鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その3

2008-01-30 06:01:14 | Weblog
遊撃隊の中核をなしたのは幕府講武所で刀槍柔術を教授した武芸の達人たち。鳥羽伏見戦争で多数の死者が出たことや慶喜の護衛のために水戸へ赴く者もいて、新政府に対決するために林忠崇(ただたか)らと挙兵した隊員は35名ほど。一軍の隊長が人見勝太郎で数え年26歳。二軍の隊長が伊庭(いば)八郎で同じく26歳。この二人と会見した忠崇は「伊庭は義勇の人、人見は智勇の人。二人とも立派な人物たと思ったから、これにおつかぶさったのだ」と後に語っています。三人の作戦は、「すみやかに房総の諸侯を連合してその兵力で伊豆・相模に渡って小田原藩と韮山代官所に協力を求め、大いに兵威を張って従うものは力をあわせ拒むものはこれを討ち、紀州和歌山・尾張名古屋・近江彦根の三藩に対し遺恨を晴らす」というものでした。なぜこの三藩に遺恨を晴らすかと言えば、「徳川御三家」にも関わらず紀州と尾張はいちはやく新政府側につき、また家康以来の譜代筆頭として重きをなした彦根(井伊家)も新政府側について「東征軍」に加わっていたからでした。これは武士(もののふ)としての「忠義」を重んずる人々にとっては許し難いことでした。忠崇はこうも言っています。「慶喜公は、財産を捨て、政権を捨てゝ、総理を辞した。それをなほ朝敵として討伐するのはあたらん。それがわからないから、自分はやつた」。単純明快といえばたしかに単純明快。しかし、彦根にも紀州にも尾張にも、新政府に組した(苦渋の決断を下した)それなりの論理なり理由付けがあったに違いない。出撃に先立って出された軍令状には、「一、徳川御家再興基本、心得違いこれなく五常(仁義礼智信)の道堅く相守り、仮りにも暴行いたすまじき事」「一、陣中禁酒、喧嘩口論堅く停止(ちょうじ)事」などとありました。出陣後、近隣諸藩からの兵力を加えた一行は、閏4月10日に和船に乗って12日に真鶴半島に上陸。忠崇は数名の供を連れて小田原城に入って小田原藩大久保家に協力を求めたものの、「まだ決起すぺき時期は来ていない。しかし武器・金穀はお贈りしよう」と言われ、小田原を去ることに。続いて伊豆韮山代官所(江川家)に赴いて協力を要請するもののここでも拒絶される(当主は朝廷に召し出されて今は上京中)。次策として甲府城を乗っ取ろうとするもののこれもうまく行かず断念。沼津に滞在中に、江戸では5月15日に上野で彰義隊戦争が勃発します。 . . . 本文を読む
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2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その2

2008-01-29 06:26:38 | Weblog
ことは慶応4年(1868年)正月3日にさかのぼる。この日の朝、「討薩の表」を所持した幕府大目付滝川具挙(ともあき)率いる幕府勢は、鳥羽街道を北上して京に入ろうとして薩摩側と交渉。交渉はいっこうにラチが開かず、滝川はついに強行前進を開始。この瞬間、薩摩兵の大砲・小銃がいっせいに火を吹き、鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。しかしこの戦争は幕府軍の完全な敗北に終わり、6日の夜、大坂城を抜け出した慶喜は翌日未明、幕府軍艦開陽丸で江戸に向かうことに。同行するのは元京都守護職松平容保(かたもり・会津藩主)・元京都所司代松平定敬(さだあき・桑名藩主)らごくわずかでした。10日、新政府は慶喜・容保・定敬らの官位を剥奪するなど「朝敵」処分を行う一方で、5日に橋本実梁(さねやな)を東海道鎮撫総督に任命。2月9日には有栖川宮熾仁(たるひと)親王を東征大総督に任命。江戸をはじめとした東国を鎮圧するための「東征軍」は、薩摩・長州両藩兵を中心に鳥羽・伏見戦争後帰順した諸藩兵によって構成されていました。東海道を東に進んだ東海道先鋒軍に対し、小田原藩の使節は藤枝宿において「勤王に二念なし」と返答して明確に勤王の立場を表明(2月27日)。それにより先鋒軍は難なく箱根の関所を越え、先鋒総督橋本実梁は3月26日に小田原宿に到着。翌日江戸へ向かい、また東征大総督の有栖川宮も4月11日に小田原宿に到着、翌日江戸へ向かいました。その4月11日、江戸城は東征軍により「無血開城」されていました。さて請西(じょうざい)藩の若き藩主林忠崇(ただたか)のことになる。上総請西藩は現在の千葉県木更津市にあった一万石の小さな譜代藩。上京論(新政府側につく)と上京反対論(幕府方につく)に藩論は分裂、宙ぶらりんになっている最中に、江戸城「無血開城」後も徹底抗戦を叫ぶ幕臣福田八郎右衛門を隊長とする3000人が江戸を脱走して木更津に出現。これにより藩主忠崇も請西藩も徹底抗戦の立場を鮮明にし、やがてやってきた「遊撃隊」に同調して徳川家再興のために立ち上がることを決意。この時忠崇は数えで21歳。徳川最後の将軍に迷惑が及ばぬよう自ら脱藩し、「脱藩大名」として戊辰戦争を戦うことになりました。忠崇が藩兵およそ70人とともに「遊撃隊」に加わり、真武根(まふね)陣屋を出立したのは閏4月3日の明け六つ(午前6時)過ぎのことでした。 . . . 本文を読む
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2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その1

2008-01-28 06:50:10 | Weblog
先々週の12日(3連休の初日)は天気が悪く、先週の19日は風邪っけが残るため大事をとって休養。ということで26日に天気良好を確かめ恒例の取材旅行に出かけました。箱根は先日の積雪が残っていることが考えられたので、「WILD1」で靴に装着できる簡易すべり止め(ゴム製で足の裏に金具の部分が来るようになっているもの・千円弱)や足の裏が温まるという靴の中敷(3枚入り)を購入。途中コンビニもなさそうなので飲み物や簡易食品もスーパーで購入しました。靴はウォーキングシューズではなく山行き用の登山靴を用意。頭に被る毛糸の帽子、手袋2枚(そのうち1枚は完全防水型)、襟巻き1枚を用意しました。防寒用のフリース1枚(非常用)もリュックの底に入れました。要するに冬の低山ハイクの装備となりました。今回の取材旅行の前に読んだ本は、中村彰彦さんの『脱藩大名の戊辰戦争─上総請西藩主・林忠崇の生涯』(中公新書)。明治元年(1868年)に箱根峠を舞台に行われた「戊辰(ぼしん)箱根戦争」および「戊辰戦争」を、上総請西(かずさじょうさい)藩の最後の若き藩主林忠崇(ただたか)の動きを通して描いた作品。「板橋の地蔵尊」の境内にあった「明治維新官軍慰霊碑」で触発された「戊辰箱根戦争」への関心から、その本の記述により事件の詳細を知ることができました。この戦争および林忠崇の生涯の数々の印象的な場面を頭に入れながら、箱根湯本から元箱根までの旧東海道を歩いてみました。 . . . 本文を読む
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「風船爆弾」について その4

2008-01-23 06:05:45 | Weblog
ネットのフリー百科事典『Wikipedia』で「風船爆弾」を調べてみたところ、風船爆弾は満州事変後の昭和8年(1933年)頃から関東軍、陸軍によって研究されたという記述とともに、東京有楽町の日本劇場(「日劇」)での製作のようすが触れられている記述が目を引きました。日劇では、気球を天井から吊り下げて「満球テスト」(水素ガスを注入して漏洩を検査する)が行われていたというのです。この「満球テスト」を行うためには天井が高い建物が必要だったのです。ということは、他の劇場や学校の講堂や体育館においても、気球の製作ばかりでなく、気球を天井から吊り下げて水素ガスを注入して漏洩を検査する「満球テスト」も行われていたということになるでしょう。気球から水素ガスが洩れ出てしまえば気球はどんどん縮小し、途中の太平洋上に落下してしまう。たとえ精密な「高度保持装置」をつけても、気球の「球皮」の質が不十分であったならそれは全く無駄骨になってしまうわけですから、この「満球テスト」はかなり厳密に行われたに違いない。『Wikipedia』には、気球の「材質は和紙とコンニャク糊で、薄い和紙を5層にコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に苛性ソーダ液を塗ってコンニャク糊を強化」したとあります。高度1万メートル前後を、太陽を受けた面は20℃、受けない面はマイナス50度、つまり70度も温度差のある中、秒速60m(時速およそ200km)のジェット気流に乗って1万メートルの長距離を飛んでいかなければならないといった、苛酷な条件に耐える気球でなくてはいけないわけで、それを純国産の和紙とコンニャク糊(それに苛性ソーダ+わずか100gの「高度保持装置」)で完成させてしまったというのは、ある意味、驚くべきことです。 . . . 本文を読む
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「風船爆弾」について その3

2008-01-21 06:07:51 | Weblog
川本三郎さんの『銀幕の東京 映画でよみがえる昭和』(中公文庫)を読んでいたら、浅草国際劇場において「風船爆弾」が作られていたという文章が出てきました。浅草国際劇場は、松竹が東宝系の日劇に対抗して昭和12年(1937年)に完成させた3600人を収容できる大劇場で、松竹少女歌劇団の本拠地でした。昭和19年(1944年)2月、戦局が悪化していく状況の中で戦時非常措置法により興行中止となったあと、その建物内において「風船爆弾」が作られていたというのです。この浅草国際劇場は昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で焼失したものの建物自体は残ったため、戦後に改築して興行を再開。松竹少女歌劇団は松竹歌劇団と改称。そのメンバーには淡路恵子・草笛光子・野添ひとみ・倍賞千恵子・倍賞美津子らがいたとのこと。おそらく爆弾は未装着状態であっただろうから、正確にいえば作られていたのは「気球」であったでしょう。『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』によると、気球が作られていたのは浅草国際劇場ばかりでなく東京各地、また全国各地の劇場や学校の体育館など屋根のある大きな空間を持つ建物でした。そしてそこで実際に「気球」を作成していたのは、多くが勤労動員の女学生たちだったのです。 . . . 本文を読む
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「風船爆弾」について その2

2008-01-20 07:12:08 | Weblog
文政7年(1824年)5月28日(旧暦)の大津浜における多数の「異国人」上陸は、鎖国下の日本にとって本土(蝦夷地や琉球を除く)への異国人上陸の最初でしたが、昭和17年(1942年)4月18日のアメリカ軍B25双発爆撃機の水戸上空通過は、本土への敵機空襲を許した最初の出来事でした。大津浜事件は水戸藩における尊王攘夷思想を高めるきっかけとなり、また幕府が「異国船打払令」を打ち出す直接的契機となりましたが、日本本土へのアメリカ軍機による最初の空襲を許した「大事件」も、「風船爆弾」によるアメリカ本土直接攻撃計画を引き起こし、またミッドウェー攻略構想が急浮上するきっかけともなりました。しかし1942年(昭和17年)6月5日からのミッドウェー沖海戦は、日本敗北の序幕となる戦いでした。 . . . 本文を読む
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「風船爆弾」について その1

2008-01-19 06:03:46 | Weblog
水戸方面への取材旅行から帰ってから、「風船爆弾」のことが気になって、最寄の図書館で2冊の「風船爆弾」に関する本を見つけて目を通しました。1冊は、『風船爆弾 純国産兵器「ふ号」の記録』吉野興一(朝日新聞社)、もう1冊は、『風船爆弾秘話』櫻井誠子(光人社)。当然のことながら、大津浜から平潟港へ向かう途中にあった「風船爆弾の碑」の傍らのガイド・パネルの説明文より詳しい記述であり、興味深い事実を知ることができました。以下、まとめてみます。 . . . 本文を読む
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「限界集落」について

2008-01-15 06:07:42 | Weblog
1月13日の10:10からNHKテレビで放映された「ご近所の底力」では、高齢化率が高く、また若い人が出て行ったために、限界に来ている(つまり廃村寸前の)集落のことを「限界集落」と言っていました。「そうか、限界集落と言うのか」と、「限界集落」という言葉を初めて耳にして、その言葉に込められた危機感・悲哀感が伝わってきて暗澹たる思いにさせられました。過去7年間で消滅した集落は70以上。今後10年間に消滅するであろう集落は400以上に上るという。高齢化により田畑の耕作が不可能になって「耕作放棄地」が増える。「耕作放棄地」が増えていけば、山から猪や猿や鹿などが出没するようになりわずかな耕地を荒らす。高齢化と人口減少により集落の伝統的行事や消防団などの自治組織も崩壊していく。お年寄りが亡くなっていけば、わずかに残っていた耕地も住んでいた家も放棄されてしまう。群馬県南牧(なんもく)村星尾地区の方が出演されていましたが、集落から「子どもの姿が見えなくなり、子どもの声が消えてしまった」との、あるおばあさんの言葉が悲痛でした。集落が消えればやがて社(やしろ)もなくなり先祖代々からの共同墓も朽ち果てていくことでしょう。先祖が切り拓いた棚田や棚畑も、すべて雑草や雑木の繁る土地になっていくに違いない。民俗学者の宮本常一さんが高度経済成長期が始まる頃にすでに危惧していたことが、これから10年間で一気に加速されていくのでは、と思わざるを得ませんでした。私が住んでいるところは妻の実家の近くで、昔からの集落があるところを「下段(しただん)」、上の国道に沿ったところを「上段(うえだん)」と言っていますが、その「上段」にあります。「上段」はかつては畑が広がるばかりでしたが国道の開通とともに新しい住宅がどんどん建って人口が増えています。それに対して昔からの集落である「下段」の方は高齢化が進み、子どもの数はどんどん減っています。歴史ある町で、かつては映画館があったほど栄えた町でもあるのですが、今はいかに「活性化」させるかが大きな課題となっているような町の一つとなっています。「限界集落」ほどの危機的状況に陥っていなくても、「活性化」が大きなテーマとなっている地域は全国津々浦々にあるのではないでしょうか。 . . . 本文を読む
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辰濃和男さんの『文章のみがき方』について

2008-01-14 06:13:38 | Weblog
昨年に読んだ本の中で印象に残った本を1冊あげるとすると、9月に出版された岩波新書の『文章のみがき方』。著者は、もと朝日新聞で「天声人語」を担当されていた辰濃和男(たつのかずお)さん。すでに退社(93年)されて現在はジャーナリストとして活躍されているそうです。文章の書き方の本は、今までに数冊読んだことがありますが、その中で一番私にピッタリきた本で、読みながら「そうだそうだ」と頷いたり、「そうか」「そうだったのか」と膝を打ったり、「そう工夫すればいいのか」と合点したりすることが何度もありました。目次を見ると、Ⅰ 基本的なことを、いくつか Ⅱ さあ、書こう Ⅲ 推敲する Ⅳ 文章修業のために と四つに内容は大きく分かれ、それぞれが 1 毎日書く 2 書き抜く 3 繰り返し読む ……など、「動詞の連なり」の章(38章)として細かく分かれています。結局は、文章を書くことは、死ぬまで続く人生を賭けた修業である、と私は受け止めました。以下、特に印象に残ったところを抜き書きしますが、関心や興味をもたれた方はぜひ本書を手に取ってみてください。面白いですよ。 . . . 本文を読む
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2008年元旦 初日の出 

2008-01-13 05:35:16 | Weblog
昨年の元旦は、「宮ケ瀬ビジターセンター」付近で「初日の出」を見て、その荘厳さに味をしめたので、今年も早朝に起きて近くの山に登りました。5:20に家を出て、5:30より登山道にとりつき、懐中電灯で行く手を照らしながら山道を進みました。まわりは真っ暗でまだ鳥の鳴き声も聞こえない。深い静寂を背中全体に受け止めながら登り続けること1時間、頂上に到着しました。頂上の手前の稜線で、2人の青年に追いつきました。「早いですね、ここは展望がいいんですよ」と私。下まで車で来たらしい。登山口から頂上まではおよそ3800歩でした。 . . . 本文を読む
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2007.冬の常陸茨城・取材旅行「那珂湊~日立助川 その4」

2008-01-12 08:47:27 | Weblog
取材旅行に出かける前に目を通した本の1冊に、『茨城の史跡は語る』(茨城新聞社)があります。全国的に展開する古書店でたまたま見付け、1750円で購入(定価3500円)したものですが、取材先を絞る際にたいへん参考になった本。冒頭の、茨城地方史研究会会長瀬谷義彦さんの「はしがき」によれば、この本は昭和61年1月から同63年5月まで、百回にわたって「いはらき」新聞紙上に連載されたものを一本にまとめて上梓したもの。「茨城県内各地域に残る史跡のうち、会員が日頃もっとも親しんでいるものを選んで、執筆分担した」とあります。「水戸周辺の史跡」「県北の史跡」「県南・鹿行の史跡」「県西の史跡」と、合わせて100の史跡が紹介されています。詳細な解説とともに美しい写真や案内図も掲載されており、とてもすぐれた「郷土本」です。取材後、読み直してみると、水戸市本町の「備前堀」も柳が揺れる美しい写真付きでちゃんと紹介されていました(6)し、「笠原水道」についても(10)で詳細に説明されていました。日立市内で紹介されている史跡は、「泉ケ森」(33)・「助川海防城」(34)・「旧久原本部」(35)〔日立鉱山開発の拠点〕・「諏訪の梅林」(36)・「郷校暇修館」(37)の5ヶ所。その中三つは徳川斉昭の「天保の改革」に関係するもの。今回実際に行くことが出来たのは「助川海防城」の史跡だけですが、「天保の改革」がかなり積極的に、しかも広範囲に展開されたものであることをうかがい知ることが出来ました。この本の面白さは、「あとがき」で「茨城地方史研究会副会長」の佐久間好雄さんが述べられているように、執筆を「その史跡の近くに住み、日頃みずからよく観察し、地元の伝承等にも通じている人に依頼」したことと、瀬谷会長から「史跡の説明の中に、往時の人々の声が聞こえるように留意してほしい」という注文があって、そこに留意して執筆されたことによるものだと私は思いました。「往時の人々の声が聞こえるように留意する」という一文は、心に強く残るものでした。そう言えば、帯には「時代の息吹に心傾ける時 先人たちの声が聞こえてくる」とある。茨城県の他の地域をめぐる機会が訪れたら、またぜひ目を通してみようと思っています。 . . . 本文を読む
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2007.冬の常陸茨城・取材旅行「那珂湊~日立助川 その3」

2008-01-11 05:48:47 | Weblog
「ひたちなか市」は「那珂湊市」と「勝田市」が平成6年(1994年)に合併して出来た市。「那珂湊市」は、江戸時代は「湊村」でした。北から太平洋岸を通って江戸方面へ向かう回船は「東廻り回船」といって、東北地方や蝦夷地の物産は回船により江戸方面へ運ばれました。江戸へ入るルートは主に三つ。①鹿島灘の沖→浦賀→江戸②銚子→利根川→江戸川→江戸③那珂湊→那珂川→涸沼(ひぬま)川→一部陸送→北浦→利根川→江戸川→江戸。那珂湊は、那珂川と利根川水運を利用して江戸へ諸物産を運ぶ場合の回船(「親船」「北前船」とも言う)が碇泊する河口港(那珂川の河口を利用した港)として、吉田松陰が「東北遊の記」で言うように、水戸藩領内において最も繁栄した土地でした。この那珂湊に碇泊した回船は、蝦夷地の江差(えさし)・松前・箱館、東北の津軽・庄内・酒田・出羽・南部など、北陸の越後・佐渡・越中・加賀・能登など、さらに大坂・兵庫・江戸などからやってきた回船。積載してきた物産は、塩鮭・にしん・かずの子・〆粕(しめかす)・昆布・仙台米・相馬米・岩城米・大豆・こんにゃく・鰹節・塩・薪(まき)・炭・製造たばこ・江戸方面からの日常生活必需品でした。回船はもちろん川を遡行(そこう)はせず、高瀬舟などの小型帆船が那珂川や利根川水運を行き来しました。那珂湊の商人たちは回船業や海産物業などを営むとともに、酒・味噌・醤油の醸造や刻み昆布・刻みたばこなどの製造にも携(たずさ)わり、「西の大坂、東の那珂湊」と言われるほどの賑わいを見せ、いわゆる「豪商」が輩出しました。ここは水戸城下の外港(海に面した港)であって海防面での重要地でもあったため、幕末、郷校(「敬業館」・1835年→後「文武館」)や反射炉(1855年)が設けられることになったのです。しかし元治元年(1864年)の「天狗党」と「諸生派」との争乱の最大の激戦地となり、反射炉や文武館を始めお寺や回船問屋など多数の歴史のある建物が兵火にかかり焼失してしまいました。さらに明治30年(1897年)に常磐線が開通すると、水上交通に代わって陸上交通が主流となり、さしもの繁栄を誇ったこの那珂湊も商業の町としては次第に衰退していくことになりました。 . . . 本文を読む
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2007.冬の常陸茨城・取材旅行「那珂湊~日立助川 その2」

2008-01-10 06:04:27 | Weblog
大津浜事件が起きた時の藩主(8代)斉脩(なりのぶ)は病弱で子どもがなく、文政12年(1829年)の5月頃から、次期藩主として斉脩の異母弟敬三郎(斉昭)を擁立を図る一派と、将軍家斉(いえなり)の23男である清水恒之丞(つねのじょう)の擁立を図る一派の対立が次第に活発になっていきました。しかし青山延干・会沢正志斎・藤田東湖・戸田忠敞・金子孫二郎らの必死の動きにより、その年の10月、敬三郎(斉昭)が新藩主となることに決定しました。擁立の事情もあって、新藩主斉昭の周囲にはおよそ60名を越える改革推進派(藤田幽谷の門下生を中心とする)が集まり、その大部分は中・下士層であったために、藩主継嗣(けいし)争いに負けた門閥派との対立が、以後激しくなっていくことになりました(幕末水戸藩の激しい「党争」の発端)。門閥派から見て、改革派は成り上がり者が多く、成り上がり者が偉そうに「天狗」になっているということで、改革派は「天狗党」とも呼ばれるようになりましたが、一方改革派の方も「天狗」であることを積極的に自認し、「天狗」であることに矜持(きょうじ)をもって門閥派と対立していきました。改革派の中心に立ったのは藤田幽谷の一子東湖。この藤田東湖を中心とする改革派と新藩主斉昭の密着により、その後の水戸藩の藩政改革が積極的に進められていくことになったのです。天保4年(1833年)の3月、新藩主斉昭の最初の就藩(しゅうはん・水戸藩は参勤交代がなく「定府制」であったため、江戸から水戸に入ることを「就藩」といった)が実現。その前後より進められた水戸藩の天保年間の藩政改革を、「水戸藩の天保改革」という言い方をするようです。この改革では①財政再建②海防と軍備の強化③産業振興④農村振興⑤社寺改革などが推進され、特に諸改革の基礎作業とも言える「領内総検地」は天保期の「藩政改革の出発点」となるものでした。しかし強引な社寺改革が足を引っ張ることになり、天保15年(1844年)に斉昭は幕府から謹慎を命ぜられて失脚に追い込まれます。これにより改革派の中心人物であった藤田東湖や戸田忠敞らも蟄居を命ぜられ、一時改革派はその力を失います。しかし嘉永年間に入ると内憂外患による危機意識の高まりとともに斉昭は復権。斉昭は「攘夷論者の巨頭」として仰がれ、ペリー来航後の幕末の政治状況の中で水戸藩は大きな力を持つことになっていくのです。 . . . 本文を読む
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2007.冬の常陸茨城・取材旅行「那珂湊~日立助川 その1」

2008-01-09 06:29:45 | Weblog
大津浜事件についてはすでに触れましたが、実はそれ以前にも長い海岸線を持つ水戸藩の沖合いにはしばしば異国船の姿が見られるようになっていました。たとえば文化4年(1807年)6月に異国船が初めて鹿島灘に姿を見せましたし、文化12年(1815年)2月にも水戸藩の支藩である守山藩の松川領(東茨城郡大洗町)の近海に異国船が現れました。また文政6年(1823年)、すなわち大津浜事件の前年の6月9日には、那珂湊の沖合いに一艘の異国船が姿を現し、翌日も再び姿を見せ、沖合いに5艘の異国船が浮かんでいるのを漁船が確認しています。急報を受けた水戸藩は、郡奉行吉村伝左衛門を始め筆談役として青山延于(えんう・拙斎)や杉山忠亮(復堂)らの学者を軍装で派遣、数十名の藩士を那珂湊に駐在させました。さらに文政7年(1824年)、すなわち大津浜事件が起こる年の4月や5月には、再び那珂湊の沖合いに異国船が出没し、ついに5月28日、異国船の乗組員が大津浜に2隻のボートで上陸するという事件が勃発したのです(「大津浜事件」)。すでに触れたように、この事件は蝦夷地や琉球諸島などを除いて、当時の鎖国日本に多数(12名)の異国人が上陸した最初の出来事でした。文化文政期からの異国船の接近に、水戸藩は手をこまねいていたわけではなく、海岸線に海防詰所を設けたり番士を置いたりするなど、海岸防備の強化を図っていました。さらに危機感を持った学者たちは西洋に関する情報の摂取を行うとともに、海防強化を主眼とした藩政改革を訴えました。その代表的な学者は、たとえば青山延于・藤田幽谷・豊田天功、そして会沢正志斎でした。大津浜で異国人と接触した会沢が、はじめ彼らをロシア人と思ってロシア文字を示し、彼らがABCと書いてくると、これはオランダ語のアベセであると判断したことからもわかるように、彼ら学者たちは西洋情勢に関する知識や関心を、その度合いの差はあれ、なにがしか所有していたことになる。たとえば会沢は、享和元年(1801年)、20歳の時に「千島異聞」を著していますが、その出典を見てみると、前野良沢・桂川甫周といった蘭学者の翻訳書、工藤平助・林子平といった警世家の著作、また漢籍(清時代の中国の本)などを幅広く読んでいることがわかります。外圧に対する危機意識が、この水戸藩においても19世紀初頭から高まりつつあることがわかるのです。 . . . 本文を読む
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2007.冬の常陸茨城・取材旅行「水戸城下 その7」

2008-01-08 05:49:24 | Weblog
まだ取材旅行の報告(長々と続いています)は終わっていませんが、今回の取材旅行で思ったことを、思いつくまま、いくつか箇条書きにしてみます。①旅行用のウォーキングシューズは、雨天のことを考えると完全防水性があり、くるぶしまであるような少し深めのものがよい。②みやげ物は宅配にする。③ビールはなぜか「ビンビール」(もちろん冷えたヤツ)がうまいのだ。④地形は、高低差など、やはり歩いてみないとわからない。⑤旅館代で浮いた分で一点豪華主義を楽しむ(郷土料理を楽しむ・特急を利用する・郷土本を購入する……など)。⑥原則的に自分の足で歩いたところしか書かない。⑦地域(土地)のことは地域(土地)の人に聞くことを心掛ける。⑧なるべくいつもの時刻に食事を摂り、大きくずらさない(体調、特に胃腸の調子を維持するため。食べすぎもダメ)。⑨早朝からの行動開始はやはりとてもよい。暗くなりかけたらなるべく早く旅館に入り、早く寝る。⑩雨の日は雨の日なりの楽しみ方がある。⑪私のような取材旅行の場合、せいぜい3泊4日が限界か(その集中度から)。⑫ズボンは少々高くても、山登り用の丈夫で伸縮性があり、また撥水性のあるものがよい(雨でもすそが濡れないので)。⑬帰途、反省点・特によかった点・印象に残ったこと…など、旅をしっかり振り返る。以上…かな。 . . . 本文を読む
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