★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

嗚呼!乃罪多、參在上

2024-03-07 23:48:36 | 思想


西伯既戡黎,祖伊恐,奔告于王。曰:「天子!天既訖我殷命。格人元龜,罔敢知吉。非先王不相我後人,惟王淫戲用自絕。故天棄我,不有康食。不虞天性,不迪率典。今我民罔弗欲喪,曰:『天曷不降威?』大命不摯,今王其如台?」王曰:「嗚呼!我生不有命在天?」 祖伊反曰:「嗚呼!乃罪多,參在上,乃能責命于天?殷之即喪,指乃功,不無戮于爾邦!」


滅び行く王の罪は多くそれが天に積み重なっている。であるからして、王の寿命は天によって保証されません。王はあなたの国に殺されます。はい死ね

天がどこかしらないが理不尽なことだ、こんな殺人が行われないためにも、人民裁判はいけないよ、というのがある種の意見であった。もっとも、上の場合は、王が自滅した先例をしめすことで、読む王達にプレッシャーをかけているわけであって、これを過去の犯罪と取ってしまうのが令和の人民だ。我が国の場合は、――武士達の時代にもしかしたら、正当な天を抱いての政権簒奪革命の反復みたいな状態にもってゆくための試行錯誤があったのかもしれない。坂口安吾の言うカラクリに頼らない堕落からの知恵が御成敗式目なんかにはありそうにも感じられるからだ。しかし、明治時代にあきらかにその挫折があったのは知るところである。天の再登場には、なにか農村ユートピア幻想みたいなものもくっついていた。天皇に頼らない政体がかえって堕落がだらだら続くディストピアをつくってしまったと感じられてもいたわけだろう。

いまだって、天皇の弱体化のせいかなのかしらないが、そんなディストピアじみた雰囲気がある。スクールカーストなんかその一例である。これは東浩紀の言う訂正可能性を奪うあり方である。これはしかし、武士的なラディカリズムと裏腹でもある。『芸能界最強不良列伝』というのが以前コンビニで売っていたから買って読んだことがあるが、松田優作とか羽賀研二とかのワルの列伝をやったあと最後が蛭子能収で、聖武天皇とかの死因をおまけでつけたりしている。結局、出版のラディカルさというのは、「出しちゃいました訂正できません」というところにある。これは上の本に描かれている不良たちの「やっちまったものはしかたがない」というあり方と同じである。

社会はよく「役に立つこと教えろ」とか学校に言ってくるのだが、スクールカーストの天辺にのさばるカスとの喧嘩の仕方とかを教えるべきだ、しかしそうはならない。「できちゃいました訂正できません」というがカーストである。そういうことをあまり知りすぎることは老人的でよろしくない。日本人が無常観とかいって生悟っているわりには欲望だけ生々しいのは、爺婆に育てられすぎなんじゃねえかな、と思うのだ。しかしまあ、いまはそうでもなくなってると思いきや、同居している親が歳とっているから無常観の塊だし、長生きの爺婆と自分が中年頃まで付き合うから、青臭く死ぬために生きるぜとか文字通りイキレないのだ。

一生独身でも一生双身でもなんでもいいけど、自分とは違う境遇を自分の合理化に使うなや。といっても自分で自分を合理化できるならもうやっている。結局、独身であれ結婚であれ、カーストの成立に使われているに過ぎないからだ。批評家というのは、カーストのなかにとりこまれがちな文学者のなかで、天=外側からそれを討つのが仕事だった。いま果たして、有効な「批評」は果たして可能なのか。

高峰秀子様が衆議院での発言でテレビに対しては「批評家」は成り立たない、と言ってる。見直すことができないからというのが当時の理由だが、いまだってそれほど事態が違っているわけではない。とくに作り手は時間を埋めなきゃいけないから反省なんかしやしない。自分のつくったものをきちんと見ない。ドラマやバラエティはまだいいのだ。いちばんやばいのはニュース番組で一番反省の余裕がない。いちど堕落したらなかなか立ち直れない。ネットの批評だってまともに考える余裕がないほどニュースのテンポにつきあわされてしまう。俗悪になるのはあたりまえだ。

労働の桎梏が時間を支配されるということであるとするなら、テレビはそれを娯楽というかたちでやっているだけである。わたしも結婚してからテレビをよくみるようになったが、まさに夫婦にとってテレビはかすがいで、調子が悪いときにでも画面につっこめるようになっているのがテレビの内容である。批評にはならない、つっこみである。ネットの書き込みが実際はかすがいとして機能としているのとおなじことだ。紅白歌合戦が家族の団らんの象徴として語られるようになった時点でいろんなものが終わっていたという感じである。

こういう状態ででてくるのは、昔の責任を負った「家長」よりもひどい、ヤンキーともヤクザともつかないボス猿である。仕事ができるかとかは関係ない。ただなんか下品なだけである。自分たちは仲悪いんですみたいなこと言うとき、言っているやつが主犯格であってその発言が責任回避行動だという場合がある。小学生か。でもこれは大人の組織でもよくある。たいがいの喧嘩は本当は喧嘩ではない。だから、それぞれに理由があるみたいな相対主義で処理してはいけないのである。リーダーは、きちんと主犯を抑圧する責任をいまだに負っている。まずは褒めろみたいな方法論をコミュニケーション全般に適用しようとした馬鹿のあとしまつである。

学校においては、校長とかのレベルのひとが、「教師は体★会系がいい」とか平気で言ってしまうようなケースが散見される。部活の顧問問題といえば勤務時間の問題みたいに表向きはなっているが、もっと精神的な問題なのである。あらゆる教育関係の組織で起こっている、組織のスクールカースト化で、誰がどのようにボス猿になろうとするのかは、これからの研究対象である。いまは白い巨塔みたいなもののなかに商人猿や体★会系猿みたいなタイプも実際混じっていて、そこに合理的配慮もどきで許された亜種も台頭していまやカオスであろう。


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