★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

槻本神社を訪ねる(香川の神社82)

2017-10-12 23:37:35 | 神社仏閣
藤塚町に槻本神社を訪ねる。
 
正一位であります。拝殿の下に「定礎 昭和四十三年」とありました。この神社はいまはうえのように可愛らしくなっているのだが、波瀾万丈の歴史を持つもと村社なのである。『香川県神社誌』で、中野天満宮の次に記載されているところからみても、その重要さがうかがわれる、かもしれない。

「創建年代詳ならず。或は孝安天皇御宇の鎮座とも云ふ。」

神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安……第6代天皇!欠史八代だけどというか、いつ頃だろう……すごく昔だぞこりゃしかし、ティラノサウルスよりは後であろう

「符宣抄に「太政官符神神祇官正六位上槻本地祇坐 讃岐国 今奉授正五位下 延喜二十年二月十五日下」とあるは當社なりと言へり。」

延喜年間に飛びましたな……。醍醐天皇ですね……。

「中古森本大明神と称せられ、文久四年の神祇官よりの朱印状に正一位森本大明神とあり。」

文久年間に飛びましたな……。

「古くは篦原郷の總鎮守たりしも、細川頼之石清尾八幡神社を再興して氏神とせしより當社は自然衰微の運命をたどれりと。」


細川が四国に来なければ…。かわいそうである。

「別當行泉寺の記録によれば、讃岐二十四社の隨一にて荘内の鎮守たりしが頼之石清尾八幡宮中興以来衰微して東濱村瓦焼(瓦町)の南に小社として残りしを 寛文七年御検地の節、往古より御除地の旨申立 上ノ森本免に替地を被下 享保年中失火の為め棟札等焼失云々と記されありと。」

森本大明神だったのは、このせいであるな。それにしても、八幡の勢いに押されて土地を追われ、火事にも遭って踏んだり蹴ったりである。


「武運長久」とあり。これはもしかして、八幡に対する当てつけであろうか?

「玉藻集に「往昔東濱中野両村之中間 方百間計其城外諸木繁茂して其神社宏麗也と年暦修造絶て云々」とあり。鎮座地又数度の變遷あり且郷東川の洪水に流され漸次衰ふるに至れり。」


ついに、ゆとり郷東川の気まぐれにも流された。案内板に貼られていた谷本博氏の文章によると、この洪水は元禄十一年、社殿が流出し不毛の土地となり、地名だけが残る有様だったそうだ。谷本氏の文章の横に貼られていた「栗林風土記」によれば、「御神体が行方不明になる」と評されている。そして、このあと享保年間に火事があったんである。もうだめだ……

「一説には、當社は槻本公の後裔坂田氏の創祀せしものに非ずやと云ひ、坂田郷は古くは現在よりも餘程北寄なりきと云ふ。」

……まあ、それはもはやどうでもいいんですが、明治十一年に王政復古の勢いを借りてかしらんが、ついでに森本大明神の名前も捨てて「槻本神社」になりました。谷本氏の文章に拠れば、『古今讃岐名所図会』に、ここらで井戸を掘ると、連抱以上の槻の木が出るんで、よほどでかい森に囲まれた社であった違いない、と書かれているそうだ。森本よりも槻本の方がかっこいいし、それでいいか……「栗林風土記」によると、明治十三年に村社。昭和二年に改築がされて、平方一七〇メートルの神社として完全復活を遂げたのであった。

が、しかしっ、昭和二十年七月四日未明(以下略)

20年後、昭和四十三年、当時の高松市長と有志の浄財によって、いまの社殿として復活。

チンピラ大名達の勢力争い、それによって復活したデカい神社による氏子強奪、洪水、火事、神仏分離、大空襲、戦後世界、などなどの苦難を絵に描いたような神社であった。ここから、怒濤の逆襲のためには、まずは流された御神体を取り戻し、石清尾八幡神社よりも参拝者を多くして、人々に浄財を……

そんなことをしなくても、小さい神社でいいと思うのである。もともと森の中の小さい可愛らしい祠であったはずなのである。人間に合わせて滅びることはありません。



接写すればでかく見える


最新の画像もっと見る