新札幌礼拝堂の最新情報 主日礼拝 毎週日曜日 午前10時30分より

今日の礼拝堂の様子をお届けします。礼拝に来られなかった方たちと、遠くにいる友たちと恵みを分かち合うために。

2月3日「今日の礼拝堂」

2019年02月04日 | 今日の礼拝堂

 顕現節第5主日    *信徒礼拝で行われました。

今週の祈り:全能の神さま。あなたは、いのちの言であるみ子によって、私たちの目と耳を開いてくださいました。聖書の宣べ伝えていることを、私たちが喜んで信じ、行うことができるように助けてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。

 

 

    〇顕現主日説教 森下神学生(週報掲載説教要旨)ルカ6:17~26

           「幸 せ な 人」

    日の聖書の物語でイエス様は「貧しい人々は、幸いである」と教えられました。ルカ福音書の著者は「貧しさ」を[心の貧しさ]のように精神化して解釈しません。ここでいう「貧しい人々」というのは文字通りの、経済的な貧しさを指しています。神様の支配するところでは、幸せな人というのは、貧しい人、飢えている人、泣いている人、憎まれる人で、不幸な人というのは、富んでいる人、満腹している人、笑っている人、ほめられる人なのだとイエス様はおっしゃいます。私たちが持っている地上の価値観とは正反対の教えです。今日の旧約の日課は「主に信頼する人は幸い」と語ります。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。」と語るのです。このエレミヤ書のみことばを手掛かりにしてイエス様の言葉を解釈すると、貧しい人々が幸いなのは、貧しい時、人は自分自身ではなく神様をよりどころとすることができるからです。主に信頼するために必要なのは、自分の無力さを知ることです。自分の財産や生活力、自分の精神的な満足や人からの評判をあてにしていると、神様に頼り、神様をよりどころとする気持ちが薄れていきます。貧しい人、飢えている人、泣いている人、憎まれる人にとって、頼りにできるのは自分自身ではなく神様です。そのことが幸いであるとイエス様はおっしゃっているのだと思います。

   しかし私たちは貧しいとき、飢えているとき、泣いているとき、憎まれるとき、じっと耐えていなければならないのでしょうか。そうでなければ信仰者として未熟なのでしょうか。苦しい時に苦しいと言ってしまったらクリスチャン失格なのでしょうか。そうではないと思います。今日の聖書の物語は、イエス様がご自分のもとに来られる人々の病気を癒しでいたという場面から始まります。聖書によれば、各地からおびただしい民衆がイエス様のところに押し寄せていました。それはイエス様の教えを聞くため、病気を癒していただくため、そして悪霊を追い出していただくためでした。特に病気を癒してもらおうとしてやってきた人は多かったようで、病気が癒されるように、皆なんとかしてイエス様に触れよとしたと書かれています。そこでのイエス様は「病気に負けない信仰を持ちなさい」とか「神の国での幸いを信じて病気のままでいなさい」とか言いません。イエス様はただ、人々に求められるまま、人々の望みをかなえて、健康を回復させてくださったのでした。イエス様は今苦しんでいる人々が、じっとその苦しみにとどまっていることではなくて、癒されることを望まれました。私たちは「貧しい人は幸い」という言葉を心から信じる一方で、苦しい時に苦しみ、イエス様に助けを求めることを許されているのです。

        《来週の礼拝》

〇2月10日 午前11時 顕現節第6主日礼拝

〇司  式:中島和喜牧師                                                                                   〇説  教:中島和喜牧師「愛せるか」
〇奏  楽:滝田裕美姉  
〇聖書朗読:青木比呂子姉
〇礼拝当番:小川敦子姉、滝田裕美姉

〇聖  書:創世記45:3ー15,コリント(Ⅰ)14:12-20、ルカ6:27-36 
〇讃美歌:152(1-2)、240,365、152(3-4)、聖餐265

 #2月6日(水)10:00~オープンチャーチを、そして13:00~から「聖書と祈りの会」を行います。

    どなたでもお気軽にお立ち寄りご参加ください。   


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