鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

500回を振り返って その2

2009-05-31 06:33:33 | Weblog
500回を振り返って思うことは、やはり「出会い」というものです。出会いというのは、人との出会いもあれば本や風景との出会いもあります。それぞれが貴重なものでした。人との出会いに限ってみても、さまざまな印象深い出会いがありましたが、特に思い出すのは、2007年1月20日に訪れた「生麦事件参考館」の浅海武夫さんです。参考館の2階の応接室兼書斎に案内されて、私の用意したいくつかの質問に浅海さんは丁寧に答えてくれ、また話が弾んでいったのですが、その内容についてはここでは割愛します。その会話の中で私が思ったことは「出会いの大切さ」であり、「出会い」によって人生どこでどう変わるかわからない、その面白さというものでした。というのは、浅海さんが生麦事件に関心を持ち、生麦事件参考館というものまで自宅の敷地内に造ってしまったきっかけのことで、それが「出会い」の面白さというものを私に痛感させたのです。どういうことであったのか、ということをまずまとめてみたいと思います。浅海さんとは、「立ち寄ったことはネットに載せてもいいが、話をしたその内容については載せないように」という約束をしたのですが、この話については紹介してもおそらく浅海さんは許してくれるでしょう。 . . . 本文を読む
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500回を振り返って その1

2009-05-30 05:33:42 | Weblog
今回の投稿で、私のこのブログは開始以来500回を迎えました。始めたのは2006年8月6日。それ以来およそ34ヶ月。平均すると二日に一回の割合で投稿してきたことになります。まず500回を目標としてきただけに、よく続いてきたものだとの感慨が湧いてきます。振り返ってみると、やはり取材旅行の報告が中心となっています、というか、それが記事の中心になってきました。途中までは記事を1回にまとめようとしていましたが、途中からは何回かに分けて載せるようになり、また取材旅行の報告についても、宿泊を伴う取材旅行はさておき、日帰りの取材旅行の報告はやがて7回前後に落着いてきています。1回の取材旅行(日帰り)をすると7回分の記事になるという勘定。ということは、4泊5日ほどの泊を伴う取材旅行をすると40回近くの記事になるということです。1回あたりの字数は平均するとおよそ3000字弱。原稿用紙でおよそ7枚。500回ということは、原稿用紙ではおよそ3500枚書いたことになります。「塵も積もれば山となる」という喩え通りで、「継続は力」ということを実感します。一つの区切りですので、ここで「500回」を簡単に振り返ってみたいと思います。 . . . 本文を読む
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『土佐の民家』について その2

2009-05-29 06:01:52 | Weblog
幕末・明治に生きた人物を小説にする時、その人物が育った町や村、またその人物が歩いた道筋、またその人物が暮らしたところの風景を描写する必要が生まれます。その人物の目に、幕末・明治期の風景はどのように見えたのだろうか。家の形は、その色は、町並みの様子は、見える山の稜線の形は、行き交う人々の装いは、入った家の内部の構造は、乗った車(人力車)や駕籠から見える風景は、漂う匂いや香りは、日差しや吹く風の加減は……、など考えていったらきりがありません。しかし推測していく手立てはあります。それは古写真であったり、その時代の人が書いた旅行記や小説であったり、浮世絵を始めとした絵画資料であったり、古老からの聞き取りであったりするわけです。現地に行ってわずかな名残りから推測していくという方法もきわめて大事です。つまり「現場を踏む」ということです。生えている樹木、咲いている草花、その土地の匂いや香り、その土地の人々の話す方言の趣きなどといったものは、やはり実際そこへ行ってみなければよくわからないものです。そしてそれらを総合していった時に、かつての景観がおもむろに立ち上がってきます。その風景は、当然のことながら、現在のそれとは大きく異なります。しかし昭和30年代までは、その風景はあちこちにまだまだ見ることができたのです。そしてその風景は、幕末以前のずっと昔からの風景と、それほど大きく変わるものではありませんでした。私は昭和20年代の末年の生まれですが、そのような風景は、市域の新興住宅街の端っこにあった私の家の北側の農村地帯に広がっていましたし、また母の実家に墓参りに行く時、武生(たけふ)の町や脇本の北陸街道沿いに見られたものでした。また親に連れられていった福井市近郊の村や町にも見られたものでした。福井市は空襲で焼け、さらにその3年後の大震災で壊滅的な打撃を受け、かつての32万石の城下町としての景観は全く失われてしまっていましたが、そういう新しい街並みを見ていた幼い時の私にとっては、付近の昔ながらの村や町の景観やたたずまいは、子ども心にとってもそれなりのカルチャーショックでした。一方で、学校では石油コンビナートや工業地帯のことを学び、太平洋側やコンビナート地帯が未来ある地域のように教えられ、図画の時間に描いた未来都市の絵は、超高層ビルの間を縫うように走る高速道路とおびただしい数の車でした。 . . . 本文を読む
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『土佐の民家』について その1

2009-05-28 05:54:21 | Weblog
「川崎市立日本民家園」を訪ねて以来、茅草き民家や古民家に関心を強めたのですが、思い出したのは、土佐の民家についてまとめた本があったな、ということでした。本棚から探し出して見ると、その本の名前は『土佐の民家』。副題は「郷愁の民家建築八十三撰」というもので、出版は高知新聞社。編集は高知新聞社編集局学芸部。執筆したのは、建築士の人であったり、高校教諭で建築士の人であったり、県立歴史民俗資料館の学芸員であったり。平成6年(1994年)から平成8年(1996年)まで足掛け3年間、各メンバーが高知県内全域を回り、現存する(平成9年段階)藩政期以降の主要な建物を紹介したもの。この本の古民家の写真や記事に目を通して、あらためて古民家というものがその地の風土に深く根ざしたものであることを知り、なお一層古民家の魅力というものを感じましたが、一方でその古民家がどんどん無くなっていることと、とりわけ茅葺き民家が絶滅の危機に瀕していることも知りました。「八十三撰」の中に。茅葺き民家は数えるほどしか載っていないのです。この本の「35 川村家住宅」〈土佐郡本川村寺川〉のところに、草葺き屋根の民家の調査結果が出ていますが、それによると、1993年(平成5年年)に神奈川県教育委員会が同県内に残る草葺き屋根を調査していますが、その総数は「実に一万千四百棟余り」であったという。阪神大震災前の神戸でも北区・西区だけで千二百棟に上っているという。それに対して高知県の場合は、「トタンで屋根全体を覆ったものを含めても百棟を上回ることはないであろう」とのことでした。これには私もびっくりしました。「大都会にこれだけ残っていて逆にもっと残っていそうな高知にあまり残っていないのはなぜだろうか」として、その答えとして「やはり土佐で残り少ないのは、高温多湿の厳しい条件に加え、台風の来週、そして新しいもの好きの土佐人の県民性などが影響しているのかもしれない」とありました。この本で面白いのは、それぞれの古民家の写真とともに、それに付されている「視点」の記述の内容でした。「たしかにその通りだ」と合点し共感するところが多々ありました。この本を購入したのは、神田神保町の今は無くなってしまった地方出版書の専門店でした。兆民が青年時代を送った土佐の風景描写の参考にするためでしたが、この本が出版されてからすでに12年間が経過しています。 . . . 本文を読む
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2009.5月「登戸そして二子・溝口」取材旅行 その最終回

2009-05-26 06:43:21 | Weblog
『日本文学全集 岡本かの子』(集英社)の「作家と作品」を書いている瀬戸内晴美(寂聴)さんによれば、「岡本かの子が突然、彗星のように文壇に登場し、休火山の爆発をみるような旺盛な作家活動をはじめたのが昭和十一年で、かの子の死はそれからわずか四年め、昭和十四年二月十八日」でした。「昭和十一年」と言えば、その年1月に父寅吉が亡くなった年であり、かの子か『雛妓』で言うように、「歌よりも小説のスケールによって家霊を表現することを」決意した年でもある。父の死が、かの子の「休火山の爆発をみるような旺盛な作家活動」を始める機縁であったことがわかります。岡本かの子が生まれたところは実は二子(ふたこ)の大貫家ではなく、東京青山南町の大貫家の別荘でした。大貫家は東京に別荘を持っていたことになります。生まれた日は、明治22年(1889年)の3月1日。父は寅吉、母はアイ。戸籍名は「カノ」。東京で生まれたかの子は、幼少時を実家で過ごしています。高津尋常小学校の卒業記念写真に、かの子(大貫カノ)が当時村長であった父寅吉と一緒に収まっているのは前に見た通り。かの子は、子どもの頃は光明寺の階段や蔵の側(そば)で、本ばかり読んでいたという文学好きな少女でした。この高津尋常小学校のあったところは、現在の帝京大学溝口病院があるあたり。『雛妓』を読んでみても、この二子で育った時期に、かの子が旧家大貫家にまつわるさまざまな人間模様を見ていたことがわかります。寅吉の葬儀の際、会葬者中の親族席には、東京板橋あたりから相模の厚木あたりまでの「その土地土地では旧家であり豪家である実家の親族者の代表者」が「ことごとく集ま」りましたが、その中には「年々巨万の地代を挙げながら、代々の慣習によって中学卒業程度で家督を護(まも)らせられている壮年者」や、「横浜開港時代に土地開発に力を尽し、儒学と俳諧にも深い造詣を持ちながらいっこう世に知られず、その子をしてただ老獪(ろうかい)の一手だけを処世の金科玉条として資産を増殖さしている老爺」、また「蓄妾に精力をスポイルして家産の安全を図っている地方紳士」や、美貌に生まれながらも「草莽の中に鄙び」「ただどこそこのお婆さんの名においていつの間にか生を消して」いった女性達も数多くいました。幼い時はそれほど詳しく知らなかったにしても、多くのそういう親類縁者が「カノ」のまわりには存在したのです。 . . . 本文を読む
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2009.5月「登戸そして二子・溝口」取材旅行 その6

2009-05-25 06:12:05 | Weblog
岡本かの子に『雛妓』という作品がありますが、これにかの子は父である大貫寅吉のことを思い、また自分の半生について思いを巡らしています。かの子の父親大貫寅吉が亡くなったのは昭和11年(1936年)の1月。かの子は父の葬儀その他が片付いてから、大山街道を「スピードののろい田舎の自動車」に乗って自宅に帰り着きます。そこから話は始まっているのですが、この作品でかの子は大貫家の血筋というものを振り返っていきます。大貫寅吉については次のようなことが書かれています。「父は大家の若旦那に生れついて、家の跡取りとなり、何の苦労もないうちに、郷党の銀行にただ名前を貸しといただけで、その銀行の破綻の責を一家に引受け、預金者に対して蔵屋敷まで投げ出した」「家によってのみ生きている旧家の人間が家を失うことの怯(おび)えは何かの形で生命に影響しないわけはなかった。晩年、父の伎倆としてはみごとすぎるほどの橋を奔走して自町のために造り、その橋によってせめて家名を郷党に刻もうとしたのも、この悔を薄める手段にほかならなかった」「父はまた、長男でわたくしの兄に当る文学好きの青年が大学を出ると間もなく夭死(わかじに)した、その墓をみごとに作って、学位の文学士という文字を墓面に大きく刻みこみ、毎日毎日名残り惜しそうにそれを眺めに行った」「動きの多い空の雲の隙間から飴色の春陽が、はだらはだらに射しおろす。その光の中に横たえられたコンクリートの長橋。父が家霊に対して畢生の申訳に尽力して架した長橋である」この大貫家の「家霊」というものを、父の死後、かの子は強く意識します。この「家霊」への意識は、逸作の言葉として次のように表現されています。「何百年の間、武蔵相模の土にわたって逞しい埋蔵力を持ちながら、匍(は)い松のように横に延びただけの旧家の一族についている家霊が、何一つ世間へ表現されないのをおやじは心魂に徹して歎いていたのだ。おやじの遺憾はただそればかりなのだ。おやじ自身はそれをはっきり意識に上(のぼ)す力はなかったかもしれない。けれど晩年にはやはりそれに促されて、何となくおまえ一人の素質をたよりにしていたのだ。…あのおやじに現れた若さと家霊の表現の意思を継いでやりなさい。それでなけりゃ、あんまりお前の家のものは可哀想だ。家そのものが可哀想だ」。そしてかの子は、小説による「家霊」の表現を決意するに至るのです。 . . . 本文を読む
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2009.5月「登戸そして二子・溝口」取材旅行 その5

2009-05-24 06:14:56 | Weblog
国木田独歩の『忘れえぬ人々』で描かれる大山街道の溝口宿の様子については前に触れたことがありますが、その『忘れえぬ人々』の記述を読む限り、明治30年頃の街道筋の民家は茅葺き屋根であったように思われます。「昨日降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ茅屋根の南の軒先からは雨滴(あまだれ)が風に吹かれて舞うて落ちている」とあります。「茅屋根」には「わらやね」のルビがふってありますが、これは「藁(わら)」の屋根ではなく「茅(かや)」の屋根であって、つまり「茅葺き屋根」のこと。「亀屋」もおそらく茅葺き屋根で、通りに面した入口や窓には障子が張られていました。「広い土間」がありますが、馬屋があったとすれば、おそらくその土間は奥まで(裏手まで)続いているものであったと思われます。というふうになぜ考えるかと言うと、大山街道は相模野や秦野の物資を東京(江戸)方面に運ぶ重要な生活物資運搬道路であったからです。中平龍二郎さんの『ホントに歩く大山街道』には、二子の渡しに関連して次のようなことが書かれています。「渡しは、江戸時代、明治時代、大正時代も、野菜などの農産物や桶などの手工品を東京方面で販売するために利用された。東京方面からの帰路には、田畑で使うため、東京で汲み取った下肥を持ち帰った。往き来の激しい時には、馬車、牛車、手車の列が、両岸の渡しの手前で2kmもの列を作っていたそうである。」また「亀屋」に関して、次のよう記述もあります。「国木田独歩が訪れた頃は、生糸の輸出が盛んで、養蚕の時期になると、群馬県や長野県から繭(まゆ)の仲買人が来て泊り込んでいたそうだ。」この溝口の亀屋は、創業が寛永19年(1642年)。江戸時代から大正時代頃までは、相模川の鮎を江戸(東京)日本橋の鮎問屋まで運ぶ「鮎かつぎ」人足の中継所でもありました。国木田独歩が泊まった時の亀屋の主人は鈴木久吉。「春亀」という俳号を持つ俳人としての顔も持っていました。江戸時代より代々問屋役を務めてきた溝口の「丸屋」(名主兼任)は本業は卸(おろし)問屋で、秦野のたばこや厚木の麦などを扱い繁盛していましたが、古写真などを見るとこれも茅葺き屋根(張り出し屋根は瓦屋根)でした。溝口では黒壁仕上げの蔵造りの店はどうも少なかったようで、多くは茅葺きであったと思われます。であるなら、その棟には「いちはつ」が植えられていた可能性が高いことになる。 . . . 本文を読む
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2009.5月「登戸そして二子・溝口」取材旅行 その4

2009-05-23 06:08:13 | Weblog
坂本高雄さんの『山梨の草葺民家』(山梨日日新聞社)という本によれば、「芝棟」というのは「棟」の造りのうちで最も原始的なものであるという。「芝棟」に植えられるのはイチハツ・アヤメ・ユリ・キボシ・イワヒバ(岩松)など。このうち「イチハツ」については、「地下に逞しい根茎、肥大した根をもつ」「ヒデリソウの別名」「本県(山梨県─鮎川註)ではカラショウブと呼んでいる」と記され、さらに次のような注目すべき記述があります。「数十年前頃までは甲府盆地東部や盆央の屋根棟にもイチハツの花の咲く光景が見られた」。そしてその例として北巨摩郡大泉村井出下井出のイチハツの棟の見られる民家の写真が掲載されています。甲州盆地東部の典型的な屋根型は「櫓造り」または「甲州型」というそうですが、それは突き上げ部分が屋根に馬乗りしたもので、その屋根に馬乗りした突き上げ部分はなぜ設けられているかというと、それは養蚕のための換気および採光のためでした。こういった「櫓造り」は山梨県東部ばかりか神奈川県相模原市津久井町(旧津久井郡津久井町)の青野原などにも見られるという。旧津久井郡や愛甲郡の北部(旧津久井郡と接するところ)は、大雑把に見て甲州文化圏に属し、甲州や甲州街道の影響の強いところですが、家の造りを見てもやはり甲州の影響を受けていることがこのことからもわかります。では甲州盆地東部の草葺き屋根がもともと「櫓造り」であったかというと、そうではなく、もともとは「切妻造」で馬乗りになった突き上げ部分はありませんでした。それがよくわかるのが川崎市立日本民家園にある旧広瀬家住宅。これはもともとは山梨県の甲州市(旧塩山市)の北郊、大菩薩峠の西北の山裾の上萩原という山村にあったもの。古江亮仁さんの『日本民家園物語』には、「三方は土壁で塗り込められているので、非常に古めかしく、家型埴輪や古い神社の神殿から想像される古代の豪族の家を目のあたりに見る思いがする」とあります。この旧広瀬家住宅も、移築前には「櫓造り」の屋根になっていました。こういう屋根に改造されたのは、養蚕が盛んになった幕末の開港(横浜)以降のことであるらしい。坂本高雄さんの記述と照らし合わせてみると、かつての切妻造の民家やそれが改造された「櫓造り」の民家の棟にも、以前はイチハツなど(ほかにアヤメやイワヒバなど)の草が植えられていた可能性が高いことがわかります。 . . . 本文を読む
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2009.5月「登戸そして二子・溝口」取材旅行 その3

2009-05-22 06:33:49 | Weblog
『日下部金兵衛』中村啓信(国書刊行会)のP141に掲載されている、いちはつが棟に植えられた民家が東海道の両側に並ぶ箱根宿の写真は、長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベースでも見ることができます。ネットでそれを開いて、「撮影対象から探す」をクリックして、出てきたジャンルの中から「都市」の中の「集落」をクリックして「検索」します。するとそこで出てきた多数の写真の中から、「箱根宿(5) 目録番号1682 撮影者日下部金兵衛」を見つけ出すことができます。この「集落」を見ても、また「民家」を見ても、日下部金兵衛の写したものがかなり多いことに気付かされます。とくに興味深いのは、彼が写した一連の中山道筋の写真。金兵衛は中山道も、写真撮影のために精力的に歩いていることがわかります。ついでに「いちはつ」が植えられた民家の写真があるかどうか調べてみると、印象的な5枚の写真が見つかりました。①「民家」の中の「神奈川街道筋の民家」撮影者はF・ベアト。写した時もわかります。西暦の1865年8月21日。「金沢道の親しい老婦人キオタさんの家」というコメントがある。この日、ベアトは金沢道沿いに住む親しい「キオタさん」という老婦人の家を銀板写真機で撮影したのですが、この家の茅葺き屋根の棟にはいちはつが植えられていました。②「地方」の「飯山の橋(1)」目録番号1435。撮影者は同じくF・ベアト。以前に紹介した、飯山観音へ通ずる橋と茶店を写したもの。③「住宅」の「宮城野の農家」目録番号300。撮影者は小川一真。④「集落」の「箱根宿と駕籠に乗る娘」。目録番号5061。撮影者は未詳。右側の茅葺き屋根の上にいちはつがあります。⑤「住宅」の「農家(2)」。目録番号602。撮影者は未詳。この5枚以外にも、いちはつの植えられた民家が写された写真はいろいろ見つかるはずです。茅葺き民家がほとんど見られなくなった今だからこそ、それを魅力的な被写体としてカメラで撮影する人たちがいます(私もその一人)が、かつてはあたりまえの風景でわざわざそれだけを写すためにカメラを向ける人は少なかったと思われます。ベアトや日下部金兵衛らがそういった民家の写真を撮ったのは、それらの入った写真集を外国人に買ってもらうため。つまり外国人を意識していたからにほかなりません。外国人にとっては魅力ある風景の一つであったのです。 . . . 本文を読む
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2009.5月「登戸そして二子・溝口」取材旅行 その2

2009-05-21 05:45:17 | Weblog
私の妻の母の実家は、相模原市津久井町のNというところにあるKという家で、かつては茅葺き屋根の農家でした。義母の幼い頃には囲炉裏が二つありました。一つは土間の近くで、そのまわりで作業をするところ。一つは食事などをする一家団欒の場所で、お客があればそこでもてなしました。家のまわりにはモチノキが植えてありました。なぜモチノキかというと、火事が周囲で発生した時にその延焼を食い止める効果があったという。水分の豊かな肉厚の葉っぱが、火を食い止める働きをしたというのです。いちはつが棟に植えられた理由の一つは、それが火災を防ぐという俗信があったから、というのがありましたが、火災はやはりずっと昔からもっとも怖れられていた災厄の一つであったのです。茅葺き屋根は、火災が発生した場合には、それが乾燥していればいるほど燃えやすい。その義母に、日本民家園のことやいちはつの植えてある茅葺き屋根の話をしたところ、ひい爺さんやひい婆さんの頃には、屋根にいちはつが植えられてあったようだとの話が出て来ました。このあたりでは「いちはつ」とは呼ばないで「いっぱつ」と呼んだらしい。しかも現在の家(妻の実家)の川べりの畑地にはその「いっぱつ」の花が毎年咲き、今年もしばらく前まで咲いていたという。ベアトの写真で、いちはつが近くの宮ヶ瀬(みやがせ)の茅葺き民家の屋根にも植えられていたことを確認しましたが、であるなら、ここにおいてもかつての茅葺き屋根の民家にいちはつが植えられていた可能性は十分にあるわけです。義母とそういった話をした翌日、仕事から帰宅してみると、なんと仏壇の脇の花瓶に青紫色のいちはつが生けられていました。妻に聞くと、母が実家からもらってきたもので、それは義母が、義母の実家の親類の方からもらったもの。つまり義母の実家にはいちはつが植えられ、それが今も咲いているというのです。さらに聞くと、そのいちはつはかつて鎌倉の知り合いからもらったものだのこと。「鎌倉の知り合いからもらった」経緯はわかりませんが、いちはつに対する思い入れがあってのことでしょう。もちろん今は茅葺き屋根ではないから、棟に咲いていたものではなく庭に咲いていたもの。それからもう数日経っているのでさすがに花はしおれてきましたが、あのいちはつが部屋に飾られていて、それを毎日鑑賞しているなどということは、しばらく前までは全く想定外のことでした。 . . . 本文を読む
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2009.5月「登戸そして二子・溝口」取材旅行 その1

2009-05-20 06:10:02 | Weblog
ゴールデンウィーク中に「川崎市民ミュージアム」に行った時、開館までの時間を利用して、大山街道の二子の渡しから溝口の大石橋まで歩きましたが、やはり重要な脇街道であっただけに、わずかな距離の間でしたが、街道筋の宿場町としての歴史の重みというものをいたるところで感じました。往時とは大きく変貌していますが、それでも大山街道の歴史的伝統がしっかりと息づいているのです。そこで、さらにもう少し西へと歩いてみるとともに、途中にあった「大山街道ふるさと館」と「川崎市立高津図書館」にぜひ立ち寄ってみたいと思いました。小田急線座間駅から、登戸駅でJR南武線乗り換え、武蔵溝ノ口駅までの切符を購入したのですが、登戸へ向かう途中、南武線に乗り換えるには小田急線登戸駅からいったん外に出ることを思い出し、であるなら、登戸にあったというあの清宮家住宅(現在は日本民家園に移築・屋根の棟にいちはつの花が咲く)が、登戸のいったいどんなところにあったのか、現在その周辺はどのようになっているのかを確かめてみようと思い付きました。民家園でデジカメで撮った多数の写真の中から、清宮家の案内板を写したのを拾い出し(こういうことが車中でもすぐに出来るのがデジカメのすごいところ)、かつての所在地を確認。小田急線登戸駅の改札を出て、駅前の案内図でそのだいたいの場所を確認してから、歩き始めました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
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古江亮仁さんの『日本民家園物語』について その2

2009-05-16 06:29:22 | Weblog
日本民家園の本館展示室の説明によると、近世民家や農家の屋根は茅葺(かやぶ)きが主であるという。「カヤ」はススキ、アシ、オガルカヤ、メガルカヤ、麦わら、稲わらなどの総称。あるボランティア・ガイドの方にお聞きしたところ、藁葺(わらふ)き屋根は貧しい農民の家に多く見られたという。藁葺き屋根の場合、入手し易いけれどもすぐに腐ってしまう。しかし茅葺きの場合は、囲炉裏の煙に燻(いぶ)されることによって長持ちするのだという。これが近世民家や農家に茅葺きの屋根が多い理由。囲炉裏の火は一年中付けられ、薪を燃やすことによって生じる煙は、上に上って、屋根の密集したカヤの中をめぐり、そのカヤを燻(いぶ)します。カヤばかりでなく柱や棟木、棟木と茅葺き屋根を結び付けている縄などを燻します。これによってカヤや柱は腐らなくなり、縄はより強度を増し、カヤの中にいた虫も殺されます。家全体が常に燻されることによって、長い寿命を保つというわけです。さらに煙は、外からの虫(蚊など)の侵入もシャットアウトします。やはりボランティアの女性の方の話でしたが(ボランティア・ガイドの第一期生で15年間のキャリアを持つ)、裏山にはやぶ蚊がたくさん生息するにも関わらず、夏にやぶ蚊に刺されたことは一度もない、ということでした。ということは、逆に言えば、囲炉裏で薪を常に燃やし続けていなければ、茅葺き屋根の家は長持ちしないということになります。煙で燻さなければ、屋根や木部は腐り、虫が付き、外からやぶ蚊などが侵入してくるということ(虫や蚊などが侵入できる隙間はいたるところにある。もちろん風も)。電化が進み、電気こたつや冷暖房装置(エアコンなど)が入ってくると、当然のこととして囲炉裏で薪を焚く必要がなくなってくるし、室内はより密封性が要求されてきます。茅葺き屋根の家は燻されなければ次々と綻(ほころ)びが目立ってくるでしょう。電化が普及し、家電製品がどんどん入ってくると、茅葺き屋根の古い民家はどんどん不便なものになってくるのです。以前は村の共同作業(互助作業)として行われた茅葺きも、それが出来なくなってくるとたいへんな費用を要するようになってきます。大きな屋根を持つ家であればあるほどそう。また生活スタイルの変化により、個室(勉強部屋)を欲しいという子どもの要求も強くなってきます。茅葺きの古民家が、どんどん減っていった「わけ」です。 . . . 本文を読む
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古江亮仁さんの『日本民家園物語』について その1

2009-05-15 06:03:09 | Weblog
実際に「日本民家園」に行ってみて、茅葺き屋根を中心とする古民家が集められた施設内を巡ってみて思ったことは、これが実に貴重な施設であることを痛感するとともに、このような施設を多摩丘陵の一角に造ろうと提案し、そしてそのリーダーシップを担った人たちがいるに違いない、その人たちはいったいどういう動機からこのような施設の構想を立てるようになったのか、ということでした。そういう人たちがいなければ、このような民家は保存・維持されることはなく、宅地化や時代の進展とともに姿を消していったに違いないのです。私が旧清宮家の「いちはつ」の花が咲く「芝棟」から、幕末・明治期の東海道やその周辺の茅葺き屋根の集落のたたずまいをまざまざと思い描くこともなかったわけです。ということで、妻と娘と一緒にふたたび民家園を訪れた時、売店で『日本民家園物語』という、初代館長の古江亮仁(りょうにん・1915~2001)という方が書かれた本が売られているのを目にし、即購入しました。それを読んで、やはり貴重な先覚者がいたからこそ、このような貴重な施設が生まれ、維持されてきたものであることを知りました。 . . . 本文を読む
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東海道の「いちはつ」の花 最終回

2009-05-13 05:39:24 | Weblog
幕末・明治期の、茅葺き屋根の「イチハツ」が写る古写真は、どごで、誰によって写されているでしょうか。といったことを調べてみました。 . . . 本文を読む
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東海道の「いちはつ」の花 その7

2009-05-12 05:52:44 | Weblog
帰宅して、「芝棟」にイチハツの花が咲く旧清宮家の茅葺き屋根のことや、ほかの茅葺きの民家などのたたずまいの美しさについて妻に話をし、連休のどこかでまた民家園を一緒に訪ねてみることを促すと、妻も娘も一緒に行く、ということで、連休最後の日にふたたび訪れることになりました。あいにくの雨模様でしたが、雨の時はまた雨の時なりの風情があることを今までの取材旅行でよく知っているので、開館に間に合うように家を出発しました。今度は生田緑地の東口立体駐車場に車を停め、正門から民家園に入っていきました。雨模様ということもあって、見学する人もそれほど多くはなく、床上見学のできる民家も前回とは異なり、ゆっくりと見て回ることができました。新しい知見はいろいろとあったのですが、何よりうれしかったのは旧清宮家が今回は床上見学が出来たことでした。前回見ることができなかった家の室内のようすをすみずみまで見ることが出来たのです。そしてまた『日本民家園収蔵品目録5 旧清宮家住宅』(川崎市立日本民家園)と初代園長であった古江亮仁(りょうにん)さんの『日本民家園物語』などを購入し、清宮家のことや民家園設立の経緯などについてより詳しい情報を手に入れることができました。 . . . 本文を読む
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