鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.5月取材旅行「さがみ野~小園~海老名」 その7

2014-06-02 05:13:09 | Weblog
赤坂の坂を上がったところで左折して、翁に教えられた通り、崋山と梧庵は尾根道のような細道を辿って行きました。右手には大山が青々とその全貌を見せています。全く世を離れたような片田舎であり、江戸の賑やかさを思い出してなんとなく物悲しくなってくる。樹木や下草の匂いばかりで、冷気に包まれるような感じを崋山は味わいます。坂道を下って行くと、ようやく鶏の鳴き声や犬の吠える声が沿道から聞こえるようになり、また昼飯を炊く煙が漂ってきたり、麦を庭先で搗く音が聞こえてきたりと、江戸ではめったに味わえないような雰囲気に包まれ、崋山の心にはまるで桃源郷にたどりついたような喜びが満ちあふれてきました。「この村のどこかにあのお銀さまは住んでいるのだ」と、ただただ先が急がれて二人は小走りに道を進んで行く。坂道を下ってからの平坦な道をしばらく歩いていくと道は左へと折れています。それぞれの家は程よく隔たっており、通りでは村の子どもたちが、男の子も女の子も、大きい子も小さい子も一緒になって群がり遊んでいました。崋山はその子どもたちの群れに走り寄り、「幾右衛門の家はどこだろうか、清蔵の家はどこだろうか」と尋ねると、一人の子どもが「幾右衛門より清蔵の家の方が近いよ」と教えてくれました。「では、その清蔵の家を教えてくれないか」と、崋山はその子どもに銭を与えて案内をさせます。家が沿道に並ぶ通りで子どもたちが群れになって遊んでいる風景。少し大きな女の子は背中に赤ん坊をおぶったりしています。このような風景は、私が幼少の頃の昭和30年代にもまだ見られた風景であり、たまらない懐かしさを感じます。「お銀さま」も、子ども時代にはこのようにして群れになって、早川村の通りで遊んでいたのでしょう。背中に幼い妹をおぶりながら…。 . . . 本文を読む