★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鳥獣とわれわれ

2024-02-24 23:54:47 | 思想


乃命羲和,欽若昊天,歷象日月星辰,敬授人時。分命羲仲,宅嵎夷,曰暘谷。寅賓出日,平秩東作。日中,星鳥,以殷仲春。厥民析,鳥獸孳尾。 申命羲叔,宅南交。平秩南訛,敬致。日永,星火,以正仲夏。厥民因,鳥獸希革。分命和仲,宅西,曰昧谷。寅餞納日,平秩西成。宵中,星虛,以殷仲秋。厥民夷,鳥獸毛毨。申命和叔,宅朔方,曰幽都。平在朔易。日短,星昴,以正仲冬。厥民隩,鳥獸氄毛。帝曰:「咨汝羲暨和。朞三百有六旬有六日,以閏月定四時,成歲。允釐百工,庶績咸熙。」

ここで鳥獣の羽毛が抜けたり、生えそろったり、和毛が生えたりとしているわけであるが、考えてみるとわれわれはそんなことほとんど気がつかなくなっている。我々の毛はいつも生え替わっているのに対し、鳥獣はちがう。鳥獣が変化することと時間が流れるということの関係に注目すること、人間が暦をつくるということは、逆に、我々が生き物として恒常的な姿を保っているようにみえる不思議さを意識することにつながっていたはずだと思う。我々は平気で、簡単には変化しない物を作り続けているが、これはきわめて自然界では異常なのである。強いて言えば石のようなものがそれに近い。だから我々は石に惹かれるのかもしれない。

よく、グーグルフォトが勝手に「思い出」を作成してくるが、持ち主たるオレが思い出すまえに思い出を生成してて一体何様なのであろう。雲や電信柱とか思い出じゃねえし。思うに、グーグルフォトはもはや「自然」なのだ。そして「思い出」は、本来自然から勝手に押しつけてくるものなのである。我々は、しかし、思い出を自分の行為との関係でしか想起できない。だから、いやな思い出の時に、困るのだ。降ってわいた不幸なのかそうでないのかよく分からないからだ。

たいがいのことがうまくいかなかい時期があり、今振りかえってみると半分以上は自分のせいではない気もするのだ。だから妥協の数を増やすべきではなかった。しかしそれは十年後とかにものすごい後悔となってふりかかる。そのときにはもう人のせいにはできないのだ、じぶんのやったことなので。「思い出」はかくして自分のものとして所有されるわけだが、ほんらい自然から想起させられているものだ。

我々から見た自然は「運」にみえる。すなわち、よくわからないものであって、それでも肝心なときにあまりに妨害にかんじることがおきるのは何かおかしい組織にいるときだというのは実感だ。細やかでまともな人が踏ん張っているかどうかだ。人を守る細やかさがやはり実際は存在する。そういうひとがいなくなると、権力が作動しはじめる。――ここまでは確かだが、いつどこでそうなるのかはもちろん我々にはコントロールできない。

大学とかの人事でも、「人柄か業績か」みたいな二項対立が幽霊にみたいにはびこりはじめておかしくなってしまったが、対象となる論文が論文の出来以上にまともであるか否かを深く理解しようとすることは、人柄を認定することよりも人との信頼を信じることだ。人の論文が読めないことはすべてを破壊するのである。こういう場合でも、ここまではたしかなのだ。しかし、我々はいつもそこまでの気力とそれが可能な人間関係を持つわけではない。

眠ってゐた
夢のない眠りだった
ふりだした小雨が わたしをさました

電車みちを横切って一丁
魔のようにタクシーが吹き過ぎる
暗い 大通り

見まはすと
わたしはどこにもゐなかった
わたしはまっただなかにいた
こはかった


――吉原幸子「夢遊病」


わたくしが吉原幸子に抵抗感があったのは、むかし歌った合唱曲が難しかったから。小学校の頃の体験は強烈でわたしにとって現代詩は合唱曲の歌詞であり、いまでもその感覚が残っている。歌と詩の関係は、現と夢の関係に似て、後者は現の我々とは無関係に大活躍している。現もコントロールできなければ、夢もコントロールできない。我々がもう少し鳥の羽毛をのんびり待てるようになればいいのだが。


最新の画像もっと見る