★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

大井戸水神社を訪ねる(香川の神社80)

2017-10-10 18:46:02 | 神社仏閣


お昼休みに寄ってみました。注連石は、昭和五八年。政治家でもあった巌谷修(一六)の書らしい。


この神社は小さいけれども有名で、江戸時代の井戸の遺構だからなのである。

高松市教育委員会による案内板によると、

「天正十五年(一五八七)讃岐の領主となった生駒家初代親正は香東川の砂洲上に高松城を築城して城下に武士・町人などを住まわせ城下町をつくったが、香東川がしばしば氾濫して治水に苦しんでいた。」

香東川というのは、いまは高松市の西側しか流れていないが、初代生駒さんの時代は、香川町大野のあたりで二つに分かれ、紫雲山の東側を流れ下って高松城の西側で海に行き着いていたのである。で、本気の流れ方というものを知らんこのあたりの川の特徴で浅いところをうだうだとしまらない「ゆとり中学生」の如き流れ方をしているものだから、急に雨が降るといきなり焦って流れて暴れ川になってしまうのだ。急に勉強してうまくいかず親に八つ当たりをする中学二年生みたく全く使えないやつである。で、しょうがないので、

生駒家四代高俊公(一六一一~一六五九)のとき、家臣西嶋八兵衛に命じて分流する香東川の川筋を香川町大野で一方を塞き止めた


美少年踊りの高俊さんもやる気をだせば意外と良いことやれるのであって、辣腕土木技術者である八兵衛(このひとは香川県内の多くのため池をつくっており、正直、お大師様よりも偉いと言えよう)に頼んで市内を流れる方をつぶしてしまったのである。川の流れを変えるなど、木曽川の急流の恐ろしさを知る私にとっては狂気の沙汰としかおもえんが、いまの香東川のゆったりとした「ゆとり」ぶりをみてると、まあいいかなという気がする。しかし、

が、このため城下の飲料水の質が悪くなったので町の各所に井戸を掘り、傍らに水神社を祀った。

美少年高俊のせいで世の中、うまくいかないものである。洪水対策をしたら、今度は水が駄目になってしまったのである。まあそりゃそうだ……。

その後、松平頼重公が寛永十九年(一六四二)に高松藩主になり、町の発展にともなう城下町の飲料水対策として、旧川筋に大井戸・亀井戸・今井戸などの給水池を整備し、地中に土管や木樋・竹管などを埋めて町々に配水した。


さすが、松平!

この時を始めとする藩政時代の上水道は、その後引き続いて使用されていたが、現在の上水道が普及するにつれて順次すたれ、水源池となっていた井戸も大井戸を残すのみとなった。


盛者必衰ですね……。しょうがないです。早明浦ダム万歳!


安全柵や金網に守られた井戸の向こう側に小さい本殿がある。

祀られているのは、一応「水波能賣神」のようである。イザナミの尿から生まれた人である。しかし、どうみても、高俊=八兵衛のコンビが恩人ではないか。





碑によると、第二次大戦後、放置されて消滅の危機にあったらしいのであるが、昭和五〇年に史跡認定。井戸と神社集会所を復興したらしい。上の集会所もそのときのものであろうか。どの程度消滅の危機にあったのかは分からないが、家が周りに押し迫っているのをみるとだいたい想像がつく。

集会所の正面にも注連石のようなものを用いた入り口がある。そこに掛かったアーチがなんとなく趣がある。