ちょっと理由があって「永遠の0」と「三丁目の夕日」(三部作)を観たのである。いままで観たことはなかった。原作は読んだことがあった。いずれも、「ある程度」の意図的な現実逃避的な表現によって、今現在の自分たちを勇気づけられるかという、ある種、嘘のつき方はどうあるべきか、みたいな映画であった。潜在的なテーマは、今現在をどうしよう、なのである。だから、描かれているものはここ10年ぐらいの願望であって、戦時中や昭和三〇年代ではない。たぶん、制作者もわかってやっているのではないか。
「永遠の0」は、2000年代の若者から突然じいちゃんばあちゃんの戦中体験に飛ぶのであり、そこにあるべき父の世代のごたごたの分析がない。原作にあったかどうかは忘れた。「三丁目の夕日」も、描かれているのは戦中世代と戦中生まれ世代のことである。今の若者を登場させている分だけ「永遠の0」の方が、矛盾を何とかしようという精神がうかがわれるが、「三丁目の夕日」はそれもないので……と思ったが、そうでもないかもしれない。この映画の監督の父親世代は、このあとの転落の原因として描かれているのではないか。どちらも、親の心子知らず、と孫が言っているわけで、
はっきり申し上げて、孫の戯言である。
というわけで、戦後をどこまで許せるかみたいな、非常に逆恨み的=戦闘的な意識がこれらの映画のテーマではなかろうか。いずれにせよ、このテーマ自体が、高校できちんと近代史を勉強すれば、その問題の立て方じゃ話にならんくらいは分かる。さすがに問題がおおざっぱすぎて問題になりようがないのである。問いが間違っているときには、答えは必然的に間違う。のみならず、戦後の戦争責任論のときの過ちをまた繰り返すものである。要するに、ヤンガージェネレーションの自己批判もないうちに上の世代を叩いても本質にたどりつくことはない。しかし、上にも書いたように、これは「ある程度」意図的な間違いである。
冷静に、ファンの目みたいな目で映画をみてみりゃ分かるのであるが、二つとも完全なアイドル映画である。
「永遠の0」
・今時の就職浪人している主人公。ちゃらそうにみえるが、とりあえず司法試験を受けるぐらいにはエリートで顔もいい(とは思えなかったが、そういう配役であろう)。姉貴は、吹石一恵=完璧な美人。おじいちゃんは、アイドルグループの岡田准一。おばあちゃん・井上真央。「こんな顔の家系に産まれたかったわー。当然岡田准一は悪人なはずがない。」と脳みそがふやけた観客は思うであろう。
「三丁目の夕日」
・鈴木オートの嫁・薬師丸ひろ子。そこに働きにくる東北娘・堀北真希。鈴木オートは竜宮城かよ。売れない小説家・北の国からにでてたあの方。売れないという設定になっているが、東京大学出身で芥川賞候補、少年誌に連載を持っている(十分、成功しているだろうが。文学志望者をなめとんのかいっ)。しかもそいつに惚れるのが、どうみてもまれにしか生まれんレベルの美人・小雪。太宰に女が惚れるのはわかるよ。安部公房が朝ドラ女優と出来ちゃうのもわかる。しかし、北の国からに小雪はない。
雪で繋がっているだけであろう。なんだろう、この人たちの完璧な人生は……。これをみて「貧しかったけど心が豊っていいよねー」とか思うやつは、読解力も自己分析も足りないすっとこどっこいである。この世界は、美男美女の単なるパラダイスなのだ。
あと、二つとも暴力が肯定的に描かれておりました。文部科学省は、ただちにこれらの映画を撲滅すべきであります。その前に、上記の理由により、自分を撲滅する必要があるが。
附記)先日の卒論発表会の資料のなかで、ある論文の紹介があって、「~の撲滅」という言葉遣いで先行実践を批判していたものがあった。すごいぞ教育学。撲滅という言葉を用いたのはそのためである。