鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.6月取材旅行「海老名~河原口~厚木~愛甲石田」 その4

2014-06-28 06:16:19 | Weblog
『新編相模国風土記稿』に、厚木の河岸場は、諸物資を大住郡の須賀湊に運搬するところであるという記述がありましたが、では相模川の河口部にある須賀湊とはどういうところであったのか。『平塚市須賀の民俗 平塚市博物館資料No17(平塚市博物館編)によれば、旧須賀村は、現在の平塚市代官町・久領堤・夕陽ヶ丘・高浜台・幸町・札場町・須賀・千石河岸・松風町・袖ヶ浜の一部を含んだ地域であり、江戸時代においては天領(幕府領)でした。幕末には戸数は500戸ほどで人口は2500人前後であったという。「大山千軒、須賀千軒、南湖は三六十軒」といわれ、江戸や房総半島、遠州などとを結ぶ海運の拠点として、また相模川舟運の拠点として繁栄しました。相模平野各地の年貢米や津久井地方からの炭・薪・木材等がここに運ばれ、そしてこの湊に入った干鰯(ほしか=肥料)やさまざまな日用品がここから相模平野各地や津久井地方などに運ばれました。天明元年(1781年)9月に、廻船会所が設けられ、船持は18人を数えたという。「船持」とはおそらく廻船の所有者であったでしょう。須賀湊には廻船問屋や肥料(干鰯)問屋などが軒を並べていました。肥料問屋としてはたとえば「三河屋」や「尼屋」というのがあり、「三河屋」は妙徳丸や妙宝丸といった廻船(千石船)を所有し、蔵が10棟もあったというし、また「尼屋」は静観丸を所有し、蔵が8棟もあったとのこと。干鰯は、九十九里浜あたりから樽に入れられて船で運ばれてきました。また大山詣の人々も、房総や伊豆方面から漁船に乗ってここに上陸し、わらじ・白脚絆(きゃはん)・白足袋姿で歩いて大山に向かっていったという。厚木の河岸場は、この相模川河口部にある須賀湊と密接に結びついていたのです。 . . . 本文を読む