鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

ヘンリー・ヒュースケンの見た幕末の江戸 その6

2010-07-29 06:35:22 | Weblog
 このヒュースケンが中に入った本丸御殿は、文久3年(1863年)に焼失しています。そしてその後、再建されることはなく明治維新を迎えました。本丸御殿が焼失してしまうと、将軍は、前将軍すなわち大御所の住いであった西の丸御殿に移り住み、最後の将軍である15代慶喜も西の丸御殿に住んでいました。明治維新になって京都から明治天皇が東京に出てくると、天皇が住んだのはその西の丸御殿であり、それがいわゆる「皇居」であったわけですが、その西の丸御殿も火事で焼けてしまい、現在、江戸城の御殿で残っているものは何もありません。本丸御殿があった本丸跡は、現在、「皇居東御苑」となっており、安政4年(1857年)10月21日の午前、澄みきった江戸の空の下、蕃書調所を出発して大手門から朱雀門を経て本丸御殿の玄関に到着し、それから本丸御殿の大広間まで進んだハリスとヒュースケンのルートを、想像をめぐらしながらたどることができます。 . . . 本文を読む
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ヘンリー・ヒュースケンの見た幕末の江戸 その5

2010-07-28 07:16:39 | Weblog
『ヒュースケン日本日記』の、ハリスとヒュースケンが江戸城に入り、将軍に謁見する場面は、そのルートやそのルートの周辺のようすがわかって面白い。それほど記述がくわしいわけではありませんが、ポイントがよくおさえられてあって、どういうルートをたどったのか、そしてどういうようすであったのかがよくわかります。『復元江戸情報地図』や『江戸城の見取り図』などとヒュースケンの記述を照らし合わせていくと、そのルートがわかってくるのです。中江克己さんの『江戸城の見取り図』は新書版という簡便なものでありながら、江戸城内部の間取りなどが詳しくわかるもので、たいへん参考になりました。 . . . 本文を読む
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ヘンリー・ヒュースケンの見た幕末の江戸 その4

2010-07-27 04:57:06 | Weblog
江戸におけるハリスの接待御用掛は、以下の8名でした。①土岐丹波守頼旨②林大学頭③筒井肥前守政憲④川路左衛門尉聖謨(としあきら)⑤井上信濃守清直⑥鵜殿民部少輔長鋭(ながとし)⑦永井玄蕃頭尚志(なおゆき)⑧塚越藤助。「エンペラー」(将軍)との謁見の際、ハリスは、「国務省指定の金モールのデザイン」をほどこした制服、ヒュースケンはアメリカ海軍士官の略装というふうに、それぞれ威儀を正し、お辞儀はするが平伏はしないということが日米双方で確認されていました。 . . . 本文を読む
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ヘンリー・ヒュースケンの見た幕末の江戸 その3

2010-07-26 07:29:25 | Weblog
『ヒュースケン日本日記』のP205には「品川海岸」、P206には「松平大和守下屋敷から品川台場を望む」という挿絵が掲載されています。写真をもとに描いたと思われるような2枚の絵ですが、P205の方には、「右は薩摩屋敷、左遠方は青楼」と記されています。これをもとに『復元江戸情報地図』を見てみると、この絵が描かれた地点は、高輪中町の東海道の路上。右端の長屋塀は、薩摩藩下屋敷の長屋塀。その海岸沿いの船が接岸しているところは「松平揚場」。その長屋塀の向こうに続く町屋は、高輪南町。左端の海岸沿いに建ち並んでいるのは「青楼」すなわち品川宿の旅籠街(飯盛女のいる岡場所)ということになります。ということは、その遊廓街の右側の小高い丘は「八つ山(やつやま)」ということになるでしょう。P206の絵は、面白い構図です。松平大和守下屋敷を下に見下ろす形で、その向こうに品川の海と砲台が見えます。これはどこからの構図なのかを調べてみると、松平大和守下屋敷とは、武蔵川越藩松平大和守7万石の陣屋地(下屋敷)のこと。その裏側(西側)の「北品川宿下大崎村入会」との境の道あたりから品川の海を望む形で、川越藩下屋敷を描いたものと考えられます。左手の森の向こうは、筑後久留米藩有馬家の下屋敷地。川越藩下屋敷の内部には真っ直ぐな通りがあって、その左側(北側)には「兵舎」のような長屋がずらりと並び、また屋敷内には火の見櫓があっちたこともわかります。屋敷地と海岸の間には東海道が左右に走っているはずです。この絵にはその東海道は見えませんが、P205の絵には、旅人が歩く東海道がしっかりと描かれています。この絵の中央に描かれている武家屋敷みたいなものが、位置からいって、「松平大和守下屋敷」すなわち川越藩下屋敷であるようです。 . . . 本文を読む
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ヘンリー・ヒュースケンの見た幕末の江戸 その2

2010-07-25 06:25:35 | Weblog
 ヒュースケンという青年は、ハリスによれば、「食べること、飲むこと、眠ることだけは忘れないが、その他のことはあまり気にしない」人であったという。領事館のボーイをした西山助蔵によれば、「恰幅(かっぷく)のいい男で、通人(つうじん)すぎる男」でもあったという。正義感と善意にあふれた自由闊達(かったつ)な青年で、江戸においてもハリスとは異なってかなり自由に行動したようだ。当時江戸に滞在していた外国人たちに同行して、王子の飛鳥山や上野周辺、川崎の梅林などに遊び、また、曲芸や手品、相撲なども楽しんでいたようです。(『ヒュースケン日本日記』「訳者まえがき」を参照) . . . 本文を読む
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ヘンリー・ヒュースケンの見た幕末の江戸 その1

2010-07-23 07:09:35 | Weblog
ヘンリー・ヒュースケン(1832~1861)は、アメリカの駐日総領事(後に公使に昇格)であったタウンゼンド・ハリスの通訳兼書記として活躍したオランダ生まれの青年。彼はオランダ語ばかりか英語やフランス語、そしてドイツ語にも通じ、日米修好通商条約はもちろん、日英修好通商条約の締結にも尽力。さらにプロシア使節オイレンブルクの交渉にも協力するなどしますが、万延元年12月5日(1861年1月15日)の夜、プロシア使節の滞留先である赤羽根接遇所からアメリカ公使館である麻布善福寺に帰る途中、薩摩藩士に襲われて翌日未明に亡くなります。このヒュースケンには、岩波文庫に『ヒュースケン日本日記』(青木枝朗訳)というのがあり、これには1855年10月25日から1861年1月8日、つまり殺害される1週間前までのヒュースケンの日記が収録されています。彼の23歳から28歳までの軌跡を、この日記からうかがうことができるのです。ヒュースケンが、将軍のお膝元である江戸に初めて足を踏み入れたのは、前に触れたように1857年11月30日(安政4年10月14日)。その日の午後4時頃に、九段下牛ヶ淵の蕃書調所に入ったのですが、それから殺害されるまでの約3年余の間に、彼が見た江戸の景観はどういうものであったのか。それを日記を通してみてみることにしたい。 . . . 本文を読む
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2010.7月取材旅行「日比谷~半蔵門~鍛冶橋」 その最終回

2010-07-21 06:56:35 | Weblog
江戸や明治の東京が「水の都」でもあったことは、『百年前の東京絵図』などをみてみるとよくわかります。たとえば「数寄屋橋付近の図」(P156~157)。数寄屋橋の現在の景観を知っているものにとっては、「へー、これがあのあたりのかつての風景か!」と驚きの念を禁じえない。『復元江戸情報地図』とつき合わせて見れば、これは数寄屋橋の南東側から描いたもの。土橋やそれに続く木製の橋の両側の広い堀は外堀。その数奇屋橋の向こうの両側の石組が、数寄屋橋御門の石垣。江戸時代においてはその数寄屋橋御門を潜れば、その向こうには大名屋敷が建ち並んでいました。数寄屋橋御門を潜って右折していけばやがて鍛冶橋御門内にぶつかりますが、その手前左側にあったのが土佐藩の上屋敷(鍛冶橋藩邸)。この絵の右端奥に鍛冶橋や鍛冶橋御門があるはずで、ということは画面右端の石垣の左側にかつては土佐藩邸(鍛冶橋藩邸)があったことになる。数寄屋橋御門を潜った左手には、かつて肥前島原藩の上屋敷がありました。その数寄屋橋の手前の堀沿いには多数の荷舟が浮かんでいます。よく見ると数寄屋橋の下は、左側の堀から右側の堀に水が滝のように流れ落ちています。つまり左側の堀と右側の堀には段差があったことになる。したがって荷舟はこの数寄屋橋の下を潜って左側の堀へ進むことはできない。右側の堀に荷舟が浮かんでいるということは、東京湾の方からここまで舟で入ってくることができたということです。この絵で興味深いのは、数寄屋橋手前右側の外堀沿いに多数の屋台が軒を並べていること。左端から、牛めし屋、菓子屋、大福餅屋、食パン屋、牛めし屋、きつね寿司屋、大福餅屋、寿司屋という風に続いています。通りには大八車をひく馬や、人力車や、振り売りの商人たちの姿が見られます。右端の寿司屋とその左隣りの大福餅屋との間には堀へと下りていく道がありますが、これは荷舟が接岸している河岸(かし)へと続く道。数寄屋橋の手前(堀の外側)右手には、荷舟が荷物を積み降ろしするための河岸があったのです。右端の堀を進む荷舟の船頭の姿から考えると、この荷舟は鍛冶橋方面から外堀を進んで来たようです。ほかにもP58~59の「旧京橋の図」や、P84~85の「三つ橋の現況」など、江戸の下町には堀が縦横に走り、その堀をたくさんの荷舟が行き交っていたことがわかります。 . . . 本文を読む
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2010.7月取材旅行「日比谷~半蔵門~鍛冶橋」 その8

2010-07-20 06:36:43 | Weblog
外桜田門外で、大老であった近江彦根藩主井伊直弼が暗殺されたのは、安政7年(1860年)3月3日のことでした。いわゆる「桜田門外の変」。この暗殺事件は「安政の大獄」の反動として起こりました。暗殺集団は、過激尊王攘夷論者の水戸脱藩士17名と薩摩藩士1名、計18名によって構成されていました。彼らはこの日、登城途中の井伊直弼の行列を襲撃し、井伊直弼の首級をあげたのです。明治になるのが1868年。この「桜田門外の変」から8年後のこと。この「桜田門外の変」という大事件により、幕府の権威の失墜は加速していくことになっのです。この事件は、樋口大吉にとっても衝撃的な事件であったろうと思われる。その時、樋口大吉は何をしていたか。『樋口一葉と甲州』(山梨県立文学館)の「樋口一葉略年譜」を見てみると、蕃書調所の小使として働いていた大吉は、安政5年(1858年)の9月、大御番与力田辺太郎に従って大坂へ向かい、およそ1年ほど大坂城の警備の任に就いていたようです。そして翌安政6年(1859年)の9月、小川町に移った蕃書調所勤務に復帰。その年の冬には、御勘定組頭菊池大助の中小姓となり、以後、用人、家来に取り立てられている。やはりかなり優秀であったのでしょう。そして「桜田門外の変」が起こった安政7年(1860年)の4月には、旗本稲葉大膳家に奉公に出ていた妻多喜(古屋あやめ)を引き取って住んだ練塀小路の借家で、長男仙太郎(のち泉太郎)が生まれています。ということは、大吉は、「桜田門外の変」当時、御勘定組頭菊池大助のもとで働いており、おそらく身重の妻とともに練塀小路の借家に住んでいたものと思われる。蕃書調所で駐日アメリカ総領事のハリスやその通訳ヒュースケンに接し、また蕃書調所で多くの優秀な洋学者たちに接した大吉にとって、開港に反対する過激尊王論者が大老井伊直弼を殺害した事件は、どういう心の衝撃を引き起こすものであったのか興味あることですが、残された史料は限られていて推測するしかありません。桜田門外の変については、故吉村昭さんの大作『桜田門外ノ変』があります。吉村さんの『史実を歩く』に「『桜田門外ノ変』余話」というのがありますが、そこには杵築(きつき)藩松平大隅守の江戸藩邸から、事件の始終を目撃した「興津」という江戸留守居役の記録の一部が出てきます。この杵築藩邸跡地に現在建っている建物が警視庁です。 . . . 本文を読む
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2010.7月取材旅行「日比谷~半蔵門~鍛冶橋」 その7

2010-07-19 06:34:32 | Weblog
甲斐国から江戸に出た樋口大吉(樋口一葉の父になる人)は、江戸に着いた6日後の安政4年(1857年)4月18日、蕃書調所勤番衆の眞下専之丞のお供をして、弁当持ちのもう一人とともに江戸城に入っています。大吉のその日の日記によれば、そのルートは次の通り。大手門より入る→御玄関前→本丸中之口御門→御納戸口御台所口奥入口辺りを十分に見学→平川御門内→大手門(老中・若年寄の登城風景を見学)→桔梗門より出る。江戸城図を見れば、おそらくそのコースは、大手門から下乗門・百人門を潜り、百人番所を左手に見て中之口門から本丸に入り、さらに北にある御納戸口前からさらに台所口の奥にまで進んだらしい。台所門というのがあり、そこは賄方(まかないかた)や台所方のほか、食材などを運び込む通用口でした。納戸口と台所口との間には新土戸門があり、その右手向こうには台所前三重櫓があり、その櫓の右側は白鳥濠でした。台所口のところから先は銅塀で仕切られていて先へ進むことはできない。この台所口の奥の方まで見学させてもらってから、大吉は中之門から本丸を出て不浄門である平川門内を見学。先ほど入った大手門のところまで戻って老中や若年寄の登城風景を見物した後、桔梗門すなわち内桜田門より大名屋敷が建ち並ぶ西の丸下(現在の皇居外苑)へ出たのです。ついしばらく前まで甲斐国山梨郡中萩原村の百姓の倅(せがれ)であった青年が、江戸城の本丸の台所口まで入ることができたわけで、大吉の感慨はいかばかりであったか。それが出来たのも、同郷の先輩で父八左衛門の親友であった蕃書調所勤番衆の眞下専之丞(もとは益田藤助というやはり中萩原村の百姓の倅)がひいきをしてくれ、そのお供として行動することができたからでした。 . . . 本文を読む
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2010.7月取材旅行「日比谷~半蔵門~鍛冶橋」 その6

2010-07-18 08:40:00 | Weblog
樋口一葉の父と母である樋口大吉と古屋あやめが、甲斐国山梨郡中萩原村を江戸に向けて出立したのは、安政4年(1857年)の4月6日のこと。二人は甲州街道ではなく御坂道、足柄道を経由して東海道に出ると、江の島、鎌倉、川崎、羽田、品川などを経由してて4月12日に日本橋馬喰町(ばくろうちょう)二丁目の旅宿丹波屋に入りました。翌日丹波屋を出た大吉は、神田鍛冶町一丁目の公儀御用菓子司大久保主水(もんど)を訪ねますが、そこは将軍家御用達であってそれ以外の製造はしないということで、今度は田安・一橋家御用達の本町三丁目の鳥飼和泉を訪れ、菓子折を購入。その菓子折を持った大吉は、九段下の役宅に眞下専之丞を訪問するもののあいにく不在であったため、翌14日の早朝、ふたたび九段下の役宅に眞下を訪問。今度は会うことができて、眞下から役宅に厄介になることの承諾を得ると、大吉は丹波屋に戻り、あやめとともにその日のうちに九段下の眞下の役宅へと引っ越しています。さてこの眞下専之丞のいた「九段下御役宅」はどこであったかと言えば、これが実は九段坂下の「蕃書調所」でした。眞下は当時、前年の安政3年(1856年)に設けられた蕃書調所に勤めており、この安政4年の6月25日付で勤番衆筆頭(肝煎)に就任。大吉は、蕃書調所の小使として採用されることになりました。この大吉とあやめが江戸で頼り、そして引き立ててもらうことになった眞下専之丞という人物は、もともとは中萩原の百姓で、大吉の父である八左衛門の親友でもあった益田藤助。江戸に出た益田藤助が、眞下専之丞となり、そして蕃書調所の調役となったのは安政3年2月13日のこと。さて一葉の父樋口大吉は、安政4年の7月から蕃書調所の小使として働くことになるのですが、その蕃書調所に10月になって入って来るのが駐日アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとその通訳であるヘンリー・ヒュースケンであったのです。一行が下田から到着したのは10月14日(西暦では1857年11月30日)の午後4時頃。このハリスが最終的に江戸の宿所であった蕃書調所を立ち去るのが翌安政5年の5月7日。この期間、大吉はずっと蕃書調所で働いている。ということは樋口一葉の父大吉は、ハリスやヒュースケンと同じ屋根の下で過ごしていた時期があった(27歳から28歳にかけて蕃書調所の小使の一人として)ということになるのです。 . . . 本文を読む
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2010.7月取材旅行「日比谷~半蔵門~鍛冶橋」 その5

2010-07-16 05:32:40 | Weblog
オランダのアムステルダムで生まれたヘンリー・ヒュースケンという男がいた。彼は21歳の時にオランダからアメリカに移住し、オランダ語に加えて英語を話すことができるようになっていましたが、ニューヨークで商売の成功を夢見ていた彼には、別の運命が待ち構えていました。そのきっかけは、初代アメリカ総領事として日本に赴任するタウンゼント・ハリスが、通訳を求めているということを知ったことでした。その通訳の条件は英語とオランダ語ができること。ヒュースケンはそのハリスの通訳募集に応募し、採用されることになったのです。ニューヨークから喜望峰回りでペナンに到着したヒュースケンは、そこでハリスがやってくるのを待ち、合流した二人は1856年8月21日(安政3年7月21日)に伊豆半島南部の下田に入港。来日したハリスは、江戸出府の許可と将軍との拝謁を強硬に幕府に対して要求し、ついに通訳ヒュースケンを伴ったアメリカ総領事ハリスの一行は、下田から天城峠を越えて東海道に入り、その東海道を経由して江戸に入ることになりました。ハリス一行が川崎宿の万年屋を出立して江戸へ入ったのは1857年11月30日(安政4年10月14日)のこと。六郷川(多摩川)を渡し舟で渡り、品川の本陣で威儀を整えました。ハリスもヒュースケンも乗物(高級駕籠)で、東海道を進んで行く。品川宿から江戸市中の宿舎までの道筋には、行列をみるための見物人がぎっしりと人垣を作っていました。その道筋は、『ヒュースケン日本日記』(岩波文庫)の註釈によると、およそ次のようなものでした。品川海晏寺(かいあんじ)門前→高輪通り→芝車町→同所田町→本芝町通り→金杉橋→芝浜松町→芝口通り→芝口橋→尾張町通り→京橋→南伝馬町通り→日本橋→室町→本町三丁目を左折→同町二丁目→お堀端通り→鎌倉河岸→三河町→小川町通り→牛ヶ淵の蕃書調所。すなわち彼らの江戸における宿泊場所は「牛ヶ淵の蕃書調所」であったのです。ヒュースケンは、「宿舎は皇城の第三番めの囲い(郭)の中」にあったと記しています。到着したのは午後4時のことでした。 . . . 本文を読む
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2010.7月取材旅行「日比谷~半蔵門~鍛冶橋」 その4

2010-07-15 06:41:47 | Weblog
甲州街道(甲州道中)の起点は日本橋。日本橋から和田倉濠端に出て左折。内堀を右手に見てまもなく日比谷で右折し、外桜田門外を経て半蔵門前で左折すれば、四谷見附を経て内藤新宿に至る。かつて四谷大木戸があったあたりには玉川上水の水番所があったことは、前回の取材旅行で触れた通りです。ということは、『F.ベアト幕末日本写真集』のP96に写っている、桜田濠(内堀)の外側の土手を左右に走っている道は、甲州街道であるということになる。この甲州街道を往き来する人々は、江戸の名水の一つとして知られた「柳の井戸」の水で口をうるおし、桜田濠や外桜田門、そして松樹の繁る芝土手の景観を楽しんだのです。井戸の水を飲んだのは人ばかりではない。荷物を背に乗せた馬にとっても、この井戸の水は貴重なものであったでしょう。P97下の写真の手前に写っているのはまさしく甲州街道の桜田濠沿いの道端。右へ進めば外桜田門外へ出るはずです。和田倉門あたりで和田倉濠端に出た甲州街道は、右手に内堀の水面やその向こうに続く石垣、また桜田門などの諸門や松樹が繁る美しい芝土手を見ながら、徐々に高度を上げ、半蔵門外へと進んでいったことになります。 . . . 本文を読む
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2010.7月取材旅行「日比谷~半蔵門~鍛冶橋」 その3

2010-07-13 06:25:21 | Weblog
フェリーチェ・ベアトの写真集には、江戸城の内堀を撮影した写真が数枚あります。収められているのは『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)。とくにP96~97の3枚の写真が印象深い。P96の写真には、「右下の写真の左手をアップで写したもの」と解説が付されており、P97の上の写真には、「下の写真の右手をアップで写したもの」という解説が付されています。ではその肝心のP97の下の写真というと、それには「堀の向うが現在の霞ヶ関にあたる」と解説がある。ということは、この3枚の写真はほぼ同じ地点でベアトによって撮影されたものであり、その地点とは、現在の霞ヶ関近くの内堀が望める場所ということになる。内堀の外側(西側)には霞ヶ関があり、右手の江戸城と左手の霞ヶ関を、内堀を隔てて望める地点というと、それは日比谷濠のあたりか桜田濠あたりに限られます。では日比谷濠か桜田濠のどちらであるかと言えば、堀の両側が芝土手であることを考えれば、これは桜田濠であることはまず確かです。というのも私が日比谷公園を左手に見て歩いてきた日比谷濠の内側は石垣であったからです。内堀の奥に橋がないことと、芝土手の形状から考えれば、これは外桜田門外からやや半蔵門寄りの地点(しかし半蔵門は見えない地点)。となると、現在の警視庁を左手に見る「内堀通り」の、内堀寄りではないかという推測が成り立ちます。となると写真左手にある武家屋敷は近江彦根藩井伊家上屋敷ということになり、P96の写真でややクローズアップされる、屋敷地から内堀際に下っていく芝土手にある建物と、樹木のある出っ張りは、後にその位置を確認することになりますが、「柳の井戸」ということになるのではないか。となると、その「柳の井戸」の上あたりは現在は「憲政記念館」や「国立国会図書館」があり、その向こう(北側)に「最高裁判所」や「国立劇場」があることになります。 . . . 本文を読む
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2010.7月取材旅行「日比谷~半蔵門~鍛冶橋」 その2

2010-07-12 06:39:57 | Weblog
『復元 江戸情報地図』で、再度、葵坂(あおいざか)のあたりを見ておきたい。この部分の地図が出てくるのは22の新橋。その5-A・Bが該当部分。葵坂は、5-Aにあり、左に太田善太夫、上総一宮藩加納備中守の長屋塀を見て、ゆるやかな坂を上りきると、その右手に外堀をまたぐ堰(せき)があり、その向こうに溜池が見えます。歩道橋の下にあった石垣は、5-Bにあり、その石垣の上は日向延岡藩内藤能登守の上屋敷になっています。金刀比羅神社はやはり5-Bにあり、それは讃岐丸亀藩京極佐渡守の上屋敷地の西角にあり、北隣は御勘定奉行田村伊予守の屋敷。葵坂は、その金刀比羅宮から特許庁に向かって上がっています。虎の門病院を左に見て外堀通りへと続く道がありますが、それとは異なり、もうすこし外堀側の坂道であったことがわかります。歩道橋を下りたところの三角スペースの、建物寄りのところが葵坂の上り口であったようです。 . . . 本文を読む
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2010.7月取材旅行「日比谷~半蔵門~鍛冶橋」 その1

2010-07-11 06:03:55 | Weblog
前回までで江戸城の外堀のおおよそは回ったので、今回はいよいよ内堀を回ってみることに。前回はJR有楽町駅で終了したため、今回はその有楽町駅から、日比谷→外桜田門前→三宅坂→半蔵門→千鳥ヶ淵公園→千鳥ヶ淵緑道→九段下→竹橋→皇居外苑→外桜田門→日比谷→京橋→鍛冶橋というルートで歩いてみることにしました。梅雨期の久し振りに晴れた土曜日とあって、内堀を時計と反対回り(左回り)に走るジョギング愛好者が大勢繰り出していましたが、私はその市民ランナーの流れに逆らうように、時計回り(右回り)に歩いていきました。携行した本は、もちろん黒田涼さんの『江戸城を歩く』(祥伝社新書)。その5の「桜田門と日比谷周辺」、10の「桜田門から北の丸」、6の「銀座・京橋」で紹介されているコースに大体沿って(一部それていますが)歩いたことになります。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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