鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

今年1年間を振り返って

2007-12-31 09:19:41 | Weblog
 早朝のウォーキングを始めてから1年8ヶ月、ブログを始めてから1年5ヶ月になりました。振り返ってみると、やはり時の流れは速いものです。両方とも、なんとか継続して今日までやってくることが出来ました。通勤途中の早朝ウォーキング。その延長としての月1回の日帰り取材旅行と夏と冬の泊を伴う取材旅行も、計画通りにやれました。日帰り取材旅行では、東海道を箱根峠の手前まで歩き、また開港150周年を控える横浜の通りを歩きました。泊を伴う取材旅行では、福井方面や水戸方面を、ごく限られた地域ながら歩いてみました。それを通して思ったことは、「歩く」ことがいかに大切であるか、ということでした。「歩く」ことによって、車や自転車では見えないものが見えてくる。気付かされないものに気付かされるのです。私は移動の手段として長らく車を利用してきましたが、通勤途上の道でさえ、車から下りて歩いてみると、新しい発見の連続なのです。暑い夏が過ぎて涼しくなってから、いつも歩いていた相模川の散策路を外れて、そこから見える木々の繁った集落に足を踏み入れてみました。そこには先祖代々からの古い墓石の立つ墓地があり、白い漆喰塗りの立派な蔵がありました。そして家を囲む木々の向こうに、相模川の土手越しに遠く大山を始めとした丹沢の山々が見えました。集落から河岸段丘の方に向かうと八幡宮があり、その境内には樹齢数百年のイチョウの巨木が聳(そび)え、長い石段を上がっていくと社殿のある高みから、真正面に大山が見えました。そこは修験者が大山を遥拝する場所でもあったのです。こういったさまざまな発見は、歩いてみないとわかるものではありません。そうそう、こういうこともありました。 . . . 本文を読む
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2007.冬の常陸茨城・取材旅行「大津浜から平潟港 その4」

2007-12-31 06:48:15 | Weblog
水戸からは8つの街道が分岐します。岩城(いわき)・那須・結城(ゆうき)・茂木(もてぎ)・南郷・棚倉(たなぐら)・瀬戸井。このうち、太平洋岸を進んで東北に達するのが岩城(「磐城」とも)街道。この街道を参勤交代に利用した藩は、岩城平藩(安藤)・二本松(丹波)・相馬(相馬)・泉(本多)。そして時には仙台(伊達)・南部(南部)といった諸藩で、それほど多くはなかったようです。これが水戸街道となると、20前後の藩が参勤交代に利用している。東北諸藩が参勤交代にもっぱら利用したのは、やはり、五街道の1つである奥州街道であったのでしょう。大津浜で異国人たちがボートで上陸する事件が勃発した際、その通報をまず受けたのは松岡陣屋(多賀郡手綱)の附家老中山信情(のぶもと)。信情は松岡陣屋から100名余の家来を現場に急行させるとともに、藩庁と幕府にこの事件を報告。報告を受けた水戸藩は、上陸事件の翌日29日には、目付・先手物頭・筆談役(会沢正志斎がその1人)を含む総勢230人余を大津浜に向けて急派します。大津浜に隣接する棚倉藩や泉藩、そして岩城平藩などからも藩兵が出動してきてくるとともに、近在近郷から郷士・郷足軽・猟師なども集まり、大津の村はたいへんな緊迫感に包まれることになりました。その状態が5月下旬から6月11日頃まで続きます。江戸から代官・天文方の役人(通詞を含む)たちが到着するのが6月9日。松岡陣屋や水戸城下の藩兵たち、また泉や平などの諸藩兵、さらに幕府派遣の役人たちが大津浜へと急いだ街道が、この岩城街道でした。大津は水戸藩領の飛地(周囲は棚倉藩領)で「一村漁業をもって第一の業」とする純然たる漁村で、特に鰹(カツオ)の一本釣りが盛んであったという。現在も県内有数の漁港として知られる。それに対して、大津の北に位置する平潟は、棚倉藩領に属し、江戸時代の初めから東北地方と江戸とを結ぶ東回り廻船の寄港地として繁栄。港には廻船問屋が軒を連ね、江戸や浦賀ばかりか、蝦夷地との交易も活発に行うような商人が輩出したという。その点では、3日目に訪ねた那珂湊(かつては「湊」と言われる)と共通した性格を持つ港町であったということになる。この平潟から棚倉藩の城下に、馬で塩を運んだ道が「塩街道」で、おそらく「風船爆弾の碑」の前を通っている海沿いの細い道が、この「塩街道」であったのでしょう。 . . . 本文を読む
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2007.冬の常陸茨城・取材旅行「大津浜から平潟港 その3」

2007-12-30 08:08:56 | Weblog
水戸藩は「定府(じょうふ)制」といって、藩主は江戸常住を命ぜられていたので江戸~水戸間の「参勤交代」はありませんでした。定府を命ぜられて「参勤交代」を免除されていた藩は全国諸藩の中でもごくわずかしかなく、この「御三家」の1つである水戸藩と、その支藩である宍戸藩(笠間市)・守山藩(郡山市)・府中藩(石岡市)ぐらいでした。同じく水戸藩の支藩である四国の高松藩は、と思って調べてみるとちゃんと参勤交代を行っています。参勤交代と江戸藩邸での入用は、どこの藩においても藩の財政を極度に圧迫しましたが、では参勤交代を免ぜられていた水戸藩はどうであったかというと、水戸城下と江戸藩邸の両方にそれぞれ多数の家臣団を置く必要があって、参勤交代以上の負担が掛かったという。また常住であったため、水戸の家臣と江戸詰の家臣とでは、言葉も文化も、現実に対する認識の上でも、大きな差(齟齬〔そご〕)が生じました。水戸街道は水戸藩主の参勤交代路ではありませんでしたが、水戸藩士の往来は頻繁で、特に幕末においてはおびただしい数の水戸藩士が、水戸と江戸の間を往来しました。水戸を訪れる他藩出身の武士なども多く、たとえば長州藩の吉田松陰や久留米藩の神官真木和泉なども、この街道を利用して江戸から水戸へ赴いています。水戸藩からの急報を受けて、文政7年(1824年)の6月5日、幕府代官古山善吉・手添足立左内・天文方高橋作左衛門・通詞吉雄忠次郎らが江戸を出立し、大津浜に向かったのもこの水戸街道でした。彼らは水戸城下から磐城街道に入り、6月9日に大津浜に到着しています。暑い最中の4泊5日の行程でした。足立左内(1769~1845)は55歳。暦学(天文学)やロシア語に造詣が深い。暦学の才能を認められ、京都から江戸に出て高橋作左衛門(景保〔かげやす〕)の手伝いをしている。高橋作左衛門(景保・1785~1829)は、天文方の筆頭。世界地図に詳しい。39歳。この4年後、シーボルト事件への関与のため投獄され、翌年獄中で病死。吉雄忠次郎(1787~1833)は27歳。長崎にオランダ通詞の子として出生。この2年前に、死んだ馬場佐十郎の跡を継いで天文方詰の翻訳方に採用された、語学に抜群の才のある青年。この吉雄も、シーボルト事件に関係して永牢の刑を受け、米沢で病没することになるのですが、当然、高橋も吉雄も、自分のその後の運命を知る由もない。 . . . 本文を読む
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2007.冬の常陸茨城・取材旅行「大津浜から平潟港 その2」

2007-12-29 09:17:28 | Weblog
江戸と水戸城下を結ぶ街道は「水戸街道」(正しくは「水戸佐倉道」)と言われ、五街道に準ずる脇街道の1つでした。江戸からの起点は千住(日光街道の宿場町でもある)。ここが第1宿で、終点の水戸宿を入れると全部で20宿。松戸・我孫子・取手・藤代・牛久・荒川沖・土浦・石岡(府中)など、常磐線で快速や普通電車が停車した駅は、水戸街道の代表的な宿場町。水戸方面からは「江戸街道」と呼ばれました。全長は29里余(約116km)。行程はおよそ2泊3日。水戸からはさらに海沿いに東北(平や原町を経て岩沼に達する)へ向かう街道が延び、これを江戸時代においては「岩城街道」もしくは「磐城街道」と呼びました。明治になって、この「水戸街道」と「磐城街道」をまとめて「陸前浜街道」ととして扱うことになったらしい。JR常磐線や国道6号線は、ほぼこの「陸前浜街道」に沿って走っています。さて、太平洋に面する大津浜の最寄の宿場町であったところは、足洗宿(現北茨城市中郷町足洗)。日立駅から大津港駅までの間に「南中郷」という駅がありましたが、あの辺りに足洗宿がありました。この足洗宿から水戸城下に至る街道筋の宿場町は、順に、高萩→伊師町→河尻→小木津→田尻→助川→大沼→大森→大橋→沢→枝川(→水戸宿)の11宿(水戸宿を入れると12宿)。そのうち助川宿は、現在の日立市の中心部に近いところにあった宿場町で、3日目(24日)に訪ねた「助川海防城跡」は、その助川宿の山側にありました。 . . . 本文を読む
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2007.冬の常陸茨城・取材旅行「大津浜から平潟港 その1」

2007-12-28 06:09:27 | Weblog
恒例の(と言っても4回目ですが)長期休暇を利用した泊を伴う取材旅行、今回は水戸方面に行ってきました。期間は22日(土)から24日(月)の2泊3日。1日目は北茨城市の大津浜、2日目は水戸市内、3日目は「ひたちなか市」の那珂湊と日立市の助川を歩きました。水戸方面は、前々から是非行ってみたいと思っていたところですが、今年、東海道の品川宿や高輪の東禅寺、福井の敦賀(つるが)や今庄宿、また横浜を歩いたことで、幕末の水戸藩の動きや後期水戸学への興味・関心が深まり、行きたいという気持ちにはずみがつき、今年の冬は水戸方面に決まりだな、と思うようになりました。JR常磐線の大津港駅までの往復がおよそ8800円。3日目の水戸駅~日立駅までの往復を含めるとおよそ1万円弱。ということで、途中で下車する可能性も考えて、「北海道&東日本パス(普通列車限定)」を利用することにしました。JR海老名駅の窓口で購入しましたが、ちょうど1万円でした(有効期間は22日から26日までの5日間)。結局、途中下車や「寄り道」はしなかったため、いわゆる「とんとん」でしたが、時間があれば「寄り道」も出来るし「脇道」に入ることも出来るというところから生まれる余裕や安心感は、この切符ならではのものでした。 . . . 本文を読む
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2007.12月「小田原~箱根湯本」取材旅行・湯本へ その3

2007-12-26 06:53:19 | Weblog
長興山紹太寺は黄檗宗大本山萬福寺の末寺で、小田原藩主稲葉家の菩提寺。格式のあるお寺です。寛文9年(1669年)に小田原城下大山角町から入生田牛臥山のこの地に移したとのこと。かなり大きなお寺であったらしく、元禄4年(1691年)にここを通過した長崎オランダ商館の医師であったドイツ人のケンペルが、その紀行文にその壮麗な姿を描いているという。しかしその壮麗な伽藍も、幕末と明治初年の大火で焼失。往時の姿は失われました。歩いて3分で本堂、20分ほどで稲葉一族の墓があるということですが、日が落ちかかってきたこともあり中には入らず。稲葉一族の墓からさらに入っていったところに、天然記念物である「しだれ桜」があり、稲葉正則の忘れ形見だとのこと。この「しだれ桜」はかなり有名らしく、私が職場で小田原から湯本まで歩いたことを話すと、その場にいた3人の同僚のうち2人がその桜のことを知っていました。花見の頃には入生田の駅や門前の駐車場が花見客でたいへんな賑わいになるらしい。「稲葉正則の忘れ形見」というからには、相当な古木なのでしょう。桜の花の咲く頃に、また訪れてみたい。門前の旧東海道は、往時のまま幅も狭く、ゆるやかに蛇行し、土産物屋などが並ぶ国道1号線と違って風情があります。国道1号線は今まで何度も車で行き来しましたが、その横に旧東海道が残っているとは知りませんでした。湯本へ向かう早川沿いの国道1号線は、旧東海道の上につくられたものと思い込んでいたからです。 . . . 本文を読む
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2007.12月「小田原~箱根湯本」取材旅行・湯本へ その2

2007-12-22 05:00:58 | Weblog
「板橋の地蔵尊」のある宗福院地蔵堂の境内に、明治維新官軍慰霊碑があり、5名(実は13名とも)の名前が刻まれていましたが、これは明治元年(1868年)に、湯本山崎において小田原藩と旧幕府側の遊撃隊が交戦したいわゆる「戊辰箱根戦争」、およびその前後における「官軍」(維新政府側)で死んだ(戦死ないし殺害された)者たちの名前です。この「戊辰箱根戦争」という事件はあまり知られていないようです。私もつい最近まで知りませんでした。「天下の関所」であった箱根の関所を管理していたのは小田原藩。この小田原藩は「譜代藩として東照神君(家康)以来の幕府の恩顧」があり、歴代の藩主には幕府老中となった者が多い藩でもありました。たとえば7代藩主大久保忠真(ただざね)は、寺社奉行・大坂城代・京都所司代を経て、文政元年(1818年)に老中に就任。以後天保8年(1837年)まで約30年間、老中という重職を勤め上げています。この忠真は、藩内においては、国産方を設置したり文武を奨励したり、また人材を登用(二宮尊徳に着目した藩主)するなど「名君」として讃(たた)えられた「お殿さま」でした。この忠真の次の次の藩主、9代忠礼(ただのり)の時に、小田原藩は幕末・維新の動乱に巻き込まれることになります。「東照神君」家康以来の恩顧を受け、また幕府を支えた「譜代大藩」が、この動乱期にいかに身を処するか。藩の命運をかけた選択に、小田原藩は直面します。この過程で起きた事件が「戊辰箱根戦争」でした。この事件を含めた「戊辰戦争」を、上総請西藩の最後の若き藩主林忠崇の動きから描いたのが中村彰彦さんの『脱藩大名の戊辰戦争─上総請西藩主・林忠崇の生涯』(中公新書)。私はまだそれを読んでいませんが、近いうちに是非読んでみたいと思っています。 . . . 本文を読む
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2007.12月「小田原~箱根湯本」取材旅行・湯本へ その1

2007-12-21 06:34:46 | Weblog
今までも紹介している『一枚の古い写真 小田原近代史の光と影』(小田原市立図書館)は、小田原やその周辺の幕末から戦後までの風景などについて、実にいろいろなことを教えてくれます。195(写真番号)の「国府津駅前」は、明治40年(1907年)頃の国府津駅舎が写されたものですが、これは駅舎を写した最も古い写真で、駅前のロータリーに写っている線路は「小田原電気鉄道」の軌道。197の「国府津駅前」には、右手に駅前茶屋の「相仙」、左手に「あさひ屋」が写っています(明治末年)。260は「小田原電気鉄道本社前」。右手に三の丸東側のお堀が見える。このお堀は、幸田門のところから三の丸土塁跡を歩き階段を下りて小田原郵便局脇に出たところにあったもので、郵便局の建っているところも含め大通りの西側にはかつてお堀が延びていました。小田電は、このお堀を右手に見て南下し、本町で東海道に入って右に急カーブしました。262は「熱海軽便鉄道駅前の早川口小田電停車場」。明治末年には、ここから「豆相人車鉄道」が熱海方面に行く人々を乗せて走っていましたが、その早川海岸を走る「人車」を写し撮ったのが266の写真。車を押す「車丁」は股引(ももひき)・腹掛け姿。75は「馬車鉄道時代の箱根湯本全景」。右手の平屋が馬車鉄道の駅舎で、その奥の白い(?)橋が明治18年(1885年)架橋の旭日橋。その左手に洋風の福住旅館が見えます。その馬車鉄道の湯本駅舎をクローズアップしたものが247の写真。明治18年(1885年)から明治26年(1893年)にかけては、この湯本駅舎で馬車鉄道から下り、早川に架かる旭日橋を渡ると、その右手に板塀に囲まれた洋風の福住旅館がありました。この建物は小田原・箱根で最初の洋風建築でした。その福住旅館が写っているのが124の写真。左手が明治10年(1877年)に完成した南棟の金泉楼で、左手が明治12年(1879年)完成の万翠楼。この二つの棟の間が玄関。木造3階建てで、1,2階の外壁は石材、3階は漆喰塗(しっくいぬり)の土蔵造り。完全な防火建築でした。この、棟が二つあってその間に玄関があるスタイルは、当時の横浜駅や東京第一国立銀行などを参考にしたものであるらしい。明治維新後の「文明開化」は、早くも明治10年(1877年)には箱根湯本に及んでいたのです。 . . . 本文を読む
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2007.12月「小田原~箱根湯本」取材旅行・小田原城下 その5

2007-12-20 06:53:38 | Weblog
東海道線の横浜~国府津間が開通したのは明治20年(1887年)7月21日。それに伴い、国府津駅から小田原や箱根に行くための交通機関として、明治21年(1888年)10月1日に小田原馬車鉄道が開業し、国府津駅~小田原~湯本駅を結びました。しかし開業後まもなく電車への切り替えの模索が始まり、明治29年(1896年)10月31日、小田原電気鉄道に改称。明治33年(1900年)3月20日、馬車鉄道は廃止され翌21日、小田原電気鉄道(「小田電」)の開業式が華々しく執り行われました。この小田電は、国府津~湯本間12.7kmを結び、当時日本一の距離を誇りました。しかし大正9年(1920年)12月6日、国府津駅~小田原町役場間が廃止され、また箱根板橋~箱根湯本間も、昭和10年(1935年)10月1日に、現在の箱根登山鉄道の小田原駅~箱根湯本駅間の開業により廃止され、小田原駅間~箱根板橋駅間のみを走る(小田原市内線)ことになりました。しかしその小田原市内線も昭和31年(1956年)5月31日に廃止され、小田原市民や近在近郷の人々、また旅行客に長く親しまれた「小田電」は姿を消すことになりました。この小田原電気鉄道と小田原馬車鉄道の軌道はほぼ一致するようです。軌道が方向転換のため右方にループ式に回る国府津駅前を出発した電車は、東海道を、左手に相模湾を見ながら走り、やがて酒匂川を渡ります。それから小田原の町に入っていき、新宿(しんしゅく)で旧東海道から離れて「御成道(おなりみち)」を直進。小田原電気鉄道本社のある大手前通りで左折(本社前は「幸町停留所」)。右手に三の丸東側の堀とお城の天守閣を見て、本町のところでふたたび東海道に入って右折。右手に「ういろう本店」や「箱根口」を見て、やがて早川口停車場に到着します。ここには「豆相人車鉄道」(明治29年〔1896年〕3月開業)の停車場や、その後身の「熱海軽便鉄道」の早川口停車場(熱海方面へ行く場合の小田電からの乗換駅)がありました。早川口停車場を出発した電車は、早川を渡り、箱根板橋、入生田(いりゅうだ)を過ぎて早川の渓流を左手に見て走り、やがて箱根の山間(やまあい)に入っていきます。早川に架かる湯本三枚橋を左手に見て、やがて電車は落合橋を渡って軌道がロータリー形式になっている湯本駅に到着します。乗車時間はおよそ1時間でした。 . . . 本文を読む
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2007.12月「小田原~箱根湯本」取材旅行・小田原城下 その4

2007-12-19 06:33:38 | Weblog
フィリップ・ベアトやミハエル・モーゼルによって写された幕末・維新期の小田原宿は、それ以後、終戦(「アジア・太平洋戦争」)までに大きな三つの被害を受け、大きく町の情景を変えることになります。1つ目は明治35年(1902年)9月28日の「明治大海嘯(かいしょう)」という大津波。この大津波は、午前11時頃から午後1時頃まで2時間にわたって押し寄せ、死者56人、負傷者343人、全壊家屋470戸、流失船舶133隻を数えました。酒匂(さかわ)村では特に被害が大きく、死者33名、負傷者94名を数えています。小田原城下では、大津波は海岸から500m離れた西海子(さいかち)通りまで達し、浜町四丁目の東海道付近でさえ、床上60cm~1mまで海水が押し寄せました。一ヶ月後の10月28日、山王原村において死亡者追悼会が行われましたが、それには僧侶100余名が参集したということです。二つ目は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災。正午少し前、11時58分に発生します。この大地震により、全域で家屋が倒壊するとともに火災が発生。酒匂川に架かっていた酒匂橋は崩落し、「ちんりう本店」や八ツ棟造りの「ういろう本店」、県立小田原中学校なども倒壊。火災は翌2日の午前2時頃にようやく鎮火しますが、焼失家屋は2126戸。足柄郡役所・郵便局・町役場・御幸座・富貴座・松原神社・小田原通商銀行なども焼失しました。この震災後、東海道の道幅は拡張されて浜町の「江戸口」の鍵折れ構造は消滅、東海道の道筋は直線になりました。三つ目は、昭和20年(1945年)8月15日、すなわち終戦の日の未明(午前2時頃)に行われた「小田原空襲」。熊谷(くまがや)や伊勢崎などを空襲したB29の編隊がマリアナ諸島の米軍基地へ戻る途中、そのうちの1機が何を思ったか小田原上空から焼夷弾を落としたのです。この焼夷弾により炎上した地域は、現在の浜町1~3丁目、本町2~3丁目にまたがり、焼失家屋は約400軒、死者は12名を数えました。旧青物町の大通りは火の海となり、電信柱が立ったまま燃えていたそうです。この空襲が、日本本土におけるアメリカ空軍最後の爆撃となります。宮前(みやのまえ)町の古清水旅館には、当日、多くの軍人が宿泊していましたが一人残らず逃げ出し、家の者だけで消火にあたったものの、全焼してしまいました。 . . . 本文を読む
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2007.12月「小田原~箱根湯本」取材旅行・小田原城下 その3

2007-12-18 06:09:12 | Weblog
幕末の小田原宿(欄干橋町)を写したベアトの写真は有名ですが、ベアトがその写真を撮った数年後、その少し手前(東側)からやはり小田原宿を撮った写真家がいます。名前はミハエル・モーゼル。もとはオーストリア海軍極東艦隊付写真技師の助手。横浜において英字日刊新聞『ザ・ジャパン・ガゼット』を創刊(1867年)したイギリス人のジョン・レディ・ブラックに、新たに彼が発行を企画していた写真付き英字新聞の専属カメラマンとして招かれ、1869年(明治2年)の秋に横浜に上陸。ブラックが発行することになった英字新聞の名前は『ザ・ファー・イースト』。この新聞は、横浜居留地に住む外国人に向けて、1870年5月(西暦)から1877年12月まで発行されました。小田原宿の写真が掲載されているのは、その1871年12月1日(西暦)号。これを撮ったのが、同紙の貼付写真の撮影・焼付を担当していたミハエル・モーゼル。1871年12月1日は和暦に直すと明治4年10月19日。それより前のある日、モーゼルはどういう事情でか小田原宿にやってきて写真を撮ったのです。その写真は前に紹介した『一枚の古い写真 小田原近代史の光と影』に掲載されています。写真の右手には大きな天保銭型の看板がある両替商が写り、カメラを振り返っている男の向こう側には唐破風屋根が写っています。これは虎屋三四郎脇本陣の玄関だという。モーゼルが写真を撮った通りは小田原宿内東海道の中宿(なかじく)町。欄干橋町の手前(東隣)。中村静夫氏が作成された江戸時代末期の小田原宿中心部の町割(まちわり)によれば、写真に写る脇本陣虎屋三四郎の真向かいは問屋場(人馬継立所)で、虎屋の西隣は西川屋源兵衛、その西隣は米屋五郎右衛門。真向かいの問屋場は高梨町のそれを「下の問屋場」と言うのに対して「上の問屋場」と言い、おそらく現在の「小西薬局」(小田原街かど博物館の1つ)の辺りにありました(この辺りの東海道は拡張されているので、もう少し通りの真ん中寄りか)。この写真には、ベアトの写真と違って小田原宿の住人たちはほとんど写っていませんが、通りの情景はベアトの頃とほとんど同じ。この地点からほんの少し歩くと、欄干橋町に入り、右手には薬店「ういろう」(外郎藤三郎)、左手には本陣清水彦十郎家があり、「ういろう」前を過ぎて右折すれば箱根口門がありました(現在の御幸の浜交差点を右折した所)。 . . . 本文を読む
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2007.12月「小田原~箱根湯本」取材旅行・小田原城下 その2

2007-12-17 06:08:20 | Weblog
小田原市立図書館が出した『一枚の古い写真 小田原近代史の光と影』という写真集があります。小田原・箱根・国府津などの古写真を集めて、小田原およびその周辺地域の近代史を振り返ったもの。すでに触れたことがある酒匂川の川渡し(輦台〔れんだい〕渡し)の人足の姿(彼らが担いだ輦台には刀を突き立てた侍たちが乗る)を撮った貴重な写真やベアトが「薬店ういろう」の前から欄干橋町町の町並みや人々を撮った写真。また『ザ・ファー・イースト』紙の1871.12.1号に掲載された、中宿(なかじく)町から欄干橋町方面を写した写真(ここには唐破風屋根を持つ脇本陣虎屋三四郎が写っている)。やはりベアトが写した湯本三枚橋や箱根東海道、また小田原城や国府津駅前、小田原電気鉄道、豆相人車鉄道、熱海軽便(けいべん)鉄道などの貴重な写真がたくさん掲載されています。眺めていると、こういう写真集を持つ地域の人々は幸せだ、とさえ思えてくるし、特に幕末・維新期の風景や人々の姿を、よくぞ写真機という最新の機器で、当時の人々が切り取ってくれたものだ、と感謝の念さえ湧いてきます。小田原城は。明治3年(1870年)11月10日、天守閣を始めとした諸建造物が商人に売却され解体されてしまい、現在の天守閣は、昭和35年(1960年)に市制20周年の記念事業として再建されたコンクリート造りの建物。維新期まで残っていた天守閣は、宝永3年(1706年)に再建された160年以上の歴史を持った建物であったわけですが、その天守閣の姿はどのようなものであったのか。『一枚の古い写真』の記述によると、その天守閣を撮った写真はいまだ発見されていないのだという。 . . . 本文を読む
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2007.12月「小田原~箱根湯本」取材旅行・小田原城下 その1

2007-12-16 08:08:29 | Weblog
神奈川県の中央部(県央)や北部(県北)、横浜や川崎、また東京などから、箱根・伊豆方面に行楽に出掛ける場合、小田原市街は通過してしまうことが多い。例えば小田急線を利用する場合、急行でもロマンスカーでも、箱根湯本まで行ってしまう。箱根湯本からバスに乗ったり、箱根登山鉄道で強羅まで行き、そこからケーブルカーやロープウェイに乗り継いだりして各地に向かう。車の場合、東名から小田原・厚木道路(「小田厚(おだあつ)」)に入り、小田原西ICまで飛ばして、そこから国道1号線や箱根新道、あるいはトーヨータイヤターンパイク(旧「箱根ターンパイク」)に入って各地に向かう。国道1号線から西湘バイパスを利用する人も多いことでしょう。いずれにしても、小田原市街は通過点。ビジネス関係の人を除いては、小田原市内に宿泊する人は稀(まれ)ではないでしょうか。かつて江戸時代においては、本陣4軒・脇本陣4軒を持つ、東海道中最大級の宿場町であったことから見れば隔世の感があります。私にとっても、小田原はほとんどの場合通過点であって、興味・関心は持っていましたが、ゆっくり見て回るということはありませんでした。しかし前回、初めて国府津から小田原までを歩いてみて、小田原が「歴史の宝庫」であることをつくづく実感させられました。やはり歩いてみることです。箱根湯本まで行く予定であったところが、結局、「ういろう」本店の前、あのベアトが幕末の小田原宿(欄干橋町)を写した地点まで行ったところで日が暮れてしまったのです。考えてみれば、小田原は、小田原北条氏の時代においては関東の中心であった歴史を持っており、江戸(東京)や横浜よりもずっと古い歴史や文化があるところ。小田原の町の人たちは、そういった町の歴史や文化に誇りを持っていて、語りたいこと、語るべきものをたくさん持っているな、と感じたのも前回の取材旅行でした。ということで、今回は、小田原駅を下りて小田原城を見て回り、それから東海道に出て、「欄干橋町」から箱根湯本までを歩きます。もちろん途中、興味・関心の赴くままに寄り道を繰り返しながら。 . . . 本文を読む
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2007.12.「横浜道~海岸通り」 その10

2007-12-11 06:59:43 | Weblog
この横浜市開港記念会館の前身、町会所の時計塔の階段を、明治7年(1874年)以後のある一日、重い写真器材を担い(または担わせ)、上っていた日本人の写真家がいる。この写真家は、すでに伊勢山や谷戸坂の上から、横浜全景のパノラマ写真を撮影している。この町会所(時計塔を備える)が竣工したのは明治7年。場所は、伊勢山や山手といった外れではなく、本町通り五丁目。つまり横浜のど真ん中。この出来上がった町会所(時計塔)を見上げたその男は、この時計塔の上から横浜全景を写し撮りたいという念がふつふつと込み上げてきたに違いない。いや、建設されている途中から、そう思っていたに違いない。その念願がかなって時計塔のベランダに出たその男は、おそらく広がる景色に息を飲んだことでしょう。伊勢山から見える景色とも、山手から見える景色とも、まるで違った景色が広がったからです。ある程度予想していた景色ではあるけれど、角度を変えるとこの住み慣れた横浜の町が、まるで違って見える。この写真家は、強い感動と深い興奮をもって、写真を撮り続けました。この写真家の名前は、鈴木真一。この時写した横浜全景パノラマ写真は、現在、「横浜都市発展記念館」の「写された文明開化─横浜 東京 街 人びと」において展示されています。「町会所楼上より本町通り」を見た写真では、櫓のある建物が県庁、ベランダのある建物がアメリカ領事館、それに電信局や郵便局が写っています。中央を走っている本町通りの突き当たりは馬車道。右方向にある大きな2階建の建物は横浜裁判所で、もとはフランス公使館であったもの。幕末・明治維新期から第一次世界大戦末期まで、横浜商人の代表的存在は、生糸売込商人たちでした。本町通り五丁目に町会所が出来た頃の、生糸売込量上位5人は、小野善三郎・原善三郎(亀屋)・三越得右衛門・茂木惣兵衛(野沢屋)・吉田幸兵衛。彼ら生糸売込商が横浜の経済界を支配していたのであり、横浜はまさに「生糸売込商の支配する港都」であったのです。この生糸売込商人たちと本町通り五丁目の「時計塔」を持つ「町会所」とは、深い関係があるのですが、それはまた別の機会に触れたいと思います。 . . . 本文を読む
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2007.12.「横浜道~海岸通り」 その9

2007-12-10 06:47:05 | Weblog
横浜市開港記念会館は、開港50周年を記念して建てられたもの。大正3年(1914年)9月に着工され、大正6年(1917年)7月1日の開港記念日に、「開港記念横浜会館」として開館しました。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で一部焼失。昭和2年(1927年)と平成元年(1989年)に復旧工事が行われ、現在のような姿になっています。1、2階部分は、赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた「辰野式フリークラシックスタイル」。本町通りから眺めると、その時計塔を伴ったクラシックな姿は圧倒的な存在感。この地(本町五丁目)には、幕末・維新期においては、生糸貿易商「石川屋」がありました。この石川屋は、元越前福井藩士であった岡倉勘右衛門(石川屋勘右衛門)が藩命によって営んでいた商店。この勘右衛門とその妻このとの間に次男として生まれたのが岡倉天心(1862~1913)。記念会館の正面入口の左手に「岡倉天心生誕之地の碑」があります。福井藩経営の生糸店なのになぜ「石川屋」なのか、というと、藩名での出店が認められなかったため、横浜村の名主石川徳右衛門の名義で地所を借りたところから、「石川屋」の屋号で開業したということのようです。福井藩が横井小楠の指導で展開した積極的殖産興業政策の一翼を担うものでした。五雲亭貞秀は「石川屋生糸店之図」(文久2年〔1862年〕・『横浜開港見聞誌』より・『絵とき横浜ものがたり』P212~213)で、この「石川屋」の店先を描いています。「石川」と染め抜かれた暖簾(のれん)の向こうに、生糸の束が積まれているのが見える。これが「提糸」(さげいと・開講当初頃に多く輸出された生糸の形態)というものでしょうか。間口6間(約11m)、奥行き15間(約27m)。建坪90坪。この石川屋は明治6年(1873年)に閉鎖され、その跡地に翌明治7年(1874年)、「横浜町会所」が完成しました。この町会所は洋風の煉瓦造りの建物(アメリカ人建築家プリジェンス設計)で時計塔があり、本町通りの「ランドマークタワー」として人々に親しまれましたが、明治39年(1906年)に焼失。その跡地に建ったのが、今の「横浜市開港記念会館」なのです。 . . . 本文を読む
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