★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ファルコンの顔

2017-02-22 23:34:22 | 映画


「ネバーエンディングストーリー」の見所といえば、やはりファルコンの顔であろう。エンデが激怒したというエンディング――いじめっ子をファルコンに乗ったバスチャンが追いかけ回してゴミ箱に追いつめる――も、ファルコンの顔で少しは救われている(誰が救われるのかわからんが)。とりあえず、いじめっ子を、でっかいかわいいのかかわいくないのかきわめて微妙なぬいぐるみが追いかけているという結末に見えるのである。

そういう風に受け取ってしまうわたくしは自分にこの国の風土に染みついた相対主義的なにおいをかぐ。エンデが思い描いているのは、古びてゆく紙幣とか利子としての時間とか――、見かけほどファンタジックではない。虚構と現実の二元論は、本当は真の問題からの逃避にすぎず、エンデはその二元論の地点では戦っていないはずである。

とはいえ、原作がどういうものか忘れてしまった。「モモ」を含めてエンデのお話は小学生にはものすごいものに思えたことは確かである。

ルソーではないが、「子どもというものを我々は知らない」という言葉は時々反芻してみる必要がある。たぶん、子どもに近いのは主人の下で極端に自由がない使用人ではないだろうか。大人には想像しにくいが、容易に想像すべきではない。大人の内部を分析してそこに到達すべきである。