★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

かこち顔なる顔

2021-11-22 23:22:55 | 文学


嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな

わたくしがあまり西行を好まなかった理由がだんだん分かってきたのであるが、西行がこういうときに「かこち顔」などといって、自分の顔をちゃんと見ないからである。もちろん、自分では見えないのだから、人にみてもらうほかはないのだが、紫式部や清少納言であったら、こんなのんきなことを言っていられない。つねに見られる可能性があったからである。源氏が紫の上を覗く場面など、女性から見たらやはり怖ろしい場面であったにちがいない。

月はものをおもわせる、のは嘘ではなく、やはりものを思わせる。だから「かこち顔」と「月のせいにしたそうな感じの顔」は、月の圧倒的迫力のなかで、妙な顔として浮かび上がっているのだが、よくわからんが私泣いてます、という最後の決めが素晴らしい。ただの涙なのに、最近の言葉で言えば、エッジの効いた涙と言ってよいであろう。

 百、二百、簇がる騎士は数をつくして北の方なる試合へと急げば、石に古りたるカメロットの館には、ただ王妃ギニヴィアの長く牽く衣の裾の響のみ残る。
 薄紅の一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明らさまなるに、裳のみは軽く捌く珠の履をつつみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。登り詰めたる階の正面には大いなる花を鈍色の奥に織り込める戸帳が、人なきをかこち顔なる様にてそよとも動かぬ。


――夏目漱石「薤露行」


かんがえてみりゃ、かこち顔などという感覚をすでに忘れかけているのが現代人かも知れない。見る顔にしても見られる顔にしても、どうしたって、見る方の願望で覆われてしまう。見られない、しかし確かにかこち顔である、このぐらいは出来たのが人間だったのである。


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