★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

敗北感に棹さして

2021-10-08 23:01:57 | 文学


大井川舟に乗りえて渡るかな
流れに棹をさす心地して


出家の勢いとは別に、流れに棹差すというその勢いが素晴らしく、それは出家という観念を感じさせないような気がする。

われわれの文化には、言葉を重ね書きして行くところがある。引用への偏執、本歌取りというのも、その一種ではなかろうか。これはコミュニティではない。ある意味で死んだものに自分が積み重なってゆくような行為である。――というとひどいが、むろんはそれは屍体として意識されておらず、空虚な人形みたいなものなのである。むしろ、それが生きた感情とともにあったら屍体に見えるはずだが、生きた感情を無視できるところが我々はあるのである。その意味で、生と死は同一物であり、反対に我々の方を向いているのは人形だ。

ゼミ生にライトノベルの分類を教えて貰ったが、やはりライトノベルもその人形性が顕わなものであるように思った。コロナ禍でスマートフォンで気軽に読める漫画が隆盛を誇っているそうだ。言葉と絵が、掌の中にある経験は近代でも繰り返されてきた経験だが、わたしはそういうことに根本的な違和感を持っている。何か、圧倒的な敗北感と関係ある気がするからだ。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。


「草枕」のこの一節は我々の文化をよく語っている。考えることが、山路を登るという行為とともにあること。ほんとは、黙って座っていてもいいが、むしろそういうことは忌避される。本当はそれゆえに、智に働けば角が立つ、なんて言葉が出てくるし、情に棹させば流されるという形で、自己肯定が行われているような気がするのである。その「流される」というのは何がどこに流れるというのであろう。本当は「意地」ではなかろう、「智」が流産する悲惨が動き流れる――敗北感と対照されているのではないだろうか。そりゃ住みにくいだろう。だからといって、安いところに行かなくてもよい気がするのだが、要するに出家をしたいのであろう。身を捨ててこそ詩や画ができる。――たしかにそうなのかもしれないが、これは、スマートフォンを握って言葉と画を眺めているわれわれに近づいている。


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