★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

黄泉の母はいつも生きている

2024-04-03 23:35:34 | 文学


遂寘姜氏于城潁,而誓之曰「不及黃泉,無相見也!」既而悔之。潁考叔為潁谷封人、聞之、有獻於公。公賜之食。食舍肉、公問之。對曰「小人有母、皆嘗小人之食矣、未嘗君之羹。請以遺之」公曰「爾有母遺、繄我獨無!」潁考叔曰「敢問何謂也?」公語之故、且告之悔。對曰「君何患焉?若闕地及泉、隧而相見、其誰曰不然?」公從之。公入而賦「大隧之中、其樂也融融」姜出而賦「大隧之外、其樂也洩洩」遂為母子如初。


イザナギのはなしと違って母は死んでない。もちろん、ほんとはイザナギも死んでいない。昔から人は、このように死んだけど死んでないという事柄の生起に対して心を砕いた。そういえば、マーラーのすごさは、死への行進曲ともいえる第6番のあとに夜の歌第7番、第5楽章で派手な昼間を描くというところにある。しかし、これは彼のいつもの復活劇であり、死によって生きるというイザナギをやっているのである。

我々の世界は、電灯の発明以降、昼間の世界がすべてであると勘違いしている。だから、24時間を計画のなかに組み込んでしまうんだが、むかしのように、日が暮れたら一端すべてを終わりにしてしまう、死んでしまうべきなのである。まだ学生の頃、問題は問題を組み合わせて出てくるみたいなことを仲間や先生から言われた気がするので、そういうことを意識してやってきたつもりであるが、つまり問題は一度死ななければならないということである。最近は、多くの人にとって問題を分割して研究計画をたてるとか論文に分割するということが起きがちであり、つまり死を通過せずに生を並べたてることばかりやっている。もちろん、原因は言うまでもないんだが、たくさん研究をしている割に進捗がわるいきがするのはそのせいだ。誰かの論文でも、5か年計画はかえって効率がわるいにも関わらず、そういうことがわからない頭の☆い奴が国の中枢にいるととんでもないことになると言っていた。あたり前である。

運動でもそうだ。68年は開けていたが以降閉じたとかいうのが運動族のあれとしてあるが、そのイメージが昼的で間違っている。閉じていないと、すなわちじぶん達の周囲が死で満ちていないと、シンクロニシティというか同時多発なんてのは起きないのだ。

午後は疲れて昼寝してしまったから、柏木俊秋の『天皇制打倒論』などめくって目を覚ます。打倒というのは、生かす意味であろうか、死の意味であろうか。

キリスト教の棚を探ってたら、いつのまにかアーマンも昔買ってたことが判明したが、聖書の捏造というのは、一応死を通過した生なのであろう。

「目線」て、死んだ鈴木健二アナの造語だとウィキペディアに書いてあったけど本当なのだろうか。学生のレポートからはいつも殲滅しているのでわたくしにとっては関係ないが、死の視線というのはありえても、死の目線というのはなんというかゾンビ映画みたいなものである。だから現代人はだめなのである。


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