★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

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2018-01-21 23:27:39 | 思想


・パソコンを新調したら、知らないうちに顔認証みたいなことになっており、顔が近いとか遠いとか言われて、もはやセクハラで怒られている気分だった。

・西部邁が入水自殺したらしい。確かなことはいえないが、どうやら死ぬ自由を選択したみたいである。確かに言いたいことはわかるのであるが、生きる自由の方は死ぬ自由よりも地味になってしまうからこまるのだ。まあ、最近は、善意はあるのだが人の手足を縛ることばかりしてしまう輩に生かされているだけになっている人も多いので、いっそのこと、と思う人も出てくるであろう。大概、自分ではなく他人を殺す(ことを想像する)方を選択するであろうが……

・学生が推薦してくれた「ぼくらの」という作品を少し読んだが、世界の終わりのかわりに自分の終わりが近い場合、人はどう行動するかという話であるようだ。主人公たちは子どもで、突然巨大怪物の操縦を任されて、大怪獣と戦わなければならない。「エヴァンゲリオン」の場合は、なんだか選ばれた子どもたちが、親との心の壁に悩んでるタイプで、だからこそロボット(親)とシンクロしようとするから操縦できるという――親と一緒に幼稚園に行けば無敵みたいな、幼児みたいな話であったが、一応、理屈はあった。「ぼくらの」はそれがないので(これから明らかになるかもしれないが、1巻では理由はわからなかった)ほぼ徴兵制であった。言うまでもなく、人間、自発的な兵役の場合は、その目的意識と違う場合は不満を持つのだが、自発的ではない場合には不満も持ちようがない。というわけで、理由を探したあげくに従うしかない。こんなものは目覚めでも何でもない。

・黒澤明の「生きる」の場合はどうであろうか。主人公の公務員は癌に侵されながら、急に自発的に仕事をし公園をつくる。わたくしは、昔からどうもこの結末は好きではなかった。もう遅いような気がするのである。

・どこかで読んだんだが、西部邁は学生時代、マルローの「征服者」とかが好きだったらしい。わたくしも好きだったと言いたいところだが、なんかそう言ってしまうと恥ずかしい書物であると思う。


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