★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

粟散辺地とて心憂き境なり

2022-09-27 23:03:26 | 文学


独ねられぬまゝに。世の無常をぐはんずる時。寝させ置たる。二人の子共。現に声をあげて。びくびく身のうごく事。三十七度也。

猟師の夫が鳥撃ちを生業としていたが、妻はそんな殺生はやめてほしかった。そして夫が仕事に行っている間、懊悩していたら、子どもが三七度びくびく動いた。ちょうど夫が殺した鳥の数だった。このはなしは「物は仕入によつて何事も。」(物事は訓練次第だ)と始まっている。思うに、この仕事の熟達というもののオソろしさ、というか、物事は熟達するとそれだけで世界の「構成」を変えてしまうところがあるのだと思う。いまだって、自称「プロ」はたくさんいて、彼ら自身は、単に自分の範疇だけが美的に映っているであろうが、それによって、見え方ではなく実際に世の中がゆがんでいる可能性があると思うのだ。

今日は、安倍氏の「国葬儀」であったが、こういう行事が、明治や戦後の吉田茂のころと同様に遂行され得ないのは、内閣が頭悪くなっているからではなく、葬儀自体が素人がやってはならぬプロのビジネスと化しているからでもある。我々は、国葬儀どころか葬儀自体に対する肉体的感触を忘れかけている。わたくしは。国葬なんかはもともと我々の文化とは何の関係もなく発動した張りぼてだと思っている。が、それでも、「ごんぎつね」みたいに、自分の家族を近所の人間と送ったことがある状態だった場合には、「国葬」にもまだ「国葬」の内実が国民によって仮想的に意味づけがなされる可能性があったと思う者だ。しかしいまは、わたくしの目には武道館も文化的なものにみえず、下品な施設にしか見えない。そもそもあそこは葬儀をやるところではねえ。

日本近代文学は嘔くような努力で、西洋文学と漢文と古文の合体を果たしたが、これは言葉だからなんとかなった側面があり、音楽とか建築のそれにはなんか猛烈な異和感があるのだ。しかしそれはわたしがそれらを余り勉強しなかったからで、我々の習合的文化への納得はどこかで勉強が必要じゃないかとも思う。しかしまあ考えてみりゃ、言葉の分野こそ勉強が必要で、そうじゃない場合はしなくてもよいのかもしれない気もする。すなわち、近代文学が異形な形で習合を遂げた事態を学んだわたくしにとっては、なにかハードルが高い気がするだけかも知れないのだ。しかし、たぶんそうではない。文化が「生活」に近づいた学校的なものに駆逐されつつある証拠なのだ。

安倍氏がもたらしたものは大概、日本の学校文化もどきに適応した多くの人民の望んだことだっただろう。学校文化の儀式とは、未来が空白というところに特徴がある。学校は実はその空間の維持が最優先で、未来に責任をもたないし、持ってはならない。「二十四の瞳」みたいな、労働からの解放を学校がになっていた時代とはちがい、そこでは良くも悪くも自足的な何かになっている。しかしこれは我々の国家そのものの姿である。それは、何も崇拝せず、なにも目指さない。そのかわり「未来もガンバロウと思う」というせりふだけがあるような世界である。今回の国葬儀は安倍の神格化ではなく、安倍の神格化に移行しない雰囲気の神格化ともいうべき事態をもたらしている。

いろいろな人が言っていたが、ほんと、今回の国葬儀、どこかの体育館での卒業式みたいだった。もうすこしちゃんとみてりゃ、在校生による呼びかけでもはじまりそうな雰囲気だった。(途中でテレビ切っちゃったからしらないけど、もしかしてやったのか?)国技館はモデルの夢殿というよりやはり体育館だ。

かかる、「二一世紀の日本の教育」を輸出しようという動きはほんとにあって、「大東亜共栄圏」もどきは教育から再出発という感じである。冗談じゃねえわなという気がする一方、日本で多くの人間に抵抗感がなかったことをあまりなめてはいけない。

学校の現場は、アクティブラーニングとかもっともな理屈を伴いながら、実際には、学力的・人間的に卓越した教師が減少することによって、ゆるい子ども同士の協働の練習の場みたいなものになりつつあるが、これを最低の全体主義ととるべきか、なにか革新的なものとみるべきか。前者ととるのが常識だとしても、我々はその何も無い虚無からなにかを生み出さないとも限らない。いまのところ、仕事が出来る一部に残った仕事を押しつけることでなんと社会をまわしているようにみえるので、その協働の練習とやらは大失敗だと思うが、人間将来的にそんな底のような状況でもなんとかしてしまう側面もある。

日本はもはや閉じていないことも幸いするかも知れない。西洋列強にいろいろぶっ壊されたところから何か独特な者が出てくる可能性があるのか、今日来てたある種の諸外国のお偉方はちょっとは考えただろうと思う。文学と思想しか塹壕はないんだとわたくしは思うが。。。経済のことだけを無理に考えてると自分の姿に盲目となり、ほんとに昔のくり返しになりかねない。本質的に、負け犬意識、「弱者」の意識が絡んでいるからである。

とにかく弱い者いじめはよくないというのが、昨今、国民の集合意識みたいになっており、国葬をやったほうも国葬に抵抗したほうも自分こそいじめられていると思っているところがやっかいだ。そして少しずつそれは当たっているからである。内田樹氏なら、「それは植民地だから」と言うであろう。しかし内田樹氏に言われるまでもなく、それは意識すべき当為ではなく、現実をつくっているコモンセンスなのである。するべきなのは、その意識がどのような作用を人間にもたらしているか、に対する冷徹な観察である。思うに、人間いじめられると、けっこう嘘をつくようになるのだ。いじめてる方もそうかもしれないが、この自意識的なめんどくささから逃げ回ってると、嘘をつくことに抵抗感がなくなって、そのなかの一部の人は脅迫とかも平気になる。安倍氏もその周辺も最後までいじめられっ子の自意識がついてまわっていた。脅迫と嘘というのはおもったよりも近いものだ。そして、脅迫された嘘をつかれたという怨恨は、それをしてもよいという意志に簡単に転化してしまうのである。「羅生門」の下人をみるがいい。

弱者にはいろいろな奴がおり、素直な善人(そんな人間はいないが)だけじゃなく意地も悪けりゃずるい奴もファシスト紛いもいるわけである。そこにピタッと寄り添っちゃうのは、通俗唯物論に似た暴力だと思う。芥川龍之介は、そうではないあり方をじっくり探っているうちに、不可能だと思ったのだろうと思うのだ。だから亡くなった。

この弱者意識は、わが国の状況のみからきたものではない。ヒューマニズムからもきたものだ。我々が子どものときに暴力を禁じられたために、かなり身を守られるようになった一方で、加害者であることの感覚が分からなくなってしまっている。で、潜在的に暴力を受けることがあり得る弱者と自分を規定しがちなのだろうと思うのだ。こんな状態では、なにをやっても行為が受け身的に意識されることになるだろうと思う。ついに遅れてきた、「客観的状況に責められる近代的主観」的意識の誕生である。そんなものは現実には存在していないのである。むしろ現実に存在するのは、客観と主観の混淆である。これはアニミズムですらない。菅前総理が弔辞でこんなことを言っていた。亡くなった安倍氏は岡義武『山県有朋』を読んでいた途中で、その読んだ最後の頁には伊藤博文暗殺をうけた山県の歌が載っていたという。

総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」


言うまでもなく、責任とかを考えるタイプの人間であれば、自分で歌をつくるとかしないといけない。菅氏は山県ではないし、伊藤博文は安倍氏ではない。たしかにここで聖書みたいなものがある国は便利だ。しかし、それをありがたがるのも飽きていることは確かである。


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