鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その4 

2013-05-31 05:41:59 | Weblog
『金井烏洲』しの木弘明(群馬県文化事業振興会)によれば、金井烏洲(うじゅう)は天保2年(1831年)の暮れ、田島梅陵と二人で島村を出立し、江戸→伊勢→奈良→京都→讃岐→広島へと旅をし、その西遊の際に中国画家の画法を知ったという。西遊に出立した時烏洲は36歳。崋山が烏洲の案内で高島村の伊丹新左衛門宅へ泊まったのもこの年の10月29日で、この時崋山は39歳。烏洲と崋山は3歳違いで、崋山の方が年上でした。烏洲がこの年の暮れに一緒に島村を出立した「田島梅陵」とは誰のことかと気になって、ネット検索で「金井烏洲」を調べたところ、「いせさきフロンティア あなたの知らない28人の伊勢崎の偉人たち アイオーしんきん」というのがあり、その「No10」の人物として「金井烏洲」のことが記されており、そこに同行したのは「田島弥兵衛(号梅陵)」であって、「島村養蚕業の立役者の一人」であるとありました。つまり「田島梅陵」とは田島弥兵衛(1796~1866)、すなわち田島弥平の父親であったのです。田島弥兵衛と金井烏洲は同年生まれであり、ともにこの時36歳。一緒に旅をするほどの幼友達であり、親友の間柄であったものと思われます。『絹先人考』にあったように、『養蚕新論』はこの田島弥兵衛とその子弥平との合作であり、親子二代にわたって実践した結果をまとめたものでした。屋根に小窓を設けた「櫓造り」の養蚕農家も、弥兵衛・弥平親子が考案したものであり、現地の立て看板等によれば「田島弥平旧宅」が建てられたのは文久3年(1863年)であったから、この「田島弥平旧宅」は弥兵衛が晩年を過ごしたところでもあったということになる。しかし金井烏洲が生まれたところも、またおそらく田島弥兵衛・弥平親子の生まれたところも実はここではなく、当時、利根川の中洲にあった島村にあり、幕末以降に移転したものであるようです。かつては島村の南にも利根川の分流があり(それを「烏川(からすがわ)」と言った)、烏洲のアトリエである「呑山楼(どんざんろう)」からは、南にその「烏川」(利根川の分流)のゆったりとした流れを眺めることが出来ました。「烏洲」の号は、その立地に由来しています。 . . . 本文を読む
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2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その3 

2013-05-30 05:21:21 | Weblog
『絹先人考』の「渋沢栄一(下)」の項によれば、渋沢が生まれた武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)は、島村とわずか1キロほどの距離であり、その血洗島は蚕種と染料の藍玉製造で潤い、島村と同じく学問を学ぶ気風が強く、両村には強い一体感があったという。田島弥平や田島武平といった島村の人材と、血洗島出身の渋沢栄一とが結びついたことによって、この地域における養蚕の隆盛が生み出されたらしいことが、この文章からうかがうことができます。では、なぜ両村とも利根川の近くなのか。「田島弥平」の項には、「度重なる利根川の洪水に見舞われた島村の土地は桑の生育に適した」とあり、島村は「日本三大蚕種産地の一つといわれるまでになり、精良な蚕種は海を渡り、評判は国内ばかりでなく海外でも高まった」とあります。島村も血洗島村も、頻繁に利根川の洪水に見舞われた地域であり、それが桑の生育に適した土地を生みだしたというのです。そのことともう一つ押さえておくべきことは、やはり利根川の水運です。利根川の水運は当時において物流の大動脈(現在で言えば関越自動車道や東北自動車道のようなもの)であり、この水運によって物資ばかりか人や情報、文化なども往来し、特に巨大消費都市であり高水準の文化都市であった江戸と直結していたということが重要です。島村や血洗島の近くには平塚河岸や中瀬河岸があり、たとえば中瀬河岸から江戸までは船に乗って2日前後で行けたという。この地域における「俳諧」の普及や「書画会」の隆盛なども、このこと(利根川の水運)を抜きにしては考えられないと私は考えています。 . . . 本文を読む
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2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その2 

2013-05-29 05:25:50 | Weblog
『絹先人考』(上毛新聞社)という本がある。私はその本を『絹遺産紀行』(上毛新聞社)という本と一緒に購入した記憶があるのですが、それをどこで購入したかは記憶がありません。「シルクカントリー双書」という全10冊の中で『絹先人考』はその「三」であり、『絹遺産紀行』はその「四」。私が購入した時には、その「四」までが刊行されていました。『絹先人考』をあらためて開いてみると、そのP96からP101にかけて、「田島弥平」のことが載っていました。それによると『養蚕新論』は、当時、農家の実践に基づいた経験をわかりやすく解説した画期的な技術書として日本全国で読まれたといわれる名著であるとのこと。田島弥平(1822~1898)とその父弥兵衛(1796~1866)との合作でした。弥兵衛は若い頃に東北や甲信地方の養蚕地帯を回って研究し、蚕がよく育つには「風通しの良いことが成功の要因」であることを発見し、その子(長男)である弥平とともに実践を重ねて、できるだけ自然に任せる飼育法である「清涼育」にたどり着きました。通気をよくするため建物の四方に窓を設け、屋根の頂に幾つかの小窓を開けた蚕室を考案し、間口26m、奥行き15m総2階建て「総櫓」(屋根の端から端まで小窓を設けたもの)を建設したという。それが現在も残っている「田島弥平旧宅」ということになります。『養蚕新論』が出版されたのは明治5年(1872年)のこと。ということは山梨県で見られるような「櫓造り」の養蚕農家建築は、その「清涼育」を取り入れるために、明治になってから大改造されたり(旧広瀬家住宅のように)、新築されたものであるということになるのでしょう。 . . . 本文を読む
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2013.5月取材旅行「境島村~高島~(北)前小屋」 その1 

2013-05-28 05:22:08 | Weblog
5月は小さな取材旅行を2回行いました。1回目は「道の駅おかべ」で「世界遺産候補 富岡製糸場と絹産業遺産群 田島弥平旧宅」のポスターとパンフレットを見掛け、それに興味をもって、群馬県伊勢崎市境島村へと足を向けたこと。その日はそれから深谷市立図書館や太田市立尾島図書館に立ち寄って関連資料を調べました。2回目は、崋山が前小屋天神での書画会の後に一泊した伊丹新左衛門宅の所在地である高島村(現在の深谷市高島)を訪ね、それから太田市立尾島図書館へ再度立ち寄り、そのあとで気になっていた太田市前小屋町(「北前小屋」)の菅原神社へと足を向けたこと。この2回の取材旅行と図書館での関連資料の調査により気付かされたことは、それまで私が、現在の利根川の流路に大きく引きずられていたということでした。利根川は江戸時代から現在にかけてのこの200年間に限ってみても、頻繁にその流路を変えており、特に大正初年の利根川大改修工事によって明治以前の利根川の流路は大きく変わりました。そのことを頭では理解していても、現実の利根川の流れや地図上の利根川の流路を見てしまうと、私はその現在の利根川の流路に大きく引きずられてしまっていたのです。そのことに気付かされたのが2回目の取材旅行においてでした。崋山が書画会に参加した前小屋の天神社は現在の地理上のどのあたりにあったのか。前小屋から高島の伊丹新左衛門宅まで夜の道を、崋山らがてくてくと歩いた道筋は現在ではどのようなものになっているのか。そのあたりのことについて、この5月の2回の小取材旅行を通してあらためて理解を深めることができました。以下、その2回の小取材旅行のまとめての報告です。 . . . 本文を読む
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2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その最終回

2013-05-22 05:44:18 | Weblog
高橋敏さんの『国定忠治の時代』(平凡社)によれば、国定忠治の子分たちの識字率は約91%であったという。この時代の民衆の読み書き算用能力は想像以上に高いものがあり、特にこの上武地方における読み書き算用能力の高さは、養蚕・生糸業や織物業の発展と密接な関係があることが指摘されています。この本では『桐生教育史』から、江戸時代後期の桐生の手習塾は53を数えたといったことも記されており、そのような手習塾や寺子屋などの数多い存在が、民衆の読み書き算用能力の高さを生みだしていたと言えそうです。杉仁さんの『近世の地域と在村文化』によれば、上州は「信州・奥羽双方の蚕種道から往来する蚕種商俳人連の行商先」であり、「蚕種道の交差点」であったという。それによって「関東平野をはさんで信州から東北南部につらなるひろい意味での文化的景観」が形づくられていたという。特に利根川など大河川流域の「河岸」は、地域の在村文化の一拠点として発展し、地域における「小文化センター的機能」を持っていました。蚕種商は仲間を組織して行商のための定宿を持ちましたが、例えば上塩尻の蚕種商仲間は上州に37ヶ所の定宿を持っていたことが指摘されています。文化文政期から幕末にかけて「在村文化」はさらなる普及を見せるのですが、中でも最も普及したものは「俳諧」でした。この「俳諧」における関東地方の「風雅の交流」において、活発に各地を行き来していた蚕種商俳人たちの果たした役割というものを杉さんは指摘したのです。幕末関東地方における養蚕・生糸・絹織物業の発展と「風雅の交流」(在村文化の発展)というテーマは、上武地方において盛んに行われていた「書画会」なども絡めて、現在の私の最も興味関心のあるところです。 . . . 本文を読む
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2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その16

2013-05-21 05:08:11 | Weblog
『新田町史 第一巻通史編』新田町史刊行委員会(新田町)によれば、前小屋天神で開かれたような「書画会」は、天保年間を中心に上武地方においては活発に行われていたようです。天保10年(1839年)10月、日光例幣使街道木崎宿の旅籠屋川橋吉十宅では、金井烏洲(うじゅう)・金井研香・天田熊郊・定庵を看板にして書画会が開かれています。案内チラシが配布され、会衆名は200人に及んでいます。同じく日光例幣使街道の境町でも書画会が開かれています。『金井烏洲』しの木弘明(群馬県文化事業振興会)によれば、「書画会」は「文事を競う場」であり「親睦をはかる社交場」でもあり、「上武地方において盛んに行われ」ていたという。「看板」に江戸や地域の有名な画家や書家の名前を掲げ、案内のチラシを配布しました。同書によれば金井烏洲は江戸において、父万戸と親交のあった谷文晁の写山楼に出入りして画技を学んだというし、また月琴や横笛の名手でもあり、また漢詩をよむ人でもありました。烏洲はよほど月琴が得意であったようで、客があればその月琴を弾き、また近くに遊びに行ったり、また書画会などがあったりした時には、その月琴を携えて赴き、それを弾いたという。近隣の書画会の「看板」に名前を連ねることの多かった金井烏洲は、書画会に赴く時は必ず月琴を携行して、その書画会で弾くことを常としたようで、もしかしたら前小屋の青木長次郎宅や高島の伊丹新左衛門宅でもその月琴を弾き、崋山らはその烏洲の月琴を聴いている可能性もある。上武地方で盛んだったという「書画会」や俳諧の集まり(「風雅」の交流)についてはもっと詳しく知りたいと思っていますが、崋山は、その「書画会」(前小屋天神の「書画会」)に自ら参加し、その様子をいきいきと文章(日記)に残した人物として貴重です。 . . . 本文を読む
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2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その15

2013-05-19 05:26:40 | Weblog
書画会は、別当の住まいでもある前小屋天神の社殿で行われたが、きわめて狭いところなので、そこからあふれて外に立っていたり、階段の端にうずくまっていたりする人もいれば、入れないものだからそのまま帰ってしまう人たちもいるようす。境内には、さつまいも・煮鳥・酒・柿・みかんなどを売る者、また唐紙や扇を売る者たちもいてお客を待っている。書画会に来た人たちは、売られている酒や果物などを買って、それを飲んだり食べたりしながらくつろいでいる。この日は浅間山や妙義山あたりから吹いてくる西風がすさまじく、社殿はもちろん、別当の住んでいる座敷にも障子や唐紙がないものだから、壁や柱に掛けてある掛軸や絵画などがその強風のために空高く舞い上がらんばかり。岡田東塢や宮沢雲山などはその様子にあきれ果てている様子であったが、崋山はその様子に興を覚えて、構わずすぐに人々と一緒に社殿にのぼりました。書画会の会場には、紙に包まれた紐を通した銭の束が、雪をかぶった富士山のように白く積み上げられている。出迎えた参会者たちに「会主はどこにいますか」と尋ねてみたがいない様子なので、傍らにいた人に同じように尋ねたところ、実はその人こそが会主である青木長次郎でした。月代(さかやき)も剃らず、髪もバサバサで、垢が付いたような汚い羽織をはおっていたから、崋山は傍にいる者が会主だとは思わなかったのです。この長次郎にご祝儀を渡し、やがて参会者の求めるままに崋山はさらさらと絵を扇紙に描いていく。しかしそれを見る者は垣をなし、扇紙は山とあってなかなか全て描くというわけにはいかないものだから、崋山は途中で退席し、雲山や岡田らとともに長次郎の家へと帰り、夕食を摂りました。しかし酒はまずいし、酒の肴(さかな)は椀の欠けたものに菊花に酢をかけたものを盛ったものでまるで田舎じみたもの。ここで崋山は奥州南部出身の「豊沢」(勝明斎豊沢)という画家や「欣然」という書家、また金井烏州(うじゅう)という上州佐位郡島村の豪農で絵画や俳諧をよくする人物などに出会います。しかしさすがにこの青木家に泊まるというわけにはいかず、崋山らは金井烏州の案内で、前小屋より十二、三町ほど西方にある高島村の伊丹新左衛門という者の家に一夜の宿を借りるために赴くことになりました。 . . . 本文を読む
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2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その14

2013-05-18 06:20:26 | Weblog
「足利の岡田氏、江戸の雲山老は来ていますか」という声を掛けたところ、奥の方から、「ここにいますよ」との聞き知った岡田東塢の声。その東塢が破れた障子を自ら開けて、眉をそばめつつ、「いやはや面目ない。こんな貧相な家にお招きしてしまって、なんと申しようもありません。さあさあ、まずこちらへ」と誘うので、崋山は袴の裾をからげて座敷に上がったところ、膝を入れる隙間もないほどに人々が集まって夕餉をしたためている。その座敷で崋山たちもくつろいでいると、「これから始まります」と案内人がやってきたので、「これからどこへ行くのですか」と崋山は尋ねます。すると「書画会は天神様のお社であるので、さあこれからそこへ出掛けましょう」ということなので、他の人々とともに青木長次郎の家を出発します。羽織を着た者二人が先導し、岡田東塢・宮沢雲山・崋山、そして高木梧庵の刀を帯び袴を履いた四人を含めた集団一行を、もの珍しそうに村の子どもたちが田んぼ道にたたずんで見送ります。この、村の子どもたちが書画会に向かう大人たちを、夕暮れ時の田んぼ道にたたずんで見送っているという描写も、さりげない記述ながら崋山ならではのもの。この「前小屋天神」というのは、昔は川向こうの尾島に沿った地にあったものであるが、洪水の後に瀬が変わってしまったことにより、今は利根川の南のこの地に移転したもので、人里離れたわびしい所にある、と崋山は記しています。現在の地図を見ると、利根川の北側にも「前小屋町」(こちらは太田市)があり、また利根川の南側にも「前小屋」(こちらは深谷市)があって、そしてその太田市の「前小屋町」と「二ツ小屋町」との境あたりには「菅原神社」というのがあります。ここを私はまだ訪ねていませんが、おそらくこれは菅原道真を祀る「天神社」であり、かつては前小屋村には「天神社」が一つしかなかった(それが現在の菅原神社であったかどうかはわからない)のが、洪水で利根川の流れが変わったことによって、「前小屋村」は二つに分かれてしまい、利根川の南に新たに「天神社」を村人が造ったのではないかと想像されました。もちろんその「天神社」は、現在の小山川橋北詰にある「天神社」とは異なります。利根川の広い河原の南側に、田畑に囲まれた「屋敷森」が点在する前小屋村があり、そのやや外れに崋山らが赴いた「前小屋天神」があったものと思われます。 . . . 本文を読む
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2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その13

2013-05-17 05:54:28 | Weblog
高木梧庵は走り寄って「あなたは何の会に行くのか。私たちは書といって字を書き、画といって絵を描く会に行くのだが」と聞いたところ、その男は、「書画会については、講釈を聞かずともよく知っています。私の後に付いてきなさい」と答えたので、あきれ果ててその後についていったところ、荒れ果てた家があってその後ろの方から中へと入っていく。奥の方を見渡してみると、赤い膳やお椀が並べてあって、髪の毛が乱れた老婆たちや女たちが4、5人ほど集まって、草の葉や木の枝をかき集めて大きな竈(かまど)の下に熊手を使って掻きいれており、そこには大きな炎がすさまじく立ちあがっています。「あれは何をしているのか」と問うたところ、「これは集まった人々のためにご飯を炊いているところだ」との答え。崋山はそれを聞いて、であるならここが書画会に集まった人々の宿であるのだろうと判断します。書画会が行われるところは前小屋の「天神の御堂」であったから、この家は、書画会に参加する人々が集まって飲食をしたり休憩をとったりするところであったのでしょう。その家こそ、おそらく「青木長次郎」なる者の家であったと思われる。洪水の時の爪跡を残す荒れ果てた広い河原を抜け、田んぼが広がるところに出るとまもなく樹木の生い茂った集落が現れ、その中の藪のある道へと入って行ったところ、その「青木長次郎」の家はあり、その家の後ろの方から入って行ったというのです。広い土間があって、そこでは女たちが夕食の準備のために竈(かまど)の周辺で忙しく立ち働いていたのです。「青木長次郎」なる者の妻や嫁や、あるいは娘たちであったのでしょうか。土間から上がった奥の座敷にはすでに各地からの参会者が多数集まってきており、おそらくお互いに酒を酌み交わしながら談笑をしていたはず。ここには、崋山の筆によって、天保2年(1831年)10月29日(旧暦)における前小屋村「青木長次郎」家の、「書画会」を前にしての慌ただしい情景が活写されています。 . . . 本文を読む
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2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その12

2013-05-16 05:30:13 | Weblog
岡田東塢(とうう)が手紙で崋山に書き送ってきたことは、「前小屋には青木長次郎という者がいるからそこを訪ねるように」ということでした。この「青木長次郎」というのは前小屋在の者で、今回開かれる「書画の会」の会主(主催者)。その家はどこかと尋ねようにも、あたりには人っこ一人いない。ただ田んぼの傍らに竹に紙を挟んだものが立っていて、何だろうかと不審に思って近寄ってみると、その紙には「会所道」と記されている。これがこれから訪ねるところを指し示すものであろうと判断して、そちらの方角へ歩いていくと、集落のようなところがあり、繁った藪のある道へと入っていきました。すると前方に、このあたりの農民かと思われる男の、新しい着物に縄で作った帯を巻いて、たばこ入れをお尻のあたりにぶらさげて歩いていく姿が見えたので、崋山はその男に、「書画の会がある家はどこだろうか」と声を掛けました。するとその男は「私もその会に行く者です。付いてきなさい」と答えて、さっさと先へ歩いていく。崋山は、「こんな無骨な者が書画の会に行くなんてことがあるだろうか。聞き間違いかも知れない」と思って、連れの高木梧庵(ごあん)に、もう一度聞いて確かめてくれないかと依頼します。 . . . 本文を読む
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2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その11

2013-05-15 05:18:34 | Weblog
崋山によれば「前小屋の渡し」は、尾島から(南方)わずか「半里」(約2km)ほどのところにありました。渡し場に至ると、そこには木小屋がところどころに並び建っており、わびしく川面が広がる川べりに老齢の渡し守がいて、「船をお出しできますよ」ということなので、崋山はすぐに渡し船に乗り込みました。この渡し船はまるで葦の葉のように小さく、しかもすぐに壊れてしまうのではないかと思われるほどに朽ち果てていました。利根川の有名な早瀬を横切る時には、老齢の渡し守の操る棹は力が入ってたわわに曲がるほど。辛うじて対岸に船が着いたところで後ろを振り返ってみると、日光・足尾・赤城・浅間の山々が手に取るばかりに川面の上に見え、その景色はたとえようもなく美しかった、と崋山は記しています。実は崋山はこの景色を図巻に描きとめています。それが『渡辺崋山と弟子たち』P26の「第十五図」。利根川北岸の土手の上には8軒ばかりの家(崋山の言葉によれば「木小屋」)が建ち並び、その土手から河原へと下りる坂道が7つほど見えています。岸辺には大型の荷船が横付けになっており、また渡し船かと思われる船も描かれています。土手上の家々の背後には遠く山稜が左右に連なっています。「赤城」「日光」「越山」と記されていますが、「日光」は位置的におかしい。「赤城山」よりも右手になるはずです。「越山」とは「越後地方の山々」ということでしょうか。何よりも「赤城山」が大きく見えたはずです。利根川の流れの南側の河原に上陸した崋山は、濁流が通り過ぎたためにえぐれていたり、また流れてきた巨岩があちこちに転がっていたり、松林や竹藪が残骸のように残っていたりするようなところを横目にしながら、枯れ薄(すすき)がなぎ倒されているようなところを道を探しながら進み、ようやっとのことで田んぼの広がるところに出ることができました。利根川は集中豪雨による洪水などのために川筋を絶えず変化させており、両側の土手に挟まれた広い河原(このあたりでは南側の河原)は、崋山が記すようにその大部分はかなり荒れ果てたものであったのでしょう。 . . . 本文を読む
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2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その10

2013-05-13 05:13:04 | Weblog
崋山は尾島を通過していきますが、その尾島は「人屋相連り、駅の如し」であると記しています。「駅」とは宿場のこと。茅葺(かやぶき)や板葺(いたぶき)の家に混じって瓦葺(かわらぶき)の家もある。「瓦葺」であるということは、きっと通りに面した富裕な商家であるということでしょう。そば・酒・もち・めしを売る飲食店が3軒ばかり、また旅宿も3軒ほどある。福田藤八という豪農がこの地にはいて、その屋敷はとても大きくて特に目立つ、と崋山は記しています。この尾島のことが記されているのは『渡辺崋山集 第2巻』のP48ですが、そこには「(尾嶌の町図、二頁)」とあります。この(尾嶌の町図)とは、『渡辺崋山と弟子たち』のP27~28の「第十二図」がそれではないかと思われます。「第十三図」に「此地豪農福田藤八」とありますが、これは「第十二図」に含まれるべきもの。「此地」とは「尾嶌」=尾島のことです。崋山は尾島の「前嶋吉蔵店」で焼鮭を食べ、その後で店先から通り向こうの商家の並びを描いています。それぞれの店の種類や主人の名前は、茶屋の主人である前島吉蔵から聞いたのだろうか。右から「清水助右衛門 薬屋」、「建具や 猪之八」、「若松屋勘太郎 アラモノヤ」、「明石屋藤三郎」、「肴屋幸二郎」。このように具体的に名前まで書き込んでいるところが崋山の情報収集力のすごいところ。通りの真ん中で後ろを振り返っているイヌと思われる小動物を描き込んでいることで、その絵を観るものに臨場感を与えています。天保2年(1831年)10月29日(旧暦)、お昼時の尾島の「町図」です。 . . . 本文を読む
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2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その9

2013-05-12 06:12:31 | Weblog
「出入りの者」たちが「新田殿御用」の札を立てていたことは同書P137~138に出て来ます。崋山が駕籠かきから聞いた「新田万次郎」の家来である「伯楽」(馬の売買人)のことを記したのは、「新田万次郎(満次郎」)」が岩松道純(みちずみ)であった時のこと。この道純は文政8年(1825年)に家督を継ぎ、安政元年(1854年)に亡くなっています。その次が岩松俊純(としずみ)であり、この俊純は安政元年(1854年)に家督を継ぎ、明治27年(1894年)に亡くなっています。同書P3に掲げられている「猫絵」はこの岩松俊純が描いたもの。この俊純の娘武子は後に井上馨の妻となっており、俊純は明治16年(1883年)に華族に列せられ、翌17年(1884年)には男爵となっています。蚕種とともに「猫絵」もヨーロッパに輸出されていて、外国で「バロンキャット」(「猫男爵」)と言われたのは、したがってこの新田俊純(江戸時代においては「岩松俊純」で維新後正式に新田姓を名乗る)ということになる。幕末、上州の農民の一部には反幕府の動きがあり、「新田義貞御末裔」であるこの岩松俊純を動かして「新田勤王党」(「新田官軍」)を結成します。この動きも興味あることであるし、また俊純の娘武子が中井弘蔵と別れて大隈邸に預けられていた際、井上馨に見初められてその正妻になるといった話もあったりして、この「岩松新田家」の幕末維新期の動きはなかなか興味深いものであると思いました。 . . . 本文を読む
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2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その8

2013-05-10 05:27:34 | Weblog
『猫絵の殿様 領主のフォークロア』落合延孝(吉川弘文館)によれば、領内でネズミによる作物荒しが多発したことがあり、それは新田家の怨霊のせいと考えられたため、その領民の人心を安定させるために殿様が行ったことが発端であるらしい。猫絵だけでなく、狐憑(きつねつき)封じのために草履を下付したり、疱瘡除や疾病除のために「除札」を下付するというようなこともあったようです。甲信越や東北地方で養蚕が盛んになってくると、ネズミ除けのために、蚕種売りが養蚕農家に猫絵を普及させたことが、18世紀後半に猫絵の依頼が急増する要因の一つではないかと、落合さんは指摘しています。岩松氏と出入りの関係を結んだ人々(「出入りの者」)は、東北・甲信越の各地にまたがり、それらの人々は村役人といった地域社会の有力者であったり、職人や医者であったり、寺社関係の人々であったりしたという。江戸地廻り経済圏の発展とともに新たに台頭してきた農民や都市の新興町人たちの中には、自分たちの出自を権威づけるために、「貴種」である「新田岩松氏」(「新田義貞の御末裔」であり、新田氏と足利家の両系統の血筋を引き、徳川家の先祖と深く関わる一族)の存在に着目していった者たちがいたと考えられる。崋山が日記に記した「新田どの御用」の札を押し立てて奥州街道を往来した「伯楽」(馬の売買人)のように、「新田殿御用」の札はそれ相当の威力をそれを使用する人々(家来や「出入りの者」たち)に与えたのです。 . . . 本文を読む
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2013.4月取材旅行「新田木崎~尾島~前小屋」 その7

2013-05-09 05:29:31 | Weblog
『猫絵の殿様 領主のフォークロア』落合延孝(吉川弘文館)によれば、岩松徳純(よしずみ)は、文化10年(1813年)の秋に善光寺参詣に出掛けています。その旅行1ヶ月間に307枚の絵を描いており、そのうち96枚が猫絵であったという。徳純(よしずみ)を含めた四代の殿様が描いた猫絵は「蚕の神様」として農民の間で重宝がられたとのこと。また現在の群馬県甘楽郡(かんらぐん)吉井町岩井の真光寺には安政6年(1859年)に建立された「石尊大権現」の碑があるとのことですが、それには「新田義貞之嫡宗源俊純拝書」と刻まれているという。この「源俊純」とは岩松俊純(としずみ)のこと。「新田の殿様」は大山信仰に関わる石碑の文字も書いていることになりますが、これも猫絵と同様、地域の農民の所望により書いたものと思われます。岩松氏は「新田氏と足利氏の両系統の血を引き継ぐ名家」であり、足利義純の子である時兼を祖とするという。文政7年(1824年)の時点で家士(譜代の家来)が8名、足軽が15名いたという記録があり、その足軽の多くは知行所の百姓から取り立てられた者たちであったとのこと(知行所とは「下田嶋村」)。崋山の日記に出てくる馬の売買に関わっていた「伯楽」は、おそらくこの足軽たちの中の一人であり、「新田殿御用」の札や新田家の家紋の使用を許されていたものと思われる。「新田の殿様」は日常的には下田嶋の屋敷に居住し、毎年江戸参府をするのが慣わしでした。12月の暮れに下田嶋の屋敷を出立して正月3日に江戸城に登城。そのあと関東の天台宗の総本山である上野東叡山寛永寺に年頭の挨拶に赴いたという。この岩松氏(「新田の殿様」)に農民からの絵の依頼が多くなるのは18世紀後半頃からであり、特に1790年代に入ると猫絵の依頼が急増するとのこと。それはいったいどうしてなのか。 . . . 本文を読む
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