鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その最終回 

2012-12-31 05:30:49 | Weblog
渡辺崋山と岡田東塢は「蔦屋」の2階の一室で夜明けまで語り合い、意気投合します。初代藩主の旧領であった三ヶ尻調査の協力を東塢に求めたところ、東塢は崋山のその志にいたく感動し、協力を惜しまぬことを約束しました。崋山はこの東塢から島村の金井烏洲を紹介され、そしてその人脈は、武州高島の伊丹新左衛門(渓斎)→大麻生の古沢喜兵衛(槐一〔かいち〕)→三ヶ尻村の黒田平蔵→龍泉寺とつながっていきました。東塢と意気投合したことが、崋山の三ヶ尻調査を容易にした大きなきっかけとなっており、この旅における丹南藩五十部村代官岡田立助(東塢)との出会いは、崋山にとってたいへん貴重なものとなったのです。この崋山と東塢が夜通し語り合った旅宿「蔦屋」とは、いったい足利町のどのあたりにあったのか。『足利の人脈 江戸時代から現代まで』(下野新聞社)には、「蔦屋」は「本坂町(現在の七丁目)」にあったとあり、「観音山」の切り通し(坂道)を下って足利町に入ったすぐのところにあったことがわかります。もっと詳しかったのは、『平成校注「毛武游記」─渡辺崋山天保2年 中仙道・桐生道の旅─』涌田佑(犀俳句出版部)であり、それには「現在の足利市通七丁目交番の南筋向い辺にあった宿屋。当時の地名は本坂町」とあり、「観音山」の切り通しを下って足利町に入ったすぐのところ、通りの右手(南側)にあったものと思われます。 . . . 本文を読む
コメント

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その12 

2012-12-30 06:12:56 | Weblog
崋山と東塢は、お互いに知っていた朝川善庵門下の吉田東堂などの「雑話」から始まって、「書画」についての話で盛り上がりました。東塢は「書画」に嗜みがあって、長崎・西国・京坂などを遊歴していた時も「雅客」と交遊し、「六法」(東洋画における六種の画法)などについてもよく知っていました。そこで崋山も国内に残る画法や中国明清代の画法について(特に明清代の中国の画法について)詳しく論評したところ、その崋山の詳しく要領を得た画法論に東塢は大いに驚き、「今夕にして君あるをしり、又此大活眼あるをしりたり、さりとては我ための吉人なるかな」というほどに崋山に入れ込むことになりました。意気投合した二人は互いに議論を重ね、ついに夜明けを迎えてしまうことになりました。この東塢に崋山は、「私は藩主である三宅氏の系譜について調べる志を持っている者であり、深谷か三ヶ尻あたりに知り合いがいればぜひ紹介願えないか」と頼んでみたところ、東塢は崋山のその志を称賛し、「必知る人もとめてん」と協力を惜しまぬことを約束してくれたのです。 . . . 本文を読む
コメント

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その11 

2012-12-29 06:52:36 | Weblog
岡田立助(東塢)と武井弥左衛門がなぜ「蔦屋」で崋山の到着を待ち構えていたかといえば、奥山昌庵や佐羽蘭渓らが岡田と連絡を取り、渡辺崋山という江戸からやってきた一角の武士が、我々と一緒に足利学校を訪ねるから、その際に崋山という人物の品定めをしてほしい、と依頼していたからであるようだ。(「予をこゝろ見(みん)とて岡田氏に見せしめ、其声価をさだめんとす」) 昌庵も蘭渓も崋山を一角の人物であると認めつつも、博識な教養人である岡田東塢に崋山の人物・学識を確認してもらおうと思ったのです。崋山はもとより東塢のことは何も知らされていなかったのですが、東塢から「江戸では朝川善庵に学びました」と聞いたことから、崋山は朝川善庵の門人をいろいろと知っていたのでその名前を1、2名挙げたところが、東塢は誰も知らない。そこで東塢が知っている朝川善庵の門下生の名前を挙げてもらったところが、崋山が知っているのは吉田東堂という人物だけでした。考えてみれば無理もない。東塢が江戸で朝川善庵に学んだのは、もう20年以上も前のことであったからです。 . . . 本文を読む
コメント

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その10 

2012-12-28 06:31:38 | Weblog
丹南藩五十部(よべ)村代官の岡田立助は、出会った人々の中でよほど崋山にとって魅力的な人物の一人であったようで、岡田立助について細々としたことを崋山はしっかりと書き留めています。崋山が記す岡田立助とはどういう人物であったか。以下、箇条書きしてみます。①名は坤、号は東塢(とうう)②下毛国足利郡五十部村の人③五十部村は河内丹南藩の分領であり岡田家は代々その代官をしている家柄④大変学問を好み、詩文を好くする⑤江戸の折衷学派朝川善庵に学ぶが、ある時、駿河の海岸に清国の船が漂着した際、韮山代官の江川氏が朝川善庵に筆語通訳を命じたため、東塢(岡田立助)もこれに従って出張した。朝川が途中で帰ったため、その後は東塢が一切を首尾よく果たし『漂客筆話』という記録を残した。⑤その後、長崎や京都に遊んで青雲の気を養ったが生活は苦しく詩文を売って自給しつつ5、6年を他郷で過ごしたが、父が引退したため故郷に戻って家を継ぐことになった⑥代官としての仕事の傍ら読書を楽しみ、足利にやってきた詩人墨客は岡田家を訪れて東塢の詩文を求めることを常としている。その記述の後に、実は武井弥左衛門についても簡単な記述がありました。「名長昭、足利今福村農善歌」とあり、和歌を嗜む教養人であったことがわかります。これらの東塢に関する詳しい情報は、崋山が東塢との会話の中で得たものもあるでしょうし、また奥山昌庵や佐羽蘭渓らから聞いたことでもあるでしょう。奥山昌庵や佐羽蘭渓と岡田東塢は親しい間柄にあり、お互いがお互いのことをよく知っていたものと思われます。 . . . 本文を読む
コメント

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その9 

2012-12-27 06:01:15 | Weblog
崋山が駕籠に載せられて到着した足利町の旅宿「蔦屋」で待ち構えていた二人の男たち、岡田立助と武井孫左衛門とは何者か。岡田立助については崋山の記すところはとても詳しい。しかしもう一人の武井孫左衛門については全く記すところがない。頭注にも何も書かれていない。『足利の人脈 江戸時代から現代まで』(下野新聞社)の「岡田東塢の項によれば、「今福邑宰の武井弥左衛門」とあり、今福村の名主であって名前は「武井孫左衛門」ではなく「武井弥左衛門」であったことがわかります。「今福村」というのは現在の足利市今福町であって、渡良瀬川河畔の「五十部運動公園」あたり一帯が今福町で、その西側の五十部町(よべまち)に隣接しています。つまり今福村と五十部村は隣接する村であり、岡田立助は五十部村名主、武井弥左衛門は今福村名主であって、隣り合った村の名主二人が連れだって「蔦屋」にやってきたことになる。五十部村は当時丹南藩高木主水正の領地であり、岡田立助(東塢)は当時丹南藩領の「郡宰」(=郡代)であり、寛政3年(1791年)生まれだから、当時42歳の壮年でした。崋山は、武井弥左衛門についてはほとんど関心を持ちませんでしたが、この五十部村の丹南藩代官岡田立助(東塢)には強い関心を見せ、そしてすぐに意気投合し、旅の疲れもなんのその、夜明けまで語り合うことになりました。 . . . 本文を読む
コメント

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その8 

2012-12-21 05:29:09 | Weblog
村の真ん中に清水が流れ、水車が幾つも並んでゴトゴトと回る小俣村には「山木屋」という酒店があり、崋山一行はそこで休憩を兼ねて小酌。そこで「ポクリッカケ」というキノコ料理を生姜をすりかけて食べています。小俣村を抜けて次に至った村は葉鹿村。葉鹿村でも奥山昌庵と縁のある店で小酌。妹茂登の評判を聞いて喜んだのはこの店でのこと。大前村では今尾祐廸なる者に会い、山下村では、酒を飲み続けてへべれけになってしまった崋山は、奥山昌庵と佐羽蘭渓に助けられてある民家へと入り寝かせられてしまいます。そこから一足早く足利町に入った昌庵と蘭渓は駕籠を雇い、山下村の民家で寝ている崋山を迎えに行かせます。崋山は夢うつつにその駕籠に乗って、五十部村(よべむら)を通過して足利町の「蔦屋」という旅宿に到着したところ、そこには岡田立助(東塢)と武井孫左衛門という客が来ていて、崋山の到着を待ち構えていました。 . . . 本文を読む
コメント

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その7 

2012-12-20 05:21:03 | Weblog
境橋を渡って小俣村(上野国足利郡小俣村)に入った崋山は次のように記しています。「此村町あり。瓦茨相まじわり長さ二三町もあるべし。街の真中清水流、皆水を車もて家に引、糸を操る。また車に小桶をつけて水をくませなど、大に人力にかわる。」 おそらく街道沿いの「街村」であり、瓦屋根や茅葺屋根の民家が通り両側に立ち並び、その「街村」の長さは2~300mほどであったというのです。街の真ん中には用水路が流れ、どの家も水車でもって水を家に引くとともに、その水車の力で糸繰りをしていた、と崋山は記しています。水車には小桶も取り付けられていて、それで水汲みがなされていたということは、この用水路の水は飲用水としても使われていたことになります。どの家にも水車があって糸繰りが行われていたというのだから、長さ2~300mのこの「街村」の用水路には、たくさんの水車が並び、ゴトゴトを音をたてて回っていたということになる。その光景を崋山は目にしたのです。水車が並ぶ小俣村のこの用水路は、あの「濁沼」地区の用水路と同様に、おそらく桐生川から取水したものであると考えられます。 . . . 本文を読む
コメント (2)

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その6 

2012-12-19 05:40:17 | Weblog
「川のあなた皆下野国、山皆これに属す。水に沿ふ事一里…有橋、堺野といふ、即下毛ノ堺なり」と崋山は記しています。「川」とは桐生川のこと。桐生川の向こう(対岸)は下野国で、その向こうに見える山々もみな下野国に属しているというのです。「水に沿う事一里」とは、桐生川の流れに沿って一里(約4km)歩いたということ。「堺野」とは「境野」ということてあって、当時は上野国山田郡境野村でした。そこに桐生川を渡る橋があったのですが、それが「境橋」。「境橋」を渡ればそこは下野国であったということは、「境橋」は上野国と下野国の境を流れる桐生川に架かる、上野・下野両国を結ぶ橋であったということです。崋山一行はその「境橋」を渡り、下野国足利郡小俣村へと入っていきました。 . . . 本文を読む
コメント

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その5 

2012-12-18 05:48:01 | Weblog
『士魂の人 渡辺崋山探訪』芳賀登(つくばね舎)のP134には、「喜太郎絵本」のうち麹町岩城桝屋の帳場を描いた絵が掲載されており、そこには次のような解説が付されています。「帳付けする人と荷を背負う人。ここに出入りしていたことがあった妹茂登が、同じくここに出入りしていた桐生の岩本に嫁入りした。岩城桝屋は田原藩の御用もつとめていた。」この絵に描かれている「荷を背負う人」の背中の大きな風呂敷包みのようなものには「岩」という文字が染められていますが、これは「岩城桝屋」を示すものであったでしょう。風呂敷包みの中身は「呉服」であると思われ、それは桐生の機屋で織られ、桐生から江戸麹町の岩城桝屋に運ばれてきた絹織物であるとの意を込めて、崋山はこの「荷を背負う人」の姿を描いたのではないか。P136には田原藩御用の岩城桝屋の桝が描かれており、桝には大きく「岩」という文字が付されています。崋山はわざわざ幼い喜太郎を麹町の岩城桝屋に連れて行き、これらの絵を描くことによって、<田原藩邸(渡辺家)─岩城桝屋─桐生(岩本家)>という妹(喜太郎の母)茂登を仲立ちにしたつながりを、やがて成長していく喜太郎のために、しっかりと示しておきたかったのではないかと私には思われてきました。 . . . 本文を読む
コメント

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その4 

2012-12-17 05:42:03 | Weblog
「喜太郎絵本」については、芳賀登さんの『士魂の人 渡辺崋山探訪』(つくばね舎)の第三章「『喜太郎絵本』全作品と解説」に詳しい。喜太郎が生まれたのは文政3年(1820年)。崋山が初めて桐生を訪問した時には12歳。従って崋山が観音院の岩本家の墓地に墓参りをしたとき、同行した喜太郎は12歳の少年であったことになる。「喜太郎絵本」に納められている崋山が描いた正月江戸風俗画は全部で25図。喜太郎が江戸を訪ねた時の様子を描いたものであり、描かれている喜太郎がまだ幼いことから考えれば、天保2年(1831年)以前に、喜太郎はおそらく母茂登の里帰りの時に、母と同行して江戸へ行ったものと推測することができます。つまり喜太郎は、崋山の初めての桐生訪問以前に、江戸においておじさん(母の兄)である崋山と親しく接していることになるのです。芳賀登さんは、この「喜太郎絵本」の成立時期を「文政七年ごろ」に設定されています。この「喜太郎絵本」で注目されるのは、「麹町岩城桝屋の帳場」と「田原藩御用の岩城桝屋の」が描かれていること。おそらく崋山は喜太郎を近くの麹町の呉服屋「岩城桝屋」に連れて行ったに違いない。桐生の玉上家(岩本家の主家にあたる)と岩本家は、江戸麹町の「岩城桝屋」を第一の取引先としており、岩本茂兵衛は桐生と江戸麹町の間をしばしば往復。「岩城桝屋」と田原藩上屋敷との取引関係の中で、岩本茂兵衛は田原藩上屋敷にも出入りするようになり、そこで渡辺家とも親しく接するようになって、ついには渡辺家の娘茂登がその岩本茂兵衛に嫁ぐまでになったからです。茂登が長男喜太郎を連れて「里帰り」したところは、もちろん半蔵門外の田原藩上屋敷内の長屋であったはずです。そこから麹町の「岩城桝屋」までは、歩いて10分前後とほんの近距離であったのです。 . . . 本文を読む
コメント

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その3 

2012-12-15 06:13:37 | Weblog
天保2年(1831年)10月18日(旧暦)、崋山はまず日記に次のように記しています。「けふハ下野の根本山へ参らむと、宵より行厨酒壺など用意せしが、雨ふりてやむ。」根本山へ行くことを楽しみにしていた崋山は、生憎の雨天のため、そこへ行くことを断念しました。崋山は土地の人(桐生の人)から根本山についての情報を集めています。それは次のようなものでした。①根本山の山上には黒兵衛天狗がいて、火除け、盗賊除けにきわめて霊験あらたかである。②彦根藩井伊家の分領にあり、かつて麹町一帯が火事になった時、彦根藩上屋敷に火の手が押し寄せてきたため、藩邸の者たちは必死になって防火につとめたのだが、その中の異風の者が「東奔西走」まるで「飛鳥」のように獅子奮迅の活躍をした。火の手を食い止めた後、役人がその者の姓名を問いただしたところ、「我ハ根本にある黒兵衛といふものなり」と名乗って姿を消した。③藩主はそのことをはなはだ稀有なこととお思いなされて、去年、根本山に石祠を奉納した。④それから後は根本山信仰が広まり、参詣のための講も生まれてきた。⑤根本山に参詣する者に対しては、どこの土地であっても雨傘を貸し出してくれる。その貸し出した傘は、いつしかそれぞれの家にちゃんと戻ってくる。⑥別当は大正院である。以上ですが、崋山一家が居住しているところは麹町半蔵門外の田原藩上屋敷。その南、桜田堀に面して隣接していたのが彦根藩上屋敷で、その藩邸と桜田堀の間の道(甲州街道)を、崋山は幼少の時から常に利用していました。隣接する藩ということもあって、妹茂登が住む桐生の奥に根本山があり、そこには彦根藩上屋敷の防火に活躍した「黒兵衛天狗」がいるという庶民信仰(山岳信仰)が広まっていることを、あらかじめ崋山は知っていたかも知れない。 . . . 本文を読む
コメント

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その2 

2012-12-14 05:15:50 | Weblog
桐生市街の東側に流れる桐生川は、根本山に源を発し、栃木県足利市小俣町地先で渡良瀬川に合流します。根本山は標高1197mで、県境の最高峰であるとともに、山岳信仰の山でした。ここには根本山神社があり、ここは井伊侯の祈願所でもありました。桐生天満宮からこの根本山神社には「根本山道」が延びており、一丁毎に石の道標が設けられていたという(以上、『桐生百景』〔服部修〕より)。『桐生市史中巻』(桐生市史刊行委員会)によれば、「根本・忍山道」は以下のようなルートでした。桐生新町天満宮側→下久方村字押出(おんだし)・町屋→梅田村大字上久方→浅部・二渡(ここから「忍山道」が分岐)→山地→根本山本宮。この根本山は井伊家の領地であり、江戸麹町の井伊家上屋敷が失火した時に霊験があらたかであったことから、江戸城下の庶民の間に「火防神」として信仰が広まって行ったという。町の東方を南北に流れる桐生川の上流は、根本山神社がある根本山であったのですが、桐生新町滞在中の崋山はその根本山神社へ行こうとして、雨天のために取り止めたことがある。それは足利へ出立する三日前の10月18日(旧暦)のことでした。 . . . 本文を読む
コメント

2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その1 

2012-12-13 05:14:47 | Weblog
11月の取材旅行では、菱町4丁目の観音山下から菱町3丁目→2丁目→1丁目と、「絵かるた」案内板を追うように歩き、そこから小俣町濁沼(にごりま)地区の用水路(「くるまっ川」)沿いに歩き、「地蔵の湯 東葉」の先から粟谷(あわのや)町へと入り込み、「越路橋」を渡って山道を越えて松田町へと入り、天然鮎の泳ぐ松田川沿いに「天王様前」に至って右折、「馬打峠」を越えて足利市街に至りました。これは実際に崋山一行が足利を訪問したルートとは大きく異なっており、一部、小俣町(かつては小俣村)でわずかばかりルートが重なっていたかも知れない、という程度でした。今回は、実際に崋山一行が桐生から足利へと至ったルート、すなわち、桐生新町→桐生川岸→境野村→境橋(ここで桐生川を渡る)→小俣村→葉鹿村→山前村→五十部(やべ)村→足利町というルート(現在の県道「桐生岩舟線」)に沿って歩いてみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
コメント

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その最終回

2012-12-10 05:17:35 | Weblog
大衆向けの綿織物を中心に生産していた江戸時代末の足利が、絹織物生産を始めたのはいつのことであったのか。『京都、リヨン、そして足利』によれば、明治20年代半ば過ぎには、国(農商務省)の推進する輸出向け絹織物の生産が軌道に乗りかかっており、あるいは新首都東京および首都圏向けの高等美術絹織物の生産も軌道に乗り、足利は新たな絹織物産地として内外に認知されるようになってきた、という。しかし、絹織物を作る工程の大半はいまだ前近代的な技術であり、撚糸工程も、人力、一部水車利用の江戸時代以来の八丁式撚糸機で、織り(製織工程)は、女手による人力の高機や空引機で、一部の高機にだけはジャカード機が付いていた、とのこと。ということは、足利において輸出向けおよび首都圏向けの絹織物生産が活発になったのは明治に入ってからのことだと考えられます。これが桐生とは異なるところ。絹織物生産のためには生糸が必要であり、生糸に撚りを掛ける工程、つまり撚糸工程が必要であるから、足利においても桐生(岩瀬吉兵衛)で発明された水力八丁式撚糸機が明治になって積極的に導入されたものと推測することができます。桐生から近かった小俣村には江戸時代末においてすでにその水力八丁式撚糸機が導入されており、その小俣村を通過した崋山は、桐生川から分水された用水路に水車がいくつも並んでゴトゴトと回転している光景を目撃していたのです。 . . . 本文を読む
コメント

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その15

2012-12-09 05:19:15 | Weblog
『京都、リヨン、そして足利』日下部高明(随想舎)によると、商品としての足利織物が成立したのは江戸時代中期のこと。そして18世紀の頃にはすでに「足利結城」など高い評価を得た綿織物が知られていたという。渡良瀬川には、年貢米を江戸を運ぶことを主たる目的として寛永元年(1624年)に「猿田河岸(やえんだがし)」が設置されており、その江戸と結びついた水運の発達が、江戸向けの商品作物や工業原料作物(菜種・木綿・桑・麻など)の栽培を促し、また同時に農民による農村工業の成立を促しました。足利では水田耕作地が広く、養蚕は盛んでなかったため、織物を作る場合、生糸は西の上州から、綿糸は南の東毛や武州、東の野州から購入。従って足利地方は絹綿交織(こうしょく)織物地帯として発展していくことになりました。足利では、織物においては一般大衆向け綿織物を中心に生産が進みましたが、その品質向上と生産増大を促したのは、京都西陣から桐生を経て導入された「高機(たかばた)」でした。生産の中心の織りを担当したのが「賃機(ちんばた)」を行う村の女性たちでした。「賃機」とは、「元機」(専業の機屋)から与えられた機台(はただい)・機具(はたぐ)・原料糸をもとに注文された織物を織り上げ、それを「元機」に引き渡して工賃を受け取るというもの。その女性たちによる「賃機」は、地域農民にとって重要な現金収入源となったのです。 . . . 本文を読む
コメント