背後の高い緑の木のすがたも、左手から迫る木立ちも、また土手上の木や藪も、この集落をやわらかく包み、さらに深く集落を土手向こうに沈めるような気配だ。そしてそれだけ、土手の手前をゆるやかに行く利根の満々たる水量が、なんの描写もほどこされていないのに、一そう豊かに盛りあがるように感じとられる。崋山の巧妙な画面構成の感覚と、物や情景の本質をかえってあらわにする鋭敏な省筆とがもたらす効果である。」 実際の崋山の「利刀、常州、十里」の絵は、前回に紹介した写真のそれよりも、また芳賀徹さんの『渡辺崋山 優しい旅びと』のP71に掲載されている写真のそれよりも、さらに横に広い。左端には苫屋根を持つ茶船が描かれ、右端の土手には川岸から土手上へと上がるための坂道が描かれ、その坂道を上がった土手上のやや左手に1人の菅笠をかぶった男が佇(たたず)んでいます。坂道下の利根川べりを荷船が一艘浮かんでいますが、人が乗っていないから、この船はこの川べりに碇泊しているようです。その荷船の左側の土手にも坂道があり、その坂道を上がると茶屋らしき建物が建っています。土手上の男はその茶屋を見ているようにも、また土手向こうの水田や集落(十里の)を眺めているようにも見える。時刻は、午後2時から3時頃の間だろうか。真夏の炎天下、暑さのために静まり返ったような利根川北岸の風景です。 . . . 本文を読む
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2011.6月取材旅行「木下~十里~神崎」その2

2011-06-09 05:22:23 | Weblog
木下河岸を船が出ると、まもなく下流に見えてくる大きな中洲州が「布鎌新田」でした。山本忠良さんの「木下河岸と鮮魚輸送」によれば、その「布鎌新田」の南側の流れは「枝利根川」と言ったらしい。現在は将監(しょうげん)川となっており、北を流れる利根川との間に挟まれたこの地域は、印旛郡栄町となっています。地図を見ると、利根川の堤防沿いに、「西」「布田」「三和」「中谷」「北」などの地名があり、その「北」から対岸へと架かる「若草大橋」が延びています。対岸は茨城県であり、北相馬郡利根町や稲敷郡河内町となっています。崋山一行の乗った茶船(木下茶船)は、枝利根川(現在の将監川)ではなく利根川本流(布鎌新田)の北側を通っていたものと思われます。船の上で崋山はふたたび画帖を開き、利根川沿岸の風景を写生しています。その一枚が『四州真景図』の中の「利刀、常州、十里」の絵。「利刀」とは「利根」のこと。「常州」は「常陸国」のことであり、船から北側に見える土手(堤防)の向こうが「常州国」になる。「十里(じゅうり)」とは、「布鎌新田」のある広い中洲が終わってまもなく、左手にある集落で、現在の「長豊(ながとよ)橋」のやや手前になる。その「十里」の手前に「布鎌」という地名がありますが、これは「布鎌新田」と何らかの関係があるのだろうか。船から見た利根川北岸のかつての風景は、崋山が描くこのようなものであったのです。 . . . 本文を読む
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2011.6月取材旅行「木下~十里~神崎」その1

2011-06-08 04:51:13 | Weblog
木下(きおろし)河岸で茶船に乗った崋山一行は、いよいよ利根川の滔々たる流れに乗り出して、香取神宮の入口である津ノ宮河岸に向かって利根川を下っていきました。木下茶船は、白帆を立て苫屋根も付いた全長四間程(約7m)の8人乗りの船。木下河岸から、崋山らが立ち寄った神崎(こうざき)まではおよそ六里余(約25km)。神崎の「川口屋」で夕食を摂った後、神崎明神に詣でて、それからまた船に乗って津ノ宮河岸まで赴き、その河岸の旅籠「佐原屋」に宿泊しているから、神崎には遅くとも午後6時頃までには到着しているのではないか。とすると、崋山一行は木下河岸を午後1時ないし2時頃には出発しているということになります。木下茶船は、川の流れに乗り、さらに白帆に風を受けて、時速5~6kmの速さで利根川を下っていったものと推測されます。苫屋根によって直射日光が遮られ、大河の流れや両岸の景色を眺めながらの快適な船旅で、炎天下をただひたすら歩くよりもずっと楽であったことと思われます。その崋山がたどったコースを、現在、船で行くことはできないから、利根川の堤防の上を木下(きおろし)からまず神崎(こうざき)まで歩いてみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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木下(きおろし)河岸 その最終回

2011-06-01 06:12:36 | Weblog
木下河岸は、明治時代になっても蒸気船が就航するなど、川の駅としてさらに繁栄していきましたが、明治34年(1901年)の成田鉄道の開業や、明治末から大正時代にかけての利根川堤防の大改修工事などにより、その姿を大きく変貌させ、徐々に衰退の道を歩んでいきました。現在、木下河岸跡を眺めても、かつての木下河岸の姿を思い浮かべることは困難であり、また街道筋の町並みもかなり変化しており、歩いて眺めただけでは、かつての様子を窺い知ることさえなかなか難しい。となると、『利根川図誌』に描かれている木下河岸の姿や明治時代の古写真、さらに復元図や当時の文献資料、また研究論文や地元の方の話など、さまざまな史資料を参考にして、当時の姿を自分なりに再現していくしかありません。歩くことにより現場を踏むことはもちろん大切ですが、大きくその景観が変貌している場合、それだけで判断したり推定すると、大きな誤りをおかしてしまうことがあるのです。木下河岸の場合、利根川の堤防工事はやむを得ないとしても、手賀沼から続く「落堀」(おとしぼり)さえも埋め立ててしまったことはきわめて残念なことでした。江戸地廻り経済圏の交通上の要衝地としての木下河岸の歴史、印西市の繁栄の源となった木下河岸の重要な歴史的意味合いを、まるで抹消してしまおうという意図さえ感じられるほどの土木工事ではなかったか。その地域の発展が何に由来していたのか、どういう人々の生業(なりわい)の集積によって歴史や文化が成り立って行ったのか、そういうことに思いを致さない人々による土木工事が、とくに昭和30年代以後、全国いたるところで進められていきました。その具体例の一つが、この「木下河岸」であるように私には思われました。 . . . 本文を読む
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