鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-相州四か宿  その3

2017-05-26 06:58:31 | Weblog

 

 甲州街道の本道は、与瀬宿の慈眼寺や与瀬神社の参道前の道。

 横道・橋沢の両集落を経て西へと進んで行くと、やがて「甲州古道 子の入」と記された道標がありますが、そこが吉野宿の子宿といわれた天奈宿。

 すぐに中央高速道を陸橋で渡りますが、その橋の名前が「天奈橋」。

 かつては山の斜面であったところが、高速道路の建設により切り通しになったものと思われます。

 天奈橋を渡って舗装された細い道を進むと、「甲州古道 赤坂」の標示が現れ、すぐに右手に真言宗御嶽山観福寺があり、その駐車場の標示の下に「ウバヒガン(エドヒガン)バラ科」の説明がありました。

 それによれば、「ウバヒガン」は吉野地区矢部、元の県天然記念物「矢部の桜」の道下にあって、その子と言われているとのこと。

 ソメイヨシノより早く、三月下旬ころに淡紅色の美しい花を咲かせ、葉のないうちに開花することから「姥に歯のないことに因んで「ウバヒガン」と名付けられたという。

 樹齢は二百年以上。

 ということは、「元の県天然記念物」であった「矢部の桜」は、高速道路の建設により姿を消してしまったものと思われます。

 観福寺の屋根を右手下に見て道を進むと、左手に「甲州街道 桜野」の標示。

 「矢部の桜」に因んだ地名のよう。

 しばらくして左手に相模湖の湖面と、その向こうの嵐山が見えて来ます。

 この湖面の下にかつて勝瀬の集落があったことになる。

 湖面の右端に見える白い橋は勝瀬橋。

 次に現れる標示が「甲州古道 矢部」。

 ここから細い坂道を下り、沢に架かる小橋を渡ってから坂を上がって出たところに「甲州古道 椚戸」の道標。

 このあたりが「椚戸(くぬぎど)」の集落。

 この「矢部」から「椚戸」の間の沢に入る細い道が甲州街道の雰囲気を濃厚に漂わせているところ。

 椚戸の集落に入った右手の斜面には「廿三夜」などと刻まれた石造物が並んでいます。

 坂道を下って、中央高速道路相模湖インターチェンジの導入路に架かる橋(小舟橋)を渡ってさらに坂道を下って行くと、右手に「吉野宿 高札場」の標示が現れます。

 ここが吉野宿の入口(江戸、八王子面から来た場合)。

 ここで国道20号に合流し、右折すれば間もなく白壁のはがれた古い大きな土蔵が一棟建っているのが見えて来ます。

 またその先に「聖蹟」と刻まれた石柱が建ち、その左隣にある石碑には「吉野本陣」とあって、吉野家についてのことや「聖蹟」の由来について記されています。

 つまりここが「吉野本陣」の跡地で、古い土蔵は本陣吉野家の土蔵であったもの。

 では、「二瀬越」の近道である相模川を渡り勝瀬集落を通過する脇道は、どこで吉野宿に入っていたのかというと、現在勝瀬橋があるあたりの下に「丹田前の渡し」があったから、「丹田前の渡し」を相模川を渡って河岸段丘を登る坂道を上がって出たところと言えば、現在勝瀬橋(北詰)があるあたり。

 高札場があった辺りへ出たものと思われます。

 すでに何回か触れたように歌川広重は、甲州街道の本道を通らずに脇道(近道)である「二瀬越」の道をたどり、河岸段丘の坂道を下って「勝瀬の渡し」で相模川を越え、勝瀬集落を通過して「丹田前の渡し」でふたたび相模川を越えて急な坂道を上がり、吉野宿の東端にある「高札場」の前でふたたび甲州街道へと入って、本陣吉野家を右手に見ながら吉野宿を通過して行ったのです。

 この高札場の跡地の近く、勝瀬橋を渡ったところを左手に入って行くと「勝瀬ふるさとの碑」があると聞いて、勝瀬橋を対岸へと渡ってみました。

 

 続く

 

 

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