鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」 銚子その2

2010-12-31 06:57:12 | Weblog
文政8年(1825年)6月29日(旧暦)に江戸を出立した渡辺崋山のルートは次のようなものでした。日本橋小網町三丁目行徳河岸→日本橋川→隅田川→小名木川→中川→新川→江戸川→下総本行徳河岸→木下(きおろし)街道→鎌ヶ谷宿→白井宿(泊)→浦部→手賀沼→手賀川→木下(きおろし)河岸→神崎→津ノ宮河岸(7月1日泊)→香取神宮→横利根川→牛堀→常陸利根川→潮来(7月2日泊)→浪逆浦(なさかのうら)→波崎→銚子(7月3日着)。ちなみに銚子からの帰りのルートは、松岸→柴崎→成田→大田→八日市場→松山→中村→多古→加茂→成田→酒井→佐倉→臼井→大和田→船橋→行徳→江戸、というものでした。田原藩上屋敷の渡辺家に帰着したのは7月中旬過ぎ(20日頃)と思われる。ということは20日前後の長旅であったということになります。同行者は友人である小林左伝(蓮堂)と荷物持ちの召使いの計二人。もっとも長く滞在していたところは銚子であり、3日に到着し、15日過ぎに出立したと考えられるから、10日以上を過ごしたことになる。となると、この崋山の旅の主目的地は銚子であったとは考えられないか。当時の江戸庶民がそうであったように、香取や鹿島、成田の参拝が主目的ではなく、銚子滞在こそが主目的ではなかったか。その銚子への道案内をしたのが同行の小林左伝であったと思われますが、その詳細については、以後折りを見て触れていくことにします。 . . . 本文を読む
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2010.冬の取材旅行「銚子~牛堀~関宿・境」  銚子その1

2010-12-30 05:42:41 | Weblog
今回の冬の取材旅行は、太平洋からの利根川水系の入口である銚子から、利根川をその中流域までさかのぼってみました。江戸(東京)から小名木川→新川(船堀川)→江戸川(旧江戸川)を経て、行き着く先の一つが利根川河口部の港町銚子でした。新川から江戸川に出て、その江戸川をさかのぼり、関宿(せきやど)・境のところで利根川に入って右折し、境河岸を左手に見て利根川を下って行けば、その河口部銚子へと出ることができた時代がありました。銚子などの利根川水系の河岸からは、高瀬船などの川船により、東北や北関東の諸藩の年貢米を中心とした諸物資が、「将軍のお膝元」江戸へと大量に運ばれていきました。一大消費地江戸の人々の生活を支える北関東江戸地廻り経済圏の形成・発展に、利根川水系の水運がどれほど大きな役割を果たしていたかは、神田川や隅田川、また深川などの取材旅行を通して知ったことでした。12月の取材旅行は、新川から江戸川(旧江戸川)に出て浦安まで歩いてみましたが、今回は一気に銚子まで行ってみることに。その銚子から利根川をさかのぼり、潮来(いたこ)・牛堀を経て、江戸川へと入る境・関宿までのところどころを歩いてみました。以下、その取材報告です。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その最終回

2010-12-19 06:28:57 | Weblog
『青べか物語』の各物語の中でも、とくに私にとって印象的な一篇「芦の中の一夜」では、「芦の中」に浮かぶ「ぶっくれの十七号船」という、かつて高橋~行徳間を往き来した通船が登場します。「ぶっくれ」とは、底に穴が開き、ペンキが剥(はが)れていた「青べか」が「ぶっくれ舟」と記されているように、「ぶっこわれた」という意味であり、したがって「ぶっくれの十七号船」とは、蒸気エンジンが動かなくなって老朽化した、かつては「十七号」という番号であった通船という意味。この「十七号」は、「蒸気河岸の先生」が購入した「青べか」がそうであったように、ほかの船とはやや趣きを異にしていました。「もと外輪船」で、「他の通船のそれより幾らか広いように感じられ」「左右は硝子を嵌めた窓、うしろは機関部と仕切られた板壁、前方は腰掛のある広い船室」で、窓には「障子」があり、「床には畳が四帖敷いて」ありました。この「ぶっくれの十七号船」がもとは「外輪船」であったという記述から私がすぐに想起したことは、これは「通運丸」の1隻のなれの果てではなかったか、ということでした。そう思って、山本鉱太郎さんの『新編 川蒸気通運丸物語』をひもといてみると、一番最後のところに、次のような記述が出てきます。「そのほか古老たちの幾つかの証言を考えあわせると、通運丸はどうやら昭和四、五年頃まで気息えんえんのていでも、とにかく江戸川や利根川を走っていたようである。…通運丸は、東京通船に身売りした後も、同じマークをつけたまま内国通運とほぼ同じコースを走っていたものと想像される。」同書によると、「内国通運」の通運丸の航路や船舶は、大正8年(1919年)に「東京通船」に譲渡されたとあり、また、「東京通船というのは、当時高橋から小名木川、新川を通って行徳に至る航路を持っていた船会社で、昭和19年に廃止されている」とありました。荒川放水路の建設が大正2年(1913年)に始まって、それが完成したのが昭和5年(1930年)のことであったから、その大工事の影響のため、途中で小名木川全線利用ではなく、高橋から大横川や竪川などを利用して、それから新川に入って江戸川経由で行徳に至る路線になったものと思われる。「ぶっくれの十七号船」は、その「内国通運」および「東京通船」で長い間使用されてきた通運丸の、ある1隻のなれの果てではなかったかと私には思われてきました。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その12

2010-12-17 06:44:51 | Weblog
山本周五郎が浦安に住んでいたのは、昭和3年(1928年)の夏から1年余。ある日、周五郎は地図を見ていて『南総里見八犬伝』に出てくる行徳へ行きたくなり、行徳行きの通船に乗ったところ、途中で、満々と水をたたえた川の中に小さな町がまるでベニスのように見え、「ああ、こんな所があるのか」と写生帳を手に持ってスケッチをしようと船を下りたところが浦安でした。『青べか物語』の中に、写生帳を持ってコンテを描くのは、「その土地の風景の特徴をとらえることができる」からだという一節がありますが、当時の周五郎は写生帳と取材ノートを携行して、よく歩いたように思われる。『青べか物語』には、「私のノート」「私の材料ノート」といった語句が散見し、彼の創作には写生帳のスケッチや取材ノートが大きく役立っていたことをうかがわせます。カメラは当時まだまだ高価であり、町歩きに携行できるものではありませんでした。浦安滞在時代においても、周五郎は常に取材ノートや写生帳を持ち歩き、土地の人々の話や土地の風景をかき留めたに違いなく、それをもとに創作されたのが『青ぺか物語』でした。浦安を逃げるように離れて8年後、周五郎は「東京通船」のポンポン蒸気に乗って浦安を訪問し、また30年後にも浦安を訪問していますが、その時には、「江東区の高橋から出ていた通船、葛西、東湾の両汽船とも、ずっと以前に通行をやめ、もっぱらバスの乗り継ぎに切り替えられたと聞いていたから」、東京からタクシーに乗って浦安に向かっています。広い荒地が広がり、澄んだ水を湛えていた入り江のあった「沖の弁天」(清瀧弁財天)のあたりは、その場所がわからないほどに変貌していました。彼は次のように記しています。「日本人は自分の手で国土をぶち壊し、汚濁させ廃滅させているのだ、と私は思った。」彼が写生帳に写した風景、取材ノートに残された記憶とは、まるで異なる風景がすでにこの時期広がっていたのです。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その11

2010-12-16 06:23:31 | Weblog
かつて東京から浦安方面に来る場合(逆に浦安方面から東京に出る場合)、人々は「通船」と呼ばれる蒸気船をもっぱら利用していました。それは『青べか物語』によると、「二つの船会社が運航」するものであり、「浦粕」では、「これらの発着するところを『蒸気河岸』と呼び、隣りあっている両桟橋の前にそれぞれの切符売り場」がありました。その「二つの船会社」とは、「葛西汽船」と「東湾汽船」でしたが、これは実際には「葛飾汽船」と「東京通船」のことでした。主人公の「蒸気河岸の先生」は、この「蒸気河岸」の近くに住んでいたから、そう地元の人たちから呼ばれていましたが、この「先生」が炉辺に集まった人々からいろいろな話を聞いたところは、「東湾汽船」の発着場を経営する「高品家」でした。この「高品家」は「浦粕第一の旦那衆」であり、その「高品さんの本家は十代島という小さな小字にある深い樹立に囲まれた、一町四方もあるような邸宅」であり、その先祖は「浦粕町の開拓者だそう」と「蒸気河岸の先生」は聞いています。「高品家」は「東湾汽船」の「主要な出資者」すなわち「大株主」であって、長男の「征三(まさぞう)」さんが「浦粕」の「蒸気河岸」の、「東湾汽船の発着場を経営」していました。この「高品さんの家の炉端」には、「常連の蒸気乗りや船頭たちが集」まり、いろいろな会話が交わされました。この「東湾汽船も葛西汽船も、徳行町が終点」でしたが、「遊ぶ場所の揃っている浦粕泊り」の「通船」もあり、自然、そこの「蒸気河岸」の「高品さんの家の炉端」には、「東湾汽船」関係の「蒸気乗り」や船頭たちが多数集まってきたのです。この「通船」は、「今日は竪川で伝馬が詰っちまってな、高橋まで五時間もかかっちまっただよ」という台詞から察すれば、小名木川の「高橋(たかばし)」から竪川を経由して、新川─江戸川─浦安─行徳を結ぶものであったらしい。「東湾汽船」と「葛西汽船」は、利用客の獲得に競合していました。さて「高品征三」とは誰かというと、それは当時「中外商業新報」の家庭部記者であった「高梨正三(まさみ)」のことであり、当時山本周五郎は京橋区桜橋際の「日本魂社」に勤めていて、何かとお世話になっていた人でした。山本周五郎は、浦安の蒸気河岸から「通船」と市電を利用して、京橋区桜橋際の「日本魂社」に通勤していましたが、遅刻や欠勤が多かったという。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その10

2010-12-15 06:22:06 | Weblog
山本周五郎の代表作の一つ『青べか物語』には、浦安町は「浦粕町」として、江戸川(旧江戸川)は「根戸川」として登場します。北には田畑が広がり、東は海、西は「根戸川」が流れ、南には「沖の百万坪」と呼ばれる広大な荒地が広がっています。パンフレット「周五郎が愛した『青ぺかの町』」によると、「沖の百万坪」と呼ばれていた場所は存在しないが、境川が海に流れ込んでいる先に「十万坪」と呼ばれる海苔と貝の漁場があったという。昭和6年(1931年)に松井天山によって描かれた浦安俯瞰図により作成された地図(パンフレットに所載)を見ると、「大松」は新川橋の南詰にあり、その「大松」のところに町役場の建物が見える。その南隣にある神社が清瀧神社で、その鳥居前から境川に平行する形で延びる通りが、当時の浦安町の中心街で、たしかに多数の商店が軒を並べています。「天てつ」や「二十目食堂」、「浦安演技館」、「浦安亭」などもその通りに沿ってあります。「天てつ」は小説では「天鉄」として登場し、「二十目食堂」は「四丁目」として、「浦安演技館」は「浦粕座」、「浦安亭」は「浦粕亭」として登場します。「沖の百万坪」は、実際はそのような名前の土地はありませんでしたが、江戸川を少し下ったところの沿岸に広がっていた荒地であって、そこには貝の缶詰工場やその貝殻を原料とする石灰工場がありました。江戸川の流れが境川に入るところの北側には、「江戸川亭」や「吉野屋」、「喜代川」などがあり、その「吉野屋」の北側の江戸川べりの河岸が「蒸気河岸」。「江戸川亭」は「根戸川亭」、「吉野屋」は船宿「千本」、「喜代川」は小料理屋「喜世川」として登場します。「蒸気河岸」については、パンフレットに次のように記されています。「三方を川と海に囲まれた浦安では、もっぱら船による水上交通に頼っており、当時、蒸気船は東京と浦安を結ぶ唯一の交通機関であった。猫実5丁目の江戸川に面した一角は、その蒸気船の発着場所であったことから、『蒸気河岸』といわれていた。この作品の主人公は、この辺りに住んでいたので、町民から『蒸気河岸の先生』と呼ばれていた」。松井天山の浦安俯瞰図の境川には多数の舟が浮かび(あるいは往来し)、その両岸に沿って人家が並んでいますが、これが茅葺き屋根の比較的裕福な漁師の家であり、「旧大塚家住宅」もその中の一軒として描かれているはずです。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その9

2010-12-14 07:40:06 | Weblog
パンフレット「災害と闘ってきたまち─キティ台風の襲来─」の中に、「浦安町航空写真図」というのがある。これは「昭和23年3月」に写されたもの。これを見ると、浦安が江戸川(旧江戸川)から東京湾へと南下する境川に沿って形成された集落であることがよくわかります。妙見島の先っちょで江戸川を渡っている橋が浦安橋で、その上の通りは現在は「葛西橋通り」になっています。その通りは現在の浦安駅あたりで南北に走る道とぶつかっています。とすると、境川に架かる新川橋は、そこから江戸川に平行して移動したあたりに架かる橋であり、よく見るとその橋の南詰西側には四角く黒い空間がありますが、それが清瀧神社の杜であるようだ。この周辺には町役場もあって、このあたりがかつての浦安町の中心地。そこから南側一帯を中心に、境川に沿ったかたちで人家が密集しています。清瀧神社前から境川に平行して通りが走っています。これが現在の「フラワー通り」で旧宇田川家住宅があるところ。現在、東京湾に沿った部分には首都高速湾岸線が走っており、江戸川が東京湾に流入する河口部にある太めの丸い芋のような形をした土地は、現在は舞浜駅や東京ディズニーランドになっており、干潟がある海岸線の海側は埋め立てられて京葉線や新浦安駅などが存在しています。ということは、境川はかつては首都高速湾岸線が現在走っているあたりで、東京湾(江戸湾)に流入していたことになります。「舞浜」「美浜」「入船」「塩浜」といった地名があるように、この首都高速湾岸線が走っているあたりにはかつては遠浅の美しい砂浜が広がっていたのです。パンフレットには次のように記されています。「浦安は、江戸川から流れてきた土砂が堆積してできた地形で、東京湾の最も奥部に位置しています。土地は一帯に低く平坦で、三方を水に囲まれているため、台風の来襲による水害は永い間浦安の人々を悩ませました。しかし、地先に広がる干潟や遠浅の海は、さまざまな自然の恵みをもたらして、浦安を漁業のまちとして発展させました。人々は災害と闘い続けながらも、この地に住むことを選んで、まちを守ってきたのです。」 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その8

2010-12-12 07:19:37 | Weblog
「新川橋」の案内板の古写真に写っている、境川両岸におびただしく係留されている船は、荷船ではなく、ほとんどが「べか舟」と呼ばれる船。「べか舟」というと、私は山本周五郎の『青べか物語』を思い出しますが、この「新川橋」付近の浦安が、実は『青べか物語』の舞台であったのです。『青べか物語』の浦安は、もっと東京湾寄りだと思い込んでいましたが、浦安の東京湾寄りは戦後埋め立てられ拡張された地域であって(そのために境川はかつての3倍近くの長さになった)、かつての浦安の中心地、「新川橋」付近から東京湾へは境川を下って舟で行くのに、そう遠いものではなかったのです。したがって、かつての浦安へは、地下鉄東西線を「浦安」で下り、「宮前通り」を南へ進むのがもっとも行きやすいということになる。浦安は、山本周五郎が昭和3年(1928年)の夏から1年余を過ごしたところであり、その時の体験や見聞が後に『青べか物語』を生み出すことになりました(昭和35年〔1960年〕)。映画化されたのは昭和37年(1962年東宝)。親に連れられて映画『青べか物語』を観に行った可能性が十分にあるけれども、幼少時ということもあってか内容はよく覚えていない。しかし「青べか」という言葉は、なぜかずっと脳裡に刻まれていました。主人公は「蒸気河岸の先生」で、映画でそれを演じたのは森繁久彌。ほかに東野英治郎、丹阿弥谷津子、左幸子、フランキー堺、中村メイコ、池内淳子、市原悦子、山茶花究、乙羽信子、左卜然など往年の名優たちが出ています。同じく山本周五郎の『五瓣の椿』(1964松竹)、『赤ひげ診療譚』(1965年東宝)、『樅の木は残った』(NHK大河ドラマ)を観た記憶は確かにあり、私は山本周五郎作品を、親に連れられて観た映画やテレビドラマで知ったことになる。「青べか」とは、青いペンキで塗られた「べか舟」のことであり、「べか舟」とは、「浦安をはじめ東京湾全域でみられた一人乗りの海苔採取用の木造船」のこと。海苔の採取以外に魚介類の採取や移動用にも使われたことでしょう。「浦安でべか舟が広く使われるようになったのは、明治時代の終わりごろ」であるらしく、「漁業の最盛期には、千数百隻のべか舟が境川や船圦(ふないり)川(現:船圦緑道)に所狭しと係留されて」いたという。「新川橋」の案内板の古写真は、その最盛期の頃の境川の様子を写したものであったのです。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その7

2010-12-11 08:16:03 | Weblog
崋山が麹町の自宅を出立したのは、文政8年(1825年)の6月29日、曇り空の朝6時頃。日本橋小網町三丁目の行徳河岸へと従僕一人を連れて向かい、そこからは小林左伝という崋山の友人らしき者も一緒になっている。崋山たち3人が乗り込んだ船は、貸切船。その船は、下総の行徳河岸(新河岸)へと向かいます。日本橋川→隅田川→小名木川→中川口→中川(旧中川)→新川→江戸川(旧江戸川)→行徳船場(新河岸)という経路。崋山はつねに写生帖と矢立、絵の具を携行している人でしたが、この旅においてももちろんのことそれらを携行しており、まず最初に彼が描いたのが中川船番所。小名木川が中川に出る手前の船の上から描いたもの。第2図が、行徳船場の「新河岸」の情景でした。そこからは陸路をたどり、八幡の葛飾八幡宮→鎌ヶ谷の牧→鎌ヶ谷宿(夕食)→白井宿とたどり、この白井宿の藤屋八右衛門方にその日は泊まりました。その日同宿した人物に、九十九里浜の漁村椎名内村の名主弥右衛門という者がおり、八ツ手網の使い方などについて崋山はその弥右衛門から聞いたりしています。翌7月1日は、白井宿→手賀沼西端→布佐→木下河岸(きおろしがし・昼食)→神崎(こうざき・夕食)→津ノ宮河岸まで来て、そこの佐原屋で宿。7月2日は、香取神宮参拝→津ノ宮→牛堀→潮来(いたこ)。この潮来の「いずみや泉助」にこの日は泊まり。7月3日、利根川に出て銚子の河岸に到着。ここ銚子で崋山は銚子浜の写生を精力的に行っています。香取神宮や鹿島神宮の参拝という当時の庶民のポピュラーな旅の経路をたどり、銚子に出て、その町や太平洋に面した磯のようすを描いているのですが、この銚子は、「東北地方から江戸への廻船の寄港地として、また利根川高瀬船への積替地、いわゆる『内川廻し』ルートの中継点として、東廻り海運の『湊』であると同時に、利根川水運の『河岸』としての性格を持って発展」(『河岸に生きる人々』川名登)した港町であったのです。江戸日本橋小網町から銚子までの川筋において、崋山の目は、江戸を支える利根川水系(小名木川・新川・江戸川・霞ヶ浦・利根川)の水運の盛況ぶりをしっかりと捉えていたに違いない。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その6

2010-12-10 06:21:29 | Weblog
渡辺崋山の『四州真景』については、芳賀徹さんの『渡辺崋山 優しい旅人』に詳しい。それによれば、崋山がこの旅に出立したのは文政8年(1825年)6月29日。数えで33歳の時。それまで崋山は、16歳の時と26歳の時に藩主に従って田原を往復し、29歳の時、鎌倉・江の島へ数日の小旅行をしていましたが、この「四州」の旅は彼にとっては初めての本格的な旅行でした。この時までに、画家崋山の名前は広く知られており、すでに『一掃百態』や『佐藤一斎像』などの作品がありました。しかし小藩の藩士としての生活は苦しく、「家財を質に入れ、借金を重ね、売り絵を描いて、かつかつにその日その日を支え」るような毎日でした。「たか」を妻に迎えた文政6年(1823年)には、「心の掟」という覚書を記していますが、それには両親にひもじい思いをさせないこと、そして「学問ヲシテ遠ク慮(おもんぱか)リ画ヲ書キテ急ヲ救フ事」といったことが書かれています。崋山にとって絵を描いて売ることは、日々の生活を支える手段でもあったのです。しかし文政7年(1824年)8月、崋山が孝養を尽くした父定通が死去。その心の痛手が、翌年の「四州」旅行という保養旅行へ赴く事情の背景にあったと思われます。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その5

2010-12-09 06:41:01 | Weblog
文政8年(1825年)の6月29日(旧暦)午前、船でこの新川を通過し、下総の行徳河岸(ぎょうとくがし─「新河岸」)を目指していた一人の武士がいる。その武士は下僕を含め同行者2人を連れており、船は日本橋小網町三丁目行徳河岸船問屋加田屋長左衛門の小舟を借り切っていました。船は日本橋川から隅田川を経由して、万年橋を潜って小名木川に入り、中川船番所の前を通過して中川を横断、そしてすぐに新川に入りました。新川から江戸川へと入り、江戸川を遡って行徳河岸(新河岸)に到着したのはその日のお昼頃。その行徳河岸で昼食を摂り、陸路、八幡宿を経て鎌ヶ谷宿の鹿島屋で夕食。さらに道を進んでその日は、白井宿の旅籠屋藤屋八右衛門方に泊まっています。その武士は誰かと言えば、三州田原藩士の渡辺登(崋山)。崋山は寛政5年(1793年)に生まれているから、この時32歳(満年齢)。この崋山が描いた『四州真景図』の一枚(中川船番所を描いたもの)を、私は中川船番所資料館の展示品の中に見ました。それには、「渡辺崋山画 文政8年(1825)江戸から利根川を利用して、銚子・上総海岸までを旅した際に描いたもの」という解説文が付されており、崋山が小名木川や新川を船で航行したことがあることを初めて知りました。広重が描く「中川口」とほぼ同じ光景の中を、中川船番所を左手に見て中川を横断し、新川に入って江戸川へと向かっていった崋山がいたわけです。それは文政8年(1825年)6月29日の午前のことでした。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その4

2010-12-08 07:08:40 | Weblog
江戸地廻り経済の発展により、関東地方の諸河川では新河岸が各地に出来ていきました。この江戸地廻り経済の発展を象徴する産物の一つが醤油。その醤油は銚子や野田が代表的な産地でした。この銚子や野田の醤油の江戸への出荷量が増大したのは18世紀半ば以降のことであるという。林玲子さんの『関東の醤油と織物』によれば、銚子醤油の代表的存在であるヤマサ(広屋)は、醤油を運ぶための専属船を所有しており(それを「手船」という)、佐助船・長四郎船・弥七船が江戸への醤油輸送を専門に行っていました。江戸日本橋小網町の広屋吉右衛門商店がその目指す先でした。幕末期になると、江戸ばかりでなく、江戸以外の利根川筋の醤油販売も盛んになっていきました。醤油の原料は大豆・小麦・塩。醤油を運ぶための容器は樽。燃料は薪。それら醤油の生産販売に必要なものはほとんど川船によって運ばれ、そして出来上がった醤油も川船(「手船」という専属船)によって運ばれたのです。林さんは、以上のことを踏まえて、銚子の醤油の醸造・流通は、「利根川水系および霞ヶ浦・北浦の水運により支えられたといってよい」と結論づけています。しかしその銚子も、江戸への輸送という点では、野田に較べると圧倒的に不利でした。なぜなら、野田の場合、新川口へは船で5時間余で到着し、そこから新川→小名木川→隅田川→日本橋川を経由して小網町河岸までおよそ3時間、つまり8時間余で醤油を江戸に運ぶことができたからです。いずれにしろ、江戸地廻り経済の発展を象徴する野田や銚子などの醤油が、利根川→江戸川→新川→小名木川を利用して、江戸に運ばれたいったことは疑いなく、醤油の入った樽を満載した川船が、この新川をひっきりなしに江戸小網町へと向かっていったのです。もちろん醤油だけでなく、様々な物資を積載した川船や、人々を乗せた船がここを行き交っていた時代があったのです。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その3

2010-12-07 06:26:22 | Weblog
かつて隅田川の上流、千住大橋から上を「荒川」といったらしい。しかし治水の関係で荒川放水路が造られたことにより、岩淵水門から墨田区へと流れる川が隅田川となり、荒川は江東区と江戸川区の区界付近および区界を流れることになりました。実は旧中川(都営地下鉄新宿線東大島駅の下を流れる川であり、広重の「中川口」に描かれる川)も江東区と江戸川区の区境をなしており、小名木川から旧中川を隔てて対岸の「都立大島小松川公園」は、荒川の手前ですが江戸川区。旧中川は南に下ってその荒川と合流します。旧中川は、江戸時代前期の利根川東遷事業以前は、利根川と荒川の本流であり、東遷事業により利根川は東に移され、荒川は西に移されたことにより、その中間に流れる川ということで「中川」と言われるようになりました。つまり東遷事業の以前には「中川」という名前の川は存在しなかったことになる。船堀橋を渡って荒川を越えると、首都高速を挟んで東側に、荒川に接するような形で川がありますが、これが新中川(中川放水路)。この中川放水路は戦後間もなくのカスリーン台風(1947年)による大水害をきっかけにその建設計画が推進され、昭和24年(1949年)にその開削が本格化。荒川放水路の開削と同様、多くの家屋の立ち退きのもとに開削工事は進められ、昭和38年(1963年)に完成しました。河口付近で、旧中川と同じく荒川と合流します。ということで、この新中川(中川放水路)は戦後に造られたもの。船堀橋で渡った荒川も中川(新中川)も、大正時代以後に開削された人工河川であったのです。実は、新川遊歩道を歩いて目指す先の江戸川も、これは旧江戸川であり、江戸川本流はその東に流れる江戸川放水路であって、現在はそれが江戸川となっています。しかし東京都と千葉県の都県境となっているのは、江戸川ではなくて旧江戸川の方。旧中川が江東区と江戸川区の区境となっていたように、旧江戸川が東京都と千葉県の都県境になっているのです。かつて両国橋は、武蔵国と下総国とを結ぶ橋であったわけだから、隅田川が国境となっていたことになりますが、それが現在ではかなり東に移っている(県境として)ということになります。江戸時代前期の利根川東遷事業により、利根川の水は中川(旧中川)以外に江戸川(旧江戸川)にも流れるようになり、利根川水運が活発化していくことになったのです。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その2

2010-12-06 06:51:01 | Weblog
広重の「中川口」には中川の向こうに新川が流れており、小名木川からはいったん中川に入り、そこから新川へと船は航行できるようになっていることがわかります。しかし現在は、中川の対岸には都立大島小松川公園の「風の広場」があって、新川が流れていたところはやや小高い台地になっています。この新川を埋め立てて高台を造成した膨大な土はいったいどこから運ばれたのか、という疑問が浮かびますが、考えられるのは荒川放水路の開削によって生まれた大量の土砂が用いられたのではないかということ。岩淵水門から荒川放水路と隅田川は分かれていますが、この荒川放水路の開削工事は大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)にかけて17年間の歳月をかけて行われました。その間には関東大震災や、第一次世界大戦による深刻な不況などもありました。南葛飾郡の大木村・平井村・船堀村の3村が廃村となり、1300戸もの人家が開削工事のために立ち退いたという。この荒川放水路の完成により、現在の隅田川を下流の河道としていた荒川は東京の市街地を通らずに東京湾に注ぐようになり、台風や集中豪雨などによる隅田川流域の水害は大幅に減少することになりました。この川幅が500mもある人口河川荒川放水路を開削した時の大量の土砂は、両岸の堤防の建設はもちろんのこと、現在の大島小松川公園がある台地の盛土にも使われたのではないかと推測されますが、そのあたりはまだ確認はできていません。 . . . 本文を読む
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2010.12月取材旅行「新川~江戸川~浦安」その1

2010-12-05 10:51:36 | Weblog
広重の『名所江戸百景』のうち「中川口」には、上左手に「新川」(船堀川とも)が描かれています。東方向やや南に向かってその「新川」は延びており、その先がどうなっているかこの絵からはわかりませんが、江戸川と合流しているはずです。現在、小名木川から見た中川を隔てた東側は公園になっており、「新川」はどこにも見当たりません。公園の向こうは荒川になっており、この荒川の建設により、広重の描いた部分の「新川」は無くなっています。中川船番所資料館を訪れた時、観覧している人たちに解説をしていた学芸員の方に、「新川は今でもあるんですか?」とお聞きすると、「荒川の向こうにありますよ」という返答であったので、この広重の描く「新川」の先がどうなっているのか、ぜひ歩いてみたいと思っていました。1回目は、中川船番所資料館を再び訪問した時、その午後に荒川と中川(新中川)に架かる船堀橋を渡って「新川」の流れを確認し、2回目は再び船堀橋を渡って「新川」を川沿いに江戸川まで歩いてみることにしました。実際は、旧江戸川に出たところで右折し、さらに浦安橋で旧江戸川を渡って境川付近まで歩くことになりました。以下その取材報告です。 . . . 本文を読む
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