鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.9月取材旅行「潮来~鹿島神宮」  その3

2011-09-30 05:16:51 | Weblog
塚本新一郎さんの『遊里潮来』には、潮来の町は、「北利根川から北浦に通ずる川沿いに細長く建ち並ぶ」とありますが、この「北利根川」とは常陸利根川のことであり、「北利根川から北浦に通ずる川」とは、実は「前川」のこと。つまり潮来の町は、前川沿いに細長く続く町であり、前に遊覧船に乗った時に女性の船頭さんが教えてくれたように、前川の北側に人家が続き、前川の南側には水田が広がっていました。この前川の北側は、西から一丁目、二丁目…と続いており、崋山が訪れた宮本尚一郎の屋敷は、「潮来五丁目」にありました。そして現在の地図を見ると、「浄国寺」の東側には六丁目、七丁目が続いています。前川が水運で賑わっていた頃には、その前川沿いに人家が建てられ町屋が形成されていったことがわかります。前川は、常陸利根川(北利根川)と北浦を結ぶ重要な河川交通路であり、その川沿いに発展した町が潮来であったことになります。宮本尚一郎の屋敷や浄国寺は、常陸利根川から前川に入って、やや奥まったところ、「潮来五丁目」の北側にありました。 . . . 本文を読む
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2011.9月取材旅行「潮来~鹿島神宮」  その2

2011-09-29 06:06:31 | Weblog
『ふるさと牛堀 人と水の歴史』によれば、東北諸藩が年貢米を初めとした諸物資を江戸へと運ぶ内陸航路を「内川廻し」といい、そのルートはいくつかありました。一つは、那珂湊→涸沼→巴川→霞ヶ浦or北浦→利根川というものであり、一つは銚子→利根川というものでした。そして中継地の潮来には仙台藩や津軽藩の蔵が設けられ、また牛堀は、潮来から利根川に至る中継地あるいは霞ヶ浦への風待ちの港として栄えていた、といったことが記されています。牛堀に「北斎公園」があるのは、北斎が『冨嶽三十六景』で「常州牛堀」を描いているからですが、そこには風待ちをしている高瀬船(利根川高瀬船)の姿が詳細に描かれています。潮来には仙台藩や津軽藩の蔵が設けられていた、とありますが、それはどこに設けられていたのか。私はその場所は常陸利根川沿いであったろうと勝手に思い込んでいましたが、実はそうではないことを今回の取材旅行で知りました。 . . . 本文を読む
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2011.9月取材旅行「潮来~鹿島神宮」  その1

2011-09-28 05:09:46 | Weblog
崋山が香取神宮に詣で、津宮河岸から再び船に乗って向かった先は潮来(いたこ)でした。常陸利根川から前川に入った崋山一行の乗る船は、前川左岸の河岸に接岸し、上陸した3人は、さっそく「潮来五丁目宮本平右衛門男尚一郎」の屋敷に向かいました。崋山は「号茶村、名元球、字仲笏」と記しています。この「宮本尚一郎」という人物が、崋山のかねてからの知り合いか、それとも誰かからの紹介であったかはよくわからない。しかし崋山が潮来に上陸して「いの一番」にこの人物を訪ねたということは、よほど興味・関心を抱いた人物であったに違いない。この「宮本尚一郎(茶村)」が、地元ではよく知られた歴史的人物であり、現在の潮来市五丁目の「浄国寺」の近くにそのお墓や案内板があることを知ったのは、ネットで「宮本茶村」を検索したことによる。ということで、夏の取材旅行では足を向けなかった「浄国寺」を訪ね、そして崋山が、潮来からその後どういう道筋(川筋)をたどったのかを探るべく、潮来からほぼ前川に沿いながら鹿島神宮まで歩いてみることにしました。以下、その取材報告です。 . . . 本文を読む
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麹町~明治公園~渋谷 その最終回

2011-09-26 05:45:51 | Weblog
甲州街道は日本橋から始まり、半蔵門までは江戸城の内堀の南側を堀沿いに歩いて、半蔵門で堀から離れて西へと向かいます。崋山の生まれた三河田原藩邸と桜田濠の間の道は、甲州街道であり、現在の「麹町大通り」(新宿通り)も、甲州街道ということになる。一方、大山街道は外堀の赤坂御門から始まり、渋谷を経て相州大山へと向かいます。赤坂から先の「青山通り」は、大山街道と重なることになります。古地図を見ると、「麹町五丁目」あたりから、「大横町」・「諏訪坂」を経て「赤坂御門」へと通じる道があり、麹町と赤坂御門および大山街道がつながっていたことがわかります。その「麹町五丁目」とは、現在の「麹町三丁目」あたりということになり、その近くには善国寺坂や貝坂などがある。この現在の麹町三丁目あたりには、鰹節や鰻の蒲焼、蕎麦、薬、菓子、そして墨、硯、筆などを売る店があり、人々の生活に密着した“商店街”が形作られていたことは、先の「千代田区町名由来板 麹町三丁目」で見た通り。と考えると、かつての麹町は、甲州街道沿いにあり、そして大山街道ともつながっていた町屋であり、甲州街道や大山街道で運ばれてきた地方産品なども盛んに売買されていたところであるらしい、ということがわかってきます。 . . . 本文を読む
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麹町~明治公園~渋谷 その5

2011-09-25 06:33:13 | Weblog
「大山街道」は、江戸の赤坂御門を起点とし、青山→渋谷→道玄坂→三軒茶屋→二子の渡し(玉川)→二子→溝口→荏田→長津田→下鶴間→厚木→下糟屋→→大山阿夫利神社へと至るおよそ70kmほどの道。現在、東京メトロ半蔵門線の永田町駅9番出口の階段を上がったところに、赤坂御門跡があります。現在は三宅坂交差点からまっすぐに「青山通り」が延びていますが、古地図を見ると、江戸時代においてはそうではなく、崋山が居住していた三河田原藩上屋敷から赤坂御門までは、道はかなり入り組んでいます。崋山が「お銀さま」を尋ねて『游相日記』の旅に出たのは、天保2年(1831年)の9月20日(旧暦)のこと。青山に出て俳諧の宗匠であった太白堂長谷川孤月の家に立ち寄ったというから、おそらく赤坂御門を通って、さっそく大山街道へ入ったものと考えられます。青山の太白堂の家を出た崋山は、青山から宮益坂を下って渋谷川を渡り、道玄坂から目黒・用賀・瀬田の村々を過ぎ、多摩川に出たところで「二子の渡し」に乗り、その日は荏田村の「升屋喜兵衛」という宿に泊まりました。1日で約27kmほどを歩いていることになります。連れは一人。高木梧庵という、崋山より14歳年下の、崋山の末弟である五郎と「兄弟同様」に親しくしていたという青年でした。 . . . 本文を読む
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麹町~明治公園~渋谷 その4

2011-09-24 04:47:41 | Weblog
高野長英(1804~1850)が崋山のために蘭書の翻訳を行うようになったのは天保3年(1732年)のこと。佐藤昌介氏はその著『高野長英』で、「おそらく長英を崋山に紹介したのは、吉田塾の先輩小関三英であろう」と記されています。三英は、長英と同じく蘭医吉田長淑に学び、崋山とは天保2年(1731年)以来の交わりであったという。この三英から崋山を紹介された頃、長英が居を構えて開業・開塾していたところは、麹町貝坂の借家。この麹町貝坂というところは、渡辺崋山の住む三河田原藩上屋敷のほんの裏手にあり、現在の平河一丁目にあたる。崋山が本格的に蘭学の研究に取り組み始めるのは、年寄役末席に進み海防事務兼任を命ぜられた天保3年(1732年)からのこと。彼は、田原藩上屋敷の近くに住む小関三英や高野長英、水戸藩の蘭学者幡崎鼎(かなえ)らと交わって蘭書の翻訳を依頼するなどして海外事情に関する情報を集めるとともに、主君筋にあたる三宅友信に蘭学を勧めて多数の蘭書を購入させました。海外事情に関する情報を集め研究を進めていった崋山が見出した、西洋諸国の富強の原因とは、その徹底した「窮理」の精神であり、それを可能とする社会的制度のあり方でした。崋山は、物質的自然のみならず、人事の万般にいたるまで「万事議論、皆理を窮むることを専務」としている西洋社会のあり方こそ日本社会のあるべき姿と捉え、人々が腹蔵なく自分の意見を出し合い、議論を重ねていくことにより合意形成をしていくことの重要性を指摘しました。崋山がアメリカの「会議共治(共和政治)」に着目しているのはそれゆえであり、またそのことは、実際に年寄役末席として藩政を担う立場にいた崋山にとって、自由な議論による合意形成が現実には極めて実現しにくい状況があったことを示唆しているものと思われます。 . . . 本文を読む
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麹町~明治公園~渋谷 その3

2011-09-23 06:58:52 | Weblog
崋山の主君筋にあたり、また崋山に師事した人物の一人である三宅友信(1806~1886)は、三河田原藩11代藩主三宅康友の庶子であり、12代藩主康和、13代藩主康明の異母弟にあたる人でした。この三宅友信は、明治14年(1881年)の秋、『崋山先生略伝』を著していますが、この時76歳。この友信の実母は、11代藩主康友の側仕えをしていた「お銀」という名前の女性でしたが、友信を産んで間もなく、母の病気の知らせを聞くと田原藩上屋敷を下がって、相州早川村の実家に戻り、それ以後田原藩邸に戻ってくることはありませんでした。天保2年(1831年)の秋、崋山はその「お銀さま」の消息を尋ねて大山街道を西へと進みますが、柏ヶ谷という村の道端で、日かげに筵(むしろ)を敷いて、背中だけ日向ぼっこをしている一人のお爺さんと出会う。そのお爺さんは、「お銀さま」の父親である幾右衛門や幾右衛門家のことをなぜかよく知っており、娘が4人いて、一番上の姉が早くから江戸に出て宮仕えをし、花を飾り錦を着て早川村に戻ってきたこと。母が死んだ後、その姉は小園村の清蔵のところに嫁に行ったこと。清蔵の家は祖先が北条殿の家臣ともいい、小園村では草分けの旧家であって、家紋は「軍配扇」だ、といったことまで教えてくれました。4人いたというその早川村の幾右衛門の、早くから江戸に出て宮仕えをした一番上の娘が「お銀さま」であるということになる。友信を産んだ時の「お銀さま」が何歳であったかはわからない。仮に20歳であったとすると、その時、崋山は14歳(満年齢)。小園村の清蔵宅で「お銀さま」と再会した時、崋山は「さて、私は何という名前か覚えておられるか」と「お銀さま」に問う。「お銀さま」は、まずは「上田ますみ様か」と答え、それが違うことを知ると、次に「さすれば渡辺登様にて候べし」と答える。24年の歳月を経てなお、「お銀さま」は当時14歳の少年であった崋山の名前をしっかりと覚えていたことになります。この相州早川村から女中奉公に上がった「お銀さま」が働き、そして藩主康友の目に留まってその寵愛を受け、友信(幼名鋼蔵)を産んだのが、江戸麹町半蔵門外の三河田原藩上屋敷であったのです。 . . . 本文を読む
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麹町~明治公園~渋谷 その2

2011-09-21 05:25:30 | Weblog
新井巌さんの『番町麹町「幻の文人町」を歩く』によると、フランス留学から帰国したばかりの中江兆民は、明治7年(1874年)10月、当初、第三大区三小区中六番町四十五番地(現在の二七通りの四番町住宅あたり)に家塾を置き、その後、手狭になったことにより翌年8年5月に上六番町三十四番地(東京家政学院二号館あたり)に引っ越し、さらに翌9年にも斜め向かいの三番町二十九番地(現在の九段南四丁目一の富士植木あたり)と転居を繰り返し、そして明治10年2月に英国大使館の北隣にあたる麹町区五番町二番地の元旗本屋敷(一番町パークマンション西隣あたり)に入りました。つまり帰国してからまず番町に居を構え(そこに家塾を開く)、その後毎年転居して(都合3回)、それからしばらく落ち着いていたところが麹町区五番町二番地の元旗本屋敷でした。この家は建て替えられますが、その家塾(仏学塾)をここでフランス語を教えていたジョルジュ・ビゴーが描いた絵が残っています。ビゴーが水彩絵の具でそれを描いたのは明治18年(1885年)10月8日のこと。2階の窓には簾(すだれ)が一面に下がっているように見え、背後にはこんもりとした木々の繁りがあります。敷地を囲む垣根も、また入口の門も至って簡素なもの。ビゴーはその屋敷内の一室で、長椅子に座って着物姿で机に向かい、石版か何かに文字を刻んでいるような書生二人の後姿も描いています。また銅版画で「麹町」という絵も残しています。中央には麹町の通り(現在の「麹町大通り」〔「新宿通り」〕)を赤ん坊を背負って歩く若い母親が描かれ、その背後右手に背の高いガス灯がひときわ目立ちます。通り両側には暖簾を張り出した店蔵の商店がずらりと軒を並べています。ビゴーにとっても、番町や麹町のあたりは、日本においてもっとも馴染みの深い場所であったと思われます。 . . . 本文を読む
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麹町~明治公園~渋谷 その1

2011-09-20 05:42:10 | Weblog
かねてから麹町に用事があったことと、しばらく前の新聞紙上で、大江健三郎さんらの呼びかけにより、「さようなら原発」集会が明治公園であることを知り、残暑厳しい秋の一日、久しぶりに東京の都心部に出掛けて東京を歩きました。以下、その簡単な報告です。 . . . 本文を読む
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2011.夏の取材旅行 潮来~佐原 その4(最終回)

2011-09-13 05:39:05 | Weblog
崋山は、利根川筋の「小江戸」として賑わっていた佐原には、行きにも帰りにも立ち寄っていない。崋山が津宮河岸から乗った船は、利根川から水郷地帯へと入り、横利根川→常陸利根川経由で前川へと入り、前川の河岸場に到着。崋山はただちに潮来五丁目の宮本平右衛門を訪ねています。ほぼ同年輩の宮本平右衛門と崋山がどういう関係であったかはよくわからない。旧知の間柄だったのか、それとも誰かの紹介であったのか。崋山にとっては、佐原よりも潮来の方が引力が強かったのは確かです。それは宮本平右衛門の存在か。それとも「潮来花柳」の存在か。それとも芭蕉の『鹿島紀行』の影響か。当時江戸市民に流行していた「三社詣」を、崋山が意識しての旅であるならば、香取神宮→鹿島神宮→息栖神社という経路から考えて、崋山が香取から潮来経由で鹿島神宮に向かうのは自然なコースではあるけれども、崋山が鹿島神宮や息栖神社を実際に訪ねたかどうかは定かではありません。むしろ「銚子遊覧」のために、潮来からは銚子への道(といっても船旅ですが)を急いでいたように思われます。佐原は利根川筋きっての商業都市ではあったけれども、崋山にとっては訪ねようと思う知り合いもなく、また訪ねようと思う魅力ある仏閣や名所もなかったものと思われます。 . . . 本文を読む
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2011.夏の取材旅行 潮来~佐原 その3

2011-09-12 05:29:01 | Weblog
崋山の「潮来泉やより望図」という絵に描かれている手前の流れ(さっぱ舟が6艘ほど接岸しているところ)は、実際に潮来を歩いてみると、これはかつての「前川」ではないかと思われてきました。かつて「前川」の向こう側(東方向)には水田が広がっていたからです。「前川」の手前から稲荷山の麓にかけてが潮来の町並みがあったところ。この流れが「前川」であったとすると、「潮来泉や」はおそらく「大門河岸」の近くの川岸にあり、川岸に面したその2階の部屋の窓から、「前川」越しに水郷の広がりが見えたことになります。「前川」の向こうの水田を横切る水路は「エンマ」(江間)であり、そこにも農業や移動用の「さっぱ舟」が行き来しています。この「前川」の向こうに広がる水田に、現在はJR鹿島線が左右に走り、JR潮来駅を中心に新市街地が広がっています。そのさらに向こうには「外浪逆浦」があって、それに続く常陸利根川はさらにその先で利根川本流と合流することになります。 . . . 本文を読む
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2011.夏の取材旅行 潮来~佐原 その2

2011-09-11 06:34:25 | Weblog
解説によると、大坂の柏原勘兵衛所有の菱垣廻船が難風に遭って漂流したのは、文政7年(1824年)の12月1日(旧暦)のこと。乗組員13人のうち11人が異国船(アメリカ捕鯨船か)に救助され、翌文政8年(1825年)の5月3日、小名浜(いわき市小名浜)沖で操業中の重吉船に引き渡されました。河原子村は遠いので、平潟(北茨城市平潟町)の船会所へ届け出た、とあります。異国船に救助された大坂の菱垣廻船の乗組員を、その異国船から太平洋上(小名浜沖)で引き渡されたのが、河原子村の重吉の船であったということになります。崋山のメモによれば、重吉船が異国船と遭遇したのは沖合「三十里ほど」。「石火矢二度」というのは、異国船(捕鯨船)の大砲が2度打ち出されたということでしょうか。重吉船以外に2艘がその場にいましたが、異国船に遭遇して、1艘は直ちに逃げ帰り、1艘は逃げ迷い、重吉船だけが異国船と接触。菱垣廻船の乗組員は13人だったが「二人病死」。廻船の荷物は「水油」。重吉船(「五人乗」)に漂流民「五人」は乗り移ったものの、残り「六人ハのこりし也」(重吉船に人数制限上乗りきれなかったためか─鮎川)と、崋山のメモ情報はかなり正確です。 . . . 本文を読む
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2011.夏の取材旅行 潮来~佐原 その1

2011-09-10 07:15:33 | Weblog
潮来五丁目の宮本尚一郎は、文久2年(1862年)に70歳で亡くなっているというから、崋山が訪ねた文政8年(1825年)には33歳ほどであり、寛政5年(1793年)生まれの崋山とほぼ同年代の人物であったことになります。潮来へ上陸してから、宿に入らずそのまま潮来五丁目の宮本を訪ねているということは、よほどの知り合いか、かねてから訪ねる予定であったものと思われる。宮本を訪ねて、宮本の案内で海雲山長勝寺に赴くまでの間に、記述されてることは、「川原子重吉、重太郎」という漁師の話。その流れで考えると、この話は崋山が宮本から聞いた話で、強く印象に残ったから書き留めたといった風に思われます。メモの内容は次の通り。「三十里ほど沖、石火矢二度。三艘ノ中一艘ハかへり、一艘迷ひ、重吉舟とら得らる。菱垣舟、極月大風、当春 異舶ニ救。異人、日本をとふ事。十三人のり二人病死。荷物水油。重吉舟五人乗、又漂舶人五人のり、六人ハのこりし也」。ここで出てくる「川原子」とは、常陸国多賀郡河原子村(現日立市河原子町)のこと。この崋山が記述したことについては、解説に詳しく説明がなされています。 . . . 本文を読む
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2011.夏の取材旅行 香取~香取神宮~潮来  その7

2011-09-09 05:55:31 | Weblog
『ふるさと牛堀 人と水の歴史』(牛堀町)に、水戸藩召し抱えの船頭誉田嘉之助(よだかのすけ)の嘉永6年(1853年)の日記が出て来ます。嘉之助は、その年2月6日から8月8日の間に、北浦の河岸(現鉾田町)から江戸・小梅の水戸藩蔵屋敷まで、年貢米を運ぶために4往復しており、そのルートはというと、北浦→浪逆浦(なさかうら)→潮来→牛堀→横利根川→利根川本流→境→関宿→江戸川→中川→江戸湾→隅田川、というものでした。年貢米を積み込んだ船はもちろん利根川高瀬船。このルートからも、潮来や牛堀が水戸藩にとっていかに大事な河岸であったかがわかります。17世紀中ごろに利根川改修工事が一応の完成を見たことにより、水戸藩や東北諸藩は、年貢米を江戸に運び込むために内陸航路を利用するようになり(これを「内川廻し」という)、中継地である潮来には仙台藩や津軽藩の蔵が設けられ、また牛堀は、潮来から利根川に至る中継地あるいは霞ヶ浦への風待ちの港(河岸)として栄えました。大久保錦一編著の『潮来遊里史』などによれば、潮来に水戸藩の認可を受けて遊里が開業したのは貞享元年(1684年)のこと。享和元年(1801年)に開業している妓楼は、四ツ目屋・万屋・伊勢屋・いのくち屋・柏屋・大和屋・河内屋の7軒。文政8年(1825年)に潮来を訪れた崋山は、「女郎屋六軒」とし、「松本屋・大和屋・蓬莱や・河内屋・庫太や・四ツ目や」を挙げています。崋山はそれ以外に「引手茶屋」として「なかやど」も挙げていますが、この「引手茶屋」は40軒ばかりもあったらしい。この遊郭があったところは浜町というところであり、崋山はその浜町の遊郭街を「潮来花柳」に描いています。黒木の大門の右側には茅葺き屋根の茶屋があって、店主らしい男が薪割りをしており、その大門の左側には2階建ての妓楼などが建ち並ぶ。大門奥の路上には、挨拶を交わす遊女たちや、遊女の供をしている女の子が描かれています。妓楼の屋根はというと、檜皮葺きや石を置いた板屋根であり、大門右手の茶屋の茅葺き屋根とは異なるのが印象的です。 . . . 本文を読む
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2011.夏の取材旅行 香取~香取神宮~潮来  その6

2011-09-08 05:39:31 | Weblog
潮来に到着した崋山一行は、「潮来五丁目」に宮本尚一郎を訪ね、それから宮本の案内で海雲山長勝寺に赴いています。そしてその日(文政8年〔1825年〕7月2日)は、「いづみや泉助」に宿泊。この潮来で崋山が描いている風景画(「真景」)は、「海雲山在潮来北里」、「潮来花柳」「潮来泉やより望図」の3枚。そのうち、宿泊した「いづみや」(「泉屋」か)の窓から、手前に「さっぱ舟」が6艘ほど接岸した水路と船着き場、その向こうに見渡す限りせいせいと広がる水田とそこに左右に流れる水路を描いたのが「潮来泉やより望図」。水田の中の水路にも「さっぱ舟」が行き来しています。この崋山一行が泊まった「泉屋」がどこにあったかはわかりませんが、人家が周囲に立て込んでいる町中ではなく、水郷に接した、やや町から外れたところであったと思われます。絵の中に常陸利根川は描かれておらず、そしてこの絵のような水田の広がりが見られるところはというと、町中を流れる前川の東側となるから、前川の東側の水田や水路に接したところにあったのかも知れません。「海雲山長勝寺」は、「在潮来北里」とあるように、潮来の町の北側にある「稲荷山」の麓に現在もありますが、「潮来花柳」はすでに消滅し、崋山が描いた「潮来花柳」の面影をしのばせるものはほとんどありません。 . . . 本文を読む
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