鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

1000回を振り返って その5

2011-07-31 06:44:51 | Weblog
『医師がすすめるウオーキング』が出版されたのは2005年4月で、私がそれを購入したのは2006年の3月だったという記憶があります。その5月のゴールデンウィークあたりから、それまでも続けていたウォーキングが本格化しますから、1日1万歩以上を目標にしたウォーキングを始めてから現在まで、5年と2ヶ月ばかりが経過したことになります。最近は、日帰りの取材旅行では20km前後歩くのはざらで、多い時には40km余を歩きます。40km余といえば、フルマラソンに相当する。歩数としては6万歩前後。起伏ある登山道でも20kmほどは歩けます。ウォーキングで体力がつき、心肺機能が高まったことを、最初にもっとも実感したのは、2007年の夏に、御殿場口から山小屋一泊で富士山の登山を行った時。山小屋を午前2時頃に出発して、九合目あたりで、太陽が眼下に広がる雲をオレンジ色に染めて雲海上に現れた光景を眺めた時、「ここまで登ってこれたんだ」という感動が湧いてきたことを鮮烈に思い出します。100mほどジョギングしても「ぜいぜい」と息を吐き、好きな山登りも出来なくなってしまったと思い込んでいた頃を振り返った時、念願の富士登山が出来る体になったことを感謝するとともに、1年以上にわたってウォーキングを継続してきた自分を褒め称えたい気持ちが込み上げてきました。 . . . 本文を読む
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1000回を振り返って その4

2011-07-30 18:31:30 | Weblog
「歩く」取材旅行を行うようになったのは、いろいろと理由がありますが、「取材旅行」としているように、一つは歴史小説を書くための下準備として、舞台である土地のようすを確かめたい、ということがありました。かつて車や鉄道などがなかった頃、人々は外に出掛ける時、ほとんどは自分の足で歩いていた、というあたりまえのことをおさえた時、歴史小説で登場させたい人物が、移動の際にどういう風景を眺めながら歩いたのか、といったことを知りたくなりました。車や自転車では見えないものが、歩くことで見えてくるはずであり、かつての人々はもっぱら歩いて移動していたことを考えると、歩いて「取材旅行」をするのがもっともまっとうなことであると思うようになりました。車や鉄道や飛行機などで人が移動するようになったのは、長い人類の歴史の中でごく最近のことに過ぎない。第二の理由は、ブログによる「取材旅行」の報告を始める以前に、体調を大きく崩したことがありました。これが実は、一番大きな理由であったと思っています。 . . . 本文を読む
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1000回を振り返って その3

2011-07-29 05:15:03 | Weblog
取材旅行において撮った写真は、ハードディスクに保存してありますが、昨年から画像をブログに載せるようになりました。それ以前のものについては、整理した上で今後順次載せていきたいと思っています。取材旅行1回で100枚以上は撮影しているので、5年間でざっと1万枚以上は撮影している勘定となります。宮本常一さんは10万枚ほどの写真を残しているということですが、デジカメでなくフィルムの時代に、よく撮影したものだと思います。宮本常一さんがたくさんの写真を撮るようになったのは、昭和30年(1955年)、アサヒフレックスを買ってからであり、眼につき心にとまるものを思うにまかせてとりはじめたのは昭和35年(1960年)、ハーフサイズのオリンパスペンSを買ってからだという(田村善次郎)。宮本さんが撮影した写真は、『宮本常一が撮った昭和の情景 上巻 下巻』(毎日新聞社)にまとめられていますが、それらの写真群を見ても、戦後、特に昭和30年代以後、日本の景観が大きく変化していったことがよくわかります。気になって東北地方の太平洋岸の写真が残されていないか調べてみると、意外にも宮本さんは、茨城から青森にかけての太平洋沿岸地域をほとんど訪れていないことがわかります。宮本さんの写真は、メモとして、目につき心にとまるものを思うにまかせて撮影したものですが、どんどん失われていく、歴史を刻んできた地方の景観を記録したものとして、大変貴重なものです。 . . . 本文を読む
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1000回を振り返って その2

2011-07-27 06:01:18 | Weblog
取材旅行では、取材ノートを録るとともに記録写真を撮りました。その日によって枚数は異なりますが、デジカメということもあって、枚数をそれほど気に掛ける必要はないし、構えて撮影する必要もありません。記録としての写真の価値は高く、そこに盛り込まれる情報も多い。後で写真を見ているだけで、その写真を写した時の気持ちやまわりの情景や、その前後のことなどを、芋づる式に思い出すことができます。取材の時、はじめのうちは道で立ち止まって取材ノートに細かく記録などをしていましたが、途中からは案内板や案内マップ、碑やお墓、地名標示などもデジカメで撮影し、後でそれを拡大して見るようになり、取材ノートは、出会った人から聞いたことや、図書館で調べたことを記録するものになっていきました。写真の情報力の高さについては、自分の経験ばかりか、各地の古写真を折あるごとにみることにより実感していきました。またみる視点により、今まで気が付かなかった新たな情報を得ることもできます。2007年の6月30日に、府中郷土の森博物館で行われていた特別展「宮本常一の足跡」に出掛けましたが、そこで、宮本さんが編集長を務めていた「日本観光文化研究所」(「観文研」)の『あるく みる きく』という月刊誌(昭和42~63年・263号が最終号)を知りました。取材旅行における「あるく みる きく」の大切さを、そこで再確認したのですが、宮本さんは「あるく みる きく」ばかりか、10万枚におよぶ記録写真を残していました。つまり「とる」人でもあったわけです。その後、私は、取材旅行の基本は「あるく みる きく とる かんがえる かく」であると考えるようになりました。まず「あるく」ことが基本。歩けば当然「みる」ことになります。車や自転車では、なかなかよくはみれない。「きく」は、出会った人からよく「きく」こと。「きく」ことによる情報はたいへん貴重です。「とる」はメモを録ることと記録写真を撮ること。「かんがえる」は、「あるく みる きく」ときに常に伴うもの。「かく」はブログ原稿をまとめること。つまり取材報告をまとめることですが、取材旅行を振り返ることでさらに「かんがえ」、新たな発見や疑問が生まれ、また「かく」ことによって「かんがえ」がまとまって、新たな思いがけぬ展開が生み出される場合も多々ありました。 . . . 本文を読む
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1000回を振り返って その1

2011-07-26 05:28:14 | Weblog
このブログ、今回で1000回に達しました。ブログを始めたのは2006年8月6日。およそ5年間で1000回ということは、5年で1825日として、2日に1回余のペースで投稿してきたことになります。「塵も積もれば山となる」ということですが、1回に原稿用紙(400字詰)7枚分として1000回で7000枚。350枚で一冊の本になるとして、本20冊分ということになります。取材ノートは、「MARUMAN」の「A5notebook septcouleur」でおよそ57冊分になりました。500回になった時に、「500回を振り返って」みましたが、1000回達成を記念して、「1000回を振り返って」みたいと思います。 . . . 本文を読む
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2011.7月取材旅行「神崎~佐原~津宮」 その最終回

2011-07-23 06:28:48 | Weblog
香取神宮は下総国の「一の宮」。その香取神宮への利根川からの上陸地が「津宮(つのみや)河岸」でした。ここには利根川に面して鳥居があり、これを「浜鳥居」という。鳥居のある河岸ということで、「津宮河岸」を「鳥居河岸」とも言ったようです。ここには対岸とを結ぶ「津宮の渡し」もあり、各地からやってくる香取神宮参詣の旅客たちで賑わったところでした。与謝野晶子は、「かきつばた 香取の神の 津宮の 宿屋に上る板の仮橋」と詠んでいますが、この「宿屋」とは、『利根川図志』に描かれる鳥居両側にある宿屋のどちらのことだろう。左手の宿屋であるとしたら、それは崋山一行が宿泊した「佐原屋」ということになりますが、利根川航行の船から与謝野晶子は、かきつばたの咲く「板の仮橋」を渡って宿屋に入ったのです。崋山もおそらく木下茶船から、「板の仮橋」を踏んで「佐原屋」の暖簾を潜ったものと思われます。もちろん土手にあった常夜燈は、航行する船の目印として明々と灯をともしていたことでしょう。 . . . 本文を読む
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2011.7月取材旅行「神崎~佐原~津宮」 その6

2011-07-22 05:43:27 | Weblog
「小江戸めぐり 佐原」というパンフレットによれば、「旧油惣商店」の袖蔵は、寛政10年(1798年)の建築で、現存する土蔵の中では佐原最古の可能性があるという。「福新屋呉服店」の土蔵造りの店舗は明治28年(1895年)建築のもの。「中村屋乾物店」の土蔵造りの店舗は、明治25年(1892年)の建築で、当時最高の技術を駆使したと言われる防火構造で、壁の厚さは1尺5寸(約45cm)、完成に2年以上かかったという。「正文堂」の黒塗り土蔵造りの店蔵の形式を今に伝える重厚な建物は、明治13年(1880年)の建築。「小堀屋本店」の土蔵は明治23年(1890年)の建築。このように見てくると、重要伝統的建造物群といっても、江戸時代に遡るものはそれほど多くはなく、明治以降の建造物が多いことがわかります。その理由は明治6年(1873年)の「佐原大火」や、明治25年(1892年)の大火によるものであるようです。ここで思い出されるのが川越の土蔵造りの町並み。この川越で大火が生じたのは明治26年(1893年)のこと。この大火により、川越町約3300戸のうち40%近い1300戸が焼失しました。その火災後まもなく、川越の商人たちは争うように土蔵造りの店舗=「店蔵」を建てはじめました。初田亨さんの『東京 都市の明治』によれば、明治10年代の後半から、東京において数多くの黒壁をもつ土蔵造りの店舗が建設され始め、そしてその土蔵造りは、明治中期から後期にかけて全国各地に伝播していったという。川越と同様、水運によって緊密に江戸と結ばれていた佐原は、明治の大火の後、明治中期以後の東京の土蔵造りの影響を強く受けながら町の再興を行っていったものと思われます。もちろんその背景には、水運や醸造業等で栄えた商人たちの蓄積してきた大きな財力があったことでしょう。 . . . 本文を読む
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2011.7月取材旅行「神崎~佐原~津宮」 その5

2011-07-21 06:25:02 | Weblog
山本鉱太郎さんの『新・利根川図志』によれば、佐原は、利根の河港の中で最も栄えたところでした。「お江戸見たけりゃ 佐原へござれ 佐原本町 江戸まさり」と俗謡にも歌われました。「この江戸まさり」という言葉は、小野川河口部の利根川堤防上の東屋にあった案内板に、「江戸優り佐原」としてすでに目にしたもの。「佐原本町」の繁栄は、江戸のそれよりも優っているという地元の人々の自負が感じられます。小野川に向かって張り出している石段を「だし」といいますが、この「だし」には高瀬船が横付けし、さまざまな物資の積みおろしが行われました。この小野川沿いの佐原河岸の河岸問屋が伊能茂左衛門家。この「江戸優り」佐原の、利根川水運による江戸期以来の繁栄も、昭和8年(1933年)の成田線の開通により、一挙に衰退。この佐原の繁栄を今に伝えるのは、国指定重要無形文化財である「佐原の大祭」。歩いていて途中手にした「水郷佐原山車会館」のパンフレットによれば、佐原には25台の山車(だし)があり、夏祭りには10台、秋祭りには14台の山車がそれぞれ曳き回されるという。この山車の最上部の「大天井」と呼ばれる部分には、身の丈5mほどの大人形が据えられており、大人形が飾られたそれぞれの山車の写真がそのパンフレットに掲載されています。人形を入れると山車の高さは9m近くにもなるといい、それらが町の通りを練り歩く情景を想像してみると、たしかに「江戸優り」というのも肯える感じがします。 . . . 本文を読む
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2011.7月取材旅行「神崎~佐原~津宮」 その4

2011-07-17 05:52:09 | Weblog
崋山が神崎神社のある丘陵の左手(やや下流の)対岸に「河岸」と記したのはおそらく「押砂(おしすな)河岸」のことであるとしましたが、では、その「押砂河岸」は現在どうなっているかというと、山本鉱太郎さんの『新・利根川図志 下』によると、「今は無く、河原になって家一つない」とのこと。これは明治末から大正にかけての利根川の大河川改修によるものであるという。山本さんによると、神崎神社のある「神崎の森」のあたりは、かつては利根川の流れがこの下で岩にぶちあたった大きく湾曲していたらしい。したがってここでは流れがうずまいていて、神崎大橋の架かっているあたりは、昔から利根の難所として恐がられたきた所であるという。この山本さんの『新・利根川図志』には、赤松宗旦の『利根川図志』の「津の宮河岸」の挿絵が掲載されており、その絵の手前、利根川の川岸には帆を広げた高瀬船(利根川高瀬船)が2隻描かれています。浜鳥居と常夜燈も描かれていますが、山本さんによると、その「浜鳥居」の左手にある平屋の建物が「佐原屋」であるという。崋山一行は、文政8年(1825年)の7月朔日(ついたち)の朝、木下(きおろし)街道の白井宿「藤屋」を出立して、木下河岸から茶船に乗り、神崎神社に立ち寄って、この日の亥の刻(午後10時頃)に津宮河岸に到着しますが、その浜鳥居の左手にあった平屋建ての旅籠(茶屋を兼ねていたと思われる)である「佐原屋」へ、下船後すぐにすぐに入ったことになります。 . . . 本文を読む
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2011.7月取材旅行「神崎~佐原~津宮」 その3

2011-07-15 04:08:43 | Weblog
崋山は日記に「川岸無店、舎なし。凡(およそ)三里許(ばかり)、日暮」と記す。「凡三里許」とは、神崎河岸から津宮(つのみや)までの距離のこと。「川岸無店、舎なし」とは、神崎河岸のことだろうか。それとも神崎河岸から津宮までの間の川岸のことだろうか。崋山一行が「川口屋」で夕食を摂り、近くの神崎明神を参詣してふたたび神崎河岸から茶船に乗ったのは午後7時頃。「日暮(日、暮れる)」とは、利根川に出て間もなくのことであり、それから津宮までは、およそ3時間ほどの夜の利根川の航行でした。押砂(おしすな)河岸を対岸に見てからは、もう両岸には店の灯りも人家の灯もまったく見えなくなったということだろうか。『図説 川の上の近代─通運丸と関東の蒸気船交通史』の「汽船寄航場分布図」によれば、神崎から佐原までの間の利根川南岸には、通運丸などの寄航場はなく、北岸には「石納」という寄航場が一つ記してあります。佐原の次はもう津宮。佐原の場合は、小野川を内陸部へと入ったところの川(小野川)沿いに河岸場があったから、利根川の川べりには店や人家の灯りはなかったのかも知れない。夜の利根川を航行した崋山一行の乗る茶船は、佐原には立ち寄らず、そのまま佐原の先で左へとカーブする利根川の川岸にある津宮へと向かい、その河岸にある常夜燈の灯りを頼りに接岸したものと思われます。 . . . 本文を読む
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2011.7月取材旅行「神崎~佐原~津宮」 その2

2011-07-13 05:39:02 | Weblog
『四州真景図』第二巻の図八は「河嵜明神山 河岸」と記されています。「河嵜明神山」とは、神崎神社のある山のことであり、利根川の上流から見ても、また下流から見ても、川へと突き出した独立した島のように見える丘陵(実際はそうではありませんが)のこと。「河岸」と記されているのはどこのことだろう。神崎河岸は、この地点より上流にあり、図七の「河嵜明神」の絵に木杭が多数、川岸に突き出ているところとして描かれているから、この河岸は神崎河岸ではない。とすると、神崎河岸よりやや下流の対岸にあった押砂(おしすな)河岸のことではないか。崋山は日記に「北は金江津、押砂、結佐、而(しこうして)船達河嵜」と、押砂河岸のことを記しています。この図八の左端の利根川には帆柱を高く立てた船が一隻描かれています。おそらくこれは利根川高瀬船であり、帆を畳んで碇泊しているところ。押砂河岸には、阿波大杉神社というのがあって、「アンバ河岸」(アンバとは阿波のこと)とも呼ばれたという。この神崎河岸、対岸の押砂河岸から先、利根川の両岸に茶店や人家のようなものは見当たりませんでした。もっとも日はとっぷりと暮れており、闇夜の広い川面を崋山一行が乗る茶船は航行し、亥の刻(午後10時頃)に香取神社の入口にあたる津宮(つのみや)に到着したのです。 . . . 本文を読む
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2011.7月取材旅行「神崎~佐原~津宮」 その1

2011-07-11 05:25:05 | Weblog
前月は、渡辺崋山(登・1793~1841)32歳時の「四州真景」の旅を追って、木下(きおろし)から神崎(こうざき)までを利根川の流れに沿って歩きました。途中崋山は、木下茶船から「十里」の集落の風景や、滑川(なめがわ)観音のある丘陵を背景とした「四手網」漁の風景、また神崎神社のある丘陵や神崎河岸を背景とした利根川の流れ(高瀬船が航行しています)を描いています。神崎でいったん船を下りた崋山一行は、「川口屋」という茶店で夕食を摂った後、「神崎明神」に詣でてから、ふたたび河岸に戻って茶船に乗船。そこから津宮(つのみや)まで行って上陸したのは、もう亥の刻(午後10時頃)でした。神崎河岸から船に乗ったのは午後7時頃となり、もう黄昏時(たそがれどき)であったことでしょう。津宮に上陸した崋山一行は、すぐに「佐原屋」という旅籠に入って旅装を解いています。今月の取材旅行は、その神崎から津宮までを利根川に沿って歩いてみました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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富士山宝永大爆発と、原発事故 その最終回

2011-07-02 06:09:55 | Weblog
食行身禄(じきぎょうみろく)こと伊藤伊兵衛が、伊勢国一志郡川上清水村の小林家に生まれたのは寛文11年(1671年)のこと。13歳の時に江戸へ奉公に出され、いろいろな商売を経験した後、貞享4年(1687年)に富士信仰の行者であった月行(げつぎょう)に弟子入りし、翌年の6月に初めて富士山に登ったとされています。長女梅が生まれたのが正徳3年(1714年)、次女まんが誕生し、月行が亡くなったのが享保2年(1717年)。神告を受け「食行身禄」と名乗ったのが享保7年(1722年)のこと。時世の腐敗を痛憤し、「世直し」を祈念して断食入定を決意して富士山頂上を目指したのが享保18年(1733年)の6月。役人に阻止されたため頂上での断食入定を断念し、七合五勺目の烏帽子岩のところで断食を開始。それから35日以後に入定したという。この伊藤伊兵衛の初登山は貞享5年(1688年)のこととされ、それを含めて45回の富士登山を行ったと言われています。富士山宝永大爆発が宝暦4年(1707年)のことだからその時伊藤伊兵衛は36歳(数え)。おそらく江戸にいたと思われ、当然に富士山宝永大爆発による「降砂」を経験しているはず。それ以前はもちろん、それ以後も富士登山をしているはずだから、江戸からの富士登山の往復において、「降砂」の深刻でしかも長期にわたる甚大な被害の様相を、何度も目撃しているに違いない。しかしながら、そのことも含めて、「食行身禄」と名乗る頃までの伊藤伊兵衛の前半生のことはほとんどわかりません。「食行身禄」の「世直し」の思想には、富士山の宝永大爆発およびその「降砂」による「空前の大災害」が背景にあると私は思っていますが、それを裏付ける資料はほとんど存在しないのです。 . . . 本文を読む
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