★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

直系継承性

2024-04-06 23:44:48 | 文学


宋宣公可謂知人矣 。立穆公其子饗之 、命以義夫。
商頌日 「殷受命咸宜、百禄是荷。」其是之謂乎。


穆公は自分の兄の子を後継者に指名した。義にかなうやり方におもえたからであるが、こんなエピソードがあるために、弟のあとつぎは兄であるおれの子どもだと何の理由もなく主張するボンクラがあとをたたない。穆公の方法は、しかし、直系継承制のやりかたとしてもだれでもおもいつくやり方であろう、しかしその長い時間のなかで、人間の心はそう簡単に納得してくれない。すなわち、兄妹や子どもがいたらいたで大変だから、一人で人しれず死んで行くのがよいと考えている人も多いのだが、最近こういう事件があった。

「誰が火葬のOK出したんや」兄はどこへ消えたのか?https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240404/k10014411941000.html

本人は119番で緊急搬送されたがすぐなくなり、火葬もされたのだが、――友人が連絡がないなと思って家に訪ねていってなくなっていたことを知った。近くに住んでいた弟夫婦も亡くなっていたことを知らなかった。京都の独り者の学者の話である。

誰かと思ったら、「遊女の社会史」の今西一先生じゃないか。。なにかすごいな、死に様でも学問の内容を貫いている気がしてしまうな。

今西先生には研究仲間がいた。まだ、学者同士の同志的友人関係がなりたっていたのだ。しかし最近は学者同士だけではなく、極端に他の学生との接触を嫌う学生がいる。気持ちは分かるけどその生き方は甘くもあると言うのは簡単だ。しかし、現実には彼らの周囲には群れ化したやばい堪え難い集団がたくさんあって、ちょっと今の中高年の青春時代とは状況が違うと思わざるを得ない。彼らの学校への拒否感はものすごい。教員の仕事は戦いの側面が大きい筈で、誰も取りこぼさないとか言って、実際は、ちゃらちゃらしたいつもの勝ち組を甘やかしいつもの仲間はずれをもっと仲間はずれにしているだけになりがちだ。しかしこれをきちんと認識するのにも勇気が必要で、それをなくした多くの教員が今日もマジョリティの「正しい」路を歩む。

どこぞの県の附属学校の件が、前にもニュースになってたが、それをみると――毛筆の教育と自ら考える活動が対立物になってたり、附属の子どもが附属の実験的人間的活動をしながら夜は塾で偏差値競争をしてたりといった普通の話があいかわらずなかったりと、とにかく教育にかんする報道は事実を描写する力もなくなっている、と感じた。もちろん、報道は、取材する側に対してほんとのことが見えて語る人間がいてはじめて成立する。この学校に限らず、大学もそうであるが、ハラスメントとかいじめみたいな事象で語るのは無理であって、その無理さは職員みんなに共有されているので、無力感だけが繁茂し、いざというときに体が動かなくなっていのである。

発達障害かそうでないかみたいな二項対立が繁茂するなかで忘れられがちなことが多すぎる昨今であるが、何か二項対立で自分を救おうとした場合にでてくる「個」のイメージはあいかわらず信仰されている。歌声よ起これ、ではないが、人間の声というのは我々の卑小さに比べてすごく大きく、――体の大きいプロの歌手だというのはあるが、オペラや交響曲でソロの歌唱が100人の管弦楽に埋もれないみたいなものを見せつけられると、人間は一人でまだやれるみたいな気分になってくるわけであるが、たいがいそれは間違いである。ピアノ協奏曲みたいなものもいかんよな、熟練の兵士がでかいピストル操っているようなもんで、ヤレルみたいな気分にさせられる。実際の個人は、マーラーの第8番の合唱隊の一人が風邪で休んでもわからないみたいな感じなんだが。。。

わかりにくいクラシック音楽の比喩で分からなければ、大谷君が(通訳の奉仕で)個人に見えていたことが、在る事件をきっかけに通訳との複雑な関係性にみえてしまうことに喩えても良い。音楽とスポーツはなんにせよ、近代社会のイメージを裏で支える。

昔はコンティキ号の冒険の映画(たしか五〇年代の)が好きだったのだが、このまえ新しいコンティキの映画見たらそれほどでもなくわたしは「鮫映画か」とツッコんでいる中年親父になっていた。冒険者の英雄譚の迷妄から覚めるのに我々は時間がかかりすぎる。

わたしも昔は、リラダンのようなのが政治家できたりするみたいなのが理想だと妄想していた時期もあった。リラダンのウィキペディアみると、すったもんだのあげく同棲した相手に対して「無教養な女性」とか書いてある。リラダンも「生活を召使いに任せる」んだから結婚も任せるべきだったのだ。むろん、自分で自覚していたのである。で、自分が死ぬ間際に彼女と籍を入れて子どもを私生児にするのを阻止した。かんがえてみると、これも直系継承性の一種かもしれない。


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